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番外編
(兄2)燃え尽きればいい
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領地運営の資料を携え、義妹であるアリーチェの執務室へ入る。入念に用意した提案を行うためだ。作物の自給率が低い我が国に、大きな産業はなかった。
遺跡や名所がないので観光は次がない。大きな祭りを開いても、隣国の花祭りに負けてしまう。季節を変える案も出たが、花祭り以上の規模を開催するのは難しかった。領民達の意見も聞きながら、交易の要所として盛り立てる方向に決める。
交易でこの国を通過する商人に重要なのは、見栄えのする応接室や宿だ。これらを所有するか、または借りることになる。あれこれ案を出し合った結果、貸し出すことに傾いていた。
「どうだろうか」
「住民の雇用もよく考えてあります。検討しましょう」
リチェはその場で頷いた。場所を貸すだけでは、領主の収入しか上がらない。だが、侍従や侍女の教育を受けさせて、お茶や出迎えを担当させる。庭師も必要になるし、清掃係も必須だった。安定した収入源になる上、空いた時間に教育を施す。
貴族の屋敷を再現して貸し出すのだ。これならば、他国と差別化できるだろう。何より、宿としての機能も果たせる。別邸を参考に、すでに建築場所を確保していた。街道沿いの一等地だ。野菜や肉の納品もあるので、農家も潤う算段だった。
他にもいくつか案が出ているので、まとめたらリチェに目を通してもらう予定だ。
「おかあさま!」
ノックもなしに飛び込んだのは、リチェの長男クラウディオだった。頭が大きくバランスの悪い幼子は、よちよちと走って尻餅をつく。咄嗟に後ろから頭を支えた。くるっと振り返り、にこりと笑う。この表情は、幼い頃のリチェによく似ていた。
彼女が夫に選んだのは、勤勉で実直、嘘がつけない男だ。傷つけられてきたリチェは、心安らげる人を選んだらしい。僕ではダメだったわけだ。僕といる時のリチェは、少しばかり緊張を表情に出してしまう。まだ警戒されているのだと、少しばかり寂しく思えた。
「どうしたの? 手が汚れているわ」
両手をついて立ち上がったクラウディオは、そのままリチェに抱きついた。長いスカートの膝下に黒い汚れが付く。見れば、手をついた床の絨毯にもべっとりだ。
「うわっ、先に拭いてやるべきだったな」
取り出したハンカチで、クラウディオの手を拭く。大人しくされるまま手を預ける幼子に、苦笑した。もしかしたら、この子は僕と同じ銀髪だったかもしれない。あの時、リチェを信じて守っていたら。フリアンと婚約を解消させ、告白していたら。
一瞬よぎった妄想に、細く長い息を吐き出した。愚かにもまだ彼女を諦められない。すでに人妻だというのに。愛しているかと問われたら、即座に頷く。僕は今もアリーチェを愛しているし、この身も心も捧げて悔いはなかった。でも、彼女は僕を選ばない。
「綺麗にしてもらったら、なんて言うのかしら?」
「ありがと」
クラウディオは輝く笑顔で、お礼を口にする。どういたしましてと返しながら、己の醜さと諦めの悪さを呑み込んだ。リチェの幸せを壊す気はない。跡取りも可愛い甥と姪がいた。
この光景で夫の位置に立つのが僕ならば……そんな妄想くらいは許されるだろう。穏やかな笑みを浮かべるリチェの幸せが守れるのなら、この感情を殺すことも意味がある。
「お兄様、皆でお茶にしませんか」
「いいな、父上達にも声をかけてくるよ」
当然のように付き従うサーラが準備を始めるのを見ながら、僕はそっと退室した。いつか僕の恋は消えていくのか、さらに恋焦がれるか。いっそ灰になるまで燃え尽きてもいいな。埒もないことを考えながら、僕は今日も小さな幸せを守り続ける。愛した人の美しい微笑みを――。
遺跡や名所がないので観光は次がない。大きな祭りを開いても、隣国の花祭りに負けてしまう。季節を変える案も出たが、花祭り以上の規模を開催するのは難しかった。領民達の意見も聞きながら、交易の要所として盛り立てる方向に決める。
交易でこの国を通過する商人に重要なのは、見栄えのする応接室や宿だ。これらを所有するか、または借りることになる。あれこれ案を出し合った結果、貸し出すことに傾いていた。
「どうだろうか」
「住民の雇用もよく考えてあります。検討しましょう」
リチェはその場で頷いた。場所を貸すだけでは、領主の収入しか上がらない。だが、侍従や侍女の教育を受けさせて、お茶や出迎えを担当させる。庭師も必要になるし、清掃係も必須だった。安定した収入源になる上、空いた時間に教育を施す。
貴族の屋敷を再現して貸し出すのだ。これならば、他国と差別化できるだろう。何より、宿としての機能も果たせる。別邸を参考に、すでに建築場所を確保していた。街道沿いの一等地だ。野菜や肉の納品もあるので、農家も潤う算段だった。
他にもいくつか案が出ているので、まとめたらリチェに目を通してもらう予定だ。
「おかあさま!」
ノックもなしに飛び込んだのは、リチェの長男クラウディオだった。頭が大きくバランスの悪い幼子は、よちよちと走って尻餅をつく。咄嗟に後ろから頭を支えた。くるっと振り返り、にこりと笑う。この表情は、幼い頃のリチェによく似ていた。
彼女が夫に選んだのは、勤勉で実直、嘘がつけない男だ。傷つけられてきたリチェは、心安らげる人を選んだらしい。僕ではダメだったわけだ。僕といる時のリチェは、少しばかり緊張を表情に出してしまう。まだ警戒されているのだと、少しばかり寂しく思えた。
「どうしたの? 手が汚れているわ」
両手をついて立ち上がったクラウディオは、そのままリチェに抱きついた。長いスカートの膝下に黒い汚れが付く。見れば、手をついた床の絨毯にもべっとりだ。
「うわっ、先に拭いてやるべきだったな」
取り出したハンカチで、クラウディオの手を拭く。大人しくされるまま手を預ける幼子に、苦笑した。もしかしたら、この子は僕と同じ銀髪だったかもしれない。あの時、リチェを信じて守っていたら。フリアンと婚約を解消させ、告白していたら。
一瞬よぎった妄想に、細く長い息を吐き出した。愚かにもまだ彼女を諦められない。すでに人妻だというのに。愛しているかと問われたら、即座に頷く。僕は今もアリーチェを愛しているし、この身も心も捧げて悔いはなかった。でも、彼女は僕を選ばない。
「綺麗にしてもらったら、なんて言うのかしら?」
「ありがと」
クラウディオは輝く笑顔で、お礼を口にする。どういたしましてと返しながら、己の醜さと諦めの悪さを呑み込んだ。リチェの幸せを壊す気はない。跡取りも可愛い甥と姪がいた。
この光景で夫の位置に立つのが僕ならば……そんな妄想くらいは許されるだろう。穏やかな笑みを浮かべるリチェの幸せが守れるのなら、この感情を殺すことも意味がある。
「お兄様、皆でお茶にしませんか」
「いいな、父上達にも声をかけてくるよ」
当然のように付き従うサーラが準備を始めるのを見ながら、僕はそっと退室した。いつか僕の恋は消えていくのか、さらに恋焦がれるか。いっそ灰になるまで燃え尽きてもいいな。埒もないことを考えながら、僕は今日も小さな幸せを守り続ける。愛した人の美しい微笑みを――。
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