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第96回[結論]
しおりを挟む葉巻の烟が充満する応接間で、闇市の支配人と向き合う礼慈郎は、席を立ちあがり、窓をあけた。新鮮な風で、よどんだ空気を吹き飛ばすと、窓枠に腰を預けて腕組みをした。
「閨房の助言ならば、いっさい無用である。第三者に、とやかく云われる筋合いはない。」
「自信があるということか、」
と、話をややこしくするキラに対し、礼慈郎は「群を抜いて」と、強気な発言で打ち消した。悲しみも怒りもほどほどの暮らしを送ってきたが、飛英と出逢ってから思い悩むことが多くなり、自分でもふしぎなくらい、余計な考えがはたらくようになった。ストリッパーの椿の云うとおり、頭のなかは飛英のことでいっぱいなのかも知れない。礼慈郎自身も、これほど夢中になるとは思わなかった。飛英を好きだという気持ちを、はっきり説明することはできない。ただ、青年を不幸にしたくないという思いは、ほかの誰よりも強かった。
「おまえという男は、暗い道を走っても脱輪することはないのだろうな。……これからも、英と好きに生きればいい。あいつは幸運かもな。」
短いやりとりで礼慈郎の人柄を高く評価したキラは、灰皿の底で葉巻の火を消すと、質問に応じる素振りをみせた。礼慈郎もその流れを察し、飛英について引きだせる情報を確認した。しかし、当初からキラと接点が少ない飛英の謎はあきらかとならず、結局、無駄骨となった。軍人の口調に(なにやら底しれぬ)熱意を感じたキラは、最後に種明かしをした。
「おまえが織原飛英を身請したあと、克衛に動向を探らせたのは、このおれだ。なぁに、深い意味はない。一時的に可愛がって、すぐに捨てられるようならば、また闇市で働かせようと思ってな。陸軍将校で上級大佐の元愛人って肩書きがつけば、あいつはさらに高く売れる。」
礼慈郎の素性は克衛によって報告されているため、キラは、なんの迷いもなく暴露する。不愉快な状況であっても、礼慈郎は黙っていた。
「詳しい事情はさておき、愛人の面倒事に巻き込まれているようだな。それはそれで愉快な話だが、ひとつ忠告してやる。……煩悩は断ち切れるものではない。際限なく欲しがるのが、人間の無明なんだよ。欲望が暴流する理由は、精神構造にある。どれだけ得ても足りないと感じる自性こそ、害毒であると否定されるだろうが、欠乏を埋めるために貪るのは、不健全から脱するための防衛本能だ。……ようするに、我欲ではなく、大欲をもつことでしか、自己矛盾から抜けだせない。ドン詰まりしている連中は、自分の幸せしか頭にない、手前勝手なご都合主義者ってことだ。」
権力の成功のおそらくは、キラの倫理的配慮と、性の活動が道徳領域として成立しているからである。闇市において、必然的な営みと化した売春行為は、教育や医学、心理学などの型に統合されず、自己にかんする生存の技法として認証されている。自分自身を生きるためには、欲望に振りまわされず、柔軟な精神をもって、集団に適応していくしかない。妙に洗練されたキラのことばを聞いた礼慈郎だが、反論するほど暇ではないため、そこで話を終わらせた。
真実を語り合う必要はない。目に見えない問題を持ちだしても、的外れな答えに頭を悩ませることになる。礼慈郎が向かうべき場所は、ひとつしかない。飛英と共に廃村の池に立ち、閉ざされた未来を取り戻す。
「……行くしかないのか。もういちど、あの集落へ。」
週明けの午后、休暇の申請が通された礼慈郎は、狩谷家に電話をかけた。
✓つづく
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