経理部の岩田さん、セレブ御曹司に捕獲される

有允ひろみ

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1巻

1-1






「この領収書だと詳細がわからないので、処理できません」

 経理部の廊下側に並ぶカウンター式キャビネットを挟んで、二十八歳の岩田いわた凛子りんこは今、営業部の男性社員と対峙たいじしている。

「詳細? そこの備考欄に書いてあるでしょ」

 凛子のきっぱりとしたもの言いが気にさわったのか、男性は持参した交際費精算書をあごで示した。
 書いてある? 「経費」と書いてあるこれのどこが詳細というのか。接待等でかかった交際費の精算には、取引先の会社名や参加人数、目的などを記載しなければならない。
 それに、支払いが発生した日付は二カ月も前。おまけに、本人記入の支払日と領収書の日付が違っている。
 だいたいこの「単価平均二千円」というのはなんだろう。突っ込みどころが多すぎて、いちいち指摘するのも面倒なくらいだ。
 凛子が勤務する「白鷹はくよう紡績ぼうせき」は、れっきとした株式会社である。名前こそあまり知られてはいないが、社員数は五百余名。世界規模で事業をおこなっている大手繊維メーカー「HAKUYOU」の子会社のひとつでもある。そんな大企業の傘下にいる会社の経理が、こんなお粗末な経費申請を承認していいはずがなかった。
 凛子は受け取った精算書を返しながら、口を開く。

「ここに書かれている情報だけでは、経費の精算処理をするには不十分です。それに、申請者印と承認印がぜんぶ同じです」
「あのさぁ……印鑑とか、どうでもよくない? うちの上司、係長から上全員夕方まで帰ってこないんだけど」

 意図的に語尾を上げた話し方としゃに構えた態度。彼の言動には、営業という花形部署に所属しているというプライドが見え隠れしている。

「どうでもよくはありません。もう一度経費精算マニュアルをよく見て、改めて申請願います。その際は、単価と人数を明記してください。もちろん、承認印も全員別の人でお願いします」

 向かい合っている顔に、明らかに不機嫌そうな表情が浮かぶ。

「はいはい、わかりました」

 渋々発せられた返答を聞き、凛子はくるりときびすを返した。キャビネットから机ひとつ隔てた自席に戻る途中、背後から大げさな舌打ちの音が聞こえてくる。

「ったく、可愛げのない『超合金』だなぁ。そんなんだから彼氏の一人もできないんだろうよ」

 わざと聞こえるように言っているのは、重々承知している。

(よけいなお世話です)

 心のなかで独り言を言うと、凛子はあえて反応しないまま席に座った。そして、やりかけの仕分け業務に取りかかる。
 その様子からは、まるで感情の動きが感じられない。
 実際、凛子は会社ではほぼ無表情で、喜怒哀楽きどあいらくを表に出すことはなかった。むろん、人並みに感情はあるし、今だってかなりいきどおりを感じている。けれど、それが人に伝わりにくいゆえに、周りは皆、凛子には感情の起伏などないと思い込んでいるのだ。
 そんな凛子につけられたあだ名は、経理部の「超合金」――
 凛子がそう呼ばれはじめたのは、入社して一年ほど経った頃のことだ。
 教育係をしてくれていた先輩社員が、急遽きゅうきょ退職することになった。結果、それまで補佐的業務をおこなっていた凛子が、経費の精算を含む現金預金の管理と、給与に関する業務全般を担うようになる。
 当然、他部署社員とのかかわりも多くなり、その分軋轢あつれきも生まれやすい。
 もともと几帳面な性格だし、やるからにはいつ税務調査が入ってもいいように完璧な仕事をしたいと凛子は思っている。
 そもそも経理部とは、どんな小さなミスも許されない部署だ。そういった面では凛子に最適な部署だと言えるだろう。
 びない、群れない、れ合わない。
 そんな凛子の姿勢のせいか、一部の社員いわく、凛子の対応はガチガチに硬くて、冷ややかであるらしい。なにもわざとそうしているわけではないし、自分なりに誠意をもって対応しているつもりだ。だけど「超合金」と呼ばれているだけあって、なかなかそれが人には伝わらない。
 さすがに面と向かって「超合金」と言う人はめったにいないものの、その呼び名がすでに社内中に浸透していることは凛子とて、重々承知している。
 けれどその「超合金」な態度が、凛子の会社における処世術であり、仕事をする上でなるべく波風を立たせない最善の方法だった。

「岩田さん。はい」

 経理部長の榎本えのもとが、通りすがりに凛子に一枚の書類を手渡してくる。

「これ、七月から九月までの夏季休暇取得カレンダー。あとでホワイトボードに貼っておいてくれる?」
「はい、わかりました」

 受け取った書類を見て、すばやく内容を確認する。現在、経理部に所属しているのは六人。そのうち女性社員は凛子を合わせて二人だ。
 六月最後の週である今の時点で、もうすでにカレンダーは休暇を示す赤い棒線でおおかた埋められている。

「休みの日程が決まってないの、岩田さんだけだよ。予定があるなら、早めに押さえておいて」

 カレンダーを覗き込みながらそう言うと、榎本は悠々と部署を出てエレベーターホールへ歩いていく。家族持ちの彼は、毎年夏になると一家そろってどこかしら海外旅行に出かけている。

(夏季休暇っていっても、どうせ実家に帰るくらいだしなぁ……)

 凛子は誰とも休みが被らない八月第二週目の三日間に棒線を引いた。
 身長百七十五センチ、体重五十八キロ。
 女性にしては少々背が高すぎると言えなくもないが、容姿は決して悪くない。目鼻立ちは普通に整っているし、十人いれば五人は美人だと言ってくれるであろう顔をしている。
 だけど、いかんせん凛子には可愛げというものが欠片かけらもなかった。そのせいか、もう八年近く恋人なしの生活を続けている。
 席を立ち、カレンダーをホワイトボードに貼り終える。ふと窓を見ると、下ろされたブラインドの隙間からすっきりとした青空が見えた。
 会社が入っている十三階建てのビルは「HAKUYOU」が所有している。「白鷹紡績」は、七階から十三階を使用していて、凛子が所属する経理部は八階だ。
 ビルの周りは東京でも屈指のビジネス街で、外を歩けば有名企業の社員がわんさかいる。
 努力すれば、気に入った誰かと話すきっかけくらいは掴めるかもしれない。
 けれど、凛子はそういったことにまったく興味がなかった。
 過去に一度だけ、男性と付き合ったことはある。けれどそれは向こうから申し込んできて、なんとなく付き合いはじめた、というものだ。
 もちろん、付き合うと決めたからには、恋人として真面目に向き合ったつもりだ。しかし、結局は心をかよわせることもなく、恋愛というにはあまりにも短くて浅い付き合いで終わってしまった。
 取り立てて恋人がほしいと思わないのは、そのときあまりいい別れ方をしなかったせいもあるかもしれない。
 今は仕事だけでいい。
 数学教師だった母親の影響か、数字は昔から好きだ。数学は恋愛のように曖昧あいまいで不可解な部分などない。そういった意味でも、数字を扱う今の部署は、自分に合っていると思う。
 経理は地味で面白みのない仕事だと言われることもあるが、ぜったいにそんなことはない。確かに営業部のような花形的な存在ではない。けれど、健全な会社経営を継続するためにはなくてはならない部署であり、まさに縁の下の力持ち的な存在だと言える。
 そして、そこで扱うのはお金だ。
 だからこそ、ぜったいにミスは許されない。ほんの少しの間違いが会社に多大な損害をあたえてしまうことだってある。それを未然に防ぐためにも日々気を抜かず、些細な不備であっても見逃すわけにはいかなかった。

「岩田さん、昨日言っておいた書類、もうまとまってる?」

 しばらくの間パソコンでもくもくと経費の入力作業を続けていると、背後から女性主任の園田そのだが話しかけてくる。

「はい、これです」

 凛子は足元に置いていた二箱の段ボール箱を指し示す。

「そう。じゃあ、社長室に持っていってくれる? 私も手伝うから」

 園田に促され、凛子は処理中の書類を片付けて椅子から立ち上がった。二人それぞれに段ボール箱を抱え、エレベーターホールに向かう。突き当たりの壁が全面ガラス張りになっているそこは、明るい日の光に満ちあふれていた。

「明日の午後、いよいよ新社長がおでましになるわね」
「そうですね」

 園田が言い、凛子があいづちを打つ。
 今年の春、前社長が持病の悪化のために長期入院することになった。年齢の面から考えても、彼の職場復帰は容易ではない。その結果、急遽きゅうきょ役員たちが招集され、前社長の退任が決まった。そして、その後任として前社長のおいであり「HAKUYOU」アメリカ支社営業部長だった氷川慎之介ひかわしんのすけが新社長に就任することになったのだ。
 彼は同社の創業者一族の生まれであり、父親は現在「HAKUYOU」の社長を務めている。
 トップの人事には必要以上の興味などない凛子だけど、慎之介の辣腕らつわんぶりは自然と耳に入ってきていた。
 今運んでいる書類は、彼が榎本に事前連絡をして閲覧えつらんを希望したものだ。

「聞いた? 新社長って、まだ三十四歳なんだって。私より五つも年下なのに、もう子会社の社長になるとか、すごくない? さすが御曹司よね。イケメンで、まだ独身だっていうし……あ~あ、私がもうちょっと若かったらなぁ」

 エレベーターに乗り込みながら、園田が凛子に話しかける。彼女は凛子よりも入社が五年ほど早い。一昨年まで物流企画部にいて、異動で経理にやってきていた。

「もし、経理関係で呼び出しがかかったらどうしよう? ドキドキするかも。もしものときは、岩田さんも立ち会ってね。な~んて、なにかあっても部長を呼び出して終わりだよねぇ」

 園田がエレベーターの壁にもたれかかりながら、大きくため息をく。ドキドキする、なんて言っている彼女だが、目下気楽な独身生活を満喫中であり、自ら結婚願望はないと公言している。
 十三階に到着し、マホガニー色のフロアを進む。すれ違った秘書課の女性と挨拶あいさつを交わし、廊下の一番奥の社長室のドアを開けてもらった。
 デスク脇に段ボールを置き、ぐるりと部屋のなかを見回す。
 およそ十六畳の部屋の一角には、海外から届いた新社長の荷物と、会社ロゴが入った段ボールが積まれていた。段ボール箱のなかは、おそらく各部署から届けられた書類だ。
 世間でもそうであるように、ここ「白鷹紡績」でも社内文書の電子化が順次おこなわれている。けれど、そのスピードはかなり遅い。しかも経理部だけはなぜかその流れに乗ることができず、伝票や決済書類のやり取りはいまだに紙がメインだ。
 凛子は、これまでに何度か経費精算のシステム化を申請している。
 日々のルーチン業務をこなすなか、誰かが経費の精算を依頼してくると、凛子がそれまでやっていた業務がストップしてしまう。それでは効率が悪すぎるし、人件費的に考えても無駄遣いだ。文書管理の利便性やコスト削減の観点からいえば、電子化は急務のはず。
 もし経費精算システムが電子化されれば、プログラムによって不正や申請ミスなどを自動的に検知することができる。
 しかしながら、古参社員の「紙」びいきは、思ったよりも根が深い。彼らいわく――

「データでのやり取りは、現実味がない」
「実際に押した印鑑が並んでこその社内文書」

 お金に関する書類は、なおさらそうであるらしい。
 そんな感覚的な理由で、これまで経費精算のシステム化は何度も見送られていた。申請の仲介役である榎本は、凛子の言い分を理解してくれる。しかし、彼が何度決裁印を押しても、上層部が首を縦に振らないのだ。

(はぁ……いつになったらこんな無駄がなくなるんだろう?)

 これまでの申請は通らなかったけれど、新社長就任を機に社内に新しい風が吹くかもしれない。
 そんな希望が出てきたという意味では、凛子も今回のトップ人事を大いに歓迎するつもりだ。
 用事を済ませ社長室を出た凛子は、園田と別れ一人秘書室に向かった。そして、先ほどドアの開閉に手を貸してくれた女性秘書に声をかける。

「すみません。新社長から届いた海外からの荷物の費用精算はどうなっていますか? それと、社長室に置かれていた観葉植物が見当たりませんが、どこかに移動したんでしょうか?」

 デスクに就いていた女性秘書が顔を上げる。

「あ……荷物の費用については、まだなにも伺っていません。社長室にあったベンジャミンは、たぶん前社長の荷物と一緒にご自宅に送ったんじゃないかと――」
「そうですか。あの観葉植物は、レンタルグリーンです。できるだけ早く所在の確認をしていただけますか? 新社長の荷物に関しては、わかり次第連絡をお願いします」
「わかりました」

 女性秘書に軽く会釈えしゃくすると、凛子はきびすを返してエレベーターホールに向かう。しかしエレベーターの前を素通りし、奥にある非常口のドアを開けた。
 凛子は日頃から、できるだけエレベーターよりも階段を使うことにしている。さすがに地上との行き来にはエレベーターに乗るが、社内の移動はもっぱら階段利用だ。めったに人がいない階段の上り下りは、仕事の合間のリフレッシュにもなっている。
 八階まで下りて、凛子は自席に戻った。そして、個人の業務スケジュール表に、新たにできた事項を付け加える。

(新社長の荷物運賃と、社長室の観葉植物の件、要確認……っと)

 小さな仕事を日々こつこつとこなす。派手さはない。しかし、それらを確実にこなしてこそ、完璧な年次決算へと繋がるのだ。
 そうして日ごと持ち込まれる仕事をきちん処理し続けていたら、いつの間にか入社六年目を迎えていた。
 さほど変化がなく淡々とした業務内容を、つまらないと思う人は少なくないだろう。だけど、凛子はむしろそれを心地いいと感じる。仕事に対する向上心は持っているが、ようやく中堅社員になった今は、目の前の仕事をきちんとこなすことが最優先事項だ。


 少し遅めの昼休みを終えて、デスクに戻る。そのタイミングで持ち込まれた仕事は、出張に伴う仮払い業務だった。
 やってきたのは、営業部の黒木くろきという男性主任だ。彼は、いつも凛子が「今だけは話しかけられたくない」というときにやってきては、なにかしら仕事を依頼してくる。
 今回彼がやってきたのは、凛子が月次決算にかかわる検算をしているときだった。

「岩田さん、パパ~ッと仮払いお願い」

 黒木が手にした書類をひらひらと振る。

(もう! あと少しで検算が終わったのに……)

 黒木に話しかけられた時点で、検算は振出しに戻った。せっかく調子よく進んでいたのに。
 だけど、もうどうしようもない。凛子はいさぎよく諦めて席を立ち、キャビネット越しに黒木と対峙たいじする。

「わかりました」

 差し出された仮払い申請書を受け取った凛子は、いつものように表情ひとつ動かさずに内容に目を通す。
 そして、顔を上げる。

「黒木主任、これでは仮払いはできません」

 なにがパパ~ッとだ。
 彼は二カ月に一度は出張に行くが、毎回どこかしら不備がある申請書を提出してくる。
 たった一枚の書類すら満足に記入できない社員が、はたして営業先で成果をだせるのだろうか?
 そう思ったりもするが、黒木は、営業部ではできる社員としての地位を確立しているらしい。
 ならば、それほど成績を上げている彼が、どうしてまともな仮払い申請ができないのか――
 そんな凛子の疑問をよそに、黒木はわざとのように驚いた表情をした。

「え、なんで? 部長の印鑑も押してあるし、完璧でしょ?」

 黒木が身を乗り出して、申請書を覗き込む。

「確かに営業部長の承認印はありますけど、この内容では処理できません」
「だから、なんで?」
「前回も言いましたが、これではいつどこに行ってなにをするのかが、いっさいわかりません。必要な項目をきちんと記入してから再度提出してください」

 仮払いを申請するときには、所定の書類に必要なことを記入した上で提出する必要がある。しかし、黒木が持ってきた申請書はそれがなされていない。

「よく見てよ。備考欄に行き先とかは書いてあるでしょ。それに、日程といっても今回はたった一日だよ? どうせもうじき月初の精算日だし、そのときにきちんとしたものを出せば問題ないだろ」

 仕事上でなにかあったのか。今日の黒木は、やけに食ってかかったような言い方をしてくる。
 明らかにイラついている様子の黒木に対して、凛子はいつも以上に冷静な声で受け答えをした。

「仮払いには、行き先と目的のほかに、移動手段と区間の記入が必要です」

 無表情の凛子とは対照的に、黒木は眉を上げ下げしつつ熱弁をふるい続ける。

「だから、それは精算するときに書くって。俺は営業だよ? 出張先では、あちこち飛び回る予定だし、場合によっては思いもよらないところに足を延ばさなきゃいけないかもしれないんだぞ」
「そういったこともある程度想定した上で申請してください。むろん、常識の範囲内で。それに、出張先での少額の交通費なら、普段どおりいったん立て替えていただくか、営業部用にお渡ししている乗車カードを使ってください」

 凛子は黒木に向かって申請書を差し出す。しかし、彼はわざと明後日あさっての方角を向いて、それを受取ろうとしない。

「あぁ、わかったわかった。じゃあ、次からはそうするから、今回はこれで」

 黒木は適当なことを言って、なおも食い下がるつもりだ。繰り返される不毛なバトルには、ほとほと嫌気がさす。
 しかし経理部で小口現金の出納すいとうを担当している以上、他部署社員とのこういったやりとりは避けられない。仕事をきちんとやろうとすればするほど、どうしても煙たがられるのだ。
 重箱の隅をつつくようなことをしていると言われても、それが仕事なのだからやらざるを得ない。経理部とは、そういった意味では損な役回りを担っている部署と言えるだろう。
 凛子はやむを得ず、不備のある個所を指し示しながら、該当する経理規程を抜粋して唱えはじめた。

「この部分ですが、規程では――」
「ああ、もういいよ、わかりました! もう降参して書き直してくるって」

 黒木が肩をすくめ、小さく両手を上げて降参のポーズをとる。

「そう言えば岩田さん、午前中もうちの部の川村かわむらとやりあったんだって? 前から思ってたんだけど、ちょっと俺ら営業部に対して厳しいんじゃない?」

 ようやく片付くと思ったら、今度は当てこすりだ。
 凛子は書類から視線を上げ、黒木の顔を正面から見つめなおした。

「そんなつもりは一切ありません。私は経理規程にのっとった申請書の記入をお願いしているだけです」
「あ~あ、出たよ超合金」

 黒木がひときわ大きな声を上げる。
 そのとき、黒木の背後からほがらかな男性の声が聞こえた。

「超合金? それって、どういう意味なのかな?」

 黒木の肩を、男性が片手でポンと叩く。

「は? そりゃ、見てのとおり四角四面で融通が利かない対応ばかりする経理の――あ……しゃ、しゃちょっ……!?」

 うしろを振り向いた黒木が、いきなり頓狂とんきょうな声を上げる。
 凛子は、黒木の背後にいる背の高い男性の顔を見上げた。彫りの深い、まるで美術品のように整った顔が、穏やかな微笑みを浮かべている。

(えっ? この人が新社長?)

 つややかな黒髪に、高くてまっすぐな鼻筋。
 めったに動揺などしない凛子だけど、突然現れた美男子を前に、さすがにちょっとだけ面食らった。
 社内報で写真を見たことはある。だけど、どれもみな小さな写真だった。実物を見るのはこれがはじめてだ。
 なるほど、確かにイケメンであることに間違いない。けれど、それは今、仕事にはなんの関係もない。
 すぐに気を取り直した凛子は、自分に向けられた彼の目をまっすぐに見つめ返す。

「氷川社長、お疲れ様ですっ!」

 黒木の裏返った声が、凛子が会釈えしゃくしたタイミングと被る。

「やあ、お疲れ様。それ、何の書類? ……ふぅん、仮払い申請書か」

 黒木の横から書類を覗き込むと、慎之介が軽く頷いた。そして、改めて凛子に視線を向ける。
 その口元に、真っ白な歯が零れた。
 ここは微笑み返すべき? そう思いながらも、日頃の無表情が板についていて、急には対処できない。

「ざっと見ただけでも、不備がふたつあるね。これじゃあ、突き返されても文句は言えないかな」
「あ……はい」

 もごもごと口ごもる黒木の背後から、離席中だった榎本が現れた。そして慎之介と挨拶あいさつを交わし、凛子に状況をたずねる。すぐに把握した榎本が、書類を手にした。

「黒木君、じゃあこれ――」

 榎本が、申請書を黒木に差し出す。黒木はそれを受け取り、作り笑いを浮かべながら去っていった。

「あ、氷川社長! こちらにいらしたんですか」

 黒木と入れ違いに、秘書課長がやってきて慎之介になにごとか話しかける。小柄な彼の話を聞くために、慎之介が身体をかがめた。
 そのさまが、やけに決まっている。
 凛子でも見上げるほどだから、たぶん身長は一九〇センチを超えているだろう。年齢の割に貫禄かんろくがあり、見るものを圧倒する並外れたオーラがある。ダークグレーのスーツが驚くほど似合っていて、スタイルのよさはまるでパリコレのモデルだ。
 こんなに完璧な容姿の男性を、凛子は見たことがなかった。
 それにしても、さっきから彼とやたらと視線が合うような気がするのは、どうしてだろう?

(って、ただの気のせいだよね)

 そう思うものの、やはりなんとなく居心地が悪い。用事も済んだことだし、もう席に戻ろう――そう思ったとき、慎之介の視線が、がっちりと凛子をとらえた。
 にらまれたわけではない。けれど、なぜか一瞬全身を射貫かれたような緊張が走った。

「じゃあ、また」

 慎之介がにっこりと微笑み、凛子はもう一度軽く頭を下げた。
 顔を上げ、去っていく背中を見つめる。ちょっとした放心状態におちいっている凛子の背後から、園田の感じ入ったような声が聞こえてきた。

「ちょ……、いきなり登場するなんて、びっくり! でも、聞きしに勝るイケメンだわぁ」

 予定では、出社は明日の午後からだったはずだ。それなのに意表を突いて一日早く顔を出すとか、なにか意図するところでもあったのだろうか。
 慎之介のおかげか、黒木はあれからすぐに必要事項を漏れなく記入した申請書を持ってきてくれた。
 凛子は密かに、慎之介が顔を見せてくれたことに感謝する。
 けれど、喜んでばかりはいられない。

(新社長との初対面があれって……)

「超合金」呼ばわりされているところを見られるなんて、さすがにバツが悪い。
 とはいえ、彼は代表取締役社長だ。
 一度会っただけの平社員のことなど、きっとすぐに忘れてしまうに違いない。今日は就任の挨拶あいさつがてら各フロアを回っていた様子だったが、今後は社長自ら経理部に来ることなどないだろう。
 もし経理についてなにか質問があったとしても、園田が言ったように榎本が対応するはず。今後凛子が社長と直接かかわる可能性などありはしない。
 慎之介の思いがけない登場のせいで社内がなんとなくざわついているなか、凛子はいつもどおりに業務をこなし、終業時間を迎えた。
 明日やることの確認を終えて、凛子はテキパキとデスクの上を片付けはじめる。仕事が残っていれば、残業はいとわない。けれど、今日中にやるべきことをすべてやり終えた今、一部社員のようにデスクに居座って無駄な時間を過ごすつもりなどなかった。

『――見てのとおり四角四面で融通が利かない対応ばかりする経理の――』

 昼間黒木が言った言葉が、今になって小さな針となって凛子の胸をチクチクと突きさしてくる。
「超合金」と呼ばれるのは今にはじまったことではないし、今さらそれについてどうこう言うつもりはない。けれど、今日はすぐそばに新社長がいたのだ。そのことが、凛子にいつも以上に精神的ダメージを与えている。

(いくら「超合金」と言われていても、私だって生身の人間なんだからね)

 今でこそ「超合金」と呼ばれることに慣れてしまっているけれど、はじめからそうだったわけではない。そんな言われ方をすれば傷つくし、自分のことを振り返ってみて、どこがどう悪いのか思い悩んだことだってあった。
 けれど、仕事上譲れない部分があるし、生まれ持った性格はそう簡単に変わるものでもない。
 結局それを甘んじて受け入れ、聞き流すことで凛子は自分のなかで折り合いをつけた。気にならないと言えば嘘になるが、いちいちくよくよ考えてもはじまらないと思うようにはなっている。


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