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第二章 亡霊、勇者のフリをする。

第十一話 世の中のことは、大体筋肉で説明がつきます。 #1

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「こ、こっち見ちゃ、ダメなんだからね!」

 ――分かっている。

 森の奥。

 静かな夜の水辺に、少女の少し上擦うわずった声が響いた。

 風に吹かれて、涼しげに波立つ湖面。

 その静けさを破って、バシャン! と水のねる大きな音が響き渡った。

 ゴブリン飛び込む水の音。字足らず。

 あの後、ミーシャは風精霊シルフに水のある場所を尋ね、二人は黄色の水玉模様を点々と地面に描きながら、森の奥、湖のほとりへと辿り着いた。

 元々、腰回りにわずかな布を巻き付けただけのゴブリンであるレイは、川を見つけるなり、そのまま頭から水の中へと飛び込む。

 そして、それを羨ましそうに眺めながら、ミーシャは岩陰に隠れて、いそいそと汚れた服を脱いだ。

 岩陰から頭だけを出して、レイが向こうを向いたままなのを確認すると、ミーシャは再び声を上げる。

「こっち見たら許さないんだからね!」

 ――見ない。

 レイの背中をじっと睨みつけながら、意を決したように岩陰から走り出ると、ミーシャは汚れた服を抱きかかえたまま、ざぶんと水の中へと飛び込んだ。

 水音が大きく響いて、水面みなもの月が揺らぐ。

 昼間はあれほどの大雨だったというのに、今は雲間から明るい満月が顔を覗かせている。

 大雨の所為せいで、多少水が淀んではいるが、あの吐瀉物としゃぶつまみれを思えば、清流みたいなものだ。

「ぷはっ」

 跳ね上がる様に水から顔を上げると、ほどいた金色の髪が弧を描いて、水面を叩いた。

 ああ、気持ちいい。

 力を抜いて、もたれ掛かる様に、水に身を任せる。

 ちらりと視線を向けると、石像のように身じろぎ一つせずに水に浸かるレイの背中が見えた。

「ねぇ、レイ……そういえば、その身体赤鶏冠レッドクレストのでしょ? 今なら人間の言葉で喋れるんじゃないの? あいつ喋ってたもん」

 ――どうだろう?

 レイの首がわずかに傾く。

 ――身体の問題では無い様に思うな。声帯の使い方の問題なら、訓練すれば、喋れるようになるかもしれない。それより……。

「それより、何?」

 ――赤鶏冠レッドクレストは暗黒魔法を使えると言っていたが、確かに、この身体には魔力が宿っている。これなら、たぶん私にも使えるだろう。

「ふーん、そうなんだ。でもまあ、もう人間の領域に入っちゃったからね。ここからは戦う様な機会は無いかも。帰り道はまた大変そうだけど……」

 ――帰り道か。

 途端に、ミーシャは彼の境遇を思い出して、慌てて取り繕う様に口を開く。

「心配しなくても、アンタの身体を見つけるまでは、付き合ってあげるから! も、もし見つかんなかったら、アンタも一緒にエルフの隠れ里に来ればいいのよ。うん、そうね、そうしよう!」

 ――なあ、ミーシャ。そろそろ、キミが人間の都を目指す理由を教えてくれないか?

 唐突なその問いかけに、ミーシャは思わず身を固くする。

 彼女は水底に足をついて立ち上がると、身体から滴り落ちたしずくが、幾つもの小さな波紋を描いた。

「言わなきゃダメ? 聞いても反対しないって約束してくれる?」

 ――反対しないかどうかは、聞いてみないと分からない。

「じゃあ、言わない」

 ――そうか。

 再び、二人の間に言い様の無い沈黙が横たわって、ミーシャはレイの背を不安げに見つめる。

「怒った?」

 ――怒ってない。

 レイの態度は相変わらず、素気そっけが無い。

 ミーシャはだんだんとその背中が憎らしく思えてきて、今度はぷうと頬を膨らませる。

 聞かれたくないけど、聞いて欲しい。

 彼に、この辺りの複雑な女心の機敏を察しろというのは、そもそも無理がある。

 それは、ミーシャにも分かっている。

 でも、腹が立つのは仕方が無いのだ。

 ミーシャは突然、口元に意地悪な笑いを浮かべたかと思うと、白々しくも大きな声を上げた。

「あーあ、でも酷い目にあっちゃったなー。まったくぅ、女の子を丸のみにするなんてぇ、変態の極致よねー!」

 ――な!? それは流石に、人聞きが悪すぎるだろう。

 レイが動揺する素振りをみせると、ミーシャはにんまりと笑って、益々声を大きくする。

「それはそうよねー、こーんなに可愛い女の子を丸のみしてぇ、ぺろぺろしちゃったんだもん。どう? 興奮した? 美味しかった?」

 ――鶏ガラを食っても、うまい筈がないな。

「誰が鶏ガラよ!」

 手にした服で、ばしゃんと水面を叩いて、ミーシャがレイに詰め寄る。

 ――お、おい。待て!

「アンタねぇ! 私は、まだあと百年ぐらいは成長期なだ……け……でって、あれ?」

 レイの肩に手を掛けて、強引に振り向かせたところで、ミーシャは自分が今、どんな恰好をしているのかに思い至った。
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