あやかし骨董店きさら堂の仮の主人

緋川真望

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(20)翡翠の絵

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 『きさら堂』で働く54人の使用人の絵は、使用人館と呼ばれる西館にすべて飾られていた。

 天才絵師・井筒時津彦の作品が約50枚、廊下にも階段にも、もちろん使用人達の寝室にも飾られているわけだが、昼間行ってもその真価を鑑賞することはできない。使用人達が抜け出た後の絵は、うすぼんやりした背景でしかないからだ。

 ひいやふうなどの翡翠専属のメイド10人の絵は、厨房の隣の広い部屋にあった。人間や狐の使用人達がいた頃に食堂として使われていた場所だったが、あやかし達は食事をしないので今はテーブルも椅子も置かれていない。

 絵は壁面に掛けられていて、縦は2メートルほど、横は5メートルを超えるかなりの大作だった。

「ひ、翡翠様……お助け下さい……」

 ここのつが蒼ざめた顔で、翡翠の袖にすがりついてくる。
 ひい達の絵は、左から順にひい・ふう・みい……と並んでいる。今は全員が抜け出ているので背景だけなのだが、とうの描かれていたはずの一番右端だけが汚く黒ずんでいた。

「とうのいた場所から何かが……何かが……」

 がくがくと震えながらここのつが指さした先に、小さな黒いものが見える。
 翡翠がよく見ようと近づくと、黒いものが蛇のようににゅるりと動いた。

「ひ……」

 思わず声を漏らして、一歩下がる。
 翡翠の驚きに同調するように、ざわっと室内が動揺する。

「あれは……なんだ?」

 小さな蛇のようなものがうごめいていた。一匹ではない。おそらく10匹以上、見ている内にどんどん数が増えていく。まるで、まわりを汚染していくかのようにじわじわと黒い部分が広がっていく。

 ぞくっと寒気がして目をそらしたくなったが、『きさら堂』の仮の主人は翡翠だ。時津彦様が不在の今、翡翠だけは冷静な顔をしていなくてはならない。

「翡翠様、いったいとうに何があったのですか?」
「あの子はいつも通りに扉を閉めに行ったのではないのですか?」
「あ、あれがもっと広がったらどうなるのですか……?」
「時津彦様に命をいただいてから、こんな恐ろしいことは初めてです。私たちはどうすればよろしいのですか?」




 地下から戻ると、『きさら堂』の中は騒然としていた。
 騒ぐ使用人達に促され、西館へ駆けつけた翡翠達が目にしたのは、どす黒く変色していく専属メイドの元の絵だった。

(どうすればいいのかなんて、本当は私にも分からない。私はここにいる者達の中で一番最後に描かれた絵だ。一番若くて、一番幼く、一番経験が無い。でも……時津彦様から名前をもらったのは、私ひとりだけだから……)

「絵を床に下ろせ」

 喉が渇かないはずのあやかしなのに、翡翠の声はひび割れていた。

 庭師や下働きの男達が、翡翠の指示に従って絵を下ろす。

「額縁を外して、ナイフかはさみを持ってきなさい」
「ナイフか鋏?」
「翡翠様! まさか!」
「時津彦様の描いた絵を傷つけるとおっしゃるのですか?」

 使用人達が混乱したように声を上げる。

「とうの部分を切り離す。それしか方法があるまい」
「でも、そんなことをしたら時津彦様が……」
「そうです、時津彦様がお許しになるでしょうか」

 時津彦様は勝手なことをされるのを嫌う。だから人間や狐の使用人をここから追い出した。この場にいる全員が分かっていることだ。

「お許しにはならないかもしれない……。でも、このままではここのつが絵に戻れなくなる。いや、ここのつだけではなく、この絵に描かれた全員が危ないではないか。絵から生まれたあやかしは、元の絵が無くなったら生きてはいけないのだぞ」
「で、でも……」

 『きさら堂』の使用人は、すべて時津彦様の手によって生まれてきたあやかしだ。
 翡翠はあくまでも仮の主人でしかない……。
 誰も、時津彦様の不興を買ってまで、翡翠のためには動かない。

「もうよい。自分で取って来る」
「翡翠様!」
「ナイフならここにある」

 声に振り向けば、蓮次郎が隣の厨房から持ってきたらしい調理用のナイフを高く掲げていた。

「蓮次郎様……」
「これを使え、翡翠」
「はい、感謝いたします」

 蓮次郎からナイフを受け取り、翡翠は絵の前に身をかがめた。
 けれど、刃物をかまえたとたんに、急にぐらりとよろめいてしまう。

「おい、翡翠」
「だ、大丈夫、大丈夫です……」

 本当は、大丈夫ではなかった。
 ぐらぐらとひどいめまいがする。

 時津彦様は翡翠にとっても創造主だ。
 時津彦様の描いた絵を切ることにはかなりの心理的負荷がある。

(時津彦様、時津彦様、どうして『きさら堂』にお戻りにならないのですか。私はどうすればよろしいのですか。……地下の扉の『向こう側』で会った時津彦様は、私のことなどどうでも良さそうだった……。あれは本当に時津彦様だったのか、それとも、あれも偽物だったのか……?)

 指先が震えてしまって、翡翠はなかなか切ることが出来ない。そうしている内にも、黒い蛇のようなものがうぞうぞと増え続けている。

「俺が切ろうか?」

 蓮次郎の申し出に翡翠は首を振った。

「『きさら堂』の仮の主人は私です。ここにいる者達を守るのも私です」
「ひすいさま……」

 不安そうな咲夜の声が、ずっと後ろの方から聞こえる。その可愛い声を聞くと、今すぐ咲夜を抱きしめて安心させてやりたくなる。

 けれど翡翠は振り返らず、ぐっと目を閉じた。

 咲夜を地下に連れていくべきではなかった。
 時津彦様を追いかけて扉の中に入るべきではなかった。
 すべては翡翠の判断ミスから起こったことだ。

「これ以上、私のせいで仲間を失いたくない……」

 翡翠は心を決めて目を開き、紙にぷつりと刃を立てた。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 目を覚ました時、自分がなぜベッドにいるのか、そのベッドの周りになぜ何人も人がいるのか、状況がよく分からなかった。

「翡翠! 翡翠、目を覚ましたのか!」

 蓮次郎が手を握って来る。

 石像のあやかしアスクレピオス様と、屏風絵に宿るあやかし少名毘古那神すくなびこなのかみ様、きさら狐の艶子が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

 でも、黒い瞳の可愛い姿が見えない。

「咲夜は……?」
「真っ先にする質問がそれかよ」

 呆れたように溜息を吐いて手を離し、蓮次郎はドアの方へ視線をやった。

「あいつは自分の寝室にいる。ちゃんと狐のお医者先生が診てるから安心しろ」
「医者? どうして? 咲夜が怪我でも?」
「違うって。翡翠が倒れるのを見て半狂乱になっちまって、お前にしがみついて離れないし、わーわー泣いて、何度もごめんなさいとわめき続けるし、そのうちに体力の限界が来たみたいで気を失っちまったんだ」
「そんな……」

 驚いて起き上がろうとすると、艶子がやんわりと押しとどめた。

「あの子はぐっすりと眠っています。起きたら知らせるように言ってありますから……。それより、翡翠様ご自身ももっと休まれた方がよろしいかと」
「私は、どうして……」

 いつ倒れたのかもよく覚えていない。
 窓の外は暗いようだが、どのくらい寝ていたのかも分からない。

「とうの絵を切り離した直後に気絶したんだ。お前にとっちゃ時津彦の描いた絵を切るってことが、相当なストレスだったんだろ」
「とうの絵は?」
「封印するために急いであちら側の証城寺に送ったよ」
「そう、ですか」

 それが一番安全かもしれない。あちら側には妖気が無いから、封印もしやすいだろう。

「いっそ燃やしちまおうかと思ったが、翡翠には大事な仲間みたいだったからな」
「もしかしたら、絵師である時津彦殿が戻れば何とか出来る可能性もある」

 美豆良みずら衣褌きぬはかまの少名毘古那神様が小さな手で翡翠の手を軽く叩いた。

「はい……」

 地下の扉の『向こう側』で、時津彦様に会ったとは言えなかった。あの時は本物だと確信したのだが、今となってはやはり偽物だったような気もしてくる。

 もう70代のはずなのにすごく若い姿をしていたし、翡翠に似た若者を連れていたし、何よりも、翡翠を偽物だと言ったことがおかしいと思う。時津彦様が、自分の描いた翡翠を分からないはずがないのに。

「翡翠殿。あなたの元の絵はどこにあるのですか」

 杖を持ったアスクレピオス様が真剣な目で質問をしてくる。杖の先に巻き付いた白蛇も同じようにじっと翡翠を見つめてくる。

「絵のあやかしは元の絵の中に戻って休むのが一番良いのですよ」
「さよう。人間の真似をしていくらベッドで休んでも、なかなか疲れは取れやせぬ」

 少名毘古那神様が同意して、翡翠の腕に残る指の跡をそっと撫でた。
 蓮次郎が、気まずそうに目をそらす。

「私の絵はここにはありません」
「あぁ、それは分かっている。悪いが、お前の意識が無かったからこの部屋の中を探したんだ。まさか、自室に置いてないとは思わなかったが、時津彦のアトリエにも無いし、使用人館にも無かったし、あやかし館でも見た者はいなかった。もしかして、蔵の中か?」

 蓮次郎の問いかけに、翡翠は首を振る。

「『きさら堂』の中には無いのです」
「は?」
「え?」
「んん?」

 一様に驚きの声を上げる一同に、翡翠は薄く微笑みを見せた。

「おそらく、時津彦様が持っているのではと」
「は、嘘だろ!」

 蓮次郎が声を荒げて立ち上がる。

「あの気まぐれな男にそんな大事なものを持たせたのか? もしもお前の絵に何かあったら……」
「はい。もしも元の絵が破られたら、その瞬間に私は消えます」
「それが分かっていてなんで……!」
「私は生まれてから一度も、元の絵の中に戻ったことが無いのです。時津彦様は、私が人間のように暮らすことを望んでいますから」
「じゃぁ、絵がどこにあるのかは、最初から……」
「はい。最初から絵は私のところにはありませんし、どこにあるのかも知りません」

 その場にいた者が全員、死刑宣告を受けたように黙り込んだ。
 翡翠は何でもないことのように、にっこりと笑って見せる。

「確かに私はこの数秒後にも消え去る運命かもしれません。ですが、時津彦様が姿を見せなくなってから30年間、こうして無事に過ごしてきたのです。私は時津彦様の描かれた数々の作品の中でも最高傑作なのですから、そう簡単に破り捨てたりはなさらないでしょう」

―――― 私は時津彦様の最高傑作。時津彦様がご自分の理想を筆に込めて描いた最高傑作だと。

 何度も何度も翡翠は自分にそう言い聞かせてきた。
 まるで願いを込めたおまじないの呪文のように。

「そうだな。翡翠殿が最高傑作であるのは誰もが認めるところだ」
「ええ、ええ、もちろんです。これだけ美しい方の絵を無下にするはずがありません」
「30年間も大事に保管してくれていたのなら、きっとこの先もずっと……」

 少名毘古那神様と艶子とアスクレピオス様が慰めるように言うので、翡翠は微笑んでうなずいた。
 杖の先にいる蛇が、アスクレピオス様の心情を移すように心配そうな目で見つめてくる。

「翡翠……。ええと、なんか……あ、そうだ! なんか甘いものでも持ってこようか? それとも、気つけに一杯……」

 蓮次郎が手酌の仕草をするが、翡翠はゆっくり首を振った。
 あやかしは腹も減らないし、喉も乾かない。

「じゃぁ、何か欲しいものはあるか? 気が休まるようにお香でも焚くか? それとも優しい音楽をかけようか? 俺は仕入れ屋だ。たいていの物は用意できる」
「欲しいもの……」
「ああ、何でもいいぞ」
「でも、特に欲しいものなど……」

 翡翠はふと蓮次郎を見上げた。

「本当に何でもよろしいのですか?」
「もちろんだ」
「では……ひとつお願いがあるのですが」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 隣に眠る咲夜の頬に指を滑らせる。
 泣いた跡が痛々しくて、愛おしかった。

「そんなにこのガキがいいのかよ」

 いまいましそうに蓮次郎が咲夜を見下ろす。

「はい……。咲夜の寝息が一番休まります」

 翡翠は咲夜の小さな手を握った。傷の残る指先に軽く唇を当てる。伝わってくるのは体温だけでないような気がした。

「……すいさま……」

 寝言で名前を呼ばれ、胸の奥があったかくなる。
 咲夜の声、咲夜の匂い、咲夜の体温が、翡翠の中にしみこんでくる。

「これでゆっくり眠れそうです。ありがとうございます、蓮次郎様」
「あぁ、ゆっくり休め」

 不満そうな顔をしながらも、蓮次郎はそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。

 静かな部屋の中で、咲夜の小さな寝息だけが聞こえてくる。

 地下の扉の先で見た時津彦様や、咲夜がとうにしてしまった恐ろしいことなど、考えなければならないことはたくさんある。けれど、今だけはただゆっくり眠りたかった。

「おやすみ、咲夜……」

 もう一度可愛い寝顔を見てから、翡翠はそっと目を閉じた。
 



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