黒山羊と花の乙女

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32.夫婦の記憶

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 ラーニャと、ユールの兄のイゴールは見合いで結婚した。

 長男だからさっさと嫁をと、成人してすぐ同族を探して、一番に引き合わされたのが、同じような農家の出身の彼女だった。

 イゴールは無口だった。見合いの席で話しかけられても、短く「うん」とか「いや」とか言っては石のように黙った。
 黒髪を凝った形に編んで、白地に青い小花模様のワンピースを着た嫁候補の娘は、さすがに困った顔をしていた。
 下の兄弟と覗き見していたユールの方がやきもきした。
 ユールの父は、長男と同じく、男は口の少ない方がいいと思っている昔気質だったから全く役に立たず、ユールの母と、話の上手い次兄が、ラーニャと両親の相手をしていた。

 散々な態度だったが、気に入らなかったわけではなかったらしい。

「あれでいい。丈夫そうだし、お袋とも合いそうだ」

 イゴールがそう言って、ラーニャの嫁入りが決まった。
 ユールは、そんなもんでいいのかと呆れていた。手伝いでも雇うようだった。ラーニャの家も、図体ばかり大きい置き物と化していた男を相手に、よく嫁に出すことを了承したものだった。

 ただ、イゴールはラーニャが来るまでに、せっせと準備をした。農作業の合間に、離れを建て増しし、寝る間も惜しんで家具を作っていた。ゆりかごや木山羊まであるのは気が早いとからかうと、鼻の周りを赤くして、ぼそっと答えた。

「……嫁に来てもらうんだ。全部用意すんのが礼儀だ」

 街の市場に行くときに、宝飾店と洋品店も回って、結婚指輪と式の衣装も揃えていた。馴染みのない店でガチガチに緊張してたよと、付き添った次兄が教えてくれた。

 イゴールはちゃんとラーニャが好きだった。
 そして、ラーニャはそんな不器用な男を、理解してくれていた。

 ユールが父と喧嘩して飛び出してしまうまでに、ほんのかけらばかり目にした、彼らの夫婦としての姿。

 畑で畝に脚をとられたラーニャを、ぱっと支える腕。気をつけろと怒鳴るのに、屈託なくありがとうと答えられれば、とたんにイゴールは黙り込んだ。

 休憩時間、牧草畑を見下ろす畔に並んで腰を下ろして、すももを食べていた。自分のことでもないのにくすぐったい気がして、まっすぐ見られなかった。
 あのとき、ふたりは何を話していたのだろう。ラーニャの笑顔につられて、置き物の頬は少し、緩んでいるような気がしたけれど。





「これね、里帰りのときに届けてくれてたの。そのまま、持って来て使ってる」
「とーちゃんの山羊だよ!」

 ルクが自慢げに言って、木の山羊に乗ってみせた。

 兄ちゃん。

 ユールは心の中で呼ぶ。涙をこぼせばぼやけるから、ぐっとこらえて、ルクの姿を、兄のかわりに目に焼きつけた。
 彼がどれだけ、これを見たかったか。
 断ち切られてしまった時間の先に、自分はいる。

 リファリールが側に来て、支えるように、腕に触れてくれた。

「ユール」

 ルクがトコトコと蹄で床を鳴らして、寄ってきた。

「とーちゃんのこと、知ってる?」
「知ってるよ、俺の兄ちゃんだもんよ」

 父親そっくりの石頭で、口下手で、真面目で。さぼってばかりのユールはよく叱られた。最後は反発ばかりしていた。けれど。

「……働きもんの、えらい兄ちゃんだ」

 ルクが腕をひっぱるので、屈んで顔をよせた。ぴょんと出た尖り耳を包むようにして、ルクは内緒話をする。

「どこにいるか、しってる?」

 なんて答えてやればいいのだろう。ラーニャが伝えないものを、死んでしまったと知らせるのは躊躇われた。

「ルクはいいの、かーちゃんもじーちゃんもいるから。でも、かーちゃんはたまにね、泣いてる。ばーちゃんが言ってた、かーちゃんは守ってくれるとーちゃんがいないから、泣いちゃうんだって。早くとーちゃんを見つけてあげないとって。だからルクも、探してる」

 やっと納得がいった。ルクが言う「ばーちゃん」とは、ラーニャの母だ。
 ラーニャは再婚を勧められるのが嫌で、実家を出たと言っていた。
 彼らの会話を小耳に挟んで、ルクはわからないながら、ずっと探していたのだ。
 母の涙を止めてくれるひとを。

 ユールは、ルクの頭を撫でた。
 まだ角もない、丸い頭蓋。今度はユールが、ルクの耳にそっと教えた。

「ルクのとーちゃんならさ……」





 義弟とその恋人が帰っていったあと、ラーニャは子供に添い寝して、毛布の上から軽く叩いてやっていた。
 枕元の白い花から、甘い、優しい香りが漂っている。静かな眠りを誘うお守りだと、リファリールが髪の花を摘んで置いていったのだ。

「リファちゃんのお花、いい匂いね」
「……うん」

 ルクの手が、温かくなってきていた。頭に鼻先を寄せれば、子供特有のうっすら汗ばんだ匂いがした。
 このまま、安心して眠ってほしかった。祭りの夜、迷子になったあと、夜中に泣いて起きるのを繰り返していた。聞けば柄の悪い男たちに脅かされたらしい。目を離してしまったことを、後悔していた。
 突然、未来を契った相手を失って、絶望の底に叩き落とされたラーニャにとって、ルクは希望の光だった。

「かーちゃん、あのね」
「なあに」
「ユールにね、とーちゃんどこって、きいたんだ」
「……なんて、言ってた?」

 ルクはラーニャの手を引っ張って、自分の顔を触らせた。

「とーちゃんは、ここだって」

 太いまっすぐな眉、先の黒い三角形の鼻。
 ラーニャより明るい蜂蜜色の瞳、普通にしていても、少し怒っているように引き結んでいる口。

「ルクにはわかんないけど、そうなの? とーちゃん、ここにいる?」

 ラーニャは、夫の面差しを継いだ子供を抱きしめる。

「うん、いる……!」

 この子はもう、理解するだろう。
 父親に何があったか。母親の自分が、どんな思いで、彼を育てているか。曖昧にして逃げて、守るつもりで迷わせた。

 ラーニャの腕の中で、ルクは眠りに落ちていく。
 ラーニャはそこにいると信じて、夫の名前を呼んで、願った。

――どうかわたしを強くして。
――朝になって全てを話すとき、この子の前で、涙をこぼさないように。

 それは、とどめようもなく、水に滲むようにぼやけていく記憶のひとつ。
 夫婦になってしばらくして、どこが好きと聞いたら、彼は押し黙ってしまった。見合い結婚に過ぎた願いだったと、軽い落胆とともに諦めたら、数日たって忘れたころに、ぽつりと言った。

「笑った顔が、好きだ」

 その一言を、ずっと考えてくれたのだと思うと、愛しくてたまらなくなって。
 彼にも、彼の子供にも、たくさんの笑顔を見せようと、決めたのだ。






 母子を照らすのと同じ月が、帰り道の恋人たちを導いている。

「花、ユールさんのぶん、なくなっちゃってごめんなさい」
「いーよ。リファちゃん本人がいてくれるんだから、俺、一番ぜいたくだ」
「わたし、今日、朝から晩まで、ずーっとユールさんと一緒で、嬉しかったです」

 手を繋いだ影が、石畳に長く伸びている。
 今晩は赤と青の月が、揃って満ちて浮かんでいた。

「……お月さま、きれい」
「こーいうの、夫婦(めおと)月って言うの、知ってた?」
「ふふ、素敵な呼び方」

 ユールは月明かりに照らされる彼女の顔を見る。

 リファリールと共有できる時間は、いつか終わる。傭兵なんていくら気をつけても死ぬ時は死ぬ仕事だ。
 そして、どんなに頑張ろうと、獣族のユールは樹花族のリファリールより、はるかに早く寿命が尽きる。
 彼女に救われた命だ。生きている限り、彼女を守ると決めている。
 けれど、守って守って、その先に、いつか自分は避けがたく、彼女を置いていく。
 兄の無念を思う。死の瞬間、どれだけ心残りだったろう。

 それでも。
 彼らが出会わなければよかったのではないかなんて、思えないのだ。夫婦として過ごした時間は、きっと、短くてもかけがえのないものだった。

 リファリールと比べれば、あまりに脆く短い命の自分でも。彼女は選んで、望んでくれた。
 できるかぎりの全てを、したかった。

「リファちゃん、俺、今すぐって言えねえけど、考えてるから……」

 リファリールはユールを見つめ返して、きょとんと首を傾げる。

「……なにを?」
「だから、その」

 ユールは、うなじに嫌な気配を感じて、ぱっと振り返る。
 暗がりに目を凝らす彼を、リファリールが不安げに呼ぶ。

「ユールさん?」
「なんでもない。行こ」

 ユールはリファリールを隠すように抱き寄せて、先ほどより少し早足に歩き出した。






 二つの満月を背に、蝙蝠が舞う。
 今宵は少々明るすぎて、下手をうつところだった。

 樹花族の女が、黒山羊の男の部屋に連れ込まれていったのを見届けて、蝙蝠は事務所に戻った。
 標的は勤め先が傭兵ギルドで、私生活でもあの男がべったりだ。しかも、小人族の魔術屋敷に引っ越すとくる。

「なかなかガードが堅いですよ」

 あの屋敷の魔術障壁は厄介で、屋上の庭にすら立ち入れないのだ。

「ま、そんだけ貴重品ってこったね」

 メビウスは煙草をふかしつつ報告を聞いた。
 その手元にはリストがある。秋の終わりのオークションの「品物」候補たちだった。既にいくつかは入手済みだ。

「樹花族に一角獣、白蛇に人魚……魔術屋敷は宝の山だねえ。あの小人族ちんちくりん、いいひとぶって希少種囲い込みやがって、俺らと同業じゃねえかって疑っちまうよ。こう見せびらかされちゃ、いっそ火でもつけてやりてえね」
「やりますか」
「いやいや、うっかり焼け死なれちゃあ、もったいねえ」

 メビウスはリストに指を滑らせる。

「仕入れにゃタイミングってもんがあんのさ。ガキが親とはぐれたり、女が気まぐれで出かけたり……そんで、ふいっといなくなる。わりによくある話だろ?」

 彼らは日常の狭間の暗がりに吸い込まれ、帰ってこないのだ。永遠に。
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