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1巻
1-3
(そのくらいにしておいたら……か。やっぱり、ちょっと言いすぎたかな?)
二人のうしろ姿を見送った凛子は、心のなかでそう呟く。
凛子の父親は、国語教師ということもあってか、日頃からきちんとした話し方をする。母親もまたしかりで、そんな両親に育てられた凛子は、小さい頃から比較的乱れのない話し方をしていた。
それはそれでいいのだが、仕事をしているときの凛子の外見もあいまって、必要以上に硬く冷ややかに聞こえてしまうことがあるようだ。
決して意図的にそうしているつもりはないが、当人はものすごく怒られているように感じるのかもしれない。
(あれでも加減して言ったつもりだったんだけどな……)
次からは、もっと気をつけよう。
凛子はそう思い、データの間違いを修正した上で月次決算の書類作成に取りかかった。
「別に好きで教育係をしているわけじゃないのにね。ミスを指摘して注意するほうだって、大変なんだから」
凛子の前の席に座る園田が、独り言のようにそう呟いた。表立ったかばい方をするわけではないけれど、彼女はいつも何気なく凛子をフォローすることを言ってくれる。
「すみません」
凛子もまた、独り言のようにそう呟く。
自分がもっとうまく村井を導くことができたら。
経理にやってくる他部署社員に対しても、もっと上手な物言いができたら。
そう思うにつけ、申し訳ない気分になる。
「やぁね、岩田さんが謝ることないでしょ。……あ、社長だ」
園田が立ち上がろうとして、デスクに椅子をぶつけた。その拍子に、凛子のデスクから愛用のペンが転がり落ちる。
「え? 社長ってば、こっちに来る。まさか経理に用事があるの?」
園田の声を尻目に、凛子は床に落ちたペンを拾おうとした。それは、凛子が就職したときに父親から贈られた大切な品だ。
少々あわててしまったせいか、拾おうとして一歩前に出たつま先でそれを蹴飛ばしてしまう。
(やだ、もうっ……)
床を滑るペンは、村井の椅子の下をくぐり滑っていく。このままだとキャビネットの角にぶつかる。
大切な贈り物に傷がついてしまう――
そう思ったとき、ふいに伸びてきた指先がペンを止めて、そのまま拾い上げた。
「あ」
顔を上げると見えたのは、口元に笑みを浮かべている慎之介だ。
凛子はすぐさま姿勢を正して、彼に向かって会釈をした。
「お疲れ様です。社長、経理部になにかご用でしょうか」
我ながら、無機質で抑揚のない声だ。
「やあ、岩田さん。これは君の落とし物? もしかしてゲレネックの日本限定品かな?」
ゲレネックは東欧のメーカーで、文具や一部の電子機器を販売している。一流ではあるが日本でその名を知る人はごく一部だ。
そんなマニアックな――しかも、数ある商品のなかの数量限定の品を見分けるとは。
「はい、そうです。よくご存じですね」
普段用件以外のことを口にしない凛子だけど、このときばかりはついひと言付け加えてしまった。
「僕もここのペンを持っているんだ。ゲレネック社の製品は、どれも長く使えば使うほど指になじんで手放せなくなる。これはすごく綺麗なローズブラウンだね」
差し伸べられたペンを受け取ろうと、凛子は慎之介に近づく。
私物だから当然メンテナンスや替芯の購入は自分持ちだし、大切にしているがゆえに休日には自宅に持ち帰っているほどのものだ。
以前は同じ会社の電卓も持っていたけれど、人とぶつかった際に落として壊してしまい、今は別のものを使っている。
「ありがとうございます」
ペンを受け取ろうとしたが、なぜか慎之介が指を離さない。怪訝に思いペン先をもって軽く引っ張ってみるが、彼の指がそのままくっついてくる。
(え、なに?)
凛子の眉間に、うっすらと縦皺が浮かんだ。
どうして、手を離さないの?
ワザと? それともただの意地悪?
いずれにせよ、なにが面白くてこんなおふざけをしかけてくるのだろうか。
「これが発売されたとき、ぜったいに手に入れようと心に決めていたんだ。だけど、あいにく出張が続いて買いそびれてしまってね」
さっきまで凛子に注がれていた慎之介の視線は、いつの間にかペンのほうに移っている。
「見る」というよりも完全に「愛でる」感じだ。
(あ――もしかして、これを気に入ってしまったとか?)
そう思う気持ちは、十分理解できる。
しかも、今彼が手にしているものは、限定品ゆえにもうどこを探しても売っていないものだ。
「これは、私の父から贈られた就職祝いなんです」
(「譲ってくれ」と言われたらどうしよう)
そう思い、凛子はとっさに先手を打った。
ごく低い声で話しているから、周りには聞こえていないはずだ。
「そうか。なるほど……」
慎之介は、まだペンを離さない。
もしや、本当にこれを欲しがっている?
(ぜったいに無理!)
このペンは入社して以来、六年もの間苦楽をともにしてきた宝物だ。そもそも、彼ほどの地位と財力をもってすれば、どうにかして未使用品を手に入れられるのではないだろうか。
凛子が身じろぎもしないでいると、ふっ、という微かな笑い声とともに、慎之介の指がペンから離れた。
「心配しないで。大丈夫、君から大切なペンを取り上げるつもりはないよ」
はっとして顔を上げると同時に、じっと見つめられる。慎之介の口元に白い歯が零れた。完璧で非の打ちどころのない笑顔とは、こういうのを言うのだろう。
「これを就職祝いにするなんて、君のお父様は素晴らしい審美眼をお持ちだ。……いや、偉そうに聞こえたら失敬。……名前入りということは、特注なさったんだね」
「はい、そう聞いています」
「そうか。いいお父様だね」
目の下のなみだ袋の横に、綺麗な笑い皺がある。慎之介がペンに視線を戻したのをいいことに、凛子は彼の顔にまじまじと見入った。ふと気がつけば、周りからチラチラと窺うような視線を投げかけられている。
「拾っていただいて、ありがとうございます。おかげで傷がつかずに済みました」
ペンを受け取り、お礼を言う。慎之介の笑顔に、幾分名残惜しそうな表情が浮かんだように感じるのは、気のせいだろうか。
「どういたしまして。ちなみに、この次の年に出たシリーズ最新の電卓は知ってる?」
せっかく話が終わりそうになっていたのに、またしても新しい話題をふられてしまった。
本当は適当に答えて早く席に戻りたい。けれど、今彼が口にした電卓は、凛子にとってペン同様特別に思い入れのあるものだ。
「知っています。創業百年を記念して限定販売されたものですよね?」
「あたり」
やっぱり。
慎之介が言うゲレネック社の電卓――それは、凛子が就職して一年経った記念に、自分へのご褒美として思い切って買ったものだ。
普通の電卓であれば、高くてもせいぜい一万円以内で収まるだろう。けれど、ゲレネック社のそれは、特別多機能なものであり、なおかつ限定品であるために三万円を超えていた。
しかし、その大切な品を自宅に持ち帰る際に、人ごみのなかでそれをバッグごと落とし、踏みつけにされてしまったのだ。
「もしかして、持ってるとか?」
「去年まで仕事で使っていました。でも、落として、修理不可能なほど壊れてしまいました」
「そうか。じゃあ、今は違うものを使ってるの?」
「はい。新しく買おうにも、もう販売されていませんから」
やや丸みを帯びたフォルムに、使い勝手が抜群のキーの配列。打ち込むときの音は静かだけど、押しているという感触ははっきりとしている。
それを使いはじめて以来、事務処理の速度が格段に上がった。
だから壊れたときは、かなりショックだったし、どこかに売っていないかと今でもたまにネットを検索したりしている。
しかし、いまだに見つからないし、おそらく、もう二度と手に入らないだろう。
ほかの製品が悪いというのではないが、いまだにゲレネック社の電卓を懐かしく思い出してしまう。
「それは残念だったね。――ところで、社長室にあったベンジャミンの件だけど、前社長が個人的に買い取りたいと言ってるんだ。その件で後日また業者から連絡が入ると思う」
行方不明になっていたレンタルグリーンは、やはり誤って前社長が自宅に持ち帰っていた。そして、お手伝いさんによって同家の温室で大切に育てられていたらしい。
「迷子のベンジャミンの捜索、思ったより手間がかかってしまった。申し訳なかったね。前社長が、迷惑をかけたって謝っていたよ」
話し終えると、慎之介は顔を上げて何気なくあたりを見回す。
その途端、それまで様子を窺っていたらしい社員たちが、いっせいに身じろぎをした。
「そうでしたか。承知いたしました」
凛子は軽く会釈をして、その場を締めくくった。
「じゃあ、そういうことでよろしく」
慎之介は凛子に向かってにっこりと微笑むと、踵を返して遠ざかっていった。ほかの部署に立ち寄る様子がないところを見ると、わざわざそのことを言うためにここへ来てくれたのだろう。
(内線一本で事足りることなのに)
そうしなかったのは、前社長の謝罪を直接伝えるためだったのだろうか。
(結構、律儀な人なんだな……)
席に戻りながら、凛子は手渡されたペンをしっかりと握りしめた。心なしか、まだ慎之介のぬくもりが残っているような気がする。
「それにしても、かっこいいですよねぇ。僕も社長みたいに、歩くだけで女性の視線を独り占めしてみたいなぁ」
いつの間にか席に戻っていた村井が、感じ入ったような声を上げる。
女性のみならず男性まで魅了するとは――
彼がまとっている絶対的なオーラには、万人を惹きつけるカリスマ性も含まれているみたいだ。
「ね、社長となにを話してたの?」
デスクに戻ると、園田が待ちかねたように話しかけてきた。
「前に社長室にあったレンタルグリーンの件です」
「うん、それは聞こえたけど、その件以外にもなにか話してたんじゃないの?」
園田がなおも食い下がる。凛子は持っていたペンを、彼女の目の高さにかざした。
「使っている文具について、少し聞かれていたんです」
「ふーん……。岩田さんとあれだけ話し込むなんて、社長っていろんな抽斗を持ってるのね。そりゃ、ロッカー室が化粧品臭くなるはずだわ」
園田がおどけたように肩をすくめる。彼女も、ロッカー室の変化に気づいていたらしい。
「今朝なんか、秘書課のお局主任まで新しい香水を買い込んだみたいで――」
園田曰く、今朝のロッカー室も慎之介の話題で持ちきりだったという。
仮に彼女たちの一人が彼のハートを射止めたとしたら?
それこそ、絵に描いたようなシンデレラストーリーを実現させたことになるのだろう。
触らぬ神に祟りなし――
慎之介を巡る攻防については、その一言に尽きる。
とはいえ、もともと凛子には関係も興味もないことだ。今日は思いがけず一対一で話すことになったが、さすがにもう彼とかかわることなどないだろう。
凛子はスリープ状態になっていたパソコンを再起動させると、再び月次報告書の作成に取りかかった。
七月はじめの金曜日の朝。凛子はいつものように、駅に続く道を歩いていた。
大通りに出てまっすぐに進んでいると、うしろからやって来た白い車が凛子の少し前で速度を落とす。凛子が気にせずそのまま横を通りすぎようとしたとき、車が停車し、助手席側の窓が開いた。そして、奥の運転席から身を乗り出すようにして、男性が顔をのぞかせた。
「岩田さん、おはよう」
「あ……社長、おはようございます」
少なからず驚き、凛子は足を止める。
「住まいはこの近く? だったら僕とご近所さんだ。よかったら、会社まで乗せて行こうか?」
いきなりそんなことを言われ、凛子は反射的に首を横に振った。
「いえ、途中寄るところがありますから、私は電車で」
途中、昼食用にパンを買っていく予定だから、嘘は言っていない。まあ、たとえ用事なんかなくても、一社員である自分が社長の車で出勤などできるはずがなかった。
「そうか。ところで、傘は持ってる? もうじき降り出しそうだよ」
「はい、折り畳み傘がバッグに――」
無意識に手を伸ばしたバッグのなかに、あるはずの傘がないことに気づく。
そういえば、今朝出がけに傘を準備したのはいいが、テーブルの上に置いたまま忘れてきてしまった。
(もう、私ったら間抜け……!)
凛子が口をつぐんだのを見た慎之介が、助手席のうしろに手を伸ばす。
「傘、ないんだったらこれを持っていくといい。ここで降らなくても、途中で降り出すと思うから」
慎之介の手には、黒い折り畳み傘が握られていた。会社の最寄り駅から社屋までの道のりには、雨を避けられるようなものがなにひとつない。せっかくだし、ここは大人しく借りておいたほうがいいだろう。
「すみません、お借りします」
「うん、返すのはいつでもいいから。――じゃあ、気をつけて」
車が走り去り、凛子は再び駅に向かって歩き出す。慎之介が言ったとおり、電車に乗っている間に雨が降り出し、改札を出た頃には結構な土砂降りになっていた。
(傘を借りておいてよかった。それにしても、社長がご近所って……。いったい、どこに住んでいるんだろう?)
あのあたりは、割と庶民的な地域だ。もしかすると、新しくできたタワーマンションだろうか。
会社に到着して、まだ誰もいないロッカー室で着替えを済ませた。
濡れた傘は丁寧に水気を拭き取り、デスク横にぶら下げて乾燥させる。返すのはいつでもいいと言われたけれど、借りっぱなしはどうにも落ち着かない。
見るからに高級そうで、シャフト部分にいかつい獅子のロゴが彫り込んである。
(きっと外国のブランド品だよね。やっぱり、早く返そう)
その日は、取引先への請求書を作成し、来週予定されている役員会に提出する書類作りをした。その合間に、イレギュラーな経費精算をこなす。
今日やってきたのは、繊維第二部のアルバイト社員だ。
持ち込まれたのは交際費の精算書だが、添付されている手書きの領収書には「お品代」と書いてあるのみで、詳細がまるでわからない。これでは、次回の内部監査で問題になる可能性がある。
「詳細がわかるようであれば、次回からは領収書ではなくてレシートの添付をお願いします」
「え? レシートでいいんですか?」
アルバイト社員は、わかりましたと言って帰っていった。
品目や単価が曖昧な手書きの領収書よりも、詳細が印字されているレシートのほうが証拠能力が高い。そもそもレシートでも経費精算は可能だし、問い合わせの手間を考えれば、むしろそちらを推奨したいくらいだ。
経理処理については、規程を交えて根気よく話せば、たいていの人はきちんと理解してくれる。
しかし、黒木のようにいちいち突っかかってくる人はいるし、人事異動の時期は問い合わせの件数が各段に増える。
本社勤務であれば直接会って話もできるが、工場の精算分だとそうもいかない。電話をかけて根気よく説明するものの、やはりそれなりの時間がかかってしまう。
『さすが「超合金」だって言われるだけはあるなぁ』
工場に電話をかけた際、顔を合わせたこともない社員からそう言われたときには、さすがに受話器を持つ手が小刻みに震えた。
(「超合金」……そう言われても仕方ないけど……)
ただでさえ冷たく聞こえる声は、受話器を通すとよけい冷ややかなものになるらしい。
凛子自身、それは自覚している。だから気をつけようとは思うものの、電話だとどうしても口調が硬くなるのだ。それに、話すテンポが合わず、畳みかけるような言い方になってしまいがちだ。
本社のみならず、工場にまで轟いている凛子の「超合金」っぷり――
(それにくらべて、社長は――)
凛子の頭のなかに、昨日見た慎之介の顔が思い浮かぶ。
あの若さで、あの落ち着き。遥か上の年齢の部下を従えてもまるで違和感がないと同時に、どこか親しみと安心感を与える風貌。
それもこれも、育ちのいいイケメン御曹司だから成せる業なのだろうか?
だとしたら、庶民育ちで取り立てて美人でもない凛子には、到底真似できることではない。
(いるんだなぁ、ああいうなにもかもが特別な人って)
気持ちを切り替えて、午後も引き続き役員会議用の資料を作成する。
「岩田さん、悪いけどこの書類、社長室に置いてきてくれる?」
榎本にそう頼まれたのは、一時間ほど残業をしたあとのことだ。快く応じて、過去の経理書類を手に十三階に向かう。
『たぶん、今社長はいないと思う』
そう聞かされていたから、別段身構えることもなく非常階段を上り、社長室のあるフロアに着いた。もう直接かかわることはないと思っていたのに、なんだかんだとこうして接点があるのは、社長自身の経理に対する関心の表れなのだろうか。
(だとしたら、経費精算システム電子化の件も、今度こそ承認がおりるかも)
そう思うと、足取りも軽くなるというものだ。
廊下一番奥の社長室は、入り口ドアがある壁が全面ガラス張りになっている。
(あれ? まだ在室中だ)
部屋の窓際に立つ慎之介が、こちらに背を向けて誰かと通話しているのが見えた。
もれ聞こえてくる言葉は、英語だ。内容からして、通話先は海外の取引先だろう。しかも、口調から判断するに、あまり喜ばしくない内容みたいだ。
(どうしよう。一度引き返したほうがいいかも……)
凛子が、そっと踵を返そうとしたとき、慎之介がふいにドアのほうに向き直った。
即座にぴったりと視線が合う。
慎之介との距離は、およそ五メートル。ガラス越しで、かつそれだけ離れているのに、彼が自分を見る目力の強さに思わず息が止まる。
そこには、いつも見せている穏やかな笑顔はなかった。そればかりか、怖いくらい真剣な表情を浮かべている。
(あれが社長? 雰囲気がまるで違う……)
間違いなく同一人物だし、端整な顔であることにも変わりはない。しかし、浮かんでいる表情や印象が、別人級に違っている。
視線を合わせたまま話す慎之介の眉間に、深い皺が刻まれている。聞いたこともない単語と低いトーンの声に、自然と身体がこわばっていく。
凛子が見つめるなか、彼が再び凛子に背を向けて、なにごとかメモを書きはじめる。そのまま立ち尽くしていると、ほどなくして突然通話が終わった。
「ごめん、入って」
振り返った慎之介が自らドアを開け声をかけたことで、凛子は、はっと我に返った。
改めて慎之介の顔を見ると、そこにはいつもどおりの穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「失礼します」
とっさに一歩踏み出した足が、微妙に横にずれた。よろめきそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
らしくない――
会社では常に「超合金」である自分が、視線が合っただけで動揺するだなんて。
今までこんなふうになったことなどなかったのに……
「榎本部長から書類を預かってきました」
凛子は努めて平静を装いながら、慎之介の前に立った。差し出された手に書類を渡し、一歩うしろに下がる。
「わざわざありがとう。今日はもう帰るのかな?」
間近で見る慎之介の顔が、一段と華やかな笑顔になる。さっき見た別人のような顔が嘘みたいだ。
「はい」
短く返事をして、ドアのほうに向かおうとした。その背中を、やけに親し気な彼の声が追いかけてくる。
「よかったら、このあと食事でもどう?」
「は?」
思いもよらない台詞が聞こえ、凛子は思わず声を上げた。
食事? ……なんで食事?
意味がわからない。どうして社長ともあろう人が、たまたま書類を持ってきた平社員を食事に誘ったりするのか。
凛子は忙しく頭を働かせる。
冗談? もしくは、社交辞令?
いずれにせよ、言われたことをそっくりそのまま真に受けるほど若くもなければ、能天気でもない。
「ありがとうございます。あいにく、このあと友人と待ち合わせをしておりますので」
「そうか。それは残念。じゃあ、また次の機会にでも」
「はい、では失礼します」
一礼して、今度こそ退室する。エレベーターホールを通りすぎ、非常口のドアを開けた。
案の定誰もいない。
凛子は、階段を下りながら、たった今起きた出来事を振り返った。
どう考えても本気の発言だとは思えない。
そうとわかっているのに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう?
いつもの笑顔と、さっき見た険しい表情のギャップのせい?
それとも、入社して以来はじめて男性から食事に誘われたせいだろうか。
(やだ……馬鹿みたい)
凛子は自分で自分を笑った。
らしくないにもほどがある。だけど、慎之介のせいでいつになく動揺しているのは確かだった。
八階に到着して、席に戻る前に洗面所に立ち寄る。
(しっかりしてよ、凛子。どうしちゃったの? ほんと、らしくない……。らしくなさすぎるでしょ)
終業後の化粧室は、シンと静まり返っている。周りには誰もいない。
凛子は鏡に映る自分を見つめながら、あきれたように小さくため息を吐いた。
「あ、理沙? 今終わった」
着替えを済ませビルを出た凛子は、足早に駅に向かった。
歩きながら電話をかけた相手は、今夜会う約束をしていた幼馴染だ。幼稚園に入る前からの付き合いで、同じ高校を卒業したのち、それぞれ都内にある別の大学に進学し、就職した。
理沙はその後社内恋愛の末に結婚。退職して、今は五歳の女の子の母親になっている。
現在実家の薬局を手伝っている彼女とは、今でも定期的に会って長々と語り合う仲だ。
『了解。急がなくていいからね。あわてると、あんたまた転んじゃうでしょ』
電話の向こうから、理沙の笑い声が聞こえる。
常に冷静に見える凛子だけど、実は結構おっちょこちょいだ。時折りなんでもないところで躓いたり、目の前の障害物に気づかずに、ぶつかりそうになったりする。
数字に関しては一円の誤差も見逃さない自信はあるが、行動に関していえば割と抜けているところがあるのだ。
そう――たとえば、拾おうとしたペンを蹴飛ばしてさらに遠くに追いやってしまったりとか……
もっとも、社内で凛子のそんな一面を知る者は誰もいない。
仕事中に無駄なドジだけは踏むまい――そんなふうに常に気を張っているのも、凛子が「超合金」と呼ばれる理由のひとつかもしれない。
「うん、わかった。でも、なるべく早く行くね」
通話を終え、やってきた電車に乗る。窓の外を眺めながら、凛子は日中あったことをあれこれと思い出していた。
(あ~あ……今日も結構いろいろとやりあっちゃったなぁ……)
毎日のこととはいえ、他部署社員との攻防は、凛子にとって結構なストレスになっている。
むろん、感情が外に出にくい質の凛子だから、周りは誰もそれに気づいていないだろう。
凛子は持って生まれた性格のせいもあってか、自分の感情をあまり外に出したくないと常日頃から思っている。会社では特にそうだ。けれどそのせいで、よけいストレスを感じているのかもしれない。
ストレスを呼び込んでいるのは自分自身。
「超合金」と呼ばれるようになってからは、むしろ自分からそれに寄せていっているような気さえする。
(あ~、なんだか頭がごちゃごちゃになってる……)
きっと、あまりにもいろいろなことがいっぺんに起こったせいだ。
こういうときに本当に親しい友だちに会えるタイミングの良さを、心からありがたいと思う。
「凛子! ここ、ここ!」
待ち合わせた居酒屋は、二人がまだ学生だったころから通っているチェーン店のひとつだ。下町の繁華街という土地柄のせいか、店内はいろいろな世代の客でいつも賑わっている。
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