斎王君は亡命中

永瀬史緒

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6.儀式

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「……セラヤ様……いくつか、お答えいただきたい事がございます」
 勤めて平静を装えば、生気の無い銀青の視線がようやく正面へと向けられた。
「……そなたが介添えか。おや、他に人はいないのかえ。また、無謀な事を……」
 ルカに憑いたセラヤは軽く首を持ち上げ、室内の様子を伺う。そもそも、この場が神殿でないと最初から気づいていたようなので、ある程度の共通認識はあるのかもしれない。
「この身の……斎王の名はルカか。ルカの持っている知識は私にも判る。……ふむ、呼び出される方は、こういう塩梅なのだな」
 セラヤも学徒神官の御多分にもれず、研究者気質が強いらしい。自分が神降ろしをしていた時には分からなかった、降ろされる側の感覚が新鮮らしく、少々はしゃぎ気味のようだ。
「セラヤ様、どうか。……谷の大神殿が襲撃に遭い、私と斎王君の二人で逃げているのです……が」
「夏至までは半年、か」
「……はい」
 ふむ、と小首を傾げた姿は、十八歳という若い姿であるにもかかわらず、年を経て皴を刻んだ老人のように枯れてぎこちなかった。乱れた髪が頬にかかるのを、ユディが手を伸ばして払うと、好々爺めいた笑みを浮かべる。
「ほお、今代の侍従は気が利くな。私の時は、どうにもそりがあわなんで苦労したものよ」
 ぶつぶつと呟いてから、セラヤが小さく頷いた。
「……私も就任前に同じように逃げておったゆえ、最善の方法は判る。王軍と他国の干渉を避けるためには、自らが力を持つしかない」
 ふ、と溜息をついて真正面からユディを見上げる。
「大神官就任の儀式に必要な、四つの神器を集めて、強引にでも儀式を済ませてしまう他はない。そうすればもう、この地上で大神官の意向を阻む事ができる者などおらぬ」
「四つの神器、ですか」
「……そう」
 セラヤが降りて以来、緊張して身を縮めたままのユディへと、柔らかく微笑みかける。そうすると、大神官としての長い経験が醸すのか、慈悲深く神々しいばかりの印象となる。
「案ずるな、詳しい知識は斎王が持っておる。……だが、まだ我と話をしたいのならば、いま少し努力せよ。ルカの意識が戻りかけておる」
「……っあ」
 神降ろしたルカの変容と、セラヤの落ち着いた物腰に引きずられて、介添え人の勤めを忘れかけていたユディは、慌てて腰を進める。ぐちぐちと淫猥な音が室内に響いて、場違いではないはずだがちぐはぐな取り合わせに、無意識に身を竦めた。
「……私には身体の感覚はほぼない。腕を多少動かす程度ならば可能ではあるが。……どうも話をするための物を借りるので、精一杯のようだ」
「……は、い」
 真正面に見据えたまま交接を続けるユディを見上げて、セラヤが困ったように微笑んだ。
「何故神殿が対面での介添えを避けるのか分かったか。……若い侍従よ」
「……はい」
「よしよし、素直さは美点だ」
 にっこりと花の咲くように微笑んで、その時だけはルカとの差異も感じられず、ユディはひっそりと溜息を吐く。言っている台詞は全く違うが、それでも聖職者らしい言葉選びに、なにがしかの共通点はある。
「他に聞く事は?」
 ぐぶ、と鈍い音が組み敷いた身体の奥で鳴って、ユディは力なく横たわる身体が離れないようにしっかりと抱き寄せた。こめかみに流れる汗を、ぐったりと寝たままのセラヤが片手を上げてぬぐってくれる。
「……セラヤ様は、襲撃から大神官就任まで、どれくらいお時間がかかりましたか」
「そうだな」
 いかに星教の大神殿が度重なる襲撃を躱して存続してきたとはいえ、正史に事細かく王家や権力組織との反目の内容を書き残すわけにもいかず、襲撃があった事、後々大神官が仲立ちし、和解へ至った事しか記録にはない。かかった時間によっては、ルカもユディも、取り組み方を工夫せねばならないかもしれない。
「……私は3年ほどかかったろうか」
「3年、ですか」
 思わず繰り返したユディに頷いて見せてから、セラヤが少し遠い目をする。
「さっき言ったように、私は侍従と気が合わなくてな。……何かする度に反目して、しなくてよい苦労を背負い込んだものよ。あれがなければ、もう少し早くなったろうに、と思ったら、少しばかり気が遠くなった」
 はあ、と大げさに溜息をついてから、カラカラと屈託なく笑う。受け答えに迷ったユディに、間近でセラヤが大きく破顔した。
「だが、そなたが侍従であれば、我の時よりは早く済むだろうよ」
「……はい」
 励ますように微笑まれて、ユディはわずかに頬を赤らめる。ルカの容貌のままだというのに、まるで年の離れた兄か、親族の頼れる年長者のような受け答えに、安心感を見出してしまう。
「……そろそろいとまの時間だ。あまり長くは斎王の身体を損なう。神降ろしは何度目だ?」
「十年以上前の偶発的なものを除けば、これが初めてです」
「初めてか……そうか。でなければ、まず対面ではするまい」
 瞼を伏せ、苦々しげにつぶやいたセラヤが、微苦笑を唇の端に乗せる。
「どうか、この後ルカが戻っても、奇異な物を見る目で見てくれるな。……身近な人のそういう態度に、存外に傷つくものだ」
「……肝に銘じます」
「頼むぞ」
 真上から顔を覗き込むユディへ、一瞬だけ視線を合わせたセラヤが瞼を閉じた。ふう、と小さく息を吐いて、そのまま動かなくなる。
「……ルカ」
 瞼を閉じ、敷布にぐったりと身体を投げ出したルカはまるで、息を引き取ってしまったようにも見える。だというのに、ユディはその空虚な身体を抱いている。花街で妓楼に護衛として在籍した一年で、男女や同性間の房事は飽きるほどに見てきたが、このような事態は全くもって埒外の事。
使う手段が同じとはいえ、大神官の神降ろしは、閨事とはまるで異なる。
「ルカ様、……目を覚まして」
 何度かその耳元で囁いてから、ふと、自分が身体を離さないかぎりルカが意識を戻す事はないのだと気が付いて、ユディは慌てて寝台から降りた。
 まず自分の身なりを整え、腰の下に敷いたままだった枕を取り出して頭に当ててやり、衿を引き裂いた夜着の裾を降ろし、襟元を調えてから毛布で覆う。
 最後に敷布に擦られて乱れた銀髪を手櫛で整えてやってから、ユディは横たわるルカの枕元に屈み込んで、前後不覚のままの主人の名を改めて呼んだ。
「――ユ、ディ……?」
 弱い息に混ぜるように、ルカが吐息だけで呼ぶ。仰向けに寝たままピクリとも動かない彼の視界に入るよう、枕頭を覗き込めば、青白い顔色の斎王が不安そうに眉を寄せた。
「セラヤ様……は?」
「大丈夫です、きちんとお答をいただきました。……ですが」
 ユディは傍の小卓から瑠璃の杯を取り上げて、すっかりぬるくなってしまった白湯を口に含んだ。片手でルカの頭を持ち上げて、わずかずつ唇へと流し込んでやる。
「……今は、お眠りください。……水は?」
「もう、少し」
 ユディが思っていたよりも多めに水を飲んだ後に、ルカは瞼を閉じた途端に寝入ってしまう。
「これは……思ったよりも消耗されている」
 途中までは確かに房事のようでもあったが、セラヤが降りて来て以降はまったく違う何か――によってルカは身体的に消耗した。房事を続ける事でルカを法悦状態にとどめていたユディはといえば、結局吐精する事なく半端に身を離してしまったせいで、なんとなく腰回りが重苦しいものの、さして体調に変わりはない。介添え役は本当にただの介添えであって、儀式自体とは別物なのだという実感があった。
 今回は、質問役を兼ねており、まだしも主体的に神降ろしに関わったと言えるが、正式な儀式ともなれば大神官を介添えして法悦に導き、恙なく儀式を行うための一要因でしかない。
 いかな斎王の頼みであっても、神降ろしをする以上は神殿の規律を守るべきだった。多少花街で経験を積んだからといって、一人で役目を果たせた事もないものを、意地を張って大役を務めてみれば、まんまと足元を掬われてしまった。
 この先、最低でも半年、長ければセラヤの言っていた3年の間、ルカの介添え役として定期的に交合し、百花蟲を養わなければならないものを。
「…………身の程を……俺は」
 これまでに何度か仕損じた時に、シェートラがユディを若さゆえ、と庇ってくれたのは本当にその通りだったのだ。今度こそ、と気負って挑んだ神降ろしは、当初の目的である神降ろしこそは適ったものの、斎王の変容に己を維持できず、最後は萎えて引き下がってしまった。挿入した直後に満足に役に立てずに果ててしまうのと、神降ろしに怯えて萎えてしまうのとでは、どちらがより面目ない事態なのだろうか。
「ああ、本当に不甲斐ないことを」
 塞いだ瞼の、長い睫毛を揺らす事もなく眠る斎王のすぐ傍に跪いて、ユディは長くうなだれていた。



 神降ろしが終わった後、ルカは水を口にしたきりで昏々と眠ってしまい、翌朝になっても目覚める気配がなかった。ただでさえ、大食らいなのを明らかに消耗する儀式を終えて、夜食どころか朝食の時間になっても目を覚まさない主人の姿に、ユディは胃の痛む思いをする。
 主寝室の窓は南側に面していて、明るい陽射しが雪景色に反射して室内は明るい。潤沢な湯が壁面から部屋を暖めるから、この部屋はいつでも暖かく居心地が良い。それなのに、青白い顔色で眠るルカは、氷室に安置された遺体のようにも見えた。
「……目が覚めたら、すぐに食べられるようにしないと」
 鍋にたっぷりの芋団子汁と、燻製の鶏肉をこんがりと炙って粒の入った辛子を添えた物、付け合わせ用の揚げ芋は軽く塩を振って、冷めてもカリッとした食感が好ましい。薄焼きパンは氷室で見つけた、一番搾りらしい緑色が美しいカンラン油を添えた。さらに、ポーラスタでも南側では収穫できる黄色いリモネの実が樽一杯貯蔵されていたので、黒砂糖と薄切りのリモネをたっぷり入れた果実湯も陶製の水差しに用意してある。
 枕元に大きめの卓を移動させて、料理を全て並べた。食いしん坊のルカの事だから、もしかしたら匂いを嗅げば自分の空腹を自覚して目覚めるかもしれない。
「御身様、朝ご飯のお時間ですよ」
 すでに陽が昇ってから時間が経っていて、どちらかといえば昼食の時間に近い。いつもならば、この時間まで食事をしない事などありえないし、もしそうなったとしたら「お腹空いた!」と五月蠅い事だったろう。
 それが、寝返りさえ打たず、寝言の一言も漏らさず、ひたすらに眠るだけ。ユディがこの主人に付いてからの七年余り、どれほど体調を崩しても食事だけは抜かない(どころか人一倍食べる)、そこだけは安心できる主人だったというのに。
「……ルカ様」
 青白い額にそっと掌を充てれば、表面は乾いて冷えてすら感じるのに、すぐに皮膚の下から籠った熱が伝わって、体調の悪さが案じられる。
「……ユ、ディ?」
 目を閉じたまま、小さく溜息を落とすようにして、ルカが囁く。ハッとして、湯桶でゆすいだ手拭を使って顔をぬぐってやれば、薄く目を開けたルカが何度か瞬く。涙の膜をまとった銀の瞳に力はなく、夢を見ているように焦点を結ばない。
「御身様、お加減は」
「うん……、今、何時だろう?」
「翌日の昼近くです。……起きられましょうか」
 丁寧に目の周りと首筋までを拭ってやれば、ルカがわずかに首を振った。
「ごめん、まだ身体の感覚がほとんどないから……」
 言い終わらないうちに瞼が降りて、再び寝入ってしまいそうになる。それを、ユディは片頬へ掌を当ててそっと摩る。
「御身様、せめてお食事を」
 声音に必死さがにじむのか、ルカが唇の端をそっと持ち上げる。それだけの動作がいかにも大儀げで、百花蟲を身中に飼うまでの主人が季節毎に寝込むのに慣れていたはずのユディの、神経を逆撫でる。
「……何があるの?」
「芋の団子汁がたっぷり。それに燻製鳥肉を炙ったのと、揚げた芋、一番搾りのランカン油を付けた薄焼きパンに、リモネ湯も」
 枕元の卓を指さして数え上げるユディに、ルカが目を細めた。制限の多い貯蔵食材だけで、できる限りルカの好物を作った心持ちを察したのだろう。小さく頷いて、枕元へ顔を寄せたユディへと低く囁く。
「……団子汁の、汁だけなら」
「……は?」
 今、斎王君はなんと言った?
 思わずユディは、不心得にも反射的に聞き返してしまった。
 いや、あり得ないだろう。あの、食いしん坊の御身様が、あてがわれた三人前でも到底足りずに自分で調理した分まで完食して、それでも一刻もすれば、そろそろおやつ作ろうかな、などと言い出し、それがごく普通の日常だというのに。
「御身様、具材はよくよく煮てあります。今、匙で潰しますから……」
「ううん、汁だけでいい。……飲み込める自信がないし」
 間近で囁くルカの顔色はさらに悪く、もはや土気色に近い。
呼気の多い囁きはごく小さく、息を継ぐためにゆっくりとして、まるで臨終が間近い重病人のように思える。
「……御身様」
 頭を持ち上げて、匙で少しずつ団子汁を口へ注いでやれば、小さく喉が動いて、それで少しだけユディは安堵する。
「リモネ湯を、お願い」
 小ぶりの碗に半分ほどの団子汁を飲んで、ルカが溜息を落とした。さわやかな匂いのリモネ湯を、匙で乾いた唇の間へ流し込んでやれば、寝台にぐったりと横たわっていたルカがかすかに微笑む。
「ああ、いい匂いだ。……おいしいね」
「御身様」
 数匙を飲み下して、火の消えるように入眠してしまう。香ばしい匂いを撒き散らす燻製肉も、部屋中に広がるさわやかなリモネ湯の香も、今のルカには届かない。瞼を開いて、ようよう囁くだけしか、身体を動かす事ができないのだと。
「だから、神降ろしは制限されるのか」
 神殿の規範に則れば、大神官の神降ろしは多くとも一年に2度まで、しかも間隔を半年以上空けなければならない。ユディは儀式の規則を読んだ時に、「儀式のありがたさを演出するために、神殿の高位神官たちが勿体つけるために決めたのだろう」と思っていた。
 だが、実際には全く違っていた。
 自身の身体に他の魂を降ろして制御させる事が、これほどに肉体を損なうのかと、ユディは驚きを隠せない。他人に明け渡した身体を取り戻すために、どれほどの苦痛を乗り越えねばならないのか、と。
「半年に一度であっても、これほどまでに消耗するとは。年若くてもこれならば、まして年齢を重ねた後ともなれば」
 だから、長老院はルカに「大神官は終身であっても、実際に役割を担うのは数十年」と説明したのだろう。神降ろしを行う毎に、指先すら持ち上げられない状態から始めなければならないのならば、大神官とは、どれほどに過酷な職務を担うのか。
「……御身様」
 すっかり元の状態に戻った暁には、今日と同じ食事を用意して、底なしと呼ばれるルカの腹がくちくなるまで食べさせてやろうと、ユディは心に誓ったのだった。



 床の上で起き上がるまで一週間、さらに床上げまで二週間をかけてようやく日常生活が送れるほどにまで回復した。食事の量も、神降ろしを行う以前と変わりないくらいにまで増えて、それでようやくユディは胸を撫でおろした。
 彼らが無謀にもたった二人で神降ろしを行ってから数週間、ずっと天気は芳しくなかった。どんよりとした曇り空に粉雪がちらつくか、さもなくば庭へ出るのもはばかられるほどの吹雪か、のほぼ二択で、朝起きる度にまず外の天気を確認して、ユディはため息を付いていた。
 それが、今日は珍しくもすっきりと晴れ渡って、澄んだ水色の空に薄く白雲がたなびく。一面の雪景色は白く輝いて、いまにも陽光に溶けそうに見えるのにときおり風に煽られて、どこかから飛ばされた粉雪がちらちらと舞う。
 おとなしく椅子に腰かけてユディに髪を梳いてもらっていたルカが、窓の方へとそわそわと視線を投げる。
「御身様、今朝は珍しく良く晴れました。氷室まで果物を取りに行かれますか」
「うん。せっかく沢山貯蔵されているのなら、リモネを砂糖漬けにしたいな」
 ユディの提案に、おっとりした表情のままではあるが顔を輝かせる。まだ丸一日起きて活動するのはきついらしく、午睡は必須なのだが、それでも床上げして朝夕の神事で祝詞を唱える事ができるまでに回復した。今晩は、普段の食事に揚げ芋を追加してもよさそうだ、とユディは食いしん坊ぶりが復活した主人のために算段をする。
「では、リモネと……ジャガ芋と、それから里芋も」
「芋ばかりだね」
「麦の粉は先週出しておきましたから」
 ルカの青みを帯びた銀髪を小さな貴石の飾り留めで編みつつ、キリッと表情を引き締めた。ルカが寝込んでいたこの数週間は、病人の世話と生活の維持だけが仕事だったので、氷室の中の貯蔵物もすっかり調べ上げていた。雪が溶ける前には、旅装を調え保存食品を作って、移動の準備を終えなければならない。
「砂糖が沢山あってよかった」
「サトウキビはオリハン領の特産品ですから、神殿に関係があれば値引きされる上に優先的に取引できるようです」
「へえ、知らなかった。そういう優遇があるんだね」
 リモネの砂糖漬け、と呟いて、ルカが微笑を浮かべる。星教の総本山たる谷の大神殿におわす斎王君でさえ、甘い菓子類は贅沢品だ。果実や穀類を甘く発酵させた調味料は流通されているが、純粋に甘さだけをもたらす砂糖は、黒糖であっても安くはない。
「……そういえば、セラヤ様は神器を揃えよとおっしゃったのだったか」
 昨晩の残りの汁に焼き立ての薄焼きパンで軽く朝食を済ませてから、ルカが思い出したように呟いた。
「はい。……御身様が詳細をご存じだから、とも」
 すっかり習慣となった台所の作業台での食事も、床上げしてからまだ日も浅ければうれしい日常となる。絶えず石樋から流れあふれる湯の、暖かい湯気がふんわりと漂う台所は、窓が小さいせいで薄暗いけれども居心地もよい。かしこまった顔でリモネ湯を啜ったルカが、重々しく頷いた。
「四種の神器というのは、束に柘榴石をはめ込んだ宝剣と、赤い星の神から授かったとされる黄金と瑠璃の聖杯、白銀と宝玉の燭台、そして水晶の香炉を言う」
 一端言葉を切ってから、ルカはゆっくりとリモネ湯を啜った。よどみなく説明する口調は平素の物よりもやや芝居がかって硬く、斎王君として神事をこなす時に纏う、感情の伺い知れない曖昧な微笑みは冷たくすら見える。
「これら四種に谷の大神殿が有する黄金の経典を加えて、大神官の就任の儀式が行われる。これらの四種は東西南北に広がる人の地を現し、経典が信仰を担う」
「……なるほど。では、儀式はどうあっても大神殿で行われる、と」
「そうなる。神器を全て谷に持ち帰り、私が儀式の開始を宣言した時点で我々の勝ちとなろう」
「……それで、その神器は何処に?」
「それが、少しばかり割り出すのに時間がかかる。……計算しないとパッとは答えられない」
 卓上に広げた反故紙の上にあれこれと数式を書きつけて、さらに指を折って確かめてからやっと顔を上げる。神妙に待つユディにほぼ無意識に笑いかけてから、ルカがゆっくりと頷いた。
「うん、多分合っている……。ところで、ユディは谷の……というか学院の神学科の儀式管理課に「巡回管理」という部門があるのを知っているか?」
「いいえ。……神学科ともなれば、部外者にはさっぱりです」
 ルカが卓上から書き付けを除けたので、ユディは棚から柑橘の皮の砂糖漬けを盛った深皿を出した。菓子楊枝を見つけられなかったので、代わりに手拭き用の布巾を添えた。
「……甘い」
 ルカは、大ぶりなひとつをかみしめてから、嬉しそうに破顔する。ルカの湯飲みにリモネ湯を注ぎ足してやってから、ユディも厚みのある一片を摘まんで口に放り込んだ。
「さて、巡回管理部門だが、これは四種の神器の巡回を専門に行う。さきほど言った神器四種が五年毎に指定された国の大神殿に置かれるのは、ひとえにそれらの神器が揃ったことで、その場に長老院を超える権限が発生する事を防ぐため」
 もごもごと口の中転がしてから、ルカは上品に掌で隠すようにして種を吐き出した。満足そうにリモネ湯を飲んで、また棗へと手を伸ばす。
「何しろ、谷の保有する黄金の経典を加えて五種の神器があれば、この世の権限の一切を凌駕する大神官の任命すら可能になるゆえ。神殿はそれらの神器が一つ国に集まらぬように厳密に巡回の順を決めている」
「……はあ」
 判っていた事とはいえ、大神官という強大な権限を発動させるための仕掛けの壮大さに、ユディはため息以外を付けずにいた。
「今現在……というか、来年の春分まで神器は移動せぬ。宝剣はポーラスタの首都、聖杯はイスファの首都の、白銀の燭台は東イスタンハルのそれぞれの大神殿にあり、そして水晶の香炉は南のエクェイトの後宮に住まう、現王の母君が保有していらっしゃる」
「ほとんど現在の国の北端から南端へと、移動する事になるのですね」
「そうなる。……神器はアスカンタ王国の周辺の国を、常に巡っている物なのだ。例外は、大神官の就任儀式の時だけ。本来であれば、この春分には各大神殿から神器を携えた神官達が巡回士として谷に向けて出発する筈だった」
 二つ目の柑橘皮の蜜付けを食べ終えたルカが、盛大な溜息を落とした。
「だが、谷が襲撃され、私が逃げた事で神器の集合はなくなった。大神官に就くべき私がいない谷に、神器が集まるのは避けなければならない。……まして」
「今さら御身様が谷に戻って、各神殿に神器を送るように呼び掛けたとして、それが罠ではないと誰に断言できましょうか」
 急須に湯を足したユディが、苦々しく言葉を続けた。もしも、今すぐに谷に戻ったならば、待ち構えているだろう私軍勢に、あっさりと監禁されてしまうだけだろう。
 そして、谷の宗教的権威は、ルカを手中に収めた何者かに掌握される事になる。
「……どうあっても、私が先に神器を手に入れねばならない。そして、必ず大神官になるしか、この先に生きる道はない、のだろう」
「では、どちらにせよ、まずはポーラスタの王都、ルステラに向かうのですね。現王のオトニエル殿下はポーラスタの大神殿の神官長でもあらせられます。きっと御身様のお力になってくださるでしょう」
「そうだね……。オトニエル様は、昔ソーヤに一目ぼれして操立てし、王族の義務を果たすよう迫る周囲の圧力を躱すために、神官になられたのだとか。今のところ、オトニエル様が一番、私の味方になってくれそうだ」
「御身様が、お母君に瓜二つなのが役に立つ時が来ましたね」
 ユディの言葉に重々しく頷いたルカが、満面の笑みを浮かべた。
「今までは、ひたすらに鬱陶しいだけだったこの容姿に、やっと感謝する時が来たようだ」
 ルカは清々しく笑ってはみせるものの、これまでの苦難を思うとユディは涙を禁じ得ない。乳母のノルチアはくれぐれも気を付けるように、と、繰り返しユディに注意を促した。まるで花に群がる羽虫のように、払っても捉えても、ルカを狙う変質者たちは後を絶たなかった。美しく、無力な存在というものが、どれほどの危険にさらされているのかを、斎王付きとなってユディは初めて知ったのだった。
「そうと決まれば、2月末までには旅装を調えましょう。今日の午後から、さっそく保存食を準備し始めなければ」
 表情を引き締めるユディに、ルカは皿に残った砂糖漬けを頬張りながら問いかけた。
「……砂糖漬け、沢山持って行きたいな。作り足してもよいだろうか」
 若干、語尾が不明瞭なのは大きな欠片を二つも口に入れているからだろう。しっかりと食いしん坊ぶりが復活して、安心するやら情けないやらで、ユディは眉尻を下げて、正面に座る主人を見つめた。
「御身様の、なさりたいように」
 果物の砂糖漬け程度で主人がご機嫌ならば、結局はユディには不満はないのだった。
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