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41.お前のものにはならない

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 自分ひとりが身を捧げれば、友人や街の人はすべて助かる――それは魅力的な誘いだった。アモルが何をもって、この身に執着するのかわからない。だが彼と契約を結べば、悪魔の侵攻を退けることができるのだ。

 引き裂かれた妊婦、生という祝福を知ることなく消えた胎児、子供を守ろうとして殺された神父……すでに起きてしまった悲劇は取り戻しようもない。失われた命を取り戻す術はない。

 しかし、これから起きる悲劇をこの身ひとつで防げるとしたら……。

 ごくりと喉が鳴る。

 堕天使の声音は、ひどく甘い囁きとして届いた。毒だと警告する本能と、犠牲の数を計算してしまう理性の間を感情が揺れる。迷う色を浮かべ、青紫の瞳が軽く伏せられた。


「セイル」

 揺らぐ心を知っている悪魔が、優しく名を呼ぶ。差し出された手を食い入るように見つめた。

「……っ」

 アモルの名を呼び、契約すると告げればいい。あとは彼が悪魔を食い止めてくれるから、何も心配せずに殺されてやれる――そこで、奇妙な既視感に襲われた。オレは、以前も同じようなことを考えなかっただろうか……? 

『ダメだ! それでは無駄になる』

 久し振りに聞こえた相棒の声に、ぎゅっと左手を握り締めた。それから左拳をゆっくりと開き、確かな意思をもって握りなおす。しっくりと手に馴染む漆黒の柄が左手に宿っていた。

 冷たくて温もりなどないのに、ふっと安堵の息が漏れる。オレの表情が和らいだ。

「また邪魔をするのか?」

 アモルはむっとした様子で唇を尖らせる。睨みつける先で光る大きな鎌へ、優雅に右手を翳した。

 蒼い瞳が細められ、尖らせた唇を緩めて笑みを作る。魅力的で危険な笑みを湛えた堕天使が、その右手を鎌の刃に乗せた。

「いま一度、砕いてやろう」

 いま、一度? まるで、一度砕いたことがあるみたいな言葉だ。その意味を把握するより早く、ハデスが小さく振動した。アモルの指先を避けるように動いた瞬間、音にならない音が響きわたる。

「……っ、何だ!?」

 咄嗟に耳を覆ったオレは、しかし音が物理的に響いて聞こえているわけではないと知る。覆った耳に関係なく、その悲鳴じみた音が伝わってきた。

 ――キンッ

 瑠璃が砕けるような、澄んだ音が最後だった。

「ハデス!?」

 どのくらいぶりだろう、この名を呼んだのは……。さほど昔のことではないのに、掠れ声で躊躇いがちに名を口にする。

 夕闇が広がる窓の外から吹き込んだ風が、無常にも欠片を散らした。左手に戻った相棒の刃が、半分ほどで砕けて割れている。床に落ちた欠片がきらきらと月光を弾いた。

 信じられない光景に呆然とする。

 どんな乱暴に扱っても、今までに欠けた姿を見たことがなかった。だからハデスはずっと、永遠にこの姿を保つのだと思っていて……アモルが造作もなく刃の中央を砕いたことが信じられない。

 叫んだオレの声に応える声はなく、その身を震わせるでもないハデスは沈黙している。さきほどの悲鳴に似た音も消えたことで、あれはハデスが発した音だったのだと気付いた。

 がくりとうな垂れたオレは覚悟を決めて顔を上げる。

「……アモル……」

「何だ?」

 優しく響く声がオレへ向けられた。

 唯一の味方であるハデスを失い、きっとセイルはこの手をとるだろう。傷つけられる人々を守るために己を犠牲にするのが、セイルの本質だ。そう考えるアモルの表情は明るい。

 差し伸べる冷たい手に、オレが手を乗せる。触れた温もりを引き寄せようとした瞬間、逆に握られて顔を近づけた。

「残念だろうが、オレはお前のものにはならない」

 目を見開いたアモルへ言い切って、掴んだ手を振り払う。乱暴な仕草で立ち上がったオレは、首に下げた十字架を掴んでアモルへ翳した。

『主の御名において、魔よ退け!』
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