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第15話[接吻]
しおりを挟む幕が閉じても拍手が鳴りやまない舞台裏で、花園に呼ばれた飛英は、ガウンを羽織った姿で2階の事務所に案内された。扉をあけると、軍服を着た礼慈郎が長椅子に坐っていた。うながされて向かい側の椅子へ腰掛けた飛英は、思わず髪留めのピンをはずして額を隠した。白粉をぬってあることを忘れるほど、予期せぬ状況に途惑った。
まさか、醜い容姿に苦言を呈するためやってきたのではと、相手の心情を勘ぐっていると、あからさまにため息を吐かれた。花園は必要な手続きをすませるため、いったんどこかへ姿を消している。軍人とふたりきりになった飛英は、緊張と不安のあまり、小刻みに指がふるえた。
「そんなふうに四角くなっていると、見ているおれも肩がこりそうだ。今夜のところは書類にサインをするだけで、おまえを拐ったりはせんから安心しろ。」
「……書類にサイン? いったいなんのことですか?」
おそるおそる聞き返すと、礼慈郎は露骨に眉を寄せ、長い足を交叉して腕組みをした。まっすぐ飛英の顔を見据え、自己紹介を兼ねて応える。
「織原飛英といったな。すでに狩谷から聞いているだろうが、おれは利玄礼慈郎という。見てのとおり軍人だ。それなりに経済力もある。ゆえに、おまえを劇場から買い取らせてもらう。……ことばの意味がわかるか? おれは、おまえを身請するためにきた。断るなよ。」
一瞬、目の前がまっ白になった……ような気がした飛英は、虚を突かれて沈黙した。身請とは、ストリップ劇場で働くさい、契約書に記されていた制度のひとつで、気に入った芸者を稼業から身を引かせ、愛人として囲うことができる。それには大金を用意する必要があるため、自分には関係ない話だと思いこんでいた。
「そ、そんな急に……、わたしなんかを、どうして……、」
「文句は云わせん。黙ってしたがえ。」
「……しかし、なぜ、」
「この話が流れた場合、おまえは常連客である黒いスーツを着た紳士の慰みものになるぞ。花束の差出人で、おれと同じく、英の身請を考えている男だ。俗世に執着するような隠居に凌辱されたくなければ、おれのもとへ来い。少しはマシな生活を送らせてやる。」
憐れみの表情へ変わる礼慈郎だが、身請人として引き取る以上、性交渉を要求する権利を持っている。軍人の胴まわりや、詰襟の首許に目を留めた飛英は、にわかに動揺した。しかし、こたえはきまっていた。不束者ですがよろしくお願いしますと、頭をさげる場面である。だが、軍人は左手の薬指に銀色の指輪をはめていた。職業が士官学校の教官という情報を得ていた飛英は、きっと、育ちのよい優秀な女性と結婚したのだろうと思った。
「……わたしは……、」
ふさわしくない。いくら愛人とはいえ、地位も名誉も手に入れたまっとうな男に、面倒を押しつけるわけにはいかない。それが、飛英の本心だった。
「待たせたな。これが念書だ。今すぐサインして前金さえ納めれば、身請話は成立だ。」
花園が作成した書類を差しだすと、礼慈郎は迷うことなくサインして、軍服の内ポケットから茶封筒を取りだした。芸者の意思とは関係なく手続きが完了すると、花園は飛英をふり向き、「大事にしてもらえよ」といって退出した。気持ちの整理が追いつかず茫然となる飛英は、何かが口唇に触れた瞬間、ハッと我に返った。長椅子を立ちあがり、おもむろに顔を近づけてきた礼慈郎は、飛英の細い肩を引き寄せて接吻した。
✓つづく
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