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21 春と月の物語(後)
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春哉が桜井唯月に興味を引かれたのは、大教室で初めて話した時よりも少し前のことだった。
東王大学にΩの学生はいない。130年を超える歴史の中でも、Ωが入学した記録はないはずだ。反対にαの学生は、他の大学と比べてはるかに多かった。日本人口のたった2%しかいないはずのαだったが、東王のキャンパスを歩けばそこら中にαの男女を見つけることが出来る。
そんなαだらけの学内をパタパタとひとりで駆けてくる唯月を見かけた時、春哉は驚きで小さく声を上げてしまったほどだった。βの学生にとっては何でもない日常風景に見えただろうが、αの春哉にとってその光景はかなりの衝撃だった。まるで狼の群れの中を行く無防備な子羊を見つけてしまったような感覚というのだろうか。
周囲に聞いて回り、あの子が桜井教授の息子であること、父親の秘書をしていることを知ったが、春哉は気が気でならなかった。Ωである唯月本人も、βである父の教授も、まったく危機感が無い様子だったからだ。
東王に入るほど能力の高い学生達が、わざわざ学内で犯罪まがいのことをするとは思えないが、それでも何が起きるか分からないのがαとΩだ。大学の敷地は広大で死角も多い。あんな安っぽいベルト式の首輪だけでは、突発的な暴力からは逃げられない。無自覚に甘い匂いを振りまいて歩く唯月の姿を見かけるたびに、春哉はいつもハラハラしてしまうようになっていった。
だからあの日、大教室で偶然唯月と話が出来たことは春哉にとってチャンスだった。気になって気になってしょうがないあのΩを、自分のそばに置いておけば少しは気が休まるだろうと思ったのだ。
そうして春哉は、唯月を自分の庇護下に置いた。
見かけるたびに言葉を交わし、遊びに誘い、出来るだけ一緒にいるところを周囲に見せるようにした。
春哉もその友人達も、唯月を同等の友人として扱った。当然おかしな真似はしなかったし、させなかった。
けれど、周囲の学生は誰もそうは思わない。唯月は春哉達αのグループの(性的な)ペットだと思われていた。何を聞かれてもわざと意味深な笑みを浮かべて見せ、春哉はあえてその噂を否定しなかった。そういう風に誤解されていたままの方が、ほかのαが寄って来なくていいと思ったのだ。
唯月と過ごす青春の日々は春哉にとっても友人たちにとっても新鮮だった。唯月はいったいどんな辺境の地に住んでいたのかと思うほど何も知らず、ほんの些細なことに大げさなほど驚いたり喜んだりした。その様子が可愛らしく、次第に春哉は唯月を愛しいと思うようになっていった。
そして、この子を番にしたいとまで望むようになると、今度はあまりにも純粋すぎることが気になってしまい、春哉はこっそり興信所を使って唯月の過去を調べさせてみた。報告書を読んで納得した。唯月のまわりには、生まれてから今まで守ってくれるαがひとりもいなかったのだ。
唯月は典型的なΩだ。ほっそりとした体付きに、幼さの残る顔立ち、素直で従順で大人しい性格なのに、『発情期』があるという危うい魅力を持つ。
Ωが平穏な人生を送るためには守ってくれる者が絶対に必要だった。そして、Ωを本当の意味で守れるのはαだけだ。Ωという性は元来、αのために存在するのだから。
報告書には義父との肉体関係までは書かれていなかったが、春哉はうすうす教授を疑っていた。唯月がΩ判定を受けた後になって施設から引き取ったこと、唯月を養子にして数年後に夫人と別れたこと、唯月の発情期に合わせるように何度も休講にしたことがあること。疑う理由は多かった。
そして今日、唯月の口からはっきりと性的虐待の告白を受けた。
唯月はそれが虐待だとは気付いておらず、発情期のある自分が悪いと思っているようだったが……。
「春哉さん……」
か細く掠れた声が春哉を呼ぶ。
春哉は腕の中で震える細い体を優しく抱きしめ、背中を撫でる。
「大丈夫、これからは僕がいる。唯月は何も不安に思う必要は無いんだ」
「はい……」
この子を自分の番にしようと春哉は決めた。
番にさえしてしまえばもう誰も唯月に手は出せない。
儚くて可憐なこのΩは、春哉だけのものになるのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
南葵山にあるそのホテルは全室がスイートルームで、利用できるのはαの会員だけだ。βやΩは、会員であるαが同伴しなければエントランスに入ることも許されない。ここはαのオーナーによって、αとそのパートナーが心から寛げるようにと考えられた特別な空間だった。建物自体は幾度か建て直されているものだったが、その精神は明治の頃から連綿と受け継がれている。
新たにここの会員になるのは非常に難しく、すでに会員になっている誰かに金を積んで会員権を譲り受けるか、オーナーとの強いコネクションがないと無理だと言われている。墨谷春哉はαだった祖父からこのホテルの会員権を受け継いでいた。それは日本有数の名家である珀山に連なる血筋の高祖父からずっと、墨谷家に生まれたαの長子が受け継いできたものだった。
春哉の会員証をチェックすると、ドアマンがうやうやしく扉を開く。
唯月が隣で感嘆の声を上げた。
「わぁ……」
巨大なシャンデリアの下がる吹き抜けのロビーに目を輝かせ、ほんのりと赤い頬を両手で押さえている。
「すごいです、まるでお城みたいです……」
思った通りの反応に春哉はクスッと小さく笑い、唯月の頭を軽く撫でた。
「チェックインして来るよ」
「はい」
唯月はきょろきょろと豪華なロビーを見回している。
昨日から微熱が続いているというから、もうすぐ唯月は発情期に入るだろう。頬を紅潮させ、瞳を潤ませた発情直前の首輪持ちがいるというのに、ここでは誰もいやらしい目つきで唯月を見たりはしない。唯月はそれが不思議なようだった。
髪を高く結い上げ、着物の襟もとから『番の印』を見せびらかすようにして歩くΩ女性も、ラウンジでゆったりと何かを飲んでいるΩ男性も、何にも気兼ねせずに安心して過ごせている。このホテルにはレストランやバーのほかにブティックや美容サロンなどもあるが、すべての店でΩは差別されること無く最高の待遇を受けることが出来た。それは、このホテルに入れるというだけで、社会的地位のあるαから庇護を受けている存在だと分かるからだった。
唯月は、唯月ひとりではここに一歩も入れない。墨谷家の長男である春哉の連れとして来ているからこそ、特別な待遇を受けられるのだ。
チェックインを終えてベルボーイに荷物を任せ、春哉は唯月を手招きする。
「おいで、唯月」
トコトコと近づいて来た唯月は、不安そうに春哉を見上げてきた。
「あの、春哉さん……。なんだか私だけ浮いていませんか」
「うん、目立っているね」
笑顔で言う春哉に、唯月はかぁっと恥ずかしそうに顔を伏せた。
「あの、あの、やっぱり私……」
「唯月が一番可愛いから」
「え」
春哉は唯月の腰に手を回し、耳元に唇を寄せて囁く。
「ここにいる誰よりも唯月が可愛いからだよ」
「あ……」
たったそれだけの甘いセリフで、唯月は腰が砕けたようにガクンと寄り掛かって来た。
「あ……あ……! 春哉さん……!」
足に力が入らず、立っていられない様子で春哉にすがって来る。
「おっと、始まっちゃったか」
春哉はひょいと唯月を抱き上げると、落ち着いてベルボーイに声をかけた。
「少し急ごう。僕のお姫様が限界みたいだ」
こういう状況に慣れているベルボーイは、無言でうなずき足を速めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
唯月の体は熱く、息は弾んでいて、春哉の胸に顔を押し付けたまま強くしがみついている。
Ωのフェロモンが春哉を包み込んで、春哉の体もすでに興奮し始めていた。
ベルボーイは状況を判断して挨拶の言葉も述べず、無言のまま手早く荷物を置いて一礼だけして出て行った。
「do not disturb」の札を出す必要は無い。αとΩが過ごすこのホテルでは、客からの要望が無い限りホテルスタッフが入室することは無いからだ。
「春哉さん、春哉さん」
ドアが閉まったとたんに、唯月は春哉の体をまさぐるようにして、服を脱がせようとしてきた。
春哉はその細い手首をつかんで壁に押し付け、唯月に深いキスをする。
「ん……んん……」
キスだけでとろんと溶けた目をして、唯月が見上げてくる。
「春哉さん……はやく……! はやく欲しいです……!」
「うん、唯月。何が欲しいか僕に言ってごらん」
「こ、これ……はやく……」
ずるずると崩れるように床に座り、唯月は春哉のベルトに手を伸ばす。
「これが欲しい……欲しくてたまらないです、春哉さん……」
「どうしてこれが欲しいの?」
「だ、だって、いい匂い……。あぁ、信じられないくらいにいい匂いです。さ、触りたいです、春哉さん……触ってもいいですか?」
「いいよ」
春哉が短く許可すると、唯月は震える手でカチャカチャと春哉のベルトをはずし始め、慌ててズボンのファスナーを下ろした。
「あぁ、すごい……」
両手で大事そうに春哉のものを取り出して、うるうると泣きそうな顔をする。
「わぁ……ほんとにすごい……すごいです、春哉さん……」
掠れた声で言って春哉のものに顔を近づけ、スーハ―スーハーと必死に匂いを嗅いでいる。
「あぁ……これがαの……ああ、ぜんぜん違う……ぜんぜん違います」
唯月が誰のものとそれを比べているのかは分かったが、まったく不快にはならなかった。
「素敵……ほんとに素敵です。綺麗で、立派で、いい匂いです……」
うっとりとした顔でそう言うと、唯月が愛おしそうにそれに頬ずりまでしてきたからだ。
「唯月、これが気に入ったのか」
「はい。こんなに大きくて反り返っていて、それなのにすごく綺麗で……お、おいしそう……」
「美味しそうか」
「は、はい。……私、な、舐めたい……舐めてもいいですか……」
「歯を立てちゃ駄目だよ」
こくこくとうなずき、唯月は春哉のものを口に含んだ。一瞬、大きく目を開き、そして感動したように表情を輝かせながら、いっぱいの唾液と共にじゅるじゅると吸い始める。
唯月の小さな口では春哉のものを全部収めることは出来ないのだが、右手で春哉のものを優しく握りながら一生懸命に口でしごく様にぞくりとした。あまり上手とは言えなかったが、恍惚とした唯月の表情がたまらなかった。
「ん……ん……」
唯月はもう我慢ならなくなったのか、春哉のものを咥えながら左手で自分のものをズボンの上から触り始める。
春哉はその肩にそっと手を置いた。
「唯月、口を離して」
唯月が素直に、でも少し残念そうに口を離す。
「ここに立って、壁に手をついて」
唯月は素直に、そして期待を込めた目をして言われた通りにした。
唯月の期待に応えるように、春哉は後ろから唯月のズボンを下ろした。ぐっしょり濡れた下着が露わになる。指先でそれを引き下ろしながら、春哉は嬉しそうにちょっと笑った。
「はは、もうこんなにしているのか」
「はい……だって、春哉さんのが」
「僕のが?」
「すごく美味しくて……」
恥ずかしそうにうつむく唯月を春哉は後ろから抱きしめる。
「可愛いよ、唯月。僕の匂いでこんなになるなんて、本当に可愛い」
「春哉さん」
「唯月……どうして欲しい?」
「入れて、欲しいです……はやく」
「うん……僕ももうたまらない。ベッドまで待てないなんて初めてだよ……」
熱い息を吐きながら唯月の腰をがしりとつかみ、春哉は一気に深く押し込んだ。
「か……はっ……」
唯月がのけぞり、ぶるぶると震える。
「あぁっ、あっ」
「んっ、唯月、少しゆるめて」
「あ、で、できな……う、うそ、あ、だめ、もうイク……!」
きゅうきゅうと春哉のものをしめあげ、唯月はがくがくと震えながら壁に精液を吐き出した。
「あ……あ、ごめんなさ……」
「ああ、それぐらい気にしなくていい。ここはαとそのパートナーのためのホテルなんだから。それより……」
力の抜けそうな唯月をつかまえて、春哉はさらに奥へと突き入れる。
「あぁっ!」
「こっちに集中して、唯月」
後ろから唯月を抱きしめ、春哉はリズミカルに腰を打ち付け始める。
「はぁっ、あっ、あっ」
叫ぶように声を出す唯月のピンク色の首輪にキスをして、春哉は小刻みに腰を動かしたり、大きくゆったりと動かしたり、唯月の反応を見ながらリズムを変えていく。
「あ……あ、だめ……あぁ、嘘みたい。またイク、またイキそう……!」
「うん……僕もそろそろ……」
「あ、中に、中にください……!」
春哉は唯月の細い腰をギューッとつかんだまま、最奥に精を吐き出した。
がくがくと震えて、唯月の体から力が抜けていく。
「あぁ……春哉さん、すごいです……これが、αの……」
ずるりと自分のものを引き抜き、はぁはぁと熱い息を吐きながらも春哉はすぐに唯月を抱き上げた。
二人とも服を脱ぎかけただらしない格好だったが、かまわずそのままベッドルームへ急いだ。
「唯月、αとのセックスはこんなもんじゃないよ」
「はい、春哉さん、もっと、もっとして欲しいです」
熱病にうかされたように唯月が春哉を求めて手を伸ばす。
「ああ、もっといっぱいしよう。望み通りにいくらでもしてやるから」
春哉は微笑みながら、中途半端に体に引っかかっている服をすべて脱いで放り投げた。
その中心にそそり立つものを見て、唯月がパァッと笑顔を見せる。
「すごい……。まだこんなに元気……」
無邪気な笑顔があまりに可愛くて、春哉はベッドの上に飛び乗るようにして唯月を押し倒した。
細い足を持ち上げると、後ろから春哉の出したものが少し垂れてくる。春哉はかまわずまたぐいっとそこに深く挿入した。
「んんっ!」
嬉しそうに唯月が春哉を見上げてくる。
春哉は少しの間動かずに、つながったままで唯月のシャツのボタンをゆっくりはずし始めた。
「ずっと、唯月の肌を見てみたかったんだ。想像していたより、ずっと綺麗だね……」
「春哉さん……」
「可愛い唯月。初めてはゆっくりと一枚一枚服を脱がせてから、一緒にシャワーを浴びて、じっくりと感じさせるように抱こうと思っていたんだよ」
「ごめんなさい、我慢できなくて」
「我慢できなかったのはお互い様だ。僕達はαとΩなんだから」
「αとΩ……」
「うん。こうしていると分かるだろう? 唯月の体がどれほどαを欲していたのか」
「はい……。春哉さんのはすごく熱くて、大きくて、気持ちいいところに当たっていて……」
「実況されると気恥ずかしいな」
照れたように笑う春哉を、下から唯月が微笑んで見つめている。
「初めて、Ωに生まれて良かったと思いました……」
「唯月」
「こんな、奇跡みたいなことって……あるんですね。私、初めて会った日から、ずっと……ずっと春哉さんが好きでした……」
「そうなのかい? あそこにはαがたくさんいたのに?」
「でも、春哉さんの匂いだけがまったく違っていました。優しくて甘くていい匂いで……。春哉さんだけは嗅ぎ分けられたんです、私」
「最初から?」
「はい……」
「それは……まるで運命の番みたいだね」
「はい、きっと、運命です……」
どちらともなく、二人は熱く長いキスを交わした。
「動くよ」
「はい」
互いに抱きあって、キスをしながら、混じり合う。
「うぁ、あ、あ、あぁっ、あ、あんっ……」
語尾にハートマークがつきそうな甘い喘ぎ声を出しながら、唯月は春哉にしがみつく。
「好きです、好きです、春哉さん……!」
「好きだよ、唯月」
それから三日間、ベッドの上ですごした。毎回唯月が失神してしまうまで、春哉は唯月を抱き続けた。果てても、果てても、何度でも大きくなる春哉のものに、唯月は無邪気に歓声を上げた。
これまで一度も得られなかった満足感を与えてくれるαの体に、唯月は驚嘆と歓喜を覚え、芯から陶酔していくのが分かった。
幾度目かの気絶から覚めた唯月に、春哉は言った。
「首輪をはずして」
唯月はまるでそれが当然のことのように、素直に首輪をはずした。
「αの前で首輪をはずす意味が分かるね?」
「はい……」
「後悔はしない?」
「しません」
「唯月の人生を僕にくれるんだね」
「はい、私は春哉さんのものです」
唯月はためらいなく返事をした。
春哉を心の底から信じ切って、何ひとつ疑っていない綺麗な目だった。
その後、春哉は唯月と深くつながったまま首の後ろに噛みついた。
墨谷春哉は、桜井唯月を自分の番にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
唯月をあの最低な義父の元へ帰すつもりは無かった。
父と母に唯月を紹介して、墨谷家で一緒に暮らすつもりだった。
「私みたいな者が春哉さんのそばにいることを許してくれるでしょうか」
唯月は孤児であることに引け目を感じているようだった。
「何も心配はいらない。結婚するとなれば家柄だ何だとうるさく言われるだろうが、番ならば問題はない。うちの両親は二人ともβだけれど、αを多く輩出する墨谷家の者として、αに番が必要不可欠なことくらいは知っているからね」
αやΩは長い間番を持たないままでいると、体と心に不調をきたす。それは迷信などではなく、フェロモン研究の過程において明らかになった事実だった。だから、αもΩも20代の早い内に番を作ることが推奨されているのだ。
ホテルでハイヤーを頼んで、墨谷の邸宅に帰った。
不安がる唯月の手を引いて門を入ると、いつもなら静かな屋敷の中が妙にざわついていた。
「ほら、もっと丁寧に運べ。その壺がいくらすると思っているんだ」
祖父やその前の代から受け継がれてきた絵画や壺などの芸術品を、作業服を着た男達が玄関から運び出している。
「お前ら、何をしている」
春哉が声をかけても作業員達は無視して通っていく。
「おい、やめろ。それはこの家の大事な……」
「ご当主様には了解をもらっておりますよ」
作業員たちの後ろから小柄な黒スーツの男が顔を出した。
「父が? どうして……」
「ああ、あんたさんがここの坊ちゃんですか。なかなか見映えのする容姿をしてなさる」
「は?」
不快さに顔をしかめる春哉から、男は唯月の方に視線を移した。
「おや、そちらは随分とかわいらしい。坊ちゃんの彼女さんですか」
唯月のことが女性に見えたらしいが、春哉はわざわざ否定してやる気になれなかった。
「春哉さん……」
唯月が怯えたように春哉の後ろに隠れるのを、小柄な男の視線が追いかける。
「こんなに愛らしい彼女さんがいるのに残念ですが、早めに別れた方がよろしいと思いますよ。身売りするなら身辺整理はしておかないと」
「身売り? 何のことだ」
「父親であるご当主様から何も聞いてないのですか? この家で一番高く売れるものについて」
「売る? いったい何の話だ」
ぞわぞわと嫌な予感がした。
春哉の不安が伝染したように、唯月もひどく怯えてしがみついてきた。
小柄な男はくすくすと嫌な笑い方をする。
「αのお爺様がご当主の時代は相当羽振りが良かったようですし、そのまま余計なことはせずに坊ちゃんに引き継がせれば、この墨谷家は安泰だったでしょう。しかし、お父様は欲をかいた。というより、βでも事業を拡大していけるところを見せたかったんでしょうねぇ……。ま、気持ちは分かります。私もβなんで」
「父が、何を」
「それはご当主様から直接うかがってください。我々からいくら借りたのか、その利息がどこまで膨れ上がっているのか、そしてそれを返すためには何を売らなければならないのか」
「…………」
「では、失礼いたします」
男はわざとらしく慇懃に頭を下げ、作業員達を引き連れて門を出て行った。
「まさか……借金が、あるのか……?」
屋敷を振り返る。
そういえば祖父の代では住み込みの庭師がいたのだが、最近は姿を見ていないし少し庭が荒れ始めている。それに、屋敷内の使用人の数も少しずつ減っていたような……。
「春哉さん……」
別れた方がいいなどと言われ、唯月はすっかり怯えきっていた。
唯月にとって、春哉は唯一の番だ。唯一の庇護者だ。
Ωはひとりで生きてはいけない。
唯月を守るためにも、春哉がしっかりしないといけない。
「大丈夫。大丈夫だ。唯月、僕を信じてくれ。何があっても、どんなことをしても、僕は唯月との未来を守って見せるから」
冷たくなったその手を握ると、唯月はこくりとうなずいた。
「はい……。春哉さんを、信じます……」
春哉は細く頼りなげな唯月の体を両手で強く抱きしめた。
東王大学にΩの学生はいない。130年を超える歴史の中でも、Ωが入学した記録はないはずだ。反対にαの学生は、他の大学と比べてはるかに多かった。日本人口のたった2%しかいないはずのαだったが、東王のキャンパスを歩けばそこら中にαの男女を見つけることが出来る。
そんなαだらけの学内をパタパタとひとりで駆けてくる唯月を見かけた時、春哉は驚きで小さく声を上げてしまったほどだった。βの学生にとっては何でもない日常風景に見えただろうが、αの春哉にとってその光景はかなりの衝撃だった。まるで狼の群れの中を行く無防備な子羊を見つけてしまったような感覚というのだろうか。
周囲に聞いて回り、あの子が桜井教授の息子であること、父親の秘書をしていることを知ったが、春哉は気が気でならなかった。Ωである唯月本人も、βである父の教授も、まったく危機感が無い様子だったからだ。
東王に入るほど能力の高い学生達が、わざわざ学内で犯罪まがいのことをするとは思えないが、それでも何が起きるか分からないのがαとΩだ。大学の敷地は広大で死角も多い。あんな安っぽいベルト式の首輪だけでは、突発的な暴力からは逃げられない。無自覚に甘い匂いを振りまいて歩く唯月の姿を見かけるたびに、春哉はいつもハラハラしてしまうようになっていった。
だからあの日、大教室で偶然唯月と話が出来たことは春哉にとってチャンスだった。気になって気になってしょうがないあのΩを、自分のそばに置いておけば少しは気が休まるだろうと思ったのだ。
そうして春哉は、唯月を自分の庇護下に置いた。
見かけるたびに言葉を交わし、遊びに誘い、出来るだけ一緒にいるところを周囲に見せるようにした。
春哉もその友人達も、唯月を同等の友人として扱った。当然おかしな真似はしなかったし、させなかった。
けれど、周囲の学生は誰もそうは思わない。唯月は春哉達αのグループの(性的な)ペットだと思われていた。何を聞かれてもわざと意味深な笑みを浮かべて見せ、春哉はあえてその噂を否定しなかった。そういう風に誤解されていたままの方が、ほかのαが寄って来なくていいと思ったのだ。
唯月と過ごす青春の日々は春哉にとっても友人たちにとっても新鮮だった。唯月はいったいどんな辺境の地に住んでいたのかと思うほど何も知らず、ほんの些細なことに大げさなほど驚いたり喜んだりした。その様子が可愛らしく、次第に春哉は唯月を愛しいと思うようになっていった。
そして、この子を番にしたいとまで望むようになると、今度はあまりにも純粋すぎることが気になってしまい、春哉はこっそり興信所を使って唯月の過去を調べさせてみた。報告書を読んで納得した。唯月のまわりには、生まれてから今まで守ってくれるαがひとりもいなかったのだ。
唯月は典型的なΩだ。ほっそりとした体付きに、幼さの残る顔立ち、素直で従順で大人しい性格なのに、『発情期』があるという危うい魅力を持つ。
Ωが平穏な人生を送るためには守ってくれる者が絶対に必要だった。そして、Ωを本当の意味で守れるのはαだけだ。Ωという性は元来、αのために存在するのだから。
報告書には義父との肉体関係までは書かれていなかったが、春哉はうすうす教授を疑っていた。唯月がΩ判定を受けた後になって施設から引き取ったこと、唯月を養子にして数年後に夫人と別れたこと、唯月の発情期に合わせるように何度も休講にしたことがあること。疑う理由は多かった。
そして今日、唯月の口からはっきりと性的虐待の告白を受けた。
唯月はそれが虐待だとは気付いておらず、発情期のある自分が悪いと思っているようだったが……。
「春哉さん……」
か細く掠れた声が春哉を呼ぶ。
春哉は腕の中で震える細い体を優しく抱きしめ、背中を撫でる。
「大丈夫、これからは僕がいる。唯月は何も不安に思う必要は無いんだ」
「はい……」
この子を自分の番にしようと春哉は決めた。
番にさえしてしまえばもう誰も唯月に手は出せない。
儚くて可憐なこのΩは、春哉だけのものになるのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
南葵山にあるそのホテルは全室がスイートルームで、利用できるのはαの会員だけだ。βやΩは、会員であるαが同伴しなければエントランスに入ることも許されない。ここはαのオーナーによって、αとそのパートナーが心から寛げるようにと考えられた特別な空間だった。建物自体は幾度か建て直されているものだったが、その精神は明治の頃から連綿と受け継がれている。
新たにここの会員になるのは非常に難しく、すでに会員になっている誰かに金を積んで会員権を譲り受けるか、オーナーとの強いコネクションがないと無理だと言われている。墨谷春哉はαだった祖父からこのホテルの会員権を受け継いでいた。それは日本有数の名家である珀山に連なる血筋の高祖父からずっと、墨谷家に生まれたαの長子が受け継いできたものだった。
春哉の会員証をチェックすると、ドアマンがうやうやしく扉を開く。
唯月が隣で感嘆の声を上げた。
「わぁ……」
巨大なシャンデリアの下がる吹き抜けのロビーに目を輝かせ、ほんのりと赤い頬を両手で押さえている。
「すごいです、まるでお城みたいです……」
思った通りの反応に春哉はクスッと小さく笑い、唯月の頭を軽く撫でた。
「チェックインして来るよ」
「はい」
唯月はきょろきょろと豪華なロビーを見回している。
昨日から微熱が続いているというから、もうすぐ唯月は発情期に入るだろう。頬を紅潮させ、瞳を潤ませた発情直前の首輪持ちがいるというのに、ここでは誰もいやらしい目つきで唯月を見たりはしない。唯月はそれが不思議なようだった。
髪を高く結い上げ、着物の襟もとから『番の印』を見せびらかすようにして歩くΩ女性も、ラウンジでゆったりと何かを飲んでいるΩ男性も、何にも気兼ねせずに安心して過ごせている。このホテルにはレストランやバーのほかにブティックや美容サロンなどもあるが、すべての店でΩは差別されること無く最高の待遇を受けることが出来た。それは、このホテルに入れるというだけで、社会的地位のあるαから庇護を受けている存在だと分かるからだった。
唯月は、唯月ひとりではここに一歩も入れない。墨谷家の長男である春哉の連れとして来ているからこそ、特別な待遇を受けられるのだ。
チェックインを終えてベルボーイに荷物を任せ、春哉は唯月を手招きする。
「おいで、唯月」
トコトコと近づいて来た唯月は、不安そうに春哉を見上げてきた。
「あの、春哉さん……。なんだか私だけ浮いていませんか」
「うん、目立っているね」
笑顔で言う春哉に、唯月はかぁっと恥ずかしそうに顔を伏せた。
「あの、あの、やっぱり私……」
「唯月が一番可愛いから」
「え」
春哉は唯月の腰に手を回し、耳元に唇を寄せて囁く。
「ここにいる誰よりも唯月が可愛いからだよ」
「あ……」
たったそれだけの甘いセリフで、唯月は腰が砕けたようにガクンと寄り掛かって来た。
「あ……あ……! 春哉さん……!」
足に力が入らず、立っていられない様子で春哉にすがって来る。
「おっと、始まっちゃったか」
春哉はひょいと唯月を抱き上げると、落ち着いてベルボーイに声をかけた。
「少し急ごう。僕のお姫様が限界みたいだ」
こういう状況に慣れているベルボーイは、無言でうなずき足を速めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
唯月の体は熱く、息は弾んでいて、春哉の胸に顔を押し付けたまま強くしがみついている。
Ωのフェロモンが春哉を包み込んで、春哉の体もすでに興奮し始めていた。
ベルボーイは状況を判断して挨拶の言葉も述べず、無言のまま手早く荷物を置いて一礼だけして出て行った。
「do not disturb」の札を出す必要は無い。αとΩが過ごすこのホテルでは、客からの要望が無い限りホテルスタッフが入室することは無いからだ。
「春哉さん、春哉さん」
ドアが閉まったとたんに、唯月は春哉の体をまさぐるようにして、服を脱がせようとしてきた。
春哉はその細い手首をつかんで壁に押し付け、唯月に深いキスをする。
「ん……んん……」
キスだけでとろんと溶けた目をして、唯月が見上げてくる。
「春哉さん……はやく……! はやく欲しいです……!」
「うん、唯月。何が欲しいか僕に言ってごらん」
「こ、これ……はやく……」
ずるずると崩れるように床に座り、唯月は春哉のベルトに手を伸ばす。
「これが欲しい……欲しくてたまらないです、春哉さん……」
「どうしてこれが欲しいの?」
「だ、だって、いい匂い……。あぁ、信じられないくらいにいい匂いです。さ、触りたいです、春哉さん……触ってもいいですか?」
「いいよ」
春哉が短く許可すると、唯月は震える手でカチャカチャと春哉のベルトをはずし始め、慌ててズボンのファスナーを下ろした。
「あぁ、すごい……」
両手で大事そうに春哉のものを取り出して、うるうると泣きそうな顔をする。
「わぁ……ほんとにすごい……すごいです、春哉さん……」
掠れた声で言って春哉のものに顔を近づけ、スーハ―スーハーと必死に匂いを嗅いでいる。
「あぁ……これがαの……ああ、ぜんぜん違う……ぜんぜん違います」
唯月が誰のものとそれを比べているのかは分かったが、まったく不快にはならなかった。
「素敵……ほんとに素敵です。綺麗で、立派で、いい匂いです……」
うっとりとした顔でそう言うと、唯月が愛おしそうにそれに頬ずりまでしてきたからだ。
「唯月、これが気に入ったのか」
「はい。こんなに大きくて反り返っていて、それなのにすごく綺麗で……お、おいしそう……」
「美味しそうか」
「は、はい。……私、な、舐めたい……舐めてもいいですか……」
「歯を立てちゃ駄目だよ」
こくこくとうなずき、唯月は春哉のものを口に含んだ。一瞬、大きく目を開き、そして感動したように表情を輝かせながら、いっぱいの唾液と共にじゅるじゅると吸い始める。
唯月の小さな口では春哉のものを全部収めることは出来ないのだが、右手で春哉のものを優しく握りながら一生懸命に口でしごく様にぞくりとした。あまり上手とは言えなかったが、恍惚とした唯月の表情がたまらなかった。
「ん……ん……」
唯月はもう我慢ならなくなったのか、春哉のものを咥えながら左手で自分のものをズボンの上から触り始める。
春哉はその肩にそっと手を置いた。
「唯月、口を離して」
唯月が素直に、でも少し残念そうに口を離す。
「ここに立って、壁に手をついて」
唯月は素直に、そして期待を込めた目をして言われた通りにした。
唯月の期待に応えるように、春哉は後ろから唯月のズボンを下ろした。ぐっしょり濡れた下着が露わになる。指先でそれを引き下ろしながら、春哉は嬉しそうにちょっと笑った。
「はは、もうこんなにしているのか」
「はい……だって、春哉さんのが」
「僕のが?」
「すごく美味しくて……」
恥ずかしそうにうつむく唯月を春哉は後ろから抱きしめる。
「可愛いよ、唯月。僕の匂いでこんなになるなんて、本当に可愛い」
「春哉さん」
「唯月……どうして欲しい?」
「入れて、欲しいです……はやく」
「うん……僕ももうたまらない。ベッドまで待てないなんて初めてだよ……」
熱い息を吐きながら唯月の腰をがしりとつかみ、春哉は一気に深く押し込んだ。
「か……はっ……」
唯月がのけぞり、ぶるぶると震える。
「あぁっ、あっ」
「んっ、唯月、少しゆるめて」
「あ、で、できな……う、うそ、あ、だめ、もうイク……!」
きゅうきゅうと春哉のものをしめあげ、唯月はがくがくと震えながら壁に精液を吐き出した。
「あ……あ、ごめんなさ……」
「ああ、それぐらい気にしなくていい。ここはαとそのパートナーのためのホテルなんだから。それより……」
力の抜けそうな唯月をつかまえて、春哉はさらに奥へと突き入れる。
「あぁっ!」
「こっちに集中して、唯月」
後ろから唯月を抱きしめ、春哉はリズミカルに腰を打ち付け始める。
「はぁっ、あっ、あっ」
叫ぶように声を出す唯月のピンク色の首輪にキスをして、春哉は小刻みに腰を動かしたり、大きくゆったりと動かしたり、唯月の反応を見ながらリズムを変えていく。
「あ……あ、だめ……あぁ、嘘みたい。またイク、またイキそう……!」
「うん……僕もそろそろ……」
「あ、中に、中にください……!」
春哉は唯月の細い腰をギューッとつかんだまま、最奥に精を吐き出した。
がくがくと震えて、唯月の体から力が抜けていく。
「あぁ……春哉さん、すごいです……これが、αの……」
ずるりと自分のものを引き抜き、はぁはぁと熱い息を吐きながらも春哉はすぐに唯月を抱き上げた。
二人とも服を脱ぎかけただらしない格好だったが、かまわずそのままベッドルームへ急いだ。
「唯月、αとのセックスはこんなもんじゃないよ」
「はい、春哉さん、もっと、もっとして欲しいです」
熱病にうかされたように唯月が春哉を求めて手を伸ばす。
「ああ、もっといっぱいしよう。望み通りにいくらでもしてやるから」
春哉は微笑みながら、中途半端に体に引っかかっている服をすべて脱いで放り投げた。
その中心にそそり立つものを見て、唯月がパァッと笑顔を見せる。
「すごい……。まだこんなに元気……」
無邪気な笑顔があまりに可愛くて、春哉はベッドの上に飛び乗るようにして唯月を押し倒した。
細い足を持ち上げると、後ろから春哉の出したものが少し垂れてくる。春哉はかまわずまたぐいっとそこに深く挿入した。
「んんっ!」
嬉しそうに唯月が春哉を見上げてくる。
春哉は少しの間動かずに、つながったままで唯月のシャツのボタンをゆっくりはずし始めた。
「ずっと、唯月の肌を見てみたかったんだ。想像していたより、ずっと綺麗だね……」
「春哉さん……」
「可愛い唯月。初めてはゆっくりと一枚一枚服を脱がせてから、一緒にシャワーを浴びて、じっくりと感じさせるように抱こうと思っていたんだよ」
「ごめんなさい、我慢できなくて」
「我慢できなかったのはお互い様だ。僕達はαとΩなんだから」
「αとΩ……」
「うん。こうしていると分かるだろう? 唯月の体がどれほどαを欲していたのか」
「はい……。春哉さんのはすごく熱くて、大きくて、気持ちいいところに当たっていて……」
「実況されると気恥ずかしいな」
照れたように笑う春哉を、下から唯月が微笑んで見つめている。
「初めて、Ωに生まれて良かったと思いました……」
「唯月」
「こんな、奇跡みたいなことって……あるんですね。私、初めて会った日から、ずっと……ずっと春哉さんが好きでした……」
「そうなのかい? あそこにはαがたくさんいたのに?」
「でも、春哉さんの匂いだけがまったく違っていました。優しくて甘くていい匂いで……。春哉さんだけは嗅ぎ分けられたんです、私」
「最初から?」
「はい……」
「それは……まるで運命の番みたいだね」
「はい、きっと、運命です……」
どちらともなく、二人は熱く長いキスを交わした。
「動くよ」
「はい」
互いに抱きあって、キスをしながら、混じり合う。
「うぁ、あ、あ、あぁっ、あ、あんっ……」
語尾にハートマークがつきそうな甘い喘ぎ声を出しながら、唯月は春哉にしがみつく。
「好きです、好きです、春哉さん……!」
「好きだよ、唯月」
それから三日間、ベッドの上ですごした。毎回唯月が失神してしまうまで、春哉は唯月を抱き続けた。果てても、果てても、何度でも大きくなる春哉のものに、唯月は無邪気に歓声を上げた。
これまで一度も得られなかった満足感を与えてくれるαの体に、唯月は驚嘆と歓喜を覚え、芯から陶酔していくのが分かった。
幾度目かの気絶から覚めた唯月に、春哉は言った。
「首輪をはずして」
唯月はまるでそれが当然のことのように、素直に首輪をはずした。
「αの前で首輪をはずす意味が分かるね?」
「はい……」
「後悔はしない?」
「しません」
「唯月の人生を僕にくれるんだね」
「はい、私は春哉さんのものです」
唯月はためらいなく返事をした。
春哉を心の底から信じ切って、何ひとつ疑っていない綺麗な目だった。
その後、春哉は唯月と深くつながったまま首の後ろに噛みついた。
墨谷春哉は、桜井唯月を自分の番にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
唯月をあの最低な義父の元へ帰すつもりは無かった。
父と母に唯月を紹介して、墨谷家で一緒に暮らすつもりだった。
「私みたいな者が春哉さんのそばにいることを許してくれるでしょうか」
唯月は孤児であることに引け目を感じているようだった。
「何も心配はいらない。結婚するとなれば家柄だ何だとうるさく言われるだろうが、番ならば問題はない。うちの両親は二人ともβだけれど、αを多く輩出する墨谷家の者として、αに番が必要不可欠なことくらいは知っているからね」
αやΩは長い間番を持たないままでいると、体と心に不調をきたす。それは迷信などではなく、フェロモン研究の過程において明らかになった事実だった。だから、αもΩも20代の早い内に番を作ることが推奨されているのだ。
ホテルでハイヤーを頼んで、墨谷の邸宅に帰った。
不安がる唯月の手を引いて門を入ると、いつもなら静かな屋敷の中が妙にざわついていた。
「ほら、もっと丁寧に運べ。その壺がいくらすると思っているんだ」
祖父やその前の代から受け継がれてきた絵画や壺などの芸術品を、作業服を着た男達が玄関から運び出している。
「お前ら、何をしている」
春哉が声をかけても作業員達は無視して通っていく。
「おい、やめろ。それはこの家の大事な……」
「ご当主様には了解をもらっておりますよ」
作業員たちの後ろから小柄な黒スーツの男が顔を出した。
「父が? どうして……」
「ああ、あんたさんがここの坊ちゃんですか。なかなか見映えのする容姿をしてなさる」
「は?」
不快さに顔をしかめる春哉から、男は唯月の方に視線を移した。
「おや、そちらは随分とかわいらしい。坊ちゃんの彼女さんですか」
唯月のことが女性に見えたらしいが、春哉はわざわざ否定してやる気になれなかった。
「春哉さん……」
唯月が怯えたように春哉の後ろに隠れるのを、小柄な男の視線が追いかける。
「こんなに愛らしい彼女さんがいるのに残念ですが、早めに別れた方がよろしいと思いますよ。身売りするなら身辺整理はしておかないと」
「身売り? 何のことだ」
「父親であるご当主様から何も聞いてないのですか? この家で一番高く売れるものについて」
「売る? いったい何の話だ」
ぞわぞわと嫌な予感がした。
春哉の不安が伝染したように、唯月もひどく怯えてしがみついてきた。
小柄な男はくすくすと嫌な笑い方をする。
「αのお爺様がご当主の時代は相当羽振りが良かったようですし、そのまま余計なことはせずに坊ちゃんに引き継がせれば、この墨谷家は安泰だったでしょう。しかし、お父様は欲をかいた。というより、βでも事業を拡大していけるところを見せたかったんでしょうねぇ……。ま、気持ちは分かります。私もβなんで」
「父が、何を」
「それはご当主様から直接うかがってください。我々からいくら借りたのか、その利息がどこまで膨れ上がっているのか、そしてそれを返すためには何を売らなければならないのか」
「…………」
「では、失礼いたします」
男はわざとらしく慇懃に頭を下げ、作業員達を引き連れて門を出て行った。
「まさか……借金が、あるのか……?」
屋敷を振り返る。
そういえば祖父の代では住み込みの庭師がいたのだが、最近は姿を見ていないし少し庭が荒れ始めている。それに、屋敷内の使用人の数も少しずつ減っていたような……。
「春哉さん……」
別れた方がいいなどと言われ、唯月はすっかり怯えきっていた。
唯月にとって、春哉は唯一の番だ。唯一の庇護者だ。
Ωはひとりで生きてはいけない。
唯月を守るためにも、春哉がしっかりしないといけない。
「大丈夫。大丈夫だ。唯月、僕を信じてくれ。何があっても、どんなことをしても、僕は唯月との未来を守って見せるから」
冷たくなったその手を握ると、唯月はこくりとうなずいた。
「はい……。春哉さんを、信じます……」
春哉は細く頼りなげな唯月の体を両手で強く抱きしめた。
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