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「殿! 小白様!」
探す声に振り向いたのは茶髪を肩先まで伸ばした男。黒い小袖に青緑の袴をつけている。身分のある男だが簡素な衣服を好んでいた。
「ここだ、顕広」
低く威厳のある声を響かせたのは鉄櫓のふもと。大柄な男の周りで子どもたちがわらわらと走り回っていた。
「まーた子どもたちを集めて……」
無精ひげを生やした顕広はため息をつきつつ、駆け寄った子どもを抱え上げた。彼のひどい癖っ毛頭に小さな紅葉を伸ばしている。
ここは今橋城。後に吉田城と呼ばれる城だ。
城主は彼────牧野小白。齢28の彼はこれまでにも何ヵ所か城主をつとめてきた。
高貴な顔立ちはまさに国人にふさわしい。仕事ぶりや戦での采配は誰もをうならせる。
「皆とても賢い。だが、遊ぶ時間もないとな」
彼は本丸を指差した。子どもたちは一斉に駆け出し、壁面に指先をつけると一斉にこちらへ戻ってきた。
「アキせんせー!」
「おわっ。お前たち、また足が速くなったなぁ」
「たまには加賀と二人でゆっくりしたらどうだ。夫婦水入らずで」
「だっだから加賀は私の助手であってですねぇ……」
顕広は声が尻すぼみになり、人差し指を突き合わせた。
「あー。アキせんせーの顔まっかっかだ」
「いい加減腹くくれよ……」
途端に子どもたちが彼の顔を指差す。子どもと大人の狭間にいるような顔立ちは肩をすくめた。
「顕広よ、城内の男たちは美しき助手どのを狙っておるぞ? ぼやぼやしていたら独り身まっしぐらだ」
「……そっくりそのままお返ししますよ独身城主」
「私はよい。”魔王”の嫁なんて生贄のようだしな。嫁いでくる女子がかわいそうじゃないか」
小白の城内でのあだ名だ。自らを忙殺させる仕事ぶりが”魔王”のようだと家臣たちに揶揄されている。しかし、本人は気に入っているようだった。
彼ら────竹島一族と小白が出会ったのは、今橋の地に築城の命を受けた頃だった。
小白はある村の穀物の神を祀る神社が元々は別の島からやってきたことを知る。
そこは弁財天をはじめとした神々が祀られる島。島の近くでは海産物が名物だと知った。
『アサリか。よいなぁ。いっそ参ろうか』
そこで出会ったのが竹島一族。幡豆の武士であった竹島顕広は、子どもたちを引き連れて海水浴を楽しんでいた。
まだ二十歳に満たない彼は戦で家族を亡くし、武士とは名ばかり。学問に秀でていたので、屋敷にやってくる子どもたちに文字の読み書きを教えていたという。
「じょっ、い……今橋の城主様ぁ!? 何故私なんかを……」
「捨て子を拾い育てるお前の志に感銘を受けた。私と共に今橋城へ来てくれないか? もちろん子どもたちも」
だだっ広い竹島の屋敷前に赤子が捨て置かれたのは数年前。時々様子を見に来る乳母の手を借りて育てることに。いつしか噂が村中に広がり、宛てのない小さな子どもが門の前に座り込むようになったそうだ。
「顕広様、あたしは賛成です。最近は子どもたちの数も増え、屋敷も手狭になって参りました……。子どもたちの生育環境としてよろしくありません」
顕広の元乳母の娘、加賀は乗り気だった。
「お殿様、子どもたちのために新たな屋敷を建ててくださるのですよね? それにお仕事まで……」
「もちろんとも。お前たちの力はこれからの時代に必要になる……。どうか私に貸してくれないか」
小白の言う”力”とは、子どもたちの脚力と学力。
この時代、敵国の情報は金と同じくらいかそれ以上の価値がある。特に不仲である戸田氏の動向は常に把握しておきたかった。
「ですが……子どもたちに間者の真似をさせるなど……」
「無論、命を危険にさらすことはしない。そのためには……逃げる、を念頭に置くようにしよう。だが、念のために護身術も心得てもらおう。達人がいるのだよ────」
そうしてあれよあれよという間に決まり、竹島一族の大引っ越しが決行された。
子どもたちはすぐに新しい環境に慣れ、のびのびと育った。
情報収集につとめるべく、中には畑仕事や商いの真似事をする者も現れ始めた。その地に留まって長く情報を得るためだ。
彼らに危険が無かったと言えば嘘になる。しかし、鍛錬の成果か全員が生きて今橋城へ帰還することが叶った。
「皆立派だ……。たった一年でこれほどになるとは」
「はい……。我々の自慢の子らです」
子どもたちや小白がせっついた効果か、顕広と加賀は晴れて夫婦となった。二人は子を成すことはなく、血のつながらない子どもたちをずっと可愛がっている。
しかし、平和な日常は一年も続かなかった。
今橋城が襲撃されたのだ。近頃は不穏な空気が漂っていたが、このような形で攻め入られるとは思いもしなかった。
『今川様の命のようです……!』
敵襲を報告した門番の顔はひどく困惑していた。傷一つなかった当世具足は土埃を被っている。
(戸田の奴め……。何を吹聴した)
困惑したのは小白も同じだった。今橋城の築城を命じたのは他でもない、今川氏親だ。
櫓からはけたたましい鐘の音が鳴り響き、城内の者を叩き起こす。
まだ陽も昇らない明け方前。近頃は太陽の目覚めが遅くなっていた。西の空では星が無邪気に瞬いている。
小白は寝間着のまま、家臣の妻子たちを竹島の屋敷へ連れて行った。
「亭主……父は必ず帰ってくる。それまで避難していてくれ」
城の門は外の男たちの咆哮で今にも破られそうだ。城内の家臣たちが門を押さえているが時間の問題だろう。
「竹島一族と地下通路で逃げろ」
「地下通路?」
「私と一部の家臣しか知らぬ。今橋のはずれに新たな屋敷を建てただろう? そこへつながっている」
竹島の屋敷では子どもたちが続々と畳の下へ消えていく。青年に成長した一族の子どもは松明を手にしている。妻子たちは彼らの案内で階段に足をかけた。
「小白様……」
「行け、顕広。加賀よ」
「私だけでも残ります!」
寝起きでいつも以上にひどい鳥の巣頭。顕広は癖っ毛の隙間から雫を落とすと声を震わせた。加賀も長い髪をまとめておらず、瞳は泣き濡れていた。
小白は困ったように笑うと二人の肩に手をかけた。
「お前たちを失うわけにはいかない。それに……お前たちの存在を知った者に利用されるだろう。しかし、どんな扱いを受けるか分からぬ……。これまで命を賭して力を貸してくれたこと、共に過ごしたことは忘れぬ。この命が尽きるまで……」
今橋城を巡る戦いは六十年ほど続き、小白は行く末を近くで見守っていた。何度も姿を変えて。
『殿! 最後までお供しまする……!』
『何故お一人で残ろうなどと……!』
『……生きて帰すと約束したからな』
襲撃の折、圧倒的に兵の数が足りなかった。小白は早々に家臣たちを地下通路へ逃がし、自分一人だけが残った。
しかし、腕っぷしには自信がない。竹島一族の子どもたちにまぎれて基礎から鍛錬していたほどだ。槍か刀か、と聞かれても目を背けたいところだ。
(どうする……)
鉄櫓に逃げ込むとしゃがみこんだ。肩は激しく上下し、喉から出て行く息で水分が枯れていく。刀も、刀を振り上げていた腕もひどく重い。
城は陥落したも同然だろう。日に照らされた本丸は中も外も荒らされていた。辺りには今川方の兵たちが小白のことを探し回っている。
「あとは大将の首だけ、ってか……」
真っ白だった寝間着は土埃で黒くなった。誰のものか分からない血は赤黒く変色している。
もはやこれまでだ。城よりも家臣の命をとった城主など、これからの時代に生き残れるわけがない。
震える手で柄を握ると刀身が鈍く光った。覚悟はできたか、と言いたげに。
「魂を奪うには惜しい方だ……」
視界の端に黒い塊が写った。低い声と共に。
声も上げられずに目を見開くと、手拭いを差し出された。
目の前で男がひざまづいていた。夜のような黒髪に黒い衣服。見たことのない意匠は小袖や袴よりも生地の量は少なさそうだ。その割には複雑な作りに見える。
その後ろには稲穂のような金色の髪と、澄んだ川のような水色の瞳を持つ少女。彼女は白い生地を体に巻き付けただけの簡易的な服のように見えた。
青葉のような緑の髪を払った男は盆を脇に挟んだ。
季節は春。桜の木が蕾を綻ばせ、辺りを薄桃色に染め始めた。
ここでの春は何度目だろう。彼は木々の隙間から差し込む陽光に目を細めた。
そばでは床机台でお茶をすする老人が一人。
「松平に仕えている酒井忠次が新たな城主とな」
「へぇ、そうかい。ようやく落ち着くのか」
ここは吉田城下の茶屋。町民の憩いの場だ。
かつての今橋城は名前を変え、何人もの城主を迎えた。
初代城主、牧野小白は今川に敗れ、家臣と共に行方知れずと言われている。
その後、戸田が城主をつとめるが小白の元家臣たちが奪還。再び今川に攻略されたり、新勢力によってこの地方を統一されたりもした。
「儂のご先祖様は初代城主に仕えておってな……。襲撃の際、逃がしてくださったのだと。おかげで儂は今こうしてうまい茶を飲めるよ……」
「はいはい。何回も聞いたよそれ」
「慶司よ、お前さんもご先祖様がいてこその命だ。早く嫁さんもらって長生きしろ」
「耳にタコができるほど聞いてるって……」
以前の名────小白から、慶司という名前に変えて六十年以上。彼は相変わらず二十代後半の姿で生きていた。
(この時代の平均寿命は超えたな)
夕方になり、店じまいをすると彼は目を閉じた。その瞬間に緑の髪が伸び、夜の闇を取り込んで紫へと変わっていく。最後に毛先を紙紐で留めて肩の横へ流した。
『魂を奪うには惜しい方だ……』
『……誰だ?』
『私は黄泉への案内人。そしてこちらは時を司る女神。私たちは人間の魂を管理しています』
絶体絶命だったあの日、永遠の命と不思議な力を手に入れた。黒の男────死神と、白の女────時の女神に協力することと引き換えに。
『近頃は人間の数が増えてきて管理が大変でしてね……。才能のある人間を探していたのですよ』
『……死神、か』
手を差し出した男は底の見えない湖のような瞳を和らげた。
本来だったら自分はこの時に黄泉の国へ連れて行かれたのだろう。
『こんな城主でもできることがあるのか?』
小白は刀を床に置くと腕を投げ出した。
まだ生きたい、と願う心の叫びには抗えなかった。
『こんな、ではありませんよ。あなたは人の本質を見抜く力がある……。そして面倒見がいい。ぜひ我々の仲間となって力を貸してくれませんか?』
かつて竹島一族に掛けた言葉を自分がもらうことになるとは思わなかった。
彼は少し咳き込むとうなずき、死神の手を取った。
その瞬間、それまでの疲労が吹き飛んだ。寝間着は素朴な色の着流しへ、藁の端が飛び出ていた草履も新品同様に変わった。
それから名前を変え、文字通り生まれかった気分で茶屋を始めた。
「こんばんは、慶司さん」
他の客がはけると彼はここへ現れる。まるで暗闇から溶け出したような漆黒の装いで。
「ある少年を見守って頂けませんか? もうすぐ福谷城から移住してきます。酒井忠次と共に」
「子守りなら竹島一族で十分なんだが」
「その子は我々側で……」
「ほーう……?」
床机台に腰かけた死神は笑ってしまうほど不釣り合いだった。原因は彼の衣服だろう。時代が進んでからそれは洋服だと知った。
(庶民にも洋装を着る習慣ができたらありかもな……)
慶司は自分の着物と前掛けを見下ろした。
江戸、明治、大正、昭和、平成。
時代が変わる度に茶屋から喫茶店、カフェへと名前が変わった。接客をする慶司の衣服も。
「慶司さんはどうしてお店を?」
死神はフラッと現れては世間話をしていく。仕事の依頼だけではない。
「なんでだろうなぁ……。人と触れ合う場にいたい、と思うようになった。竹島一族と一緒に過ごすのが楽しかったんだな」
「名前を変えてからも関わっていましたもんね。ポケットマネーで屋敷を増やしたり」
その一族も江戸時代に入る頃には諜報活動を辞めた。忍びとして形を変えて仕事を続ける者、学問の知識を生かして寺子屋を開く者など、バラバラに散らばった。
顕広も加賀も名前を残すことなど望んでいなかった。子どもたちの幸せを願っていた。最期の最期まで。
『慶司の幸せもだよ……』
『俺の?』
身分を捨ててからは顕広とは親友のような間柄に変わった。もちろん正体や経緯を明かした上で。彼らにだけは話しておきたかった。
『二十年経っても結婚してないじゃないか』
『……不老不死だぞ? 正体を隠してるんだぞ?』
顕広は湯呑をゆらゆらと揺らす。慶司が淹れたお茶に自分が写ると口元をゆるませた。
『私は慶司に勇気をもらって加賀に求婚した。共にいられるだけでもよかったけど結婚してよかった。天涯孤独の私に幸せをくれた……』
『……そうだな。ずっともじもじしていたお前を子どもたちと尻を叩いたものだな』
『そんなこともあったね。だから、次は慶司だよ。私たちはいつかいなくなる。君を愛し、君が愛する人と一緒になってほしいよ』
(所帯持って穏やかに暮らすのも、悪くないかもな……)
慶司は近頃、熱心にプロポーズをしてくる幼子の顔を思い浮かべた。
探す声に振り向いたのは茶髪を肩先まで伸ばした男。黒い小袖に青緑の袴をつけている。身分のある男だが簡素な衣服を好んでいた。
「ここだ、顕広」
低く威厳のある声を響かせたのは鉄櫓のふもと。大柄な男の周りで子どもたちがわらわらと走り回っていた。
「まーた子どもたちを集めて……」
無精ひげを生やした顕広はため息をつきつつ、駆け寄った子どもを抱え上げた。彼のひどい癖っ毛頭に小さな紅葉を伸ばしている。
ここは今橋城。後に吉田城と呼ばれる城だ。
城主は彼────牧野小白。齢28の彼はこれまでにも何ヵ所か城主をつとめてきた。
高貴な顔立ちはまさに国人にふさわしい。仕事ぶりや戦での采配は誰もをうならせる。
「皆とても賢い。だが、遊ぶ時間もないとな」
彼は本丸を指差した。子どもたちは一斉に駆け出し、壁面に指先をつけると一斉にこちらへ戻ってきた。
「アキせんせー!」
「おわっ。お前たち、また足が速くなったなぁ」
「たまには加賀と二人でゆっくりしたらどうだ。夫婦水入らずで」
「だっだから加賀は私の助手であってですねぇ……」
顕広は声が尻すぼみになり、人差し指を突き合わせた。
「あー。アキせんせーの顔まっかっかだ」
「いい加減腹くくれよ……」
途端に子どもたちが彼の顔を指差す。子どもと大人の狭間にいるような顔立ちは肩をすくめた。
「顕広よ、城内の男たちは美しき助手どのを狙っておるぞ? ぼやぼやしていたら独り身まっしぐらだ」
「……そっくりそのままお返ししますよ独身城主」
「私はよい。”魔王”の嫁なんて生贄のようだしな。嫁いでくる女子がかわいそうじゃないか」
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彼ら────竹島一族と小白が出会ったのは、今橋の地に築城の命を受けた頃だった。
小白はある村の穀物の神を祀る神社が元々は別の島からやってきたことを知る。
そこは弁財天をはじめとした神々が祀られる島。島の近くでは海産物が名物だと知った。
『アサリか。よいなぁ。いっそ参ろうか』
そこで出会ったのが竹島一族。幡豆の武士であった竹島顕広は、子どもたちを引き連れて海水浴を楽しんでいた。
まだ二十歳に満たない彼は戦で家族を亡くし、武士とは名ばかり。学問に秀でていたので、屋敷にやってくる子どもたちに文字の読み書きを教えていたという。
「じょっ、い……今橋の城主様ぁ!? 何故私なんかを……」
「捨て子を拾い育てるお前の志に感銘を受けた。私と共に今橋城へ来てくれないか? もちろん子どもたちも」
だだっ広い竹島の屋敷前に赤子が捨て置かれたのは数年前。時々様子を見に来る乳母の手を借りて育てることに。いつしか噂が村中に広がり、宛てのない小さな子どもが門の前に座り込むようになったそうだ。
「顕広様、あたしは賛成です。最近は子どもたちの数も増え、屋敷も手狭になって参りました……。子どもたちの生育環境としてよろしくありません」
顕広の元乳母の娘、加賀は乗り気だった。
「お殿様、子どもたちのために新たな屋敷を建ててくださるのですよね? それにお仕事まで……」
「もちろんとも。お前たちの力はこれからの時代に必要になる……。どうか私に貸してくれないか」
小白の言う”力”とは、子どもたちの脚力と学力。
この時代、敵国の情報は金と同じくらいかそれ以上の価値がある。特に不仲である戸田氏の動向は常に把握しておきたかった。
「ですが……子どもたちに間者の真似をさせるなど……」
「無論、命を危険にさらすことはしない。そのためには……逃げる、を念頭に置くようにしよう。だが、念のために護身術も心得てもらおう。達人がいるのだよ────」
そうしてあれよあれよという間に決まり、竹島一族の大引っ越しが決行された。
子どもたちはすぐに新しい環境に慣れ、のびのびと育った。
情報収集につとめるべく、中には畑仕事や商いの真似事をする者も現れ始めた。その地に留まって長く情報を得るためだ。
彼らに危険が無かったと言えば嘘になる。しかし、鍛錬の成果か全員が生きて今橋城へ帰還することが叶った。
「皆立派だ……。たった一年でこれほどになるとは」
「はい……。我々の自慢の子らです」
子どもたちや小白がせっついた効果か、顕広と加賀は晴れて夫婦となった。二人は子を成すことはなく、血のつながらない子どもたちをずっと可愛がっている。
しかし、平和な日常は一年も続かなかった。
今橋城が襲撃されたのだ。近頃は不穏な空気が漂っていたが、このような形で攻め入られるとは思いもしなかった。
『今川様の命のようです……!』
敵襲を報告した門番の顔はひどく困惑していた。傷一つなかった当世具足は土埃を被っている。
(戸田の奴め……。何を吹聴した)
困惑したのは小白も同じだった。今橋城の築城を命じたのは他でもない、今川氏親だ。
櫓からはけたたましい鐘の音が鳴り響き、城内の者を叩き起こす。
まだ陽も昇らない明け方前。近頃は太陽の目覚めが遅くなっていた。西の空では星が無邪気に瞬いている。
小白は寝間着のまま、家臣の妻子たちを竹島の屋敷へ連れて行った。
「亭主……父は必ず帰ってくる。それまで避難していてくれ」
城の門は外の男たちの咆哮で今にも破られそうだ。城内の家臣たちが門を押さえているが時間の問題だろう。
「竹島一族と地下通路で逃げろ」
「地下通路?」
「私と一部の家臣しか知らぬ。今橋のはずれに新たな屋敷を建てただろう? そこへつながっている」
竹島の屋敷では子どもたちが続々と畳の下へ消えていく。青年に成長した一族の子どもは松明を手にしている。妻子たちは彼らの案内で階段に足をかけた。
「小白様……」
「行け、顕広。加賀よ」
「私だけでも残ります!」
寝起きでいつも以上にひどい鳥の巣頭。顕広は癖っ毛の隙間から雫を落とすと声を震わせた。加賀も長い髪をまとめておらず、瞳は泣き濡れていた。
小白は困ったように笑うと二人の肩に手をかけた。
「お前たちを失うわけにはいかない。それに……お前たちの存在を知った者に利用されるだろう。しかし、どんな扱いを受けるか分からぬ……。これまで命を賭して力を貸してくれたこと、共に過ごしたことは忘れぬ。この命が尽きるまで……」
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『殿! 最後までお供しまする……!』
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『……生きて帰すと約束したからな』
襲撃の折、圧倒的に兵の数が足りなかった。小白は早々に家臣たちを地下通路へ逃がし、自分一人だけが残った。
しかし、腕っぷしには自信がない。竹島一族の子どもたちにまぎれて基礎から鍛錬していたほどだ。槍か刀か、と聞かれても目を背けたいところだ。
(どうする……)
鉄櫓に逃げ込むとしゃがみこんだ。肩は激しく上下し、喉から出て行く息で水分が枯れていく。刀も、刀を振り上げていた腕もひどく重い。
城は陥落したも同然だろう。日に照らされた本丸は中も外も荒らされていた。辺りには今川方の兵たちが小白のことを探し回っている。
「あとは大将の首だけ、ってか……」
真っ白だった寝間着は土埃で黒くなった。誰のものか分からない血は赤黒く変色している。
もはやこれまでだ。城よりも家臣の命をとった城主など、これからの時代に生き残れるわけがない。
震える手で柄を握ると刀身が鈍く光った。覚悟はできたか、と言いたげに。
「魂を奪うには惜しい方だ……」
視界の端に黒い塊が写った。低い声と共に。
声も上げられずに目を見開くと、手拭いを差し出された。
目の前で男がひざまづいていた。夜のような黒髪に黒い衣服。見たことのない意匠は小袖や袴よりも生地の量は少なさそうだ。その割には複雑な作りに見える。
その後ろには稲穂のような金色の髪と、澄んだ川のような水色の瞳を持つ少女。彼女は白い生地を体に巻き付けただけの簡易的な服のように見えた。
青葉のような緑の髪を払った男は盆を脇に挟んだ。
季節は春。桜の木が蕾を綻ばせ、辺りを薄桃色に染め始めた。
ここでの春は何度目だろう。彼は木々の隙間から差し込む陽光に目を細めた。
そばでは床机台でお茶をすする老人が一人。
「松平に仕えている酒井忠次が新たな城主とな」
「へぇ、そうかい。ようやく落ち着くのか」
ここは吉田城下の茶屋。町民の憩いの場だ。
かつての今橋城は名前を変え、何人もの城主を迎えた。
初代城主、牧野小白は今川に敗れ、家臣と共に行方知れずと言われている。
その後、戸田が城主をつとめるが小白の元家臣たちが奪還。再び今川に攻略されたり、新勢力によってこの地方を統一されたりもした。
「儂のご先祖様は初代城主に仕えておってな……。襲撃の際、逃がしてくださったのだと。おかげで儂は今こうしてうまい茶を飲めるよ……」
「はいはい。何回も聞いたよそれ」
「慶司よ、お前さんもご先祖様がいてこその命だ。早く嫁さんもらって長生きしろ」
「耳にタコができるほど聞いてるって……」
以前の名────小白から、慶司という名前に変えて六十年以上。彼は相変わらず二十代後半の姿で生きていた。
(この時代の平均寿命は超えたな)
夕方になり、店じまいをすると彼は目を閉じた。その瞬間に緑の髪が伸び、夜の闇を取り込んで紫へと変わっていく。最後に毛先を紙紐で留めて肩の横へ流した。
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『……誰だ?』
『私は黄泉への案内人。そしてこちらは時を司る女神。私たちは人間の魂を管理しています』
絶体絶命だったあの日、永遠の命と不思議な力を手に入れた。黒の男────死神と、白の女────時の女神に協力することと引き換えに。
『近頃は人間の数が増えてきて管理が大変でしてね……。才能のある人間を探していたのですよ』
『……死神、か』
手を差し出した男は底の見えない湖のような瞳を和らげた。
本来だったら自分はこの時に黄泉の国へ連れて行かれたのだろう。
『こんな城主でもできることがあるのか?』
小白は刀を床に置くと腕を投げ出した。
まだ生きたい、と願う心の叫びには抗えなかった。
『こんな、ではありませんよ。あなたは人の本質を見抜く力がある……。そして面倒見がいい。ぜひ我々の仲間となって力を貸してくれませんか?』
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他の客がはけると彼はここへ現れる。まるで暗闇から溶け出したような漆黒の装いで。
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江戸、明治、大正、昭和、平成。
時代が変わる度に茶屋から喫茶店、カフェへと名前が変わった。接客をする慶司の衣服も。
「慶司さんはどうしてお店を?」
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「なんでだろうなぁ……。人と触れ合う場にいたい、と思うようになった。竹島一族と一緒に過ごすのが楽しかったんだな」
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顕広も加賀も名前を残すことなど望んでいなかった。子どもたちの幸せを願っていた。最期の最期まで。
『慶司の幸せもだよ……』
『俺の?』
身分を捨ててからは顕広とは親友のような間柄に変わった。もちろん正体や経緯を明かした上で。彼らにだけは話しておきたかった。
『二十年経っても結婚してないじゃないか』
『……不老不死だぞ? 正体を隠してるんだぞ?』
顕広は湯呑をゆらゆらと揺らす。慶司が淹れたお茶に自分が写ると口元をゆるませた。
『私は慶司に勇気をもらって加賀に求婚した。共にいられるだけでもよかったけど結婚してよかった。天涯孤独の私に幸せをくれた……』
『……そうだな。ずっともじもじしていたお前を子どもたちと尻を叩いたものだな』
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