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第五章 亡霊は魔王の城に突入する。

第五十五話 隷属のエルフ

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「くっ!」

 ミーシャは扉の直前で身をひるがえす。あからさまな罠に、自分から突っ込んでやる義理はない。

 だが、

「うぁああああああああ!」

 彼女の後を追ってきたダークエルフは、想像以上に近くにまで迫っていた。しかも、全く速度を緩める気配もない。

 ミーシャは、思わず顔を引きらせる。

 こういう時に口から飛び出す言葉は、大抵ありきたりで、個性の欠片かけらもないものだ。

「ば、ばかッ!!」

 人間魚雷とでもいうべき態勢で突っ込んでくるダークエルフ。その頭が腹部に減り込んで、ミーシャの身体が、くの字に折れ曲がる。

 もし、真横から見るものがいたならば、その光景は横向きの矢印(←)に見えたことだろう。

「ぐほっ!」

 乙女にあるまじきにごった声を洩らして、ミーシャは背中から扉へと叩きつけられる。

 その勢いで激しい音を立てて扉が開き、二人は絡まる様にその向こう側へと転がり込んだ。

 そこは広い部屋。二人は毛足の長い赤絨毯の上を点々と転がって、最後はミーシャがダークエルフに馬乗りになる形で止まった。

「いったたた……痛いじゃないのよ、バカ!」

 ミーシャは思わずダークエルフを怒鳴りつける。だが、ダークエルフは痛みに眉をしかめながらも、なぜか口の端にニヤニヤした笑いを貼り付けていた。

「何がおかしいのよ!」

「周り……見た方がいい」

 その一言に、ミーシャの顔から血の気がスッと引いていく。冷静になって考えれば、ここは既に扉の内側。十中八九は罠、そう推測した場所なのだ。

 ミーシャは思わず身を固くして、恐る恐る顔を上げていく。

 右手の壁一面には大きな窓。月明かりの下、遥か遠くに随分と低くなったディアボラ山脈の影が見える。

 渦巻き状の回廊を飛んで城の中心に来たはずなのに、なぜ外が見える? もしかしたら扉の内と外で、空間がおかしな繋がり方をしているのかもしれない。

「騒がしい女どもよな」

 ふいにそんな声が聞こえて、ミーシャはそちらに視線を動かした。

 声がしたのは正面。一段高くなった段差の上には玉座。そこに深く腰をおろし、ひじ掛けにもたれ掛かる一人の男の姿があった。

 男は秀麗な顔つきに長い銀の髪。その頭の左右からは、捩れた角が突き出している。

 角を覗けば人間そのものの貴公子然とした容姿に反して、男のその瞳は酷薄な色をたたえていて、いかにも不機嫌だと言わんばかりに唇を歪めていた。

「ま……おう……」

 硬直するミーシャの口から、かすれた声が零れ落ちる。

 玉座の間。確かに魔王を倒す事が目的ではあるが、ここに辿り着くにはいくらなんでも早すぎる。

 レイもいなければ、聖剣だってまだ手に入れていないのだ。

 そんなミーシャを物憂げに見下ろして、魔王が呆れたとでもいうように鼻を鳴らすと、その左右に控えている、ほとんど裸に近い薄絹だけを纏った淫猥な姿の女達が、クスクスと笑いさざめく。

 呆然とするミーシャを押し退けて、ダークエルフは彼女の下から抜けだすと、魔王へと駆け寄って訴え掛けた。

耳長姫みみながひめを連れてきた……約束どうりエルフを滅ぼして!」

 すると、

耳長姫みみながひめだと?」

 魔王は不機嫌そうに、片方の眉を吊り上げた。

「なにを勘違いしておるのかは知らぬが、私が連れてこいと言ったのは耳長姫……オーランジェ姫だ。そんな貧相な女ではないわ」

 貧相――そんな言われ方をすれば、いつものミーシャなら即座に食って掛かっているところだが、流石に今はそれどころではない。

 魔王の口から、オーランジェの名が出たことに、目尻も裂けんばかりに目を見開いた。

「な、なんで!」

 思わずそう叫びかけたミーシャの声を遮って、ダークエルフの怒声が響き渡る。

「魔王、嘘つき! 騙した!」

「貴様が勝手に勘違いしたのだろうが……」

 ダークエルフが肩をいからせると、魔王は物憂げな表情のままに溜め息を吐いた。

 そして、魔王は、ダークエルフとミーシャをいかにも好色そうな視線でめ回す。

「まあ、良い。オーランジェを手に入れるまでは、お前達二人で我慢してやろう。二人がかりなら、多少は私を満足させることも出来よう。せいぜい尽くすが良い」

 途端に、魔王の身体から発せられる尋常ではない威圧感。あまりの息苦しさに、ダークエルフは声を上げた。

「な、なんでくーまで!!」

 ミーシャは魔王の威圧感に気圧されながらも、必死に思考を巡らせる。

『魔王の子を身籠ることになる』

 このままでは、あのおぞましい予言が成就してしまう。

 一か八か、一撃を加えて怯んだところを脱出する。それしか無い。

 そう決意すると、ミーシャの行動は早かった。

「誰がアンタなんかに! 疾風斬スラストッ!」

 ミーシャが手刀を斬ると、ダークエルフの身体を掠めて、見えない風の刃が魔王に向かって殺到する。

 だが、それは魔王の眼前で霧散して、わずかにその銀色の髪を揺らしただけ。

「なっ!?」

「ふむ、心地良いそよ風だな。夏場は重宝しそうだな」

 その嘲弄ちょうろうめいた一言に、周囲の女達がくすくすと笑った。

 効く筈がないとは思っていたが、まさか目眩めくらましにすらならないなんて。

 ミーシャは頬を引き攣らせながらも、再び手刀を振り上げる。だがそれを振り下ろすより先に、ダークエルフが動いた。

「くーだってイヤ!」

 彼女の手には、いつの間に生成したのかは分からなかったが、氷の剣アイスブランドーが握られていた。

 彼女は剣を両手で握って、力任せに魔王へと突き出す。ダークエルフが狙ったのは魔王の目。視界を奪って逃げようというのだ。

 だが、魔王は身じろぎ一つしなかった。

 まぶたを閉じようともしない。

 剣先は確かに魔王の目を突いた。

 だが、その瞬間、ミーシャとダークエルフの表情が驚愕に歪む。

 氷の剣アイスブランドーは、まるで恐ろしく硬い物にでも当たった様な音を立てて、砕け散ったのだ。

「うそ……」

 唖然とするダークエルフ。それを眺めながら、魔王は物憂げな表情のままに、左右の女達に向かって顎をしゃくる。

 すると、女達は一斉に二人へと飛び掛かった。

「ちょ、ちょっと! 放しなさいってば!」

「や、やめっ! は、はなして!」

 女とは思えない凄まじい力、女達は淫らに頬を紅潮させながら、二人へとその身体を押し付けてくる。

「うふふっ……かわいい」

 女の一人がそう言って唇をペロリと舐めると、次の瞬間、ミーシャの唇に自らの唇を押し付けた。

「むっ! むううう!」

 途端に、身体中から力が抜けていく。魔力を吸われている!? 目を見開くミーシャの視界の中では、同じように唇を吸われたダークエルフが、ガクガクと身体を震わせている。

 そして、女達が唇を放すと同時に、二人は身体をガクガクとふるわせて、その場に膝から崩れ落ちた。

「ふはは、いかに豊かな魔力をもつエルフと言えど、サキュバスの口づけはキツかろうな」

 楽しげな笑い声を洩らす魔王を、ミーシャは気丈にも睨みつける。

「覚えてなさい……よ。すぐに、レイが……勇者が、アンタをぶったおしてくれるわよ」

「勇者? 勇者だと? は、ははははははははっ! 愚かな。イノセ・コータは私が直々に元の世界へと突き落としてやったのだ。貴様のいうその勇者とやらは、大方、その名を騙る偽物だろうよ」

「せいぜい侮ればいいわ。レイにやられて後悔しなさい」

 魔王は一瞬不快げに眉根を寄せたかと思うと、その口元に下卑げびた微笑みを浮かべた。

「気の強い娘だ。おもしろい。貴様が絶望する姿を見てやりたくなったぞ」

 魔王はゆっくりとミーシャへと歩み寄ると、その顎を指で摘まんで顔を上げさせる。

「絶望するのは……アンタの方よ」

 ミーシャが魔王をキッと睨みつけたその瞬間、魔王の目、その光彩の内側で怪しい光が渦を巻いた。

支配ドミネーション

 ただでさえ力の抜けていた身体が、途端に指一本動かせなくなる。まるで自分のものでは無いように、ミーシャの身体が勝手に魔王に向かって首を垂れる。

「な、なによこれ……」

「貴様の身体は、既に私が支配した。私のこの身が朽ち果てるまで未来永劫、貴様は私の言いなりだ」

 その瞬間、床に額を付けたままのミーシャの表情が歪む。

「あえて心は支配せずにおいてやったのだ。そう簡単に折れられても楽しくはないのでな。せいぜい私を楽しませてくれ」

「私を……どうする気よ」

「しばらくは何もせんよ。何もな。貴様がすがる唯一の希望、その勇者を騙る愚か者が、目の前でなぶり殺しになるのをみせてやろう。貴様の心が折れて、自ら私に媚びるのを楽しみにしておる」

 思わず、ミーシャの目尻に涙が浮かんだ。怖い。悔しい。色んな負の感情が胸の内に渦巻いている。

「……レイ」

 思わずミーシャの口から零れ落ちたのは、唯一の希望の名だった。

「ふむ、エルフよ、良い事を教えてやろう」

 魔王はダークエルフの方へと歩みを進めながら、何かを思い出したように、ミーシャの方へと振り返った。

「わが身が朽ちれば、貴様の命も一緒に尽きることになる。まかり間違って、その勇者とやらが私を倒すことが出来たとしても、その時はお前も一緒に死ぬことになるのだ」

 どちらに転んでもお前は助からない。

 つまり、魔王はそう言ったのだ。

 その途端、ミーシャの目からしずくが零れ落ちた。抑えようとしても嗚咽おえつが漏れる。

 そんなミーシャの姿を、楽しげに見下ろしながら、半裸の女達が愉快がにクスクスと笑った。


 ◇ ◇ ◇


 周囲は既に、夜のとばりに覆われている。

 月明かりの中に、魔物の群れの足音が響き渡る。

 黒い甲冑の騎士を先頭に、城へと向かう魔物の群れ。

 結局、大司教ソフィーは死体すらも見当たらず、魔物の群れは魔王の城へ戻るべく歩みを進めていた。

 その魔物の群れの最後尾。

 わずかに遅れ気味に、いや、あえて距離を置くように歩みを進める一匹のゴブリンの姿がある。

 ゴブリンの身を乗っ取ったレイである。

 ――ミーシャ達は大丈夫だろうか。

 随分、遅くなってしまった。

 先に魔王の城へ向かった仲間たちから遅れること数時間。

 レイは、今まさに魔王の城へと到ろうとしていた。

 彼は遥かに先を行く、黒い甲冑を纏った騎士の背を眺めながら考える。

 ゴブリンのままでは勝てないだろうな。最初に乗っ取った身体がゴブリンだったのだから、振り出しに戻ったと言うべきか……。

 まずは自分の本来の身体を探す。

 自分が勇者……イノセ・コータなのかどうかはわからない。

 だが、もしそうでないのならば、勝ち目などありはしない。

 ――分の悪い賭けだな。

 そう胸の内で独りごちながら、レイは歩みを進める。

 遥か向こうに、魔王の城へと続く洞窟が、口を開けているのが見えた。
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