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第一部 第一章 一期一会
お見合いの約束
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目前に堂々と咲き誇る満開の桜のように、私は精一杯咲こうとしていた。できる人から見たら、雑草が精一杯背伸びしている程度の頑張りだったのかもしれないけど。それでも、思いつく努力はすべてしたつもりだった。
しかし、そんな頑張りも無駄に終わった。
どんなに足掻こうと、私は所詮雑草だった。
はじめから綺麗な花になんてなれっこなかったのだ。
ただ、それだけの話だ。
大門寺の三桜閣・山門の大島桜をひとり見つめていた葵佐和子は、小さくため息をつく。
横浜市つるさわ区に位置する七百年以上もの歴史を持つ由緒正しき寺、大門寺は、JRつるさわ駅からわずか徒歩五分という立地にある。約十五万坪の広大な境内は、地域住民の憩いの場にもなっていた。
「佐和子、人が多いで手を離しちゃいかん。迷子になったら大変だでね」
ふと、そんな名古屋弁訛りの祖父の声が記憶に蘇る。この時期は毎年祖父に手を引かれ、大門寺に桜を見にきていた。
はらり、と頬にまた涙の筋が伝う。
仕事を辞めてからずっと、佐和子は感情のコントロールがうまくできなくなっている。
新卒で大手食品メーカーに入社して三年。営業部門での地道な努力を認められ、もともと希望していたマーケティング部に異動になったというのに。過重労働で体調を崩し、仕事を辞めざるを得なくなった。
それから早三ヶ月。住んでいたアパートを引き払い、実家に戻って以降、ずっと部屋に引きこもっている。
「おじいちゃん、私頑張ったけどダメだった。憧れてた仕事に抜擢してもらえたのに」
佐和子が祖父と最後に大門寺へ来たのは、保育園の年長に上がった春。「お姫様になりたい」なんていう無茶な夢を語る孫に笑いかけ、「お前は努力家だで、なんにでもなれるさ」と、優しく頭を撫でてくれた。その年の暮れ、祖父は肺炎で亡くなったのだ。
今日はたまたま家に吹き込んできた桜の花びらを見て、祖父の顔を思い出し、ひさしぶりに大門寺の桜を見たくなって外に出てきたのだが。涙が視界の邪魔をして景色が霞んでしまう。これではせっかくの桜が台無しだ。
––––この大島桜が新緑でいっぱいになる頃には、私も新しい仕事を始めていられるのかな。
涙の筋が残る頬をゴシゴシと手の甲で擦りながら、佐和子は白い玉砂利の敷かれた大門寺の庭を眺めていた。
ひと通り泣いて落ち着いたころ、佐和子はつるさわ駅前のバスターミナルまで戻ってきていた。
ここから路線バスに乗り、「明治坂上」で降りてすぐのところに佐和子の自宅はある。
やってきた青いバスに乗り込み、穏やかな陽の光に照らされた日曜の風景を、佐和子はぼんやりと瞳に映す。
座ってしばらくすると、景色が動き始めた。
––––あれ、誰か隣にいる。
二人席の窓側に座っていたのだが、知らぬ間に隣の席が埋まっている。チラリとそちらに目線を送れば、ロマンスグレーのパーマヘアを美しく整えた和装の婦人と目があった。
まさか視線があってしまうとは思わず、気まずいまま愛想笑いを作りながら、佐和子は軽く会釈をする。
「こんにちは。今日は桜が綺麗でしたねえ」
––––話しかけられちゃった。
退職してから、人と話すのが億劫だった。それに最低限外に出られる服装はしてきているが、化粧はしていない。綺麗な身なりの老婦人と会話をするのには躊躇われる格好だ。困ったなと思いながらも、佐和子は適当な返答をする。
「そうですね」
淡白な反応をすれば、これ以上は話しかけてこないだろうと思ったのだが。婦人はどうしても佐和子と話がしたいらしく、言葉を重ねてくる。
「あなた、この近辺にお住まいなの?」
「ああ、はい」
「そうなの。私もこの近くに住んでいるの。ねえ、あなた、ご結婚はまだ?」
ずいぶんと突っ込んでくるな、と佐和子は眉をひそめた。
「まだです」
会話を終わらせようと不機嫌な顔を作ってみたのだが。
「いいわねえ。美しい盛りのときだもの。たくさん恋愛ができるわね。私も若いころ、忘れられない恋をしたものよ」
婦人はかつての甘い記憶に思いを馳せるようにうっとりとしたかと思うと、佐和子の方に向き直って微笑んだ。
年齢なりの年輪を刻んではいるが、凛とした眼差しには力がある。若い頃はさぞ綺麗だっただろう。
「ねえあなた。うちの息子とお見合いしない? 同じつるさわなら、結婚してもお互いの実家が近くていいでしょう?」
彼女は愛想たっぷりの笑みで、佐和子の顔を覗き込む。
佐和子は口をあんぐりと開け、絶句した。
––––いったいなにをもって、この人は初対面の私を息子の嫁になんて思ったの?
「え、ええと。あの、私結婚は……」
「ああ、そうよね。相手の年齢も容姿もわからないと不安よね。歳は五十六でね、実家暮らしなの。仕事はね、まあいわゆる物書きね。安心して、結婚歴はないから。顔はいい方だと思うわ」
五十代、実家暮らしの物書き、結婚歴なし。つまり、この歳まで独身。
––––とても厄介な人の匂いがする。
婦人は佐和子が動揺していることにはかまいもせず、黒い皮の手帳を取り出すと、一番うしろのメモのページに住所、名前と電話番号とを手早く書き上げていく。
「私、笹野屋富士子っていうの。明日お昼に待っているわ。絶対よ」
そう言うと上品に微笑み、手帳から破ったメモを佐和子に渡すと、ウキウキとした様子でバスを降りていった。
––––押し切られちゃった……。
遠ざかっていく藤色の着物を見送りつつ。佐和子は開いた口を閉じられぬまま、バスに揺られていた。
しかし、そんな頑張りも無駄に終わった。
どんなに足掻こうと、私は所詮雑草だった。
はじめから綺麗な花になんてなれっこなかったのだ。
ただ、それだけの話だ。
大門寺の三桜閣・山門の大島桜をひとり見つめていた葵佐和子は、小さくため息をつく。
横浜市つるさわ区に位置する七百年以上もの歴史を持つ由緒正しき寺、大門寺は、JRつるさわ駅からわずか徒歩五分という立地にある。約十五万坪の広大な境内は、地域住民の憩いの場にもなっていた。
「佐和子、人が多いで手を離しちゃいかん。迷子になったら大変だでね」
ふと、そんな名古屋弁訛りの祖父の声が記憶に蘇る。この時期は毎年祖父に手を引かれ、大門寺に桜を見にきていた。
はらり、と頬にまた涙の筋が伝う。
仕事を辞めてからずっと、佐和子は感情のコントロールがうまくできなくなっている。
新卒で大手食品メーカーに入社して三年。営業部門での地道な努力を認められ、もともと希望していたマーケティング部に異動になったというのに。過重労働で体調を崩し、仕事を辞めざるを得なくなった。
それから早三ヶ月。住んでいたアパートを引き払い、実家に戻って以降、ずっと部屋に引きこもっている。
「おじいちゃん、私頑張ったけどダメだった。憧れてた仕事に抜擢してもらえたのに」
佐和子が祖父と最後に大門寺へ来たのは、保育園の年長に上がった春。「お姫様になりたい」なんていう無茶な夢を語る孫に笑いかけ、「お前は努力家だで、なんにでもなれるさ」と、優しく頭を撫でてくれた。その年の暮れ、祖父は肺炎で亡くなったのだ。
今日はたまたま家に吹き込んできた桜の花びらを見て、祖父の顔を思い出し、ひさしぶりに大門寺の桜を見たくなって外に出てきたのだが。涙が視界の邪魔をして景色が霞んでしまう。これではせっかくの桜が台無しだ。
––––この大島桜が新緑でいっぱいになる頃には、私も新しい仕事を始めていられるのかな。
涙の筋が残る頬をゴシゴシと手の甲で擦りながら、佐和子は白い玉砂利の敷かれた大門寺の庭を眺めていた。
ひと通り泣いて落ち着いたころ、佐和子はつるさわ駅前のバスターミナルまで戻ってきていた。
ここから路線バスに乗り、「明治坂上」で降りてすぐのところに佐和子の自宅はある。
やってきた青いバスに乗り込み、穏やかな陽の光に照らされた日曜の風景を、佐和子はぼんやりと瞳に映す。
座ってしばらくすると、景色が動き始めた。
––––あれ、誰か隣にいる。
二人席の窓側に座っていたのだが、知らぬ間に隣の席が埋まっている。チラリとそちらに目線を送れば、ロマンスグレーのパーマヘアを美しく整えた和装の婦人と目があった。
まさか視線があってしまうとは思わず、気まずいまま愛想笑いを作りながら、佐和子は軽く会釈をする。
「こんにちは。今日は桜が綺麗でしたねえ」
––––話しかけられちゃった。
退職してから、人と話すのが億劫だった。それに最低限外に出られる服装はしてきているが、化粧はしていない。綺麗な身なりの老婦人と会話をするのには躊躇われる格好だ。困ったなと思いながらも、佐和子は適当な返答をする。
「そうですね」
淡白な反応をすれば、これ以上は話しかけてこないだろうと思ったのだが。婦人はどうしても佐和子と話がしたいらしく、言葉を重ねてくる。
「あなた、この近辺にお住まいなの?」
「ああ、はい」
「そうなの。私もこの近くに住んでいるの。ねえ、あなた、ご結婚はまだ?」
ずいぶんと突っ込んでくるな、と佐和子は眉をひそめた。
「まだです」
会話を終わらせようと不機嫌な顔を作ってみたのだが。
「いいわねえ。美しい盛りのときだもの。たくさん恋愛ができるわね。私も若いころ、忘れられない恋をしたものよ」
婦人はかつての甘い記憶に思いを馳せるようにうっとりとしたかと思うと、佐和子の方に向き直って微笑んだ。
年齢なりの年輪を刻んではいるが、凛とした眼差しには力がある。若い頃はさぞ綺麗だっただろう。
「ねえあなた。うちの息子とお見合いしない? 同じつるさわなら、結婚してもお互いの実家が近くていいでしょう?」
彼女は愛想たっぷりの笑みで、佐和子の顔を覗き込む。
佐和子は口をあんぐりと開け、絶句した。
––––いったいなにをもって、この人は初対面の私を息子の嫁になんて思ったの?
「え、ええと。あの、私結婚は……」
「ああ、そうよね。相手の年齢も容姿もわからないと不安よね。歳は五十六でね、実家暮らしなの。仕事はね、まあいわゆる物書きね。安心して、結婚歴はないから。顔はいい方だと思うわ」
五十代、実家暮らしの物書き、結婚歴なし。つまり、この歳まで独身。
––––とても厄介な人の匂いがする。
婦人は佐和子が動揺していることにはかまいもせず、黒い皮の手帳を取り出すと、一番うしろのメモのページに住所、名前と電話番号とを手早く書き上げていく。
「私、笹野屋富士子っていうの。明日お昼に待っているわ。絶対よ」
そう言うと上品に微笑み、手帳から破ったメモを佐和子に渡すと、ウキウキとした様子でバスを降りていった。
––––押し切られちゃった……。
遠ざかっていく藤色の着物を見送りつつ。佐和子は開いた口を閉じられぬまま、バスに揺られていた。
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