2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟むそれなのに、今日に限ってこんなに気落ちしているのは、やはり慎之介の立場と、彼と初対面であることが関係しているのだろう。
(さ、帰ろ帰ろ!)
忙しい新社長のことだ。凛子のことなど、もうとっくに記憶の隅に追いやられていることだろう。
だから、凛子もくよくよすることなどない。凛子は、意識して気持ちを切り替え、一人ロッカー室に向かった。
いつもどおり帰宅し、いつもどおり過ごして迎えた翌日。今日は六月最後の火曜日だ。
凛子が今住んでいるのは、都内にある築十五年の三階建てのマンションである。
すべての部屋がワンルームであるそこの、最上階角部屋に住んでもう十年になる。大学進学と同時に引っ越してきたそこは駅から二十分と少し遠いが、治安もよく、知り合った近隣の人もいい人ばかりだ。
部屋はちょっと広めで、入居者の大半は凛子のような独身ОLらしい。すぐ近くにはスーパーやコンビニがあるし、さらに歩いて十分のところに小さな公園だってある。
通勤するにも便利で、ドアツードアで一時間もかからない。そういうことで、特に引越しをする理由も見つからないまま大学卒業後も更新を繰り返し、凛子はそこに住み続けている。
唯一残念なのは、三カ月前に建ったタワーマンションのせいで多少日当たりが悪くなってしまったことだろうか。
年中ほどよい陽光が入っていた住まいだったけれど、陽が入らなくなった。それまで見えていた公園の桜も見えなくなり、洗濯物の乾きも若干悪くなった気がする。
凛子は朝食を食べながら、テレビで天気予報を確認する。今日は一日晴れるみたいだ。これなら、洗濯物も問題なく乾くだろう。
窓辺に置いたアイビーにたっぷりと水をやったあと、メイクを済ませ着替えをする。
「さて、と。出かけようかな」
ローヒールの靴を履き、駅に向かう。歩き出してすぐに出会ったのは、近所の一軒家に住むおばあさんだ。
「あら。岩田さん、おはよう」
「おはようございます。この間はおすそ分けありがとうございました」
会社では「超合金」と言われている凛子だけど、プライベートまでそうであるわけではない。長く住んでいる分、近所で顔見知りになり、交流するようになった人だっている。
凛子だって根っからの「超合金」ではないのだ。
だけど、持って生まれた性格のせいか、仕事のときに喜怒哀楽をはっきり出すことができない。
社会人としてもう少し柔軟な対応ができればと思ったりもするが、こればかりはどうしようもなかった。
駅に着き、改札を通りすぎて電車に乗る。
ラッシュ時の電車は、立ち位置を確保するのも難しい。どうにか車両端のつり革を掴むと同時に、ベルが鳴り電車が走り出した。
目前の風景に目をやりながら、凛子はなんとはなしに、自分のことを考えた。
友だちは多くない。けれど、長く付き合っている親友はいるし、交友関係で特別に悩むことなどなかった。
不器用な自分のことを、たまに面倒くさいと思うことはある。だけど、いつだって前向きでいようと心掛けているし、社会に対してなんら恥じることなく生きてきたことだけは確かだ。
電車を乗り継いで、会社の最寄り駅に到着した。
「白鷹紡績」の始業時間は九時だが、凛子はそれよりも少し早めに出社している。経理部がある八階フロアは女性社員が多く、そのほうがロッカー室が空いているのだ。
凛子はいつもどおりの時間にフロアに下り立ち、ロッカー室のドアを開ける。その途端、むせかえるほどの香水の匂いが流れてきた。
(ん?)
日頃香水などつけない凛子にも、これが複数の香りが入りまじったものだということくらいはわかった。
見ると、普段ならもっと遅く来るはずの女性社員たちが、すでに着替えを済ませ、各自鏡に向かって化粧直しをしている。
(いったいなにごと?)
いぶかしく思いながらも、彼女らと挨拶を交わし、自身のロッカーを開けた。着替えながら自然と耳に入ってくるのは、いつになく弾んでいる話し声だ。
「新社長って、まだ独身でしょ? 彼女とかいるのかな?」
「どうだろう、もしかして募集中だったりして? もしかしたら、もしかするかも~! 一応頑張ってみてもいいよね~」
「だよね? せっかくだから気合い入れて仕事しようと思って、ちょっと早めに来ちゃった」
「え? やっぱそう? 私も~」
見ると、話し込んでいるのは全員独身の若い女性ばかりだ。
(なるほど、香りの原因は新社長か……)
凛子は一人そそくさと着替えを済ませ、ロッカー室を出た。
新しく来た社長が独身のイケメンとなると、女性社員のモチベーションも上がるということなのだろう。
凛子としては、正直彼のルックスなんてどうでもいい。大事なのは仕事ができるかどうか。さらに言えば、彼が経費精算のシステム化を許してくれるかどうかだ。
「白鷹紡績」では、経費の精算は例外を除き月に一度と決まっている。
毎月五日までに、かかった経費を項目をつけて申請書に記入してもらう。それを経理でまとめ、合計金額を給与と同時に振り込むのだ。
その作業は、かなり手間がかかる。なのに、いくら申請しても、経費精算のシステム化は進まない。
実は、経費精算が月に一度となったのは、榎本がどうにか上に根回しをして承認を得た唯一の成功事例だった。
凛子が入社した当初は、さまざまな経費が発生するたびに社員個々のタイミングで請求がなされていた。結果、経費精算ばかりに時間を取られ、ひどいときはそれだけで一日が終わってしまうことがあったくらいだ。
榎本の努力の甲斐あって、ずいぶん業務が簡素化した。しかし、やはり最終的には経費精算をシステム化して、さらなる効率化を図りたい。
そういった意味でトップ交代というのは、凛子にとってまたとないチャンスだった。
凛子は新たに書いた経費精算システム化に関する申請書を持って、榎本のデスクの前に立つ。
「部長、また電子化の申請をしてみようと思うのですが」
「ああ、例の経費精算の件かな?」
「はい、そうです」
凛子から渡された書類を受け取ると、榎本はそれに目を通しはじめた。
申請書を出すのはこれで五回目だ。しかし、今回用意したものは以前のものに比べてかなりブラッシュアップしてある。
新社長はアメリカ帰りである上に、年齢も若い。彼ならきっと、システム化することの意義を理解してくれることだろう。
システム化が叶えば、今現在やりたくても放置せざるをえなかった仕事に取りかかることができる。
たとえば、他部署と連携を取って必要な情報を共有し、それを分析して会社経営にかかわる有益な提案をする、などだ。
そもそも「経理」とは、「経営管理」の略である。つまり経理は、経営状況を正しく把握して、健全な企業運営を維持し向上させる部署なのだ。その気になれば会社トップと同じ目線で物事を考えたり、今後の方向性を見定めるのに役立つ経営資料を作ることだって可能なはず。ただ、今はそれをする時間がない。
そういった意味でも、一日でも早く経費精算のシステム化を実現させたいと思う。
パターン化した仕事をするだけではなく、もう一歩先を目指したい。
申請が承認されれば、もっと会社の役に立つ経理部になることも可能だ。
「うん、わかった。さっそく上に出しておくよ」
榎本は顔を上げて凛子を見ると、申請書を「至急」と書いてあるトレイの上に乗せた。
「今度こそ承認されるといいんだがなぁ」
そう呟く榎本の頭には、ここ最近白髪が目立ちはじめている。そのせいか、五十二歳という年齢よりも老けて見えた。時折りカバンから胃薬らしきものを出して飲んでいる様子も見られる。
部長職に就いている彼は、日頃上司として部下になにかと気を配ってくれている。
経費精算のシステム化に関しても、その重要性をきちんと理解し、実現するまで何度でも出してみようと言っている。けれど、出すたびに却下されているせいで、さすがにちょっと気弱になっているようだ。
これまで大きな失敗もなく勤めてきた凛子だけど、もし自分が「超合金」であることで彼にストレスを感じさせているとしたら……
そう考えると、部下として申し訳ない気持ちでいっぱいになる。二児の父親でもある榎本に、これ以上負担をかけたくない。
(今度こそ承認されますように!)
凛子は心の底からそう願うのだった。
次の日の朝、凛子はいつもより早くマンションを出た。
駅のホームは人影も少なく、電車の乗客も格段に少ない。座ることこそできないものの、車内は比較的空いていた。
ラッシュ時とは違って、今のような時間帯の電車であれば、いくぶんゆったりとした気持ちで会社に向かうことができる。
会社に到着しロッカー室に入ると、案の定まだ誰も来ていなかった。
(やっぱり早く来てよかった)
仮にいつもどおりの時間に出社していたら、昨日同様、部屋に充満する香水の匂いと混雑は避けられなかっただろう。
イケメン新社長に色めき立つ気持ちはわからないでもない。おしゃれする女心だって一応は理解できるが、所詮自分には関係ないことだと思っている。
準備を終え、ロッカー室を出る。経理部は、エレベーターホールを横切った向こうだ。凛子は、二基あるうちの手前のエレベーター前を通りかかる。ちょうどそのとき、ドアが開き、なかから男性が出てきた。
「おっと!」
男性とまともに体当たりしたような感じになり、バランスを崩しよろめく。
「あっ……」
倒れる――
そう思ったとき、伸びてきた腕が凛子の背中を支えた。
「ごめん――大丈夫か?」
軽く抱きとめられたような姿勢になると同時に、お互いの顔がほんの数センチの距離にまで近づく。
(えっ、氷川社長⁉)
派手に転ぶのだけは避けることができた。けれど、まるで社交ダンスの決めポーズのような格好になっている。
(な、なにこれっ!)
支えてもらいながら体勢を整え、一歩下がってまっすぐに立つ。
「はい、大丈夫です。――氷川社長、おはようございます」
凛子はなんとか気を取り直し、軽く頭を下げて挨拶した。慎之介が、にこやかな微笑みを浮かべる。
「おはよう、岩田凛子さん。君はいつも、こんなに早く出社するのかな?」
「いえ、普段は二十分ほど遅いです」
「今日はなにか用事でもあった?」
「特には……。少し余裕を持とうと思ったので」
さすがに本当の理由は言えない。しかし慎之介は、特に疑問を持たなかったようだ。
「ふぅん、そうか。前をよく見ずに歩き出して悪かったね」
慎之介が言うには、前の職場ではエレベーターを下りて左手に執務室があったらしい。しかし、ここでいう左手には女性専用のロッカー室と、非常口のドアがあるだけだ。それにそもそも、社長室がある階ではない。
彼はそれに気づいたのか、ややバツが悪そうに肩をすくめている。フロアのボタンも、前の職場と間違って押してしまったのかもしれない。
「上に行かれますか?」
「ああ」
慎之介の返事を聞き、凛子はエレベーターの操作ボタンを押した。幸いすぐにドアが開き、凛子は慎之介が乗り込むまで、ボタンを押したままそこに控える。
「ありがとう」
閉まりかけたドアの向こうで、慎之介がこちらに向かって小さく手を振ってきた。まるで友だちに対するような親しげなそぶりに、凛子は心底面食らう。
ドアが閉まり、エレベーターが上階に向かって動き出した。
凛子は、経理部に向かいながら、つい今しがたの慎之介とのやりとりを思い返す。
出会って二回目。しかも、天と地ほども立場が違う相手に気軽に手を振るだなんて。
イケメンである上に、あれほどフレンドリーであれば、社長でなくてもモテまくっているに違いない。
(そういえば、どうして私のフルネームを知っているの?)
一瞬疑問に思ったものの、おそらく興味本位で「超合金」の人事データを閲覧したかなにかだろうとあたりをつける。
(……経費精算システム化の申請、承認してもらえるかな……)
一生懸命働いているつもりではいる。けれど、黒木との穏やかとは言えないやりとりを見られているので、性格面で難があると思われたかもしれない。
システム化については問題なくても、申請者が凛子であることを知り、二の足を踏まれたらどうしよう。
自分の性格が業務に支障をきたすことになるなら、今後は改善を考える必要がある。
そんなことを思いながら、凛子は慎之介を真似て小さく手を振ってみた。
(うわぁ、似合わない)
予想どおりの感想を抱かざるを得ない自分に、小さくため息を漏らす。凛子はスカートで掌をこすると、足早に経理部に向かった。
◇ ◇ ◇
「うーん……岩田凛子、か……」
穏やかな陽光が射し込む社長室で、氷川慎之介はパソコンの画面を眺めながら首をひねった。
そこには、凛子の写真付き人事データが表示されている。
第一印象は、悪くはない。
言っていることは正しいし、口調が硬すぎるきらいはあるものの凛とした態度は見ていてすがすがしいほどだった。
それに、今朝エレベーターホールでぶつかったときの行動にも好感が持てた。
多くの人が慎之介の生まれや容姿を理由に低姿勢な態度になるなか、彼女は常に冷静で、突然のハプニングにも動じる様子はなかった。少なくとも、外見上は――
「賞罰なし、評価履歴問題なし。TOEIC八五〇、簿記検定一級、二級ファイナンシャル・プランニング技能士――なるほど」
仕事をてきぱきとこなす、いかにも真面目な人材。人事考課は概ね高評価で、事務処理能力は極めて高い。
一方、性格に関しては、柔軟性・協調性に欠け、融通が利かない傾向にある、などなど書かれている。
「なるほど……だから『超合金』なのか?」
くるくるとペンを回していた指を休め、先ほど彼女を支えた左手を見る。
少なくとも、身体の感触は「超合金」のように硬くはなかった。むしろ柔らかかったように思う。
「『超合金』ねぇ……。でも、顔立ちは綺麗だ」
慎之介は記憶力がよく、一度見た人の顔は忘れない。
彼女がこちらを見る瞳はまっすぐで、美しい色合いをしていた。身長も自分と並ぶにはちょうどいい高さだ。
それに、ヘンに媚びたりするよりも不愛想なほうがいい。
慎之介に近づいてくる女性は、自分の魅力を最大限にアピールしようと躍起になっている人ばかりだ。なかには、わざと気のないそぶりをして逆に気を引こうとする女性もいるが、そういう見え透いたことをしても、すぐに魂胆がバレてしまう。
だけど、岩田凛子の自分に対する態度は、明らかに今までの女性たちとは一線を画していた。
それにしても、彼女に対して妙にインパクトを感じるのはなぜだろう?
慎之介の左手の指が、凛子を支えたときに記憶した曲線を再現する。
少々アクロバティックな接触だったけれど、触れ合った瞬間に今までにない感覚を味わったのは確かだ。
(うーん……。俺の直感によると、彼女は『シロ』だ)
「シロ」とはつまり、犯人ではないということ。
慎之介は「白鷹紡績」の社長に就任するにあたり、同社の会計について独自に調査を進めていた。
きっかけは、今からひと月ほど前の、ある休日に聞いた話――
慎之介はその日、行きつけの飲食店で友人と食事を楽しんでいた。そして、彼から「白鷹紡績」社長就任に対する祝辞をもらっていたとき、たまたま隣に座っていた老人が驚いた顔で声をかけてきたのだ。
『いやぁ、こんなところで、もといた会社の新社長に会うとは思わなかったなぁ』
老人は、名前を九十九一郎といった。
聞けば、彼は「白鷹紡績」を十年前に退職した元社員だという。
「白鷹紡績」は、北関東に自社製品を製造するための工場を所有している。従業員数はおよそ百五十名。工場運営は本社の製造開発部の管理下に置かれ、会計課は本社経理部と直結している。
九十九老人は過去四十年にわたりその工場に勤務しており、最終的には管理部長まで出世したところで定年を迎えた。
現在東京に住む娘夫婦と同居中の彼は、慎之介に、工場に関する昔話を面白おかしく語って聞かせた。九十九老人とすっかり意気投合した慎之介は、ぜひまた話が聞きたいと言って、彼と再会の約束までしたのだ。
その後、ふと思い立って、慎之介は彼の人事データを閲覧した。すると、驚いたことに九十九老人はまだ退職扱いになっておらず、今現在も工場役職者として在籍中になっていることが判明する。
不審に思った慎之介は、過去にさかのぼって、自社工場と本社「白鷹紡績」の退職者を閲覧した。その結果、九十九老人のほかに五名の退職者が、いまだ在籍扱いになっていることが明らかになったのだ。彼らはいずれも部長以上の役職についており、なかにはすでに亡くなっている人物さえいた。
(いったいどういうことだ?)
さらにおかしなことに、一日空けて再度データを見たときには、九十九老人を含む六名分の退職処理がきちんとなされていたのだ。
調べてみたところ、給与に関するデータが作られるタイミングで、この不審な処理がなされていることがわかった。
さらに調査をしてみたが、数字上、特に問題は発見できなかった。しかし、明らかになにかがおかしい。誰かが人事と給与データを改ざんして、不正に退職者の給与分を横領しているのではないか……
むろん、九十九老人をはじめとした退職者本人たちが、それを受け取っている事実はなかった。
いずれにせよ、これは間違いなく不正行為だ。
これらのデータは、工場の会計課と本社人事部がやりとりをしており、実際の給与支払処理は「白鷹紡績」経理部が取りまとめて行っている。
つまり、「白鷹紡績」のどこかに、横領犯が潜んでいる可能性が高い。
本来ならば、すぐにでも「HAKUYOU」上層部に報告すべきだが、仮にほかにも不正が行われているとなると、安易に口外することははばかられた。
犯人は複数いるかもしれないし、上層部に横領犯の親玉がいないとも限らない。
慎之介は、就任早々経理に提出させた過去の書類とデータを閲覧し、工場の給与支払業務に携わっている社員をピックアップした。
そして、最終的に絞られたのは、役職者を含む四人の社員――
工場の会計担当者と工場長、および「白鷹紡績」経理部長榎本と、給与関係の担当者である岩田凛子だ。
経理部の二人については、榎本が人事部とのデータのやり取りを受け持ち、岩田凛子が実際の振り込み処理を担当している。
慎之介は今一度、目前の画面を、まじまじと見つめた。
岩田凛子――およそ横領に手を染めるような人間には見えない。
自分の人を見る能力から判断すると、彼女は「シロ」。
しかし、当然外見だけで横領犯ではないと断定することはできない。
先日閲覧した経理書類にはこれといった不備はなく、いずれも適正な処理がなされていた。ことに「岩田」と印鑑が押された書類については、経理関係書類のお手本と言ってもいいほどの出来だった。
だが、横領は確かに行われている。
自分が社長に就任したからには、そんな不正はぜったいに許さない。できる限り速やかに犯人を見つけ出し、真実を解明するつもりだ。
確実に追い詰め、ぜったいに逃がさない――
「さて、どうするかな……」
書類やデータ関連の調査を続行しながら、それとなく岩田凛子に接触してなんらかの情報を得るというのもひとつの手だ。
慎之介は、凛子の自宅住所に注目した。
「へえ、ご近所さんか」
見ると、彼女は自分が引っ越したばかりのマンションから歩いてすぐの場所に住んでいる。これもきっとなにかの縁だ。
「よし、少し近づいてみるか」
そう決めた慎之介は、まっすぐに前を見る凛子の写真に向かってにっこりと微笑みかけた。
◇ ◇ ◇
「村井さん、工場からきた在庫管理のデータ入力、終わりましたか?」
週明けの月曜日、凛子は経理部で唯一の後輩である村井のほうに向きなおった。彼は今年入社したばかりの新人で、デスクは廊下側にあるカウンター式キャビネットのすぐ横――凛子の左隣だ。
「はい、午前中のうちにばっちり終わらせましたよ。共同ファイルのなかに保存してあります」
ひょろりとした体型をしている村井は、二十五歳という年相応の顔をしたイマドキの男子だ。人懐っこい性格をしていて、すでに社内に知り合いも多く、教育係である凛子にもはじめから臆することなく話しかけてくる。
「ありがとう。お疲れ様でした」
村井に一声かけると、凛子はパソコンに向きなおってそのデータを開く。そして、一目見ただけで数値がおかしいことに気づいた。
「村井さん。この数字、どこからもってきたんですか?」
凛子に言われ、村井がパソコンの画面を覗き込む。
「えっと……これですけど……あれ? おかしいな……どこかから違う数字をもってきちゃったかな……」
にわかにあわてはじめた村井が、自分のデスクに戻りデータを調べはじめる。
「――あ、すみません! 桁が……いや、数字も間違って入力しちゃってますね」
中途採用の彼は、前にいた会社でも経理部に所属していたという。多少とはいえ一応実務経験者だということで採用されたようだが、前職では実質雑用ばかりやらされていたらしい。やる気は人一倍あるし、頼まれた仕事を処理するスピードは速い。しかし、いかんせんミスが多く、それを平然と提出してくるからちょっと困りものだ。
「入力を終えたあと、確認しなかったんですか?」
「しました! 二回確認しましたけど、確認漏れしちゃったみたいで……」
村井が大げさに肩をすくめ、ペコリと頭を下げた。
「じゃあ、今度から三回確認してください。村井さん、この間も同じようなミスをしましたよね」
「しましたよね~」
村井の間延びした声。
凛子は彼の目をまっすぐに見て口を開く。
「私は村井さんが入力してくれたデータをもとに、月次の決算資料を作成するんです。会議ではその資料を使って協議がなされ、今後の経営方針が決まります。村井さんが入力するデータは、それほど大事な数字だということを自覚していますか?」
「はい……いえ、自覚、足りていませんでした」
村井はがっくりとうなだれて、肩を落とす。
ちょうど榎本は離席中だが、主任たちは二人とも席についている。誰だって注意されているところを見られたくはないだろう。凛子はできるだけ声のトーンを落とした。そのせいか、一層抑揚のないしゃべり方になってしまう。
「あなたがミスをして、それがそのまま会議室の資料になれば、会社は多大な不利益を被ることになるかもしません。一桁の間違いが、億単位の損失を生む可能性だってあるんです。そうなる前に誰かがチェックしてミスを見つけてくれる――そういう考え方をしていると、いつまでたっても一人前になれないと思います」
「はい……」
村井が蚊の鳴くような声で返事をした。
本当は、こんなこと言いたくない。一見軽そうにも見える村井だが、本当は真面目な性格であることもわかっている。けれど、迅速に仕事をこなせたとしても、ミスをしては意味がないのだ。
そのたびに凛子に余計な手間がかかるのは事実だし、教育係としてそれを改善する方向にもっていかなければならない。
正直今の彼には安心して仕事を任せられないし、いずれ村井自身が困ることになるだろう。だからこそ、今厳しく言って、一日も早くひとつの業務を担当できるよう成長してほしいと思うのだが……
「まぁまぁ、岩田さん。そのくらいにしておいたら? 村井君もわざと間違ったわけじゃないんだからさ。なっ?」
二人の背後から、突然男性主任の谷が口を挟む。彼は三十代後半の既婚者で、デスクの上に妻の写真を飾っているほどの愛妻家だ。
「え? あ~いえ、僕は……」
村井がキョトンとした顔で凛子と谷を見比べる。
「いいからいいから。村井君、ちょっと一服しにいこうか。岩田さん、彼を借りていいかな?」
「はい、どうぞ」
凛子の返事を聞くと、谷は村井の背中を押しながら休憩室のほうへ歩いていった。ちらりとこちらを振り返った村井が、眉尻を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべている。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。