上 下
18 / 55
第2章 野に放たれた獣

06.雨止んで

しおりを挟む
 しとしと長雨が続く窓辺で、青年は思わし気に溜め息をついた。

 整った顔と腰まで届く三つ編み、珍しい青紫の瞳は、女性達を虜にするアイテムだ。しかし彼にとって、己の容姿は『神に与えられた武器』のひとつでしかなかった。

 ふた目と見られない顔よりマシ……その程度の価値しか感じない。

 振り向き、ちらりと視線を向けた先で、黒髪の美人がソファに横たわっていた。悪夢に魘されているのか、愁眉を寄せて泣き出しそうな表情をしている。

 普段より幼く見える横顔を、穏やかな眼差しで見つめた。

「『稀有なる羊』……まだ『早い』」

 そう、まだ早いのだ。

 彼が今壊れてしまっては、ロビンの計画に支障を来たす。

「……ん…っ……」

 呻いた唇が薄く開き、きつく閉じていた瞼がゆっくり開く。奇跡のような蒼が広がり、気怠げに右手で前髪を掻き上げた。

 ふぅ…と息を吐いた彼は、悪夢を振り払うように一気に上体を起こす。慌てて周囲を見回し、窓辺で外を見つめる男に気づいて安堵の息を吐いた。

 本来なら、彼は人類史上例を見ない危険人物だ。数十人の人間を殺害し、猟奇殺人犯として『死刑』を言い渡された身だった。類稀なる知能指数がなければ、とっくに電気椅子送りになっていただろう。

「……目覚めたか」

 問いかけの形を取っていても、確証に満ちた声。振り返る彼の眼差しは、信じられないほど優しく穏やかだった。

「どうして……」

 どうして、ここに残っている? 何故俺の過去を知っている。そして……思い出させた理由は?

 様々な意味を含ませたコウキの呟きに、ロビンはいつもの笑みを浮かべた。何もかも知られていると錯覚する、自信に満ち溢れた……他人を見下すように傲慢な微笑みだ。

 普通、そんな顔を向けられたら感情がざわめく。苛立ちや怒りが浮かぶのに、どことなく惹かれてしまう。その引力こそが、この男をある種のカリスマに仕立て上げていた。

「以前に渡した聖書は持っているか?」

 頷いたコウキが立ち上がると、ソファがぎしっと乾いた悲鳴を上げる。本棚の中段に差し込んでいた聖書を引っ張り出し、ソファの前の机に置いた。自分から届ける気はないと腰掛けたコウキに、笑顔を崩さないロビンが歩み寄る。

 ふと……コウキが甘い匂いに気づいて周囲を見回した。

 机の上には、昔父親が使っていた灰皿が置かれたままだ。その上に放られた1本の煙草は、半分以上残して火を消されている。

 自分が吸わない以上、ロビンの煙草だろう。そして……、

「部屋が片付いて……?」

 意識を失う前に吐いた記憶がある。しかし饐えた臭いも、足元に吐き出した吐瀉物もない。あの悪夢は、本当に夢だったのか。

 驚いたコウキの「信じられない」という眼差しを、肩を竦めたロビンがやり過ごした。

「キレイ好きなんだ」

 ふざけた口調で嘯いて聖書を手に取る。向かいのソファに腰を下ろし、皮の表紙を左手で確かめるようになぞった。そして誤魔化されてしまう。

「これは……予言だ」

 特別房にいたロビンが前に同じ単語を発したのを思い出す。あれは閉じ込められた状況からの脱出を意味していた。

「それも相当性質の悪い『予言』だぜ」

 視線を聖書に落としたまま、タイトルの金文字のスペルを指でゆっくり追う。まるで何かを懐かしみ、愛おしむような仕草だった。ロビンが聖書を開き、中に刻まれた教えを嘲笑する。

「聖書に『旧約』と『新約』があるのは、1人の天才詐欺師が世界を変えたから」

 旧約聖書はユダヤ教の聖書と置き換えることが可能だ。基本的にイエス…キリスト生誕前を旧約、生誕後を新約と考えるのが一般的だった。聖書の『約』とは『神との契約』の意味があると言われている。

 世界で一番愛読者の多い聖書を、ロビンは淡々と言葉で切り刻んだ。

「彼の一番の嘘は―――父なる神ヤハウェが『人々を救済する』というもの。もし救済する気があるなら、それは神自身の罪を償うだけの自慰行為さ」

 一人満足のマスターベーションを例えに出す辺りが、いかにもこの男らしい。キリスト教徒の両親を持ちながら、自身は神を信じないコウキにアルカイックスマイルが浮かぶ。

 僅かに口元だけを笑みの形に歪めた感情表現は、戯曲を演じる俳優のように大げさなロビンの仕草と対照的だった。

 両手を大きく広げ、天を仰いで嘆くようなロビンのジェスチャー。彼は己の顔を右手で覆って、ゆっくり首を横に振って続けた。

「人々が混乱したのは何故だ? 神が最初の人間達に『知恵の実を食べるな』と禁じた意味を考えた事があるか。バベルの塔を建てる人間の勇気と団結を恐れて、神は言葉を乱した。すべては、神が頂点から転落しない為の自衛に過ぎない」

「大胆な考察だな」

 一言で切り捨てたコウキに、ロビンは天へ向けていた眼差しを戻す。両手を鎖骨の上で重ねるようにして、己を抱き締めた。否、向かいに座るコウキからは自ら首を絞めようとする姿に見える。

「……賢いコウキ、だからおまえを選んだ」

 窓の外の雨は、いつの間にか止んでいた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

お高い魔術師様は、今日も侍女に憎まれ口を叩く。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,410pt お気に入り:124

残業シンデレラに、王子様の溺愛を

恋愛 / 完結 24h.ポイント:724pt お気に入り:331

初夜で殺して来いと命じられましたが、好きになるなんて想定外です。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:298pt お気に入り:1,173

転生精霊の異世界マイペース道中~もっとマイペースな妹とともに~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:660pt お気に入り:205

いつから魔力がないと錯覚していた!?

BL / 連載中 24h.ポイント:17,423pt お気に入り:10,474

処理中です...