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31.焼きたてパイなら青葉亭
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夕暮れの通りに、連なる料理店からは橙色の光と温かな料理の匂い、客の喧騒が漏れ出ている。
そのなかの一つの軒先に、まんまるのパイに青葉をあしらった木彫りの看板が揺れている。
ルクがラーニャと住み込んでいる、酒場付き宿の青葉亭だ。
「かーちゃん、ただいま!」
ルクは入るなり、料理を運ぶ母親を見つけて飛びついていった。シャツから覗く短い尾がプルプル振れている。
「おかえり、ルク」
「あのね、ヤドカリにぶどうもらった! あと、ともだちできた、シュシュっていうの! でね、ごはんはね、」
野太い客の声が、子供の声をかき消す。
「おい、注文!」
「はーい、ただいま!」
ラーニャは答えて、ルクの頭を撫でた。
「ごめんね、かーちゃんお仕事中だから、あとでゆっくり聞くね」
「……うん」
ルクはしゅんと耳を下げた。
ラーニャは、子供を送ってきたユールとリファリールを振り返った。
「おやすみの日にありがとう」
「いーよ全然」
「はい、楽しかったです」
宿の主人の白山羊が、キッチンから顔を覗かせる。
「ふたりとも、晩は食べておいき。ルクもそのほうが嬉しいだろう?」
「うん」
ルクがリファリールの側にやってきてスカートを握る。
勧められるまま、キッチンの隅のテーブルについた。干し草の大皿と水差し、それに数種の酒のつまみらしい小皿が並べられている。
「りーちゃんこっち! ユールはそこ!」
ルクに指定されて座った。
「うちはいっつも夜はこんな感じで置いといて、交代でね。ホールはもうひとりいるんだけど、昨日から風邪で休んでるんだ。できるだけ、ルクはラーニャと一緒に食べられるようにと思ってはいるんだけどねえ」
白山羊は言い訳するようだった。
「ルクもねえ、学校上がる年ならいいんだけど。まあ、今はそのへんで遊んでてもらうしかなくてねえ。今日は本当、よかったよ」
「……おじさん、あのさ。祭りの前でも後でも、変なやつ来て困ったりとか、してないっすか」
ユールが訊くと、白山羊は長い顎髭を撫でて答えた。
「うん? まあ客商売だから色々いるけどねえ。わしゃこれでも長いから、あしらい方はしってるよ」
「……なんかあったら、すぐ知らせてください。自警団でも、俺でも」
「こりゃ頼もしいねえ」
そこに、大柄な獣族の料理人がぬうっと現れて、焼きたてのパイをテーブルに置いた。ほっこりと甘い香りの湯気が鼻をくすぐる。
「中はカボチャとほうれん草だ。火傷にゃ気をつけろ」
ユールが礼を言うと、彼は「うん」と一言頷いて、仕事に戻っていった。火を使う仕事だからか、毛皮を短く刈り込んでいて、一見山羊のようだ。しかし、頭を包んだ白布からは、リファリールと同じ巻角が覗いていた。
熱いパイをふうふう吹いて食べた。リファリールに世話を焼かれて、ルクは機嫌良く耳と尻尾を振っていた。
しかし食事の後は、帰っては嫌だとごねはじめた。
「ルク、待ってな。片付いたらじいちゃんと風呂入ろう」
オーブンの面倒を見ながら白山羊が宥めるのにも、そっぽを向いた。
「やだ。かーちゃんがいい」
「今日は繁盛だよ、遅くなるから、な?」
「やーだあ!」
ちいさな蹄で床を蹴って、叔父のユールと揃いの蜂蜜色の瞳から涙をこぼす。リファリールが見かねて言った。
「ルクちゃん、みんなのお仕事終わるまでもう少し遊ぶ? わたし、お風呂もしてあげる」
とたんに涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま、笑った。
「お風呂、りーちゃんと入る! アヒルとカエル貸してあげる!」
「助かるけど、いいのかい」
「ルク、リファちゃんお湯は苦手だからあんまりふざけるなよ」
「うん!」
夕飯の礼に、ユールも申し出た。
「晩飯、美味かったっす。ごちそうさまでした。俺、ホール手伝いますよ」
借り物のエプロンをかけてホールに出ると、野次が飛んだ。
「へーえ、旦那帰ってきたわけかい、ラーニャちゃん」
「残念だねえ、慰めてやろうかと思ってたのに!」
「……弟っす」
初手からこれだ。普段は酒場で傭兵仲間と騒ぐ側のユールだが、客でなければ蹴っ飛ばしてやりたかった。木のエールジョッキを片手に三つ、もう片手にはオーブンから出したてのクリームポットパイを、ドンとテーブルに出した。
「そうよ、やーねえもう!」
ラーニャは明るく片付けて、ついでに尻に伸びてきた酔客の手を尾でピシッと払った。
「ユールくん、助かるわ! ……お客様にはいいお顔、ね?」
むきになるなと釘をさされていた。わかってはいたが、やるせない気分になった。
モヤモヤを発散させるべく、ラーニャの仕事をとる勢いで、酒と料理を運んだ。
「ラーニャ、ユールくんも最後のオーダーとったら上がっていいよ」
白山羊が言う頃には、客もおよそ帰るなり部屋に引き上げるなりして、できあがった数人が残るばかりになっていた。
「だっておじさん、締めと片付け」
「俺がやる。弟来てる時くらい、いい」
皿洗いをしていた羊族の料理人が、背を向けたままぼそりと言った。
「アリエスさん」
「さっさと行ってやれ」
「ありがとうございます。お先に上がらせてもらいます」
頭を下げてエプロンを外したラーニャに続いて、ユールも階段を上がった。
「あのね、ちょっとぶっきらぼうだけどいいひとよ。お祭りの時も、アリエスさんが出かけさせてくれたし。……わたしいつも、みんなに助けてもらってるの」
「うん」
それでも辛くないかとは、訊けなかった。
ラーニャの左手の指には、まだ、銀の輪がある。揃いのもう一つは、兄の身体とともに、ユールが地中に深く埋めていた。
とっておいた方がよかったんだろうかと、今更思った。
いくら懐かしくとも、だんだん遠くぼやけていく、ユールの家族の記憶。ラーニャはただひとり残った、それを共有したひとだった。
ルクを抱えて、新しい場所で頑張っている彼女にとって、あのころの思い出はどんなものなのだろう。実のところ、彼女が兄と夫婦として過ごした時間は一年にも満たなかった。この先も長く縛られるのは、悪いような気がした。
ユールの視線に気づいたのか、ラーニャは部屋に入る前に指輪をした左手をヒラヒラ振った。
「虫除け」
「そっか」
「お節介されたくなくて、おじさん以外には、遠くで働いてるってことにしてるの。……わたしまだね、イゴールはもう迎えにきてくれないんだって、納得できてないのかもしれない。四年もたつのに」
ラーニャは目を伏せた。
「でも、いい加減よくないわね。ルクが、混乱しちゃってる……」
身篭って体調をくずしがちになったラーニャを半ば無理やり里に帰したのは兄だったという。その気遣いが、結果としてふたりを救った。
ユールは、ラーニャとルクの部屋に入るのは初めてだった。
寝巻きに着替えたルクが、おもちゃの中から母を目掛けて飛び出してくる。
「かーちゃん、あのね」
昼食は果物の食べ放題に行ったこと、公園に来ていたサーカスを見たこと、ユールに鳥打ちを教わったこと……今日の出来事を、湯上がりのつやつやした顔で話す。
ラーニャはルクを膝に乗せて、今度こそ最後まで聞いていた。
リファリールが散らばった絵本を揃えて、ちいさな棚に戻した。
ユールはそれに、見覚えがあった。
ぐるりと室内に視線をやれば、他にもあった。おもちゃ箱になっている、車輪のついた足つきのものは、ゆりかごだ。その隣の木馬も、知っている。木馬のくせに角がついていて、耳がぴょんと横に張り出している。三白眼なのに頬が赤く塗られていて、はっきり言えば不気味だ。正確には木馬でなく、木山羊。
ユールの家は農家だったが、冬は木工の内職をしていた。遊び程度にかじっただけのユールと違い、長兄のイゴールは祖父にきちんと教わって、職人としてやっていける腕だった。
でも、絵心はなかった。
――兄ちゃん、気ぃ早くねえ?
からかいまじりにそう言ったのを、思い出していた。
そのなかの一つの軒先に、まんまるのパイに青葉をあしらった木彫りの看板が揺れている。
ルクがラーニャと住み込んでいる、酒場付き宿の青葉亭だ。
「かーちゃん、ただいま!」
ルクは入るなり、料理を運ぶ母親を見つけて飛びついていった。シャツから覗く短い尾がプルプル振れている。
「おかえり、ルク」
「あのね、ヤドカリにぶどうもらった! あと、ともだちできた、シュシュっていうの! でね、ごはんはね、」
野太い客の声が、子供の声をかき消す。
「おい、注文!」
「はーい、ただいま!」
ラーニャは答えて、ルクの頭を撫でた。
「ごめんね、かーちゃんお仕事中だから、あとでゆっくり聞くね」
「……うん」
ルクはしゅんと耳を下げた。
ラーニャは、子供を送ってきたユールとリファリールを振り返った。
「おやすみの日にありがとう」
「いーよ全然」
「はい、楽しかったです」
宿の主人の白山羊が、キッチンから顔を覗かせる。
「ふたりとも、晩は食べておいき。ルクもそのほうが嬉しいだろう?」
「うん」
ルクがリファリールの側にやってきてスカートを握る。
勧められるまま、キッチンの隅のテーブルについた。干し草の大皿と水差し、それに数種の酒のつまみらしい小皿が並べられている。
「りーちゃんこっち! ユールはそこ!」
ルクに指定されて座った。
「うちはいっつも夜はこんな感じで置いといて、交代でね。ホールはもうひとりいるんだけど、昨日から風邪で休んでるんだ。できるだけ、ルクはラーニャと一緒に食べられるようにと思ってはいるんだけどねえ」
白山羊は言い訳するようだった。
「ルクもねえ、学校上がる年ならいいんだけど。まあ、今はそのへんで遊んでてもらうしかなくてねえ。今日は本当、よかったよ」
「……おじさん、あのさ。祭りの前でも後でも、変なやつ来て困ったりとか、してないっすか」
ユールが訊くと、白山羊は長い顎髭を撫でて答えた。
「うん? まあ客商売だから色々いるけどねえ。わしゃこれでも長いから、あしらい方はしってるよ」
「……なんかあったら、すぐ知らせてください。自警団でも、俺でも」
「こりゃ頼もしいねえ」
そこに、大柄な獣族の料理人がぬうっと現れて、焼きたてのパイをテーブルに置いた。ほっこりと甘い香りの湯気が鼻をくすぐる。
「中はカボチャとほうれん草だ。火傷にゃ気をつけろ」
ユールが礼を言うと、彼は「うん」と一言頷いて、仕事に戻っていった。火を使う仕事だからか、毛皮を短く刈り込んでいて、一見山羊のようだ。しかし、頭を包んだ白布からは、リファリールと同じ巻角が覗いていた。
熱いパイをふうふう吹いて食べた。リファリールに世話を焼かれて、ルクは機嫌良く耳と尻尾を振っていた。
しかし食事の後は、帰っては嫌だとごねはじめた。
「ルク、待ってな。片付いたらじいちゃんと風呂入ろう」
オーブンの面倒を見ながら白山羊が宥めるのにも、そっぽを向いた。
「やだ。かーちゃんがいい」
「今日は繁盛だよ、遅くなるから、な?」
「やーだあ!」
ちいさな蹄で床を蹴って、叔父のユールと揃いの蜂蜜色の瞳から涙をこぼす。リファリールが見かねて言った。
「ルクちゃん、みんなのお仕事終わるまでもう少し遊ぶ? わたし、お風呂もしてあげる」
とたんに涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま、笑った。
「お風呂、りーちゃんと入る! アヒルとカエル貸してあげる!」
「助かるけど、いいのかい」
「ルク、リファちゃんお湯は苦手だからあんまりふざけるなよ」
「うん!」
夕飯の礼に、ユールも申し出た。
「晩飯、美味かったっす。ごちそうさまでした。俺、ホール手伝いますよ」
借り物のエプロンをかけてホールに出ると、野次が飛んだ。
「へーえ、旦那帰ってきたわけかい、ラーニャちゃん」
「残念だねえ、慰めてやろうかと思ってたのに!」
「……弟っす」
初手からこれだ。普段は酒場で傭兵仲間と騒ぐ側のユールだが、客でなければ蹴っ飛ばしてやりたかった。木のエールジョッキを片手に三つ、もう片手にはオーブンから出したてのクリームポットパイを、ドンとテーブルに出した。
「そうよ、やーねえもう!」
ラーニャは明るく片付けて、ついでに尻に伸びてきた酔客の手を尾でピシッと払った。
「ユールくん、助かるわ! ……お客様にはいいお顔、ね?」
むきになるなと釘をさされていた。わかってはいたが、やるせない気分になった。
モヤモヤを発散させるべく、ラーニャの仕事をとる勢いで、酒と料理を運んだ。
「ラーニャ、ユールくんも最後のオーダーとったら上がっていいよ」
白山羊が言う頃には、客もおよそ帰るなり部屋に引き上げるなりして、できあがった数人が残るばかりになっていた。
「だっておじさん、締めと片付け」
「俺がやる。弟来てる時くらい、いい」
皿洗いをしていた羊族の料理人が、背を向けたままぼそりと言った。
「アリエスさん」
「さっさと行ってやれ」
「ありがとうございます。お先に上がらせてもらいます」
頭を下げてエプロンを外したラーニャに続いて、ユールも階段を上がった。
「あのね、ちょっとぶっきらぼうだけどいいひとよ。お祭りの時も、アリエスさんが出かけさせてくれたし。……わたしいつも、みんなに助けてもらってるの」
「うん」
それでも辛くないかとは、訊けなかった。
ラーニャの左手の指には、まだ、銀の輪がある。揃いのもう一つは、兄の身体とともに、ユールが地中に深く埋めていた。
とっておいた方がよかったんだろうかと、今更思った。
いくら懐かしくとも、だんだん遠くぼやけていく、ユールの家族の記憶。ラーニャはただひとり残った、それを共有したひとだった。
ルクを抱えて、新しい場所で頑張っている彼女にとって、あのころの思い出はどんなものなのだろう。実のところ、彼女が兄と夫婦として過ごした時間は一年にも満たなかった。この先も長く縛られるのは、悪いような気がした。
ユールの視線に気づいたのか、ラーニャは部屋に入る前に指輪をした左手をヒラヒラ振った。
「虫除け」
「そっか」
「お節介されたくなくて、おじさん以外には、遠くで働いてるってことにしてるの。……わたしまだね、イゴールはもう迎えにきてくれないんだって、納得できてないのかもしれない。四年もたつのに」
ラーニャは目を伏せた。
「でも、いい加減よくないわね。ルクが、混乱しちゃってる……」
身篭って体調をくずしがちになったラーニャを半ば無理やり里に帰したのは兄だったという。その気遣いが、結果としてふたりを救った。
ユールは、ラーニャとルクの部屋に入るのは初めてだった。
寝巻きに着替えたルクが、おもちゃの中から母を目掛けて飛び出してくる。
「かーちゃん、あのね」
昼食は果物の食べ放題に行ったこと、公園に来ていたサーカスを見たこと、ユールに鳥打ちを教わったこと……今日の出来事を、湯上がりのつやつやした顔で話す。
ラーニャはルクを膝に乗せて、今度こそ最後まで聞いていた。
リファリールが散らばった絵本を揃えて、ちいさな棚に戻した。
ユールはそれに、見覚えがあった。
ぐるりと室内に視線をやれば、他にもあった。おもちゃ箱になっている、車輪のついた足つきのものは、ゆりかごだ。その隣の木馬も、知っている。木馬のくせに角がついていて、耳がぴょんと横に張り出している。三白眼なのに頬が赤く塗られていて、はっきり言えば不気味だ。正確には木馬でなく、木山羊。
ユールの家は農家だったが、冬は木工の内職をしていた。遊び程度にかじっただけのユールと違い、長兄のイゴールは祖父にきちんと教わって、職人としてやっていける腕だった。
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