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97 霞む記憶
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「どうしたのお兄ちゃん?」
心配気に下から顔を覗きこまれた春輝は、びくりと体を跳ねさせた。その様子に首を一瞬傾げたいちかだったが特に気にした様子はなく、春輝の服の端を掴みぐいっと近づいて来る。
「具合悪いの?」
「いや……でも……あぁ、そうかもしれない」
「じゃあ今日はもうお終いにしよう? いちいかお兄ちゃんが心配だもん」
そう言ってくるいちかになんとか笑みを返すも、掴まれた服の先から這い上がるような嫌悪感がどうしても拭えない。
姿かたちはどう見てもいちかそのもので、特段おかしなところはない。匂いも体温も、小さな頃から知っているいちかのままだ。
けれどもこの言い知れぬ嫌悪感と、先程感じた違和感の数々はなんだろうか。立っていることができなくなるほど、春輝は激しい眩暈に襲われる。
「部屋に戻りましょうハルキ殿」
よろけた春輝を難なく支えたトビアスに、春輝は視線を向ける。一緒に討伐に行ったトビアスであれば、何か知っていることがあるかもしれない。
「トビアス、部屋に戻ったら聞きたいことがある」
春輝の真剣な目にハッとしたような表情を返してきたトビアスは、どこか安堵したように目元を僅かに緩めていた。
いちかと別れ、春輝はトビアスと共に離宮の自室へと戻ると、無意識のうちに浅くなっていた息を思い切り吸い込み、吐き出した。
途端に体から力が抜け、まるで緊張感から解放されたような疲労が春輝の体を襲う。
ソファにぐったりと体を預けていれば、トビアスが春輝の足元へと跪いた。
「私にお聞きしたいこととは、なんでしょうか」
真剣な眼差しを向けられ、春輝は自身の目を覆っていた手をどける。未だ霞がかった記憶の鍵は、きっと目の前のトビアスにあるはずだ。
「いちかは、アレは一体なんなんだ?」
そう問い掛ければ、トビアスは降ろされた春輝の手を取り、その目から涙を溢れさせた。
「よ、よかった……ハルキ殿、正気に戻られたのですね」
喜びに打ち震えるように、くしゃりと顔を歪ませたトビアスに春輝は大いに戸惑った。騎士然とするトビアスは感情をあまり表に出すことはない。ましてや人前で涙を見せるなど、今まで見たこともなかった。
そしてなによりも、正気に戻るとは一体どう言うことなのか。
「トビアス、俺は……どうなってるんだ? 正気に戻るだって?」
「ハルキ殿、どこまで覚えておいでですか」
「……領地からここへ来て、いちかに似たアレに会う前の記憶は殆ど思い出せない」
「では、なぜ妹君をお疑いに?」
「違和感があったんだ。うさぎのぬいぐるみを邪険にしたり、一緒に眠らなくなったり……成長したのかとも考えたが、これを大事にしないなんてことはあり得ない」
春輝は抱えたうさぎのぬいぐるみを静かに撫でる。汚れはついたまま、しかしその染みが苦々しく映る。春輝の気分は今や奈落に突き落とされたように、暗く沈み込んでいた。
陰る春輝をまるで慰めるように、ブローチがキラリと光る。鮮やかな赤であるはずのそれは、部屋が暗くないというのにその濃さを増しているように思えた。
「この、ブローチも。いつから付けているのかも思い出せない。なぁトビアス、俺は一体どうなってるんだ?」
途端に不安が襲い来る。まるで知らない場所で迷子になってしまったよな、そんな気分だ。悪夢に追いかけられ睡眠を妨害されるのも、いちかに似たなにかも、記憶がぼやけていると言うことに今まで疑問を持たなかった自分自身も。
何もかもが途端に恐怖を春輝に与え、不安を冗長させるには充分だった。
――こんな時アイツが居れば。
そう頭をよぎった思いに、春輝はまた不安な要素が増えたことに対して眉間に深く皺を刻んだ。アイツとは一体誰なのだろうか。人をあまり信用しない自分自身が、こんな状態の時に頼る相手とは。
そんな春輝の不安を確実に感じ取ったのだろうトビアスは、春輝の冷え切った手を武骨な手で握る。騎士らしくその手は皮膚が分厚く、剣だこで固くなった手。
ーーこの手ではないと。春輝はそう思った。
求めているものは、温もりはこれではない。確かにトビアスも安心できる相手ではあるが、それよりももっと深い場所で心から安心できる存在が、確かにいたはずなのだ。
「トビアス、俺は……誰を忘れてる?」
心配気に下から顔を覗きこまれた春輝は、びくりと体を跳ねさせた。その様子に首を一瞬傾げたいちかだったが特に気にした様子はなく、春輝の服の端を掴みぐいっと近づいて来る。
「具合悪いの?」
「いや……でも……あぁ、そうかもしれない」
「じゃあ今日はもうお終いにしよう? いちいかお兄ちゃんが心配だもん」
そう言ってくるいちかになんとか笑みを返すも、掴まれた服の先から這い上がるような嫌悪感がどうしても拭えない。
姿かたちはどう見てもいちかそのもので、特段おかしなところはない。匂いも体温も、小さな頃から知っているいちかのままだ。
けれどもこの言い知れぬ嫌悪感と、先程感じた違和感の数々はなんだろうか。立っていることができなくなるほど、春輝は激しい眩暈に襲われる。
「部屋に戻りましょうハルキ殿」
よろけた春輝を難なく支えたトビアスに、春輝は視線を向ける。一緒に討伐に行ったトビアスであれば、何か知っていることがあるかもしれない。
「トビアス、部屋に戻ったら聞きたいことがある」
春輝の真剣な目にハッとしたような表情を返してきたトビアスは、どこか安堵したように目元を僅かに緩めていた。
いちかと別れ、春輝はトビアスと共に離宮の自室へと戻ると、無意識のうちに浅くなっていた息を思い切り吸い込み、吐き出した。
途端に体から力が抜け、まるで緊張感から解放されたような疲労が春輝の体を襲う。
ソファにぐったりと体を預けていれば、トビアスが春輝の足元へと跪いた。
「私にお聞きしたいこととは、なんでしょうか」
真剣な眼差しを向けられ、春輝は自身の目を覆っていた手をどける。未だ霞がかった記憶の鍵は、きっと目の前のトビアスにあるはずだ。
「いちかは、アレは一体なんなんだ?」
そう問い掛ければ、トビアスは降ろされた春輝の手を取り、その目から涙を溢れさせた。
「よ、よかった……ハルキ殿、正気に戻られたのですね」
喜びに打ち震えるように、くしゃりと顔を歪ませたトビアスに春輝は大いに戸惑った。騎士然とするトビアスは感情をあまり表に出すことはない。ましてや人前で涙を見せるなど、今まで見たこともなかった。
そしてなによりも、正気に戻るとは一体どう言うことなのか。
「トビアス、俺は……どうなってるんだ? 正気に戻るだって?」
「ハルキ殿、どこまで覚えておいでですか」
「……領地からここへ来て、いちかに似たアレに会う前の記憶は殆ど思い出せない」
「では、なぜ妹君をお疑いに?」
「違和感があったんだ。うさぎのぬいぐるみを邪険にしたり、一緒に眠らなくなったり……成長したのかとも考えたが、これを大事にしないなんてことはあり得ない」
春輝は抱えたうさぎのぬいぐるみを静かに撫でる。汚れはついたまま、しかしその染みが苦々しく映る。春輝の気分は今や奈落に突き落とされたように、暗く沈み込んでいた。
陰る春輝をまるで慰めるように、ブローチがキラリと光る。鮮やかな赤であるはずのそれは、部屋が暗くないというのにその濃さを増しているように思えた。
「この、ブローチも。いつから付けているのかも思い出せない。なぁトビアス、俺は一体どうなってるんだ?」
途端に不安が襲い来る。まるで知らない場所で迷子になってしまったよな、そんな気分だ。悪夢に追いかけられ睡眠を妨害されるのも、いちかに似たなにかも、記憶がぼやけていると言うことに今まで疑問を持たなかった自分自身も。
何もかもが途端に恐怖を春輝に与え、不安を冗長させるには充分だった。
――こんな時アイツが居れば。
そう頭をよぎった思いに、春輝はまた不安な要素が増えたことに対して眉間に深く皺を刻んだ。アイツとは一体誰なのだろうか。人をあまり信用しない自分自身が、こんな状態の時に頼る相手とは。
そんな春輝の不安を確実に感じ取ったのだろうトビアスは、春輝の冷え切った手を武骨な手で握る。騎士らしくその手は皮膚が分厚く、剣だこで固くなった手。
ーーこの手ではないと。春輝はそう思った。
求めているものは、温もりはこれではない。確かにトビアスも安心できる相手ではあるが、それよりももっと深い場所で心から安心できる存在が、確かにいたはずなのだ。
「トビアス、俺は……誰を忘れてる?」
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