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第一章 亡霊、大地に立つ

第十話 リバース #1

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「まるで……」

 そびえ立つディアボラのいただき

 それを見上げて、騎士団長ゴディンは、途切れた言葉の続きを胸の内でこう紡ぐ。

 ――この世の終わりの様ではないか。

 激しく降り続く雨。篠突しのつく雨。

 ザーという雨音の向こう側から不規則に響いてくる、巨大な鞭で地を打つ様な低い打擲音ちょうちゃくおん

 稲光いなびかりに照らされて、厚く垂れ込める雲を背景に、巨大な紐状ひもじょうのシルエットが浮かび上がる。

 それがいただき蹂躙じゅうりんするかのごとく、激しく身もだえていた。

 ディアボラ山脈の西側、人間側の領域。

 山のふもとに広がる広葉樹の森を抜け、西へ十数キロ進めば、街道をふさぐように鎮座する砦へと行き当たる。

 ソルブルグ王国、東の要衝ようしょう

 ハノーダー砦である。

 今、その城壁の上では、ゴディンを始めとする兵士達が顔を連ね、息を呑んで、一つの方向を見上げている。

 物見の兵士がディアボラ山脈で何らかの異変が起こっていることを察知してから半刻ほどのち、厳戒態勢の最中さなかのことであった。

 ゴディンは、すぐ隣にいる雨避けのローブをまとった女性に問いかける。

「何が起こっているのだ? 司祭殿」

「ふむ、遂に魔物どもが山を越えようとしている。そういう事じゃろうな」

 その返答は、物言いこそ老婆の様であったが、声そのものは子供の様な可愛らしいもの。

 実際、フードから覗く金色の巻き毛と、真ん丸な榛色ヘイゼルの瞳が特徴的なその顔は、かなり幼い。

 只でさえ小さな体が、ゴディンの熊の様な巨体と並んでいるせいで、尚更なおさら小さく見えた。

 彼女は幼げな顔を上げて、ゴディンを眺める。

「経典にも書いてあるじゃろ? ディアボラの山には神の御使いたる白蛇が住まうと」

「あの山の上で暴れている物がそうだと?」

「そうとしか思えん。この状況ではな。我々を守るために魔物共を食い止めてくださっておるのじゃろう」

「ふむ……」

 ゴディンが考え込む様に、髪と同じ赤い髭に包まれたあごに指を掛けたその時、

「うわああああああぁ!? なんだアレ!」

 周囲の兵士達が、一斉に驚愕の声を上げた。

 ゴディンが兵士達の指さしている方へと目を向けると、ディアボラの山頂で、司祭が言う所の『御使いの白蛇』が、両端を高く持ち上げて、巨大なUの字を描いているのが見えた。

「司祭殿、あれは!?」

「し、知らん! 聞くな!」

 何でもかんでも知っていると思われてはかなわん。

 司祭と呼ばれた幼女――ソフィーは、不満げに頬を膨らませると、改めて山頂の方へと目を向ける。

 それにしても、なんと巨大な……。

 まさに、神の御使いに相応しい威容いようではないか。

 ソフィーは自らが信じる神の偉大さを思って、思わず身震いする。

 だが、その途端。

 雲を掴もうとするかのように持ち上がっていた『神の御使い』の両端が、ぐらりと揺らぐと、そのまま力なく崩れ落ち始めた。

 それは、魂の抜け落ちた虚ろな挙動。

 その巨体から力が失われた事が、はっきりと分かる無機物の落下。

「な!?」

 ソフィーの驚愕の声は、兵士たちのざわめきにかき消され、そのざわめきも、巨体が大地を打ちつける音に呑み込まれる。

 噴煙を上げる火山の様に、山頂を覆う土煙。

 立ち昇った黄埃こうあいが、黒い雲と溶けあう様に空を侵食していく。

「し、司祭殿! 何が起こっておるのだ!」

「聞くなといっておるじゃろうが! こっちが聞きたいわ!」

 ソフィーは思わず親指の爪に歯を立てながら、ゴディンを怒鳴りつける。

 そして、彼女が地団駄を踏む様に足を踏み鳴らすと同時に、ミシミシと音を立てて足下の城壁が震えた。

「見ろ! 山が崩れるぞ!」

 兵士の一人が上げたその声に、ソフィーが思わず息を呑む。

 地の底で大太鼓でも打つかのような重い音が響き渡って、山肌が波打った。

 まるで盛り塩に水を掛けたかのように、山が溶けていく。

 茶色の濁流が斜面を滑り落ちていく。

 その余りにも非現実的な光景に、誰もが口を閉じるのを忘れて見入っていた。
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