斎王君は亡命中

永瀬史緒

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2.5-2 斎王君の一日(夜編)

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「温泉、いいですねぇ。風呂の用意が簡単だし」
「そうだねぇ、いつでも好きな時に入れるしね」
 呑気な声で答えるルカの髪をざっくりと織った麻布で拭きながら、イスカは小首を傾げた。いかに入浴施設が整って、温泉からお湯が終日供給されていようと、好きな時間に入るような自由は斎王であってもほぼ無いのでは、というのが実際に丸一日付き添ってみたイスカの感想だった。
 斎王院の浴室は、斎王の自室の近傍にある斎王専用の浴室と、従者の使う少し小さめの浴室、そして従僕らが大勢で一度に使える、湯舟も洗い場も広く簡素な浴場と、用途によってしっかり使い分けられている。神殿勤めの従僕は、ほとんどがその施設で寝起きしているので、必然的に大所帯ほどに大きな建物となっている。
 イスカとユディが使う侍従用の浴室はやや小さめだが、休みの日には朝の神事の後にゆっくり湯につかる事も可能だと聞いて、ひそかにイスカはそれを楽しみにしていた。ちなみにその時間、斎王は何をして過ごすのかと聞いたところ、「刺繍の時間」とにっこり笑って斎王自身が答えてくれたので、斎王本人も趣味を満喫できる時間を楽しみにしているらしかった。平日は、ユディと交代でパパッと身体を洗うだけだが、斎王付きの侍従であるため身だしなみにも気を使わなければならない、とのお達しだった。
「御身様、髪を梳きますのでお静かに」
 椅子に腰かけたルカは、寝巻の上にしっかりと丈の長い毛織の上着を着こんでいるが、一月だというのに夜になってもその程度の服装で過ごせるのだから、アスカンタ王国の北端に位置する星都は比較的暖かいといえた。これが、金竜山脈を挟んで北側の隣国、ポーラスタともなれば冬は雪に閉ざされ、真昼であっても氷点下になるのだと聞いた事があった。
「……御身様、この後はすぐに就寝されますか?」
 斎王の自室は、控えの間、居間、寝室の続き間で、浴室は居間とつながっている。イスカがルカの髪を梳いているのは広い居間だから、奥の寝室でバタバタと寝具を調えているのはユディだろう。入り口には終日衛士が立つとはいえ、日中に部屋を無人にしているからこそ、就寝前の点検は念入りにするべきなのだと主張していたが、終日での見習い初日のイスカはまだそこまでは信用されてはいないらしかった。
「そうだねぇ、今日借りて来た本を少し読もうかな。ユディはきっと、すぐに寝ろと五月蠅いだろうけれども」
 おとなしく髪を梳かれつつ、ルカがぼやく。さきほど二十時を知らせる鐘が響いたから、神殿に上がる前ならばまだまだ宵の口、というところだが、夜明け前に起き出す神官からしてみれば、十分に夜更けなのだろう。
「……このくらいでよろしいですか」
 麻布で拭いた後に、油に浸しておいた櫛で髪を梳いたからか、白銀の髪は薄い青の光をまとって輝いてみえた。腰まである癖のないまっすぐの髪は、竜人らしく滑らかな手触りだ。ちなみに、竜人の毛は髪と眉毛と睫毛だけで、ひげもなければ体毛もない。本性が竜なのだから、本性の姿に沿うのならば全くの無毛なのだろうが、髪やら顔周りの毛は無いと生活に支障をきたすので、化生の姿に備わっているのだとか。狗族や猫族は、ちゃんと化生の姿に人族と同じ体毛が生えているとの事だった(だが髭だけは別扱いらしい)。髭は、人のように剃ってしまうと本性の姿に支障があるので、最初から生えない、という選択をするらしい。ごく稀に、髭のある狗族や大猫族もいるが、あれは意図して生えさせているのだと聞いた事があった。
 したがって、毎朝髭剃りをするのは、人族の男性だけだった。イスカは面倒臭そうだな、と思いつつも髭を生やした自分を想像してみて、少しだけ羨ましい気がしなくもない。
「うん、十分だよ。ありがとう」
「明日の朝は……」
「ユディが結ってくれるから、見学して覚えておくれ」
 鏡越しににっこりと笑った斎王は、まるで神話に伝えられる女神のごとく、清らかに麗しく、早春に咲く花を思わせる。白皙の頬は、今は暖められてほんのりと淡い薔薇色に染まり、櫛けずったばかりの銀髪は輝くばかり。
 とても夕飯に薄パン7枚に具のどっさり入ったキノコのシチューを3杯おかわりした人には見えない。食後の焼き菓子に果物も完食して、まだ少し物足りなさそうに見えたのは、イスカの見間違いではないだろう。
「……御身様のお髪、俺はあんなに綺麗には結えないかもしれません」
 立ち上がった斎王が居間に設えられた喫茶のための一角へ落ち着くのを待ってから、イスカは鏡台の周りを手早く掃除する。落ちた髪を集めて売る馬鹿者や、効果はほぼ無いだろうとはいえ呪術に使う不届き者が出た事もあり、斎王の身の周りの世話には神経を使わなければならない。爪と髪は、集めた分を即座に焼却し、灰は庭に埋める、と指導された時には、思わず(まるで疫病の患者にするような処置だ)と、不謹慎にも思ってしまった。
 鏡台の端に据えた小さな火鉢に、抹香と一緒に抜けた髪をくべてから、イスカは小さく溜息を落とす。
「……本当に、一体今まで何があったんだ」
 ぼそりと呟いてから、慌てて首を振った。
 知りたいような、だが全く知りたくないような。
 アスカンタ宮廷の随一の華、と呼ばれる母親と瓜二つに生まれてしまったせいで、斎王が被った災厄(主に人災)は、きっとイスカの想像など軽々と越えて恐ろしいものに違いなかった。
「あの結い方は、神事の間中ずっと信者に背を向けているから、後ろ姿であっても信者の目を楽しませられるように、という事らしい。……まあ、神殿では大神官しか結わないけど、宮廷では大神官が出る頃合いには必ず流行る髪型なのだそうだよ。……つまり、今回はざっと二百年ぶりの流行かな」
 あっけらかんと笑ったルカは、自身の手で手早く茶を淹れる。寝る前だからか、漂う香りはさわやかな花茶で、湯気に乗って漂う匂いは柔らかい。
 斎王の座る喫茶用の一角は、白亜の神殿にふさわしい白壁に漆喰で模様を浮彫にし、床は他よりも一段高く設えてある。分厚い絨毯を要所に敷いた部屋の床は、深い飴色に磨き抜かれた板張りだが、歩いてもたわみを感じさせないくらいに厚みがあるようだ。天井は高く、灯りがしっかり届かないので判別がつきにくいが、手の込んだ寄木細工が施されている。居間と広い開口を通して通じている寝室は、奥の壁面に寄せて置かれた寝台の上に、蔦の絡まるように彫刻された黒檀の四柱に天蓋が支えられ、幾重にもかけられた白紗が寝台をたっぷりと包むように覆っている。天蓋の、天井に面している部分は、どうやら紗ではなく蔦模様の透かし彫りが周囲を囲うだけで寝台から直接天井が見える造りのようだった。
 しばし、ぼんやりと寝室を眺めていたイスカに向かって、絨毯の上でくつろいだ斎王が茶碗を乗せた盆を軽く押し出してから、片手を振ってみせた。
「ほら、イスカもお飲み。……少し、付き合っておくれな」
 床に敷いた分厚い絨毯の上、大ぶりのクッションに埋もれるようにして座る斎王が淡く微笑む。
「図書室での騒動は、少し驚いたろう?」
「……ええ、まあ」
 一段高くなった床の上、絨毯の端に腰を落ち着けてから差し出された茶器を受け取る。絨毯に腰を下ろしてみて初めて、この部屋の床が暖められている事に気づいた。金竜山脈の南側と北側は、ひとしく温泉地であって特に北側は湯治のための街が栄えているようだ。南側は、神殿とその荘園が広がっているので、温泉は医療施設としてもっぱら谷の施療院が利用 している。
「……あいいう輩、多いんですか……その」
「私が子供の頃は、珍しい事ではなかったな。……だから、オリハン家から元筆頭侍女騎士のノルチアが侍女として派遣された。ノルチアはソーヤの乳母で、そういうのに慣れていたから」
「ソーヤ…姫、ですか」
「うん。世間で言うところの、父なし子の私、斎王ルカを産んだ『宮廷の華』ソーヤ・オリハン」
 言葉を切った斎王が、澄ました顔のままで花茶を喫する。イスカもつられて茶器に口を付けたが、匂いはともかく味はまるで分からなかった。
「御身様は……その」
 一瞬ためらってから、イスカはすぐ傍に座る斎王へと向き直った。軽く小首を傾げたルカは、十七という年齢に似合わず老成した雰囲気をまとっている。目線だけで先を話すよう促されて、イスカは小さく唾を飲み込む。
「その、……お父君がどなたかご存じなのですか」
 意を決して口にしたものの、語尾が不明瞭に口の中で消える。小さく苦笑したルカが、傍らの茶器を引き寄せて、火鉢の上から鉄瓶を持ち上げた。
「知りたいと、私もずっと思っている」
 丸く大きな急須に湯を注ぎ、慎重に蓋をしてからルカは小さく溜息を落とす。
「けれども、それが新たな騒動の元になるのならば、知らずとも良いとも思っている」
「……すみません、俺、軽率で……」
「だが、ちらちらと含みのある目で見られるのも鬱陶しいので、早々に聞いてくれてよかった」
「はあ」
 話がどこへ着地するのかを見失って、イスカは思わず気の抜けた返事をする。自分の茶杯になみなみと注いでから、ルカはイスカへ向かって小首を傾げてみせた。
「私の従者は、いろいろと面倒臭い事も多い。それでも、イスカがユディを補佐してくれればありがたい、と思っているよ」
 一端言葉を切ってから、斎王は優雅な仕草で茶を喫する。
「私と近い歳の侍従がいてくれるのなら、とても心強い。特に、イスカは翼竜人だし」
 澄ました顔をして囁いた斎王が、片目を瞑ってみせる。
イスカは小さく苦笑して首を振ってから、ふと間近に座る斎王の姿の、まるで彫刻のような端正な居住まいに見惚れて、ひっそりと息を吐いた。
「……ここにいて私に付いていれば、イスカもいろいろと知る事になるだろう。ところで明日の午後は、私は斎王院で神事があるので、そなたは学院に使いに立っておくれ」
「あ、はい。……確かこちらにシェートラ師兄がお見えになると」
「うん、ちょっと面倒な神事でね。私はあまり好かないのだけど」
「そうですか。お使い、承りました」
 朝からずっと傍に控えていたが、この斎王が自身の好みを云々するのは初めてで、それが新鮮でもあり、微妙に引っかかるところでもある。
「そろそろユディが湯を使って戻ってくる。交代でそなたも使っておいで」
 意識的にか、口調を明るくして斎王が告げる。茶杯に残った花茶を一息に飲んで、イスカはわずかにうなだれた。
「なんかすみません、主人に気を使わせてしまって」
「見習いなのだから、気にしなくてよい」
 おおぶりの急須に残る茶を自分の茶杯に注いだ斎王が、イスカの背後へと視線を移す。
「ほら、ユディが戻った。……行っておいで。ここの温泉は短時間でもよく温まるから」
「……はい!」
 茶器を持ったまま立ち上がると、背後から歩み寄ったユディがイスカの手から空になった茶器を受け取る。先ほど斎王の寝室で寝具を調えていた時と全く同じ黒の騎士服のままではあるが、短い黒の巻髪が湿気を含んで、わずかに緑色を帯びて見える。この短時間での入浴で、しっかり髪まで洗って来たのか、とイスカは奇妙な感心をしてみる。
「侍従の浴室の場所は判るな? 御身様の寝支度は整えてあるので、ゆっくり入ってこい」
「……お願いします」
 すれ違いざまに短く会話して、イスカは斎王へ深々と会釈してから居間を辞す。背後で茶器を繰るかすかな音がして、どうやら斎王は三杯目の茶を用意し始めているらしかった。



「ユディもお茶を飲む? もう出がらしだけど」
「それでは、一杯いただきましょうか」
「おや、珍しい」
 イスカと同じように絨毯の端へ腰かけた侍従騎士へと、ルカは微笑みかける。彼一人がルカの護衛だった、つい先日までは茶を勧めても固辞されるばかりでついぞ誘いに乗ってくれた事はなかったのだが。
「……いい傾向だね」
 『谷』の奥深く、一般の信者や業者はまず出入りしない斎王院であっても、ルカの傍らに終日控えるユディの仕事は、警護されるルカ本人から見ても過酷だった。新しく侍従見習いとしてイスカが加わってくれて、少しばかりユディの肩から荷が下りたのかもしれない。
「……さて、御身様は彼とどんな話をされたのでしょうか」
「うん、まあ皆が一番先に知りたい事を」
「大胆な事で。……とはいえ正直でもあります」
「うん……そうかもね」
 ルカが曖昧に微笑むのはいつもの事であるが、語尾を濁した事にユディは何か気が付いたらしい。茶器を受け取っても、薄い色の茶を見るでもなくルカの顔を真っ直ぐに見返してくる。ルカはひとつ溜息を落としてから、間近に彼を見る侍従騎士の金色の瞳を覗き込んだ。
「書庫内で物音がして、開錠するまでほんの数十秒程度。……素人の、十六歳の少年にできるだろうか」
「……地方領主の三男だか五男だかの少年には、まず無理でしょうね」
「出自が嘘なのか、それとも申告された年齢が虚偽なのか」
 言いつつ、ルカはどことなく上の空で視線を宙へ泳がせる。うっかり就寝前に図書室での騒動を思い出してしまって、げんなりしてしまう。
「或いは、そのどちらも、の可能性も。ところで、オズ局長から、刺客の襲撃の可能性についての連絡が届いております。……今晩辺りから要警戒、と」
 涼しい顔で茶器を傾けたユディが、飲み下した後で眉を寄せる。
「ほぼ、色の着いた湯じゃないですか、これ」
「寝る前だからね」
 ふんわりと微笑んでみせるが、いささか胡散臭い、と自ら思わざるを得ない。
「刺客か。……今回は少し間が開いたのではないかな」
 空とぼけてみれば、ユディが思い切り顔を顰めた。
「御身様、刺客は等間隔で来るものではありません」
「それもそうか。……ところで、イスカの事はオズ局長に再調査してもらうべきかもしれない」
「行動に裏はないようですが」
 さりげなくイスカをかばう言動に、ルカはおや、と眉を上げた。
「珍しいね、ユディが庇うとは。仕事もできるようだけど」
「それに、彼は同族のシェートラ師兄が身元保証人ですし」
「……あ、それで思い出した。明日、シェートラ師兄が来る時間、イスカは学院に使いに出す」
 口調に苦々しさが出ないように、さりげなくルカは気を配る。シェートラの指導は、ルカにとってはただの神事の一環だが、外の世界から来たばかりのイスカには、そう思えないだろう事は理解できた。ルカをどこか痛ましげに、そして微量の憧れを含む視線で見てくれる侍従見習いを失望させ、あるいは軽蔑されたくなくて手を回す己の狭量さに、ルカ自身へのかすかな失望と、大神官という構造が持つ欺瞞を感じる。
「かしこまりました」
 軽く頭を下げてから立ち上がったユディを、ルカは目で追いかけた。
「それと、……オズに、再調査を頼んでおくれ」
「承知しました」
 オズ神官、とルカは小さく囁く。星教の大本山である「谷」に働く全ての神官達の畏怖と忌避をないまぜにされた目でみられる監察局、その局長を務めるのがオズ中位神官だった。ルカに対する彼は、いつでも暖かく柔らかい眼差しを向けて、ルカの成長を喜び、親身になって心配してくれるやさしい人だった。ユディに言わせると、オズ神官はいわゆる「斎王過激派」であって、斎王に徒成す者に対してはひとかけらの慈悲も無用と公言しており、そういった意味では長老院と対立する事も少なくないらしい。
 何事も、ことなかれ主義に傾きがちな長老院を、手緩いと真っ向から非難できる数少ない立場にある、それがオズ局長だった。もしもルカに父親がいたならば、オズ局長のような人だったら良かったのに、と思わせる人柄は、だが実は苛烈なのだとルカも知ってはいる。
 オズの実際の年齢は四十を超えているとの本人の申告だが、穏やかで優しい眼差しのせいか実際よりもやや若く見える。本人は事ある毎に「私は御身様の親でもおかしくない年齢ですし」と言うものの、並んでみれば少しばかり年の離れた兄弟か、若い叔父かという程度に見えた。
 神官は、たいてい髪を長く伸ばすものだが、オズは緩く波打つ灰茶の髪を肩口で切りそろえていた。髪の手入れが面倒くさい、その分の時間を職務に回したい、と公言していて、いささか仕事中毒気味であるらしい。
 北の隣国ポーラスタの地方貴族の出身という、整ってはいるがやや個性にかけた顔立ちは、柔和に見えてその実眼光は鋭い。穏やかな笑みを浮かべたまま、ビシビシと長老院に切り込んでいく姿を、ルカも会議で何度か目撃している。
「オズの情報は、いつも間違いがないからね」
 ぐっと伸びをして、ルカはだらしなくクッションにもたれかかった。
「どうせまた、天井裏から忍び込む、いつもの経路だろう」
「ええ。斎王院の廊下からでは、入り口の衛士を突破できませんでしょうから」
「まあ、順当かな」
 パタンと仰向けに絨毯の上に寝転がって、ルカは寄木細工の天井を眺める。並び立つ神殿と同じ造りの斎王院は、林立する太い柱は石、壁は石材に漆喰を重ね、床は石材の上に分厚い板を組み合わせて敷き詰め、天井と屋根と扉は木材で出来ている。そして窓にはほとんどにモザイク模様の玻璃が入っていている。ユディに、これは、住宅としては最上の設えなのだと聞いたが、物心ついてからずっと神殿で寝起きするルカには今一つピンとこなかった。土壁に板戸と障子、それが一般的な庶民の家の窓の造りであって、玻璃を窓に使うのは貴族と王族、そして神殿だけなのだそうだ。
 夜にはしっかりと鎧戸を閉めて、窓からの侵入はまず無理だから、忍び込むとしたら使用人の使う通用門からか、さもなくば天井裏の二択になる。
「……通用門、出入りの確認は厳しいから」
 くすり、と小さく笑いを漏らしたルカが、美貌に見合わない悪い表情をしてみせる。柔らかく笑う代わりにそういった表情をすると、「氷の華」と言われるのだが、ルカにしてみれば心情としてはどちらの表情の時でもそう違いはなかった。
「御身様、お考えが表情に出ているようですが」
「見逃しておくれ。ユディしか見ていないのだから」
 くすくす笑いを零してから、ふとルカが真顔になる。
「もしも、私の部屋の上まで来れたのなら、少し驚かせてみるのもいいかもしれない」
「……御身様」
 茶器を持ったまま、仰向けに寝転がるルカの顔を覗き込むユディが、嫌そうに眉を顰める。
「いいじゃないか。……昼間の事で、私だって少しだけ腹を立てているんだ」
「それは……判りますが」
「どいつもこいつも、私が大人しくやられたままになると思っているのが、腹の立つ」
「ごもっともです」
 一応は同意してくれるものの、冷めた視線を感じてルカは小さく咳払いをする。
「……というわけで、少しばかり協力しておくれ」
「承知しました」
 いささか棒読みの同意ではあったが、ルカは望んだ返答を得られて、今日一番の微笑みを唇へ乗せた。



「……イスカ、ちょっと」
 従僕用の浴室でしっかり温まったイスカを、ユディが手招きで呼び寄せた。斎王の寝室は既に灯りをかなり絞って、天蓋から垂れる白紗の向うに横たわる斎王の姿はあえかにしか見えない。仰向けに寝て、上掛けから腕を出して両手を組むようにして、斎王は天井を睨んでいるようだった。
「御身様は、まだ眠たくないのでしょうか」
「……いつもなら、そろそろご就寝のお時間だが。今日は昼に問題があったゆえ、お気持ちが落ち着かれないのやもしれぬ」
 ユディの言葉に、ああ、と納得しかけたイスカに、ユディが片手をそっと上げて、天井の一角を視線で示した。
「この院の、天井についての説明を覚えているか」
「ええと……、梁の大きさと保守の関係で仕切りが少ないが、梁の上を歩くと軋んで侵入者が発覚し易く……」
「よろしい。……今晩か、明日に侵入者があるかもしれない」
「……は?」
 思わず間の抜けた返事をするのに、ユディがひっそりと唇に人差し指を当ててみせる。
「オズ局長からの情報だ。そなたはこの場所から動かず、気配を消しているように」
 有無を言わせずに言い置いて、ユディは斎王の寝る寝台へと進みよった。イスカはただ、ひっそりと息をひそめて、寝室全体が見渡せる壁際から一部始終を眺めるしかない。うす闇に沈んだ寝室内は、イスカが覚えている限りでは、居間から入って奥の壁際に設えられた大きな寝台、枕元に近い場所に小さい袖机と椅子、足元側に透かし彫りの窓、窓の向うには納戸部屋がある。文机はイスカの佇む壁のすぐ近くにあり、その奥の飾り棚には茶器や日常に使う細々とした品がまるで美術品のように収められて、壁面を飾っている。
「御身様」
「うん、……そろそろかな」
 寝室の灯りを絞ってから四半時程、頷いたユディがするりと騎士服を脱ぎ始めた。
「……!?」
 予想外の行動にびっくりして声も出せずに見守るしかないイスカを、まるで存在しないかのように無視したユディは、脱ぎ終えた服を寝台の傍らの椅子へ放り、天蓋から垂れる薄い紗の幕を片手でめくり上げた。
「御身様、失礼します」
 全裸だというのに慇懃に礼を取るのに、ルカが寝台に仰向けに寝たままで両手を広げる。
「おいで」
 斎王が掲げた腕だけが白紗の薄幕の向うであっても白く見えた。無遠慮に上掛けをめくって、横たわる斎王の上、その腕の間にうずくまるようにして、ユディが身体を伏せる。片手で斎王の頭を抱くように、長い銀髪を左手で巻き取って引き寄せる。斎王が片腕を持ち上げて、自分の頭を囲うように投げ出した。
 は、とイスカは小さく呻く。
これはまるで、同衾している最中のような姿勢ではないか。
「……ふふ」
 危うい姿勢のまま、斎王が小さく笑いを漏らす。
 覆い被さるユディは、どうやら手繰り寄せた髪の中に隠した小さな手鏡で、天井の様子を伺っているらしい。斎王の夜着の、広げた襟ぐりの中に入れた手には、おそらく暗器を隠しているのか。
 浅黒い肌の侍従騎士は、灯りを絞った室内では闇に馴染んで見分けにくい。薄い麻の夜着に身を包んだ斎王は、白紗の向うに髪の一筋までもが白く浮いて、横たわる身の上に薄闇が凝っているようにも見えた。
「…………っ」
 きし、と小さな音が天井の端から聞こえて、イスカは思わず息を詰める。夜になってから強くなった風の音に紛れるように、ひそやかに、慎重に、ひとつの音が薄闇に溶けて消えてから、思い出したように次の音が小さく鳴る。
 きし、きし、きし、と。
 小さな違和感が、とうとう天蓋の上に到達した時、唐突に斎王が呼吸を止めた。夜着の裾を捲って片足を持ち上げ、身体の上に覆いかぶさる裸の侍従騎士の腰へ沿わせる。呼吸を止めて闇に沈んだ天井を睨む斎王が、かすかに震えるのが、離れて立っているイスカにも視認できた。
「……御身様」
「……ッ、はっ」
 無音のまま、天蓋に囲われた天井の一部に闇が口を開く。ぱっくりと口を開けた闇を遮るように、黒衣の刺客がそろりと室内の様子を探るのが判った。
 その直下には、白皙の肌を上気させ銀の髪と息を乱して、覆い被さる男に縋りつく斎王の姿。
 ほんの一瞬、刺客の動きが止まる。その瞬間を、真下という絶好の位置に控えた侍従騎士は逃さなかった。振り向きざま、手にした暗器をほぼ垂直に投げ上げる。鈍い音とともに天井から消えた影を追って、漆黒の塊が跳躍する。
「え、あの」
「あっははははっ!」
 うろたえるイスカの声をかき消すように、寝台の上に寝転んだままの斎王が大きく笑う。両腕で胸を抱え、夜着の裾を乱して敷布を蹴る。ひとしきり狂乱ともとれる笑い声をあげてから、むくりと上体を起こした。
「あー笑った。今の刺客、すんごい顔だった」
「あの、御身様?」
「ユディは本性の姿で刺客を捉えに行ったよ。黒豹の姿だと、ここの天井くらいの高さなら、簡単に跳べるのだって。大猫族ってすごいよねぇ」
「はあ、なるほど」
「捕まえたら、待機している観察局員に渡して戻ってくるから、すぐ……だと思う」
「左様で」
 イスカは気を取り直して、乱れた斎王の寝具を調えるために寝台へと寄った。まくれあがった夜着の裾を調えて、蹴飛ばした毛布をかける。大人しく横になった斎王は、開いたままの天井板へ視線を向けている。
「あの天井、塞ぐ度に刺客が釘を抜くから、もう面倒だからって留めてないんだそうだ」
「面倒、ですか」
 そう、と小首を傾げてから、ルカは枕元に控える侍従見習いへと視線を移した。
「それでも、この部屋の天井裏にまで辿りつける刺客は、一流らしい。辿り着けずに排除される刺客は、もっと多いと聞いた」
「左様で……。というか、雑談の話題には重くありませんか」
 胸元まで上掛けを引き上げてから、イスカは眉間にしわを寄せた。斎王暗殺を企てるのがどの辺りなのか、イスカには分からないが、どのみち権力争いである事だけは間違いがない。
「これが私の日常だよ、イスカ」
 ひどく落ち着いた声音で、ルカが囁いた。思わず動きを止めたイスカを、熱のない視線で見上げる。
「……しかも、これが全てでもない。イスカは、こんな私に仕えてくれるだろうか」
「御身様」
 咄嗟に返事を決めかねて、イスカは息を呑んだ。たった十七にしかならない斎王の、あきらめを含んだ視線はひどく疲れてみえて、イスカは衝動的に抱きしめようとしてしまい、危うく思いとどまる。
「御身様、今日はもうお休みに」
「……うん、でもユディが戻るまでは起きているよ」
 刺客の襲撃が呆気なく終わったせいか、ルカが落ち着いた声を出した。白紗の幕をめくって枕元の支柱へ束ねれば、気の抜けた顔をしたルカが少し眠そうな眼差しでイスカを見上げた。
「お茶を淹れましょうか」
「そうだね」
 火鉢の炭を掻き熾して、茶を淹れる用意をする。その間、斎王はおとなしく寝具の間に収まって、イスカの横顔を眺めている。
「大神官の就任式は来年だからか、このところ刺客が多くて困る」
「……」
 花茶のさわやかで甘い匂いが、斎王の殺伐とした台詞に全くそぐわない。答えに窮したイスカが茶杯を乗せた盆を持って近づくと、ルカが小さくあくびをした。
 その気怠げな仕草までもが、愛らしく美しく、視線を惹きつけられてイスカは盆を持ったまま歩みを止める。努めて気にしないそぶりで枕元の袖机に茶器を置けば、寝台の上を身軽に転がって移動した斎王が小さく溜息を零した。
「イスカは、本性の姿に戻れるのだろう? 同じ竜人でも、翼竜人は羨ましいな。私も本性の姿になれればよかったのに」
「御身様は……、オリハン大公家の方々は、皆さま生粋の竜人ですから。捨ててしまうほどに大きな姿が邪魔だったのですから、たとえ本性になれたとしても、大猫族や狗族の人のように便利に使う事はできなかったでしょうね」
「……そうだろうね。イスカは、空を飛んだ事はある?」
 茶器を手に取って、ルカは柔らかい花の匂いをゆっくりと吸い込んだ。
「ええ。星都へ来るのに、半分くらいは自分で飛んできましたから。……俺の故郷は、オリハン領の中でも辺境ですし」
「ユディも、すっごい田舎から来たって言っていた。……私の侍従は、二人とも遠くから来たのだね」
 寝台の上に上体を起こして花茶を啜る斎王は、どこか遠くを見るような視線をする。ルカは、オリハン領どころか、王都にあるオリハン大公家の館にすら行った事がないと聞く。実の祖父である、オリハン大公その人にすら、公式行事を通してしか会った事がない、とも。
「御身様は翼竜には乗れますか? 機会がありましたら、俺が背に乗せて飛びますよ」
「それは楽しみだな。私も自分の翼竜を持っているけど、あまり乗る機会もなくて」
 翼竜人は本性に転じれば自ら飛び、人を乗せる事もできる。人の形に転じない翼竜は、翼竜人の本性の姿よりも大きく強く、より多くの荷や人を乗せて飛ぶ事が可能だが、意思の疎通はやや難しい。翼竜人や竜人は竜の管理や調教に長け、竜騎士団に所属する者も多い。
 かたり、と天井付近で小さな音がして、先ほど刺客が顔を出しその後黒豹に転じたユディが姿を消した穴の近くに人の気配が立った。
 息を詰めたイスカを片手で制して、ルカが天井へと笑いかけた。
「ご苦労様。……今夜はもう襲撃はないと思っていい?」
「監察局の手の者が、一晩この場所に詰めますから」
 ひょいと顔を出した黒豹――ユディが渋い声で告げる。そのまま寝台へ音もなく降り立って、寝台の縁側に座る斎王へ頭をこすりつけた。ピンと張った太い尾の先が揺れて、斎王が掌で背筋を撫でれば、しなやかな黒い体躯がすぐ傍をすり抜けた。
「御身様、そろそろおやすみに」
「うん……、ユディも一緒に?」
「……ええ、襲撃の後ですから。今晩は特別に」
「特別に!」
 ぱぁ、と目に見えて嬉しそうな顔をして、斎王がいそいそと寝台の奥へと移動する。上掛けを跳ね除けて、敷布をポンポンと掌で叩いた。
「さあ、寝よう。明日も早いしね」
「……現金ですね、御身様。イスカも、今晩は下がって休みなさい。こういう事も、珍しくないのが斎王院と心得てください」
「……はあ」
 白紗の幕を下ろして、深々と主に向かって礼をすれば、寝台の上からはゴロゴロと大きな喉の音が聞こえてくる。どうやら、渋々の態で沿い寝をした侍従騎士は、斎王の掌で撫でられてご満悦らしかった。
 つい先程、刺客の度肝を抜いた艶めいた姿とはほど遠く、大きな黒豹を抱えて横たわる斎王はまだ若く子どもじみて、イスカはどこか釈然としない気持ちに陥る。
「……明日、夜明け前に起こしに参ります」
「よろしくね……おやすみ」
 くぁ、と小さな欠伸とともに、斎王の囁きが闇に溶ける。イスカは、納戸部屋の奥の扉から自分に割り当てられた侍従の控え室へと歩きつつ、いささか珍奇な主従の、奇妙だかどこか切実な関係を思ってひっそりと溜息を落とした。
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