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第二章 亡霊、勇者のフリをする。

第十四話 悪霊憑き #2

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 騒然とする兵士達の只中で、ミーシャは状況を把握できずに、「えっ!? えっ!?」と、戸惑いの表情を浮かべて左右を見回す。

「何をしておる、アホエルフ! お主もじゃ! とっとと逃げんか!」

「なによ! トアナベって! 一体、どうなってんのよ?!」

「うるさい! 後で幾らでも説明してやるから、とにかく逃げるのじゃ!」

 怒鳴りあうソフィーとミーシャを他所よそに、ドナは瞳孔の開ききった虚ろな目で、レイをみつめながら、ふらふらした足取りで近づいてくる。

 喧騒の中に、大槌スレッジハンマーを引き摺る金属音がズルズルと響いた。

「レイ!」

 ミーシャが声を上げたその瞬間、ドナが動いた。

 それは余りにも唐突な挙動。

 何の前触れも無く倒れ込んだかと思うと、三つ足の獣のように手をついて、物凄い勢いで加速しながら、横なぎに大槌スレッジハンマーを振り回す。

「ぐっ!」

 ――躱せない! 

 レイは、大槌スレッジハンマー咄嗟とっさに剣の腹で受けとめる。

 金属がぶつかり合う甲高い音が響いて、火花が散る。

 だが、大槌スレッジハンマーを受け止めるには、剣は脆弱に過ぎた。

 剣のへし折れる音が響いて、激しい衝撃がレイを襲う。

 吹っ飛ばされたレイは、まるでまりの様に二度、三度と地面を跳ねて、壁面へと叩きつけられた。

「グぎっ!?」

「レイッ!!」

 ミーシャが悲鳴じみた声を上げると、ドナが瞳孔の開ききった目を、今度は彼女の方へと向ける。

「ヒッ!?」

 その獣じみた威圧感に、ミーシャは思わず喉の奥に悲鳴を詰めた。

 大槌スレッジハンマーを引き摺りながら、ゆらりとした足取りで近づいてくるドナ。

 ミーシャは救いを求める様に、再び、レイの方へと目を向ける。

 だが、彼は壁面にもたれ掛かったまま、ぐったりとして動く気配がない。

 絶望に顔を歪ませるミーシャの頭上に、振り上げられた大槌スレッジハンマーの影が落ちた。

 そして、今まさに、それが振り下ろされようというその時、

「主よ、祈りにこたたまえ! 悪しき者、たけき者、けがれし者より守り給え! ――セイクリッド・ウォール!」

 ソフィーの声が、中庭を取り囲む壁に反響した。

 同時に振り下ろされた大槌スレッジハンマーが、ミーシャの頭上で激しい衝突音を立てて、見えない壁に弾き返される。

「へ……な、なに?」

 顔を引き攣らせたまま呆然とするミーシャへ、ドナの向こう側からソフィーが声を荒げた。

「このアホエルフ! だから早う逃げろと言っておろうが! わしの魔法もそう長くはもたんぞ!」

「な、なんなのよ、こいつ!」

「ドナ・バロットは、悪霊憑きじゃ! トアナベ村の住人を一人残らず惨殺した殺人鬼。今のこやつは目に入るもの全てが敵、自分の身が粉々になるまで、戦い続ける狂戦士バーサーカーじゃ!」

 思わず顔を蒼ざめさせて、ミーシャが声を上げる。

「なんつー危ないもん飼ってんのよ! アンタんとこの教団は!」

「たわけ! 憑かれているだけのドナに責任はない! そもそも、一生髪を切らぬという誓約を媒介に、悪霊を抑え込んでおったというのに、お主らの所為せいじゃろが!」

「そういうことは、先に言っときなさいよ!」

「いきなり女の髪を斬り落とすような、不作法者がおるとは思わんわ!」

 二人がぎゃあぎゃあと言い争っていると、ドナは再びゆらりと立ち上がり、不思議そうに小首を傾げて、自分の掌を眺める。

 そして、

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!」

 断末魔の悲鳴にも似た絶叫を上げながら、狂ったように見えない壁を大槌スレッジハンマーで、滅茶苦茶に叩き始めた。

「きゃあ! いや! やめっ!」

 頭上で打撃音が鳴り響くたびに、ミーシャは悲鳴を上げて身をすくめる。

「くっ! 早う逃げんか! もうもたん!」

 額に脂汗を浮かばせたソフィーが、顔を歪ませた。

 だが、ミーシャはその場で、足をジタバタさせるばかり。

 遂にミーシャの頭上で魔力の壁がひび割れ始めたその時、

 唐突に打撃音が消えた。

「え……な、なに?」

 頭を抱えながら、ミーシャが恐る恐る顔を上げると、ドナの身体に黒いもやのような物が巻き付いているのが見えた。

 こめかみに血管を浮き上がらせながら、ジタバタともがくドナ。

「これは……暗黒魔法?」

 昨日、赤鶏冠レッドクレストが、ミーシャを捕える時に使ったのと同じ魔法。

 見れば長く伸びたもやの先。

 そこに緑色の血を滴らせながら、投網を引く漁師のように、手にしたもやを引っ張るゴブリンの姿があった。

「レイ!」

 ――キミは腰を抜かしてばかりだな。そのうち腰にガタがくるぞ。

 軽口を叩くレイ。

 だが、その胸の奥から、ぎりぎり間に合った事への安堵の溜め息が聞こえて来て、ミーシャは思わず目を潤ませた。

「死んじゃったかと思ったわよ、ばか」
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