34 / 49
第5章 母と息子
御史台の監察史
しおりを挟む
薄緑色の古ぼけた壁、無機質な部屋には見覚えがある。他の部署とは離れた殿にあるあの部署だ。
「もしかしてここって」
「御史台の取調室だ」
ぱん、と羅刹は額を打った。
御史台。国に奉仕する官吏たちを監視する部署。恐れている場所に、恐れている容疑でここにいる。
床でうずくまっている羅刹のすぐ近くに、漢林がしゃがみ込む。相変わらず性格の悪そうな吊り目だ。
「お前、女だって疑いがかかってんだって?」
鼻で笑いながら漢林が言う。
「僕は女じゃない。っていうか、君に問い詰める権限はないだろ?」
「残念ながら、俺は御史台の監察史なんだよ」
監察史。官吏の功過や行政の可否を調査し、政を監視する官吏のことだ。その性格上あまり他部署と交わることもなく、監察史をしている人間の顔もあまり知られていない。書類を届けに来た時も、人はまばらだった。
「は? いや、おかしいでしょ。だって進士が御史台配属なんて聞いたことないぞ」
「俺だって聞いたことねえよ。だが稀に配属されることがあるらしい。俺がその例外ってわけだ」
「でも君、戸部の仕事してたじゃないか」
「ふだんは戸部付きの進士として働いてんの。で、仕事をしながら、怪しい動きをしてる官吏がいないかさがすわけ。まあ、進士の前では口を滑らせやすいし、諸先輩型の悪習を目にしやすい立場にはあるからな。進士を配属する利点はたしかにあると感じる」
「まさか、あの馬糞投げにも意味が……」
「あれは違う。たんにお前がムカつくからやっただけ」
「やなやつだな、君」
「はあ? 状元であることを鼻にかけて、下々の進士とは関わらない貴様も十分感じわりぃ」
「えええ! そんなふうに思われてんの僕」
「おおかたそうだろ。しかも最近は皇帝の食客だとかいう仮面の野郎とつるんでて目立つし」
自分の興味のあることに盲信する人間なので、おっしゃる通り他の進士とは必要最低限しか交流を持っていない。
友はいなくとも幸せなのだ。
はぁ。そうか、まずいのかこれは。
「さあ、これ以上俺の手を煩わせるな。脱げ」
「いやだよ、なんで君の前で脱がなきゃいけないんだ」
「蔡華様が、お前が女だったって言って連れてきたんだけどな。官吏の不正を調べるのは御史台の管轄。だからたとえ帝付きの宦官様がそうだと言っても、真偽は俺たちの手で確かめなきゃならん」
「蔡華さんはどこに?」
「とっくにここを離れられた。帝からお呼びがかかったみたいだったな」
話は終わりだと、羅刹は漢林に両手を掴まれ、硬い床に体を縫いつけられる。
「脱がないんなら脱がす。だいたい男だって言い張るなら、さっさと済ませればいいだろうが。疑いがはれれば自由になれるぞ?」
「他人に肌を晒してはいけない宗教を信仰してるんだ!」
「そんな言い訳が通ると思うか!」
勉強だけじゃなく、護身術も習っておけばよかった。そう後悔してももう遅い。羅刹は力一杯抵抗を試みた。幸い縛られてはおらず、手足は自由だ。任意同行というやつなのだろう。
「動くな、貴様」
「じゃあ手を離せ!」
「あっ、くそっ、噛んだな。いててててて! やめろやめろ! ちぎれる!」
必死の抵抗を試みていると、閉められていた扉が蹴破られた。すっ飛んできた扉が見事漢林の後頭部に命中し、彼は気絶する。
「羅刹!」
「うわ、雲嵐。今日は比較的普通な面だねって……」
そう言い終わるが前に、羅刹は雲嵐に抱きすくめられていた。
「え、なに。どうしたの……」
「お前に何かあったら、どうしようかと思った」
「そんな大袈裟な」
宥めようとするが、背中に回されたたくましい腕に、ギュッと力が入る。
朱を引いた狐の面を、雲嵐は器用に片手で外した。黒い艶髪を綺麗にまとめ上げた、美しい男の翡翠の双眸が現れる。
怯えた表情に、胸の奥がギュッとなった。
周囲は敵ばかりの彼に初めてできた友達。腹に一物持たず、協力し合える仲間。
雲嵐にとって自分は、きっとそんな相手なのだろう。
そしてあからさまにおかしな速度で事件が解決に向かおうとしている今、自分が消えた。
事件の真相を探ろうとチョロチョロし続ける羅刹は、真犯人にとって邪魔に違いない。雲嵐もそう考えていたはず。
羅刹がすでに亡き者になっている可能性を考えてしまったのだろう。
心配してくれていたんだな。
雲嵐を落ち着かせようと、羅刹は彼の背中を優しく撫でる。
「雲嵐、大丈夫だからっ……って、うぐ」
次の瞬間、羅刹の唇は、雲嵐のそれによって塞がれていた。
「もしかしてここって」
「御史台の取調室だ」
ぱん、と羅刹は額を打った。
御史台。国に奉仕する官吏たちを監視する部署。恐れている場所に、恐れている容疑でここにいる。
床でうずくまっている羅刹のすぐ近くに、漢林がしゃがみ込む。相変わらず性格の悪そうな吊り目だ。
「お前、女だって疑いがかかってんだって?」
鼻で笑いながら漢林が言う。
「僕は女じゃない。っていうか、君に問い詰める権限はないだろ?」
「残念ながら、俺は御史台の監察史なんだよ」
監察史。官吏の功過や行政の可否を調査し、政を監視する官吏のことだ。その性格上あまり他部署と交わることもなく、監察史をしている人間の顔もあまり知られていない。書類を届けに来た時も、人はまばらだった。
「は? いや、おかしいでしょ。だって進士が御史台配属なんて聞いたことないぞ」
「俺だって聞いたことねえよ。だが稀に配属されることがあるらしい。俺がその例外ってわけだ」
「でも君、戸部の仕事してたじゃないか」
「ふだんは戸部付きの進士として働いてんの。で、仕事をしながら、怪しい動きをしてる官吏がいないかさがすわけ。まあ、進士の前では口を滑らせやすいし、諸先輩型の悪習を目にしやすい立場にはあるからな。進士を配属する利点はたしかにあると感じる」
「まさか、あの馬糞投げにも意味が……」
「あれは違う。たんにお前がムカつくからやっただけ」
「やなやつだな、君」
「はあ? 状元であることを鼻にかけて、下々の進士とは関わらない貴様も十分感じわりぃ」
「えええ! そんなふうに思われてんの僕」
「おおかたそうだろ。しかも最近は皇帝の食客だとかいう仮面の野郎とつるんでて目立つし」
自分の興味のあることに盲信する人間なので、おっしゃる通り他の進士とは必要最低限しか交流を持っていない。
友はいなくとも幸せなのだ。
はぁ。そうか、まずいのかこれは。
「さあ、これ以上俺の手を煩わせるな。脱げ」
「いやだよ、なんで君の前で脱がなきゃいけないんだ」
「蔡華様が、お前が女だったって言って連れてきたんだけどな。官吏の不正を調べるのは御史台の管轄。だからたとえ帝付きの宦官様がそうだと言っても、真偽は俺たちの手で確かめなきゃならん」
「蔡華さんはどこに?」
「とっくにここを離れられた。帝からお呼びがかかったみたいだったな」
話は終わりだと、羅刹は漢林に両手を掴まれ、硬い床に体を縫いつけられる。
「脱がないんなら脱がす。だいたい男だって言い張るなら、さっさと済ませればいいだろうが。疑いがはれれば自由になれるぞ?」
「他人に肌を晒してはいけない宗教を信仰してるんだ!」
「そんな言い訳が通ると思うか!」
勉強だけじゃなく、護身術も習っておけばよかった。そう後悔してももう遅い。羅刹は力一杯抵抗を試みた。幸い縛られてはおらず、手足は自由だ。任意同行というやつなのだろう。
「動くな、貴様」
「じゃあ手を離せ!」
「あっ、くそっ、噛んだな。いててててて! やめろやめろ! ちぎれる!」
必死の抵抗を試みていると、閉められていた扉が蹴破られた。すっ飛んできた扉が見事漢林の後頭部に命中し、彼は気絶する。
「羅刹!」
「うわ、雲嵐。今日は比較的普通な面だねって……」
そう言い終わるが前に、羅刹は雲嵐に抱きすくめられていた。
「え、なに。どうしたの……」
「お前に何かあったら、どうしようかと思った」
「そんな大袈裟な」
宥めようとするが、背中に回されたたくましい腕に、ギュッと力が入る。
朱を引いた狐の面を、雲嵐は器用に片手で外した。黒い艶髪を綺麗にまとめ上げた、美しい男の翡翠の双眸が現れる。
怯えた表情に、胸の奥がギュッとなった。
周囲は敵ばかりの彼に初めてできた友達。腹に一物持たず、協力し合える仲間。
雲嵐にとって自分は、きっとそんな相手なのだろう。
そしてあからさまにおかしな速度で事件が解決に向かおうとしている今、自分が消えた。
事件の真相を探ろうとチョロチョロし続ける羅刹は、真犯人にとって邪魔に違いない。雲嵐もそう考えていたはず。
羅刹がすでに亡き者になっている可能性を考えてしまったのだろう。
心配してくれていたんだな。
雲嵐を落ち着かせようと、羅刹は彼の背中を優しく撫でる。
「雲嵐、大丈夫だからっ……って、うぐ」
次の瞬間、羅刹の唇は、雲嵐のそれによって塞がれていた。
1
あなたにおすすめの小説
公主の嫁入り
マチバリ
キャラ文芸
宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。
17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。
中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。
後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる
gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く
☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。
そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。
心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。
峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。
仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。
あやかしが家族になりました
山いい奈
キャラ文芸
★お知らせ
いつもありがとうございます。
当作品、3月末にて非公開にさせていただきます。再公開の日時は未定です。
ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
母親に結婚をせっつかれている主人公、真琴。
一人前の料理人になるべく、天王寺の割烹で修行している。
ある日また母親にうるさく言われ、たわむれに観音さまに良縁を願うと、それがきっかけとなり、白狐のあやかしである雅玖と結婚することになってしまう。
そして5体のあやかしの子を預かり、5つ子として育てることになる。
真琴の夢を知った雅玖は、真琴のために和カフェを建ててくれた。真琴は昼は人間相手に、夜には子どもたちに会いに来るあやかし相手に切り盛りする。
しかし、子どもたちには、ある秘密があるのだった。
家族の行く末は、一体どこにたどり着くのだろうか。
視える宮廷女官 ―霊能力で後宮の事件を解決します!―
島崎 紗都子
キャラ文芸
父の手伝いで薬を売るかたわら 生まれ持った霊能力で占いをしながら日々の生活費を稼ぐ蓮花。ある日 突然襲ってきた賊に両親を殺され 自分も命を狙われそうになったところを 景安国の将軍 一颯に助けられ成り行きで後宮の女官に! 持ち前の明るさと霊能力で 後宮の事件を解決していくうちに 蓮花は母の秘密を知ることに――。
【純愛百合】檸檬色に染まる泉【純愛GL】
里見 亮和
キャラ文芸
”世界で一番美しいと思ってしまった憧れの女性”
女子高生の私が、生まれてはじめて我を忘れて好きになったひと。
雑誌で見つけたたった一枚の写真しか手掛かりがないその女性が……
手なんか届かくはずがなかった憧れの女性が……
いま……私の目の前ににいる。
奇跡的な出会いを果たしてしまった私の人生は、大きく動き出す……
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
後宮の星詠み妃 平安の呪われた姫と宿命の東宮
鈴木しぐれ
キャラ文芸
旧題:星詠みの東宮妃 ~呪われた姫君は東宮の隣で未来をみる~
【書籍化します!!4/7出荷予定】平安の世、目の中に未来で起こる凶兆が視えてしまう、『星詠み』の力を持つ、藤原宵子(しょうこ)。その呪いと呼ばれる力のせいで家族や侍女たちからも見放されていた。
ある日、急きょ東宮に入内することが決まる。東宮は入内した姫をことごとく追い返す、冷酷な人だという。厄介払いも兼ねて、宵子は東宮のもとへ送り込まれた。とある、理不尽な命令を抱えて……。
でも、実際に会った東宮は、冷酷な人ではなく、まるで太陽のような人だった。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる