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第七章 混沌浸食

奈落おとし Ⅰ

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 半径500メートルに達する半球状の黒い塊。それは脈打つように蠕動し、時おり形を変えながらじわじわと大きさを増してゆく。そのペースは今の所1時間に10メートル程度のゆっくりとしたものだったが、大きくなるにつれ指数関数的に増加する可能性もある。
 上空から観察しているだけでも魂ごと吸い込まれそうな漆黒の塊。メガネの機能をフルに活用しながらそれを観察していたモニカが所見を述べる。
「どうやらアレはあらゆるエネルギーを吸収しているみたいね。何ひとつ反射しないから私たちは真っ黒と認識しているだけで、実際にはどんなモノなのか全く知りようが無いわ」
「ほんじゃさ~、どんくらい吸収きゅ~しゅ~力高いかためしてみよ~よ。ね~クーちん」
 ふにゃふにゃとレジオナが提案する声が客車ランドー内に伝わると同時に、まばゆい光が眼下の塊へと放たれる。しかし直撃した『万象を滅する全なる光パーフェクトライト』は、何の抵抗もなく塊へと吸い込まれてゆくだけであった。息吹ブレスは10秒ほど続いたが、漆黒の塊には何の変化も見られない。
「うっは、おどろきの吸収きゅ~しゅ~力! 多い日もあんしんだにゃ~」
「きいいい、悔しい! これだから混沌の連中はムカつくのよ! こんなんじゃ龍種が舐められちゃうじゃないの! また王都燃やさなきゃなんないでしょ!」
 客車に響き渡る黄金龍のドラゴンジョーク。しかし客車の面々はそれに反応する事も出来ないほど、呆然としたまま眼下の塊を見つめていた。
 人類が使用可能な最大火力はやはり魔法である。しかし戦略級殲滅魔法にしても、単位面積あたりの破壊力に関しては龍種の息吹ブレスを大きく上回る事は無い。ましてや龍種の女王たる黄金龍の息吹ブレスを超える破壊力を生み出す事など、人類には到底不可能である。事実上、今の時点で対象を破壊するという選択肢は脆くも消え去ったのだ。
 宮廷魔術団長カミラは窓辺から離れると、座席に深々と腰掛け大きくため息をついた。そして、いまだ眼下を見やるモニカに声をかける。
「モニカ師、彼奴の正体について、何か情報が得られましたかな」
「そうですね、とりあえず名前と大まかな性質くらいは。クゲーラ陛下の息吹ブレスすら吸収する能力から見ても、混沌の一柱ひとはしら『貪り尽くす者』の使徒、奈落おとしなのはまず間違いないでしょう。この世の全てのエネルギーを吸い込み、彼の神に届ける役割を持っていると言われています」
 モニカは検索の傍ら、教皇と共有状態にある『知識の座』を利用して、チャットのような書き込みによる情報交換を行っていた。奈落おとしは混沌の信奉者による研究書にその存在が示されていたものの、いまだかつて現世に召喚された事例はない。故に能力に関しては、全て憶測の域を出なかった。
 ジークハルト王子がその端正な顔を両手で覆うと、そのまま数回乱暴に擦り、顔全体を下に伸ばすかのように両手を顎まで下ろしてモニカに問いかける。
「で、使徒の目的は何なのだ? このままじわじわと広がって、我が国を飲み込むつもりなのか」
「そうですね、恐らく最終的にはジルバラント王国に止まらず、この星全てを飲み込むのではないでしょうか」
 モニカの言葉にカミラが反応する。
「しかしそれでは蛇が自分の尾を食う様なもの。この世に混沌の邪神を信奉する、あるいは恐れる者がいなくなってしまえば、邪神そのものも存在を保つ事が出来なくなるだろうに」
「確かに神というものは、大いなるエネルギーのいち側面を人類がそうと認識したものに過ぎないというのが最新の学説です。すなわち認識されなければ存在しえない。しかしそれ故にと認識されればに振る舞わざるをえないという側面を持ちます」
「つまり、自らが破滅するとわかっていながらそうなる事を止められぬと」
「混沌の神『貪り尽くす者』の目的はこの世の全てを貪り尽くす事。つまり奈落おとしの目的も全てを吸収する事であって、人類が消滅するのは結果でしかありません」
「だからといってほどほどの所で止めるという選択は、そのまま神性の棄損に直結するというわけか。早い話が他の神に訳にはいかないと」
 そこまで聞いて、ジークハルト王子が声を上げる。
「馬鹿な! いくら邪神とはいえ、自らの性質の為自ら滅ぶだと!? そんな事のためにこの世界を道連れにするつもりなのか!」
 その様子にモニカは肩をすくめ、カミラは皺の目立つ細い顎を手でさすりながら目を閉じる。立ち上がり客車の中をせわしなく歩くジークハルト王子を目で追いながら、モニカが一拍置いて言う。
「その神の根幹に関わる部分は、どの神であっても厳格なものです。冬と死の女神ソブランの権能をご存知ですか?」
 騎士団長レオンハルトが即座に答える。
「死の刃だな。女神ソブランの加護により、与えた傷は治癒魔法を受け付けぬ」
「さすがですねシュタイナー卿。死の刃は、冬の女神の死に対する厳格さ故の権能による加護です。そしてその厳格さは信徒にも適用される。すなわち、冬の女神の信者は治癒魔法を使えず、また自身にも治癒魔法は効力を発揮しません。たとえそれが死の刃による傷ではなかったとしても。これはもう有利不利とかそういう問題ではないのです」
 それを聞いてギルド長ゴットフリートがはたと膝を打つ。
「なるほど、死の刃ってのは聞いたことがあったが、強力そうな加護なのに冬の女神を信仰する冒険者がいないのはそういうわけか。確かに怪我が日常茶飯事の冒険者にとっちゃあ、弊害の方が多すぎるな」
「まあわざわざ弱点を吹聴する人間はそうそういませんから、この事はほとんど知られていませんけどね。そもそも冬の女神の信者自体が非常に少ないのもありますし」
 モニカの言葉に、ジークハルト王子が足を止め怪訝そうな表情で問う。
「信者が少ないのにそれほど強力な加護が与えられるのはどういうわけだ」
「恐れ故、ですな」
 静かに聞いていたカミラが、閉じていた目を開き、ぽつりと答えた。モニカがそれに頷いて、先を続ける。
「信仰とはすなわち信じる心です。そうであると信じる事。もちろん、積極的に信心を捧げるという行為は神の歓心を得ますし、信仰の実践は神の影響力を高めます。しかし恐れもまた、それは恐ろしいものであると。人々が何かを恐れれば恐れるほど、恐れられた対象は恐れる者に対して影響力を持ちます。それは例えば死であり、闇であり、暴力であり、疫病であり、肉欲であり、不運であり、その他さまざまな負の感情や理不尽な出来事です。公的には信仰を認められていない混沌の神が、信者の絶対数において遥かに他の神々に及ばないにも関わらず強い力を持つのは、この原理によるものです」
 モニカの説明が終わる頃、客車がそっと地面に置かれ、レジオナのふにゃふにゃとした車内アナウンスが流れた。
「ご搭乗と~じょ~のみなさま~、ほんじつはご利用ありがと~ございました~。現在地は~奈落おとしより東南東と~なんと~500め~とるとなりま~す」
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