翠の子

汐の音

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1章 原石を、宝石に

8 取り扱いにご注意を

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 そういえば、あの子は女の子のイメージだったな――――

 スイは、“コーラル細工師個人工房”の表札をちらりと横目で窺いながら、緑色の玄関扉を押し入った。

「ただい…」
「うっわーーーー!! お願い、頼む、それだけはぁあーーーあぁっ!!!」
「……」
「……」

 師弟はぎょっとして、素早く顔を見合わせた。
 聞こえた悲鳴、というか嘆願。大の男があられもなく上げる類いのものではない。

「やばい。遅かったか…」
「……お師匠さま? 笑ってますよ、顔」

 「んん?」と廊下をすたすたと歩みつつ、黒髪の女性は年齢の割に無邪気な光を黒紫の瞳に乗せている。
 きらきらと、楽しげな――でもきっと、こんな色彩いろの宝石は何処どこにもない。

 年齢不詳美女、スイはふふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。歩みは緩めない。突き当たりをスッと右に曲がる。

「だって、かれ。妙に余裕だし、一々いちいち構ってくるんだもの。ちょっと崩れた二枚目半とか、激烈に見てみたいなぁって」
「…お師匠さま、けっこう根にもってたんですね…」
「いやいや、この年齢としになると女性扱いしてもらえるのは光栄なことなんだよ、キリク? それに――」

 カチャッ

 勝手知らぬ他人の家。しかし、ここなら完璧とばかりに悠々と、スイは応接間兼仕事場の扉をひらいた。


 青年が、窓に面した作業台に突っ伏している。
 なおも近づき、その大きな背中越しに覗き込むと手元の緑柱石エメラルドと、散乱する粉砕された道具類が見えた。

 (うわぁ……)

 さすがに、キリクの顔が同情に歪む。かれ自身、祖父譲りの彫刻の心得があるので、職人として道具にはそれなりの愛着を持っている。

 折れる。
 これは、心を抉られる……!


 ――が、スイの顔は涼しかった。且つ、機嫌よく唇をひらく。

「嫌いじゃないよ? 好きかも。こういう感じのひと」
「……そういう大盤振る舞い、僕はよく分かりませんが、まちがいの元だと思います」
「そう? だめ?」
「だめです」

 師弟は小声でやり取りしつつ、とりあえず青年が立ち直って、自分達に気がつくのを待った。



   *   *   *



「ちくしょう……いくら“精霊付き”だからって。なんなんだ、この職人殺しめ……」

 青年は、卓上の原石に向かってだぶつぶつと呟いている。自棄やけとも見える勢いで、土産の焼き菓子を口に放り込んだ。
 キリクも行儀よくそれを手に取り、かじる。

 香草入りのクッキーは小麦とバターの配分が絶妙で、さくっと音をたてて口の中でほろほろになる。細かく刻まれた名前の知らない香草ハーブは、爽やかな風味がした。

 コポポポ……と、目の前でスイがお茶を淹れた。

 傷心の青年は「どうも」と、差し出された茶器を受け取る。ふぅ、と吹くとそのまま静かに口許に当て、束の間くゆる湯気に、ふ、と目許を和ませた。

 こうして見ると、下町にそぐわない空気がある。ひそめられた凛々しい眉、遠くを見るような碧眼。何よりふとした仕草の、無駄のなさ。

 (厄介だよなぁ……お師匠さまの好みは、よくわかんないや)

 みずからが与り知らぬことに、あまり首を突っ込まないほうがいい。
 キリクはそう判断し、口をつぐんだ。

 コト、と茶器を置いた青年は、テーブルの傍らに立ってポットを傾けるスイを仰ぎ見る。

「おねーさん。何か、心当たりある? 俺、“精霊付き”は初めてじゃないけどさ。こいつ、なんか違う気がする」

 こいつ、と顎で指し示した途端。
 原石はまるで意思を持ったようにちかっ! と金を帯びる翠の光を閃かせた。
 スイは嘆息する。

「だめだねぇ。貴方、細工師としては腕が良さそうだけど男のひととしては、てんでだめ。ご覧なさい、すっかり拗ねてしまった」
「……えっ?!」

 カチャン!

「お師匠さま、それって? ……あ、ごめんなさい」

 驚きの余り、手にした茶器を勢いよく卓に置いた拍子に、キリクはお茶を少々溢してしまった。
 師である女性は「めっ」という眼差しを軽く弟子に流すと、困ったように瞑目し、左手を頬に添えてゆっくりと首を傾げた。

「その子、女の子だよ。鉱山で見つけたとき、そんな印象だった。ごめんね?言うの忘れてて」
「……え。ちょっと待て。まさかこいつ、あんたらが直接、切り出し……ぅわッ!」

 再びチカチカと閃く原石いしに気圧され、押し黙る青年。
 スイは、やれやれ……と、軽い調子で語り始めた。

「そう、他とは違う。その子はまだ何の枷も填められていない―――まったき、自由な精霊だよ」
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