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45 既視感
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それをサムから聞いたティアナは、悲しそうな顔で頷いた。
「お金持ってるのかしら」
「ある程度は持ってたと思うよ?」
「何処に行くのかしら」
「それはわからないけれど、トマスのことさ。何処に行っても心配ないよ」
「今日はサムが配達なのね」
「うん、今日から毎日僕が配達するよ」
「奥さんは?」
「奥さんってキャサリンのこと? あいつならもう逃げたよ」
「決断早くない?」
「早いよね~。後は全部僕に押し付けるつもりらしい。まあ予想はしていたけれどね。唯一手元に残していた南の別荘を売って金にしたみたいだ。まあ逃げても無駄だけどね」
「闇金のお金で少しは持ち直すのかと思ってた」
「クレマンさんが手を回したんだ。金があっても仕入れはできないよ。だからあの金は銀行への返済に充てて、残った金を持ってキャサリンのところに行ったらもぬけの殻だった。だから義父を施設に入れたんだ。持って行った金を全部渡したら、死ぬまで面倒見てくれるってさ。親孝行な娘だよね」
「ははは! それは良かったわね。ではもうシェリーと住むの?」
「うん、本当は僕が父親で、トマスは僕の代わりに守っていただけだって信じてもらわないとね。奥様っていう人種は身分に関係なく同じような弱点を持っているんだ。何かわかるかい?」
「いいえ、わからないわ」
「それはね、愛されているという疑似体験だよ。僕がシェリーを大切にして愛しているということを隠さない態度を貫いていると、周りの奥様達は僕らの味方になるんだ。自分も夫に愛されているという錯覚を覚えるんだろうね。そうやって味方になってもらってから、徐々に情報を浸透させる。そうすると一度も疑うことなく沁み込んでいくんだ」
「怖いわね……それも商会で磨いた技なの?」
「そうだよ。例えばどこかの貴族家に勤めているメイドに、毎日お嬢様って話しかけると、いつの間にかお嬢様の所作になるんだ。商会だってそうだよ。毎日スタッフから支店長って呼ばれることで、支店長になっていく。君だってそうだよ? 市場で食堂をやっているティアナになっただろう?」
「そうね、確かにそうよね。では、今日からよろしくね、パン屋のサムさん」
「へい、毎度ありがとうございます」
二人は笑い合った。
二階から降りてきたララが、神妙な顔でティアナに頭を下げた。
「ごめん、私って人を見る目が無かったわ。トマスがあそこまでヘタレだとは思わなかったし、キースがあそこまで大人だとは思わなかった」
「それを言うなら私も同じよ。良い勉強になったわ。それにトマスへの思いは淡すぎて恋とも呼べないくらいだったかもしれないもの」
「昨日言ってたけど、ティアナはトマスを待つの? おばあちゃんになっちゃうよ?」
「待つって……そうね、いつかは帰って来れば良いなとは思うし、そういう意味なら待つと言えるかな? でも恋愛することを待つつもりは無いわ。初恋は破れちゃったけれど、そんなものは焦げたパイと同じよ」
「焦げたパイ?」
「そうよ、焦げたらもう元には戻らないってこと。次行くわよ! 次! 次こそちゃんと恋をしてみせるわ」
ティアナが景気よくフライ返しを突き上げた。
「次ってことは、ここに並んでいれば順番が来るってことかな」
キースが呆れた顔で立っていた。
「あら、キースおはよう。今日はぴしっと制服なのね」
「うん、偶にはちゃんと仕事をしているところを見せないとね」
「仕事してるって思ってるよ? あの時助けてくれたのもキースだったじゃない」
「良かった、ホッとしたよ。あまりにも私に対する態度が他人行儀だから、そのことさえ忘れているのかと思って不安だったんだ。言っておくけれど、君だから助けたわけじゃなくて、仕事としてやったのだけれど、君を見た瞬間に私は君に恋をしたんだからね? それは忘れないでくれよ?」
ティアナが目を丸くする。
ララがティアナの横腹を肘で小突いてから出て行った。
「恋? え? 恋って?」
「……やっぱり……伝わってなかったか。まあ、君はいつもトマスを目で追っていたから告白しなかったけど、私は君に恋をして、君の側に居たくてこの街に住むことにした。君を少しでも長く見ていたくて、君の店に通っている。そして心の他に胃袋まで掴まれてさ。もうどうにでもしてくれって感じだよ」
「キース……」
「でも今はまだ我慢するよ。君の心からトマスが消えて、私をちゃんと男として見てくれるようになるまで耐えてみせる。君が平常心でミートパイを焼ける日が来たら、覚悟しておいてくれ。全身全霊で口説くから」
固まってしまったティアナ。
「ティアナ! 大変だ! 焦げてる! 何か焦げてるよ!」
我に返ったティアナがフライパンを持ち上げた。
「熱っ!」
「ティアナ!」
キースが駆け寄り、火傷をしたティアナの手を水桶に浸した。
「火傷している。冷たいけれどもう少しこのまま我慢して。冷やさないと後ですごく痛むからね」
そう言いながらティアナの手を掴んだまま、自分の手も水桶につけているキース。
ティアナの顔の横にキースの顔があった。
その時の彼女の心情を擬音化すると『ずきゅゅゅゅん』だろうか。
その音が鳴りやむと、どこからか舞い降りてきた小さなエンジェル達が、金色のラッパを吹き鳴らし、その周りでピンク色の聖霊たちが花弁を撒き散らす。
すべては幻聴幻覚のはずだが、その時のティアナにははっきりと見えていた。
「何と言うか……ものすごい既視感」
「え? なに? 痛いの?」
「痛い? ええ、少し痛いわ……心が」
「心って……ねえ、ティアナ。僕の忍耐力にも限界ってものがあるんだ。その顔はダメだ」
キースが真っ赤な顔を横に逸らした。
ティアナの鼓動が首筋にまで上がっている。
「キース、ごめん。ごめん。もう大丈夫だから、手を放して」
「あっごめん」
二匹の蛸が今にも茹で上がりそうだ。
花束を抱えて帰ってきたララが盛大に揶揄ったことは言うまでもない。
「お金持ってるのかしら」
「ある程度は持ってたと思うよ?」
「何処に行くのかしら」
「それはわからないけれど、トマスのことさ。何処に行っても心配ないよ」
「今日はサムが配達なのね」
「うん、今日から毎日僕が配達するよ」
「奥さんは?」
「奥さんってキャサリンのこと? あいつならもう逃げたよ」
「決断早くない?」
「早いよね~。後は全部僕に押し付けるつもりらしい。まあ予想はしていたけれどね。唯一手元に残していた南の別荘を売って金にしたみたいだ。まあ逃げても無駄だけどね」
「闇金のお金で少しは持ち直すのかと思ってた」
「クレマンさんが手を回したんだ。金があっても仕入れはできないよ。だからあの金は銀行への返済に充てて、残った金を持ってキャサリンのところに行ったらもぬけの殻だった。だから義父を施設に入れたんだ。持って行った金を全部渡したら、死ぬまで面倒見てくれるってさ。親孝行な娘だよね」
「ははは! それは良かったわね。ではもうシェリーと住むの?」
「うん、本当は僕が父親で、トマスは僕の代わりに守っていただけだって信じてもらわないとね。奥様っていう人種は身分に関係なく同じような弱点を持っているんだ。何かわかるかい?」
「いいえ、わからないわ」
「それはね、愛されているという疑似体験だよ。僕がシェリーを大切にして愛しているということを隠さない態度を貫いていると、周りの奥様達は僕らの味方になるんだ。自分も夫に愛されているという錯覚を覚えるんだろうね。そうやって味方になってもらってから、徐々に情報を浸透させる。そうすると一度も疑うことなく沁み込んでいくんだ」
「怖いわね……それも商会で磨いた技なの?」
「そうだよ。例えばどこかの貴族家に勤めているメイドに、毎日お嬢様って話しかけると、いつの間にかお嬢様の所作になるんだ。商会だってそうだよ。毎日スタッフから支店長って呼ばれることで、支店長になっていく。君だってそうだよ? 市場で食堂をやっているティアナになっただろう?」
「そうね、確かにそうよね。では、今日からよろしくね、パン屋のサムさん」
「へい、毎度ありがとうございます」
二人は笑い合った。
二階から降りてきたララが、神妙な顔でティアナに頭を下げた。
「ごめん、私って人を見る目が無かったわ。トマスがあそこまでヘタレだとは思わなかったし、キースがあそこまで大人だとは思わなかった」
「それを言うなら私も同じよ。良い勉強になったわ。それにトマスへの思いは淡すぎて恋とも呼べないくらいだったかもしれないもの」
「昨日言ってたけど、ティアナはトマスを待つの? おばあちゃんになっちゃうよ?」
「待つって……そうね、いつかは帰って来れば良いなとは思うし、そういう意味なら待つと言えるかな? でも恋愛することを待つつもりは無いわ。初恋は破れちゃったけれど、そんなものは焦げたパイと同じよ」
「焦げたパイ?」
「そうよ、焦げたらもう元には戻らないってこと。次行くわよ! 次! 次こそちゃんと恋をしてみせるわ」
ティアナが景気よくフライ返しを突き上げた。
「次ってことは、ここに並んでいれば順番が来るってことかな」
キースが呆れた顔で立っていた。
「あら、キースおはよう。今日はぴしっと制服なのね」
「うん、偶にはちゃんと仕事をしているところを見せないとね」
「仕事してるって思ってるよ? あの時助けてくれたのもキースだったじゃない」
「良かった、ホッとしたよ。あまりにも私に対する態度が他人行儀だから、そのことさえ忘れているのかと思って不安だったんだ。言っておくけれど、君だから助けたわけじゃなくて、仕事としてやったのだけれど、君を見た瞬間に私は君に恋をしたんだからね? それは忘れないでくれよ?」
ティアナが目を丸くする。
ララがティアナの横腹を肘で小突いてから出て行った。
「恋? え? 恋って?」
「……やっぱり……伝わってなかったか。まあ、君はいつもトマスを目で追っていたから告白しなかったけど、私は君に恋をして、君の側に居たくてこの街に住むことにした。君を少しでも長く見ていたくて、君の店に通っている。そして心の他に胃袋まで掴まれてさ。もうどうにでもしてくれって感じだよ」
「キース……」
「でも今はまだ我慢するよ。君の心からトマスが消えて、私をちゃんと男として見てくれるようになるまで耐えてみせる。君が平常心でミートパイを焼ける日が来たら、覚悟しておいてくれ。全身全霊で口説くから」
固まってしまったティアナ。
「ティアナ! 大変だ! 焦げてる! 何か焦げてるよ!」
我に返ったティアナがフライパンを持ち上げた。
「熱っ!」
「ティアナ!」
キースが駆け寄り、火傷をしたティアナの手を水桶に浸した。
「火傷している。冷たいけれどもう少しこのまま我慢して。冷やさないと後ですごく痛むからね」
そう言いながらティアナの手を掴んだまま、自分の手も水桶につけているキース。
ティアナの顔の横にキースの顔があった。
その時の彼女の心情を擬音化すると『ずきゅゅゅゅん』だろうか。
その音が鳴りやむと、どこからか舞い降りてきた小さなエンジェル達が、金色のラッパを吹き鳴らし、その周りでピンク色の聖霊たちが花弁を撒き散らす。
すべては幻聴幻覚のはずだが、その時のティアナにははっきりと見えていた。
「何と言うか……ものすごい既視感」
「え? なに? 痛いの?」
「痛い? ええ、少し痛いわ……心が」
「心って……ねえ、ティアナ。僕の忍耐力にも限界ってものがあるんだ。その顔はダメだ」
キースが真っ赤な顔を横に逸らした。
ティアナの鼓動が首筋にまで上がっている。
「キース、ごめん。ごめん。もう大丈夫だから、手を放して」
「あっごめん」
二匹の蛸が今にも茹で上がりそうだ。
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