「婚約破棄して下さい」と言い続けたら、王太子の好感度がカンストしました~悪役令嬢を引退したいのに~

放浪人

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第十九話「同居(監督)生活:距離ゼロの地獄」

「……あの、殿下。足、痺れませんか?」

「全く問題ない。君は羽のように軽いからね」

「物理的にありえません。私、最近ストレスで甘いものを食べ過ぎて……」

「精神的な重量の話だ。君が腕の中にいるという充足感が、肉体的な負荷を凌駕している」

 王宮の執務室。
 私は、レオンハルト殿下の膝の上に座らされていた。
 それも、ただ座っているのではない。彼の太ももの間にすっぽりと収まり、背中を彼の胸に預け、左手で彼の腕を枕にし、右手でペンを走らせるという、アクロバティックかつ羞恥心崩壊スタイルの執務である。

 目の前には、宰相閣下をはじめ、財務大臣、軍務大臣といった国の重鎮たちが並んでいる。
 彼らは一様に、視線のやり場に困っていた。
 王太子が公爵令嬢を膝に乗せて会議をしている図など、前代未聞だからだ。

「……えー、では、来年度の治水予算についてですが……」
 財務大臣が咳払いをし、恐る恐る発言する。

「承認する。リュシア、君はどう思う?」
 レオンハルトは私の耳元で囁く。吐息がかかる。くすぐったい。

「……妥当だと思います。早急に決裁印を」
 私は真っ赤な顔で答える。早くこの時間を終わらせたい一心だ。

「よし。君がそう言うなら間違いない」
 ポン、とハンコが押される。
 こんな調子で、国政が回っている。大丈夫なのか、アステリア王国。

          ◇

 先日の「エルダ襲撃事件」以来、レオンハルトの警護レベルは狂気の域に達していた。
 『一秒たりとも目を離さない』『物理的接触を維持する』。
 これらの誓約条項を、彼は拡大解釈し、実行に移したのだ。

 執務中は膝の上。
 食事中は「あーん」で食べさせられる(自分で食べると言うと「毒見が必要だ」と口移しされそうになったので妥協した)。
 移動は抱っこか手繋ぎ。
 そして夜は、壁を取り払われた巨大な寝室で、同じベッド(キングサイズ)に寝かされる。

「……限界よ」

 昼休憩の時間。
 私はトイレの個室に逃げ込み、ドアに背中を預けて深呼吸した。
 ここだけが、唯一の聖域(サンクチュアリ)だ。
 もっとも、ドアの向こうにはレオンハルトが立っているのだけれど。

「リュシア、大丈夫か? 時間がかかりすぎではないか? 気分が悪いのか?」

 ほらね。まだ入って一分も経ってないのに。

「……大丈夫です。お腹の調子が、少し」
 私は嘘をついた。少しでも長く、この個室に籠城するために。

「そうか。やはりストレスか……すまない。私がもっとしっかり君を守っていれば……」
 ドア越しに、彼の沈痛な声が聞こえる。

「……いえ、殿下のせいではありません」
 あなたの重すぎる愛のせいです、とは言えない。

「軍医を呼ぼうか? それとも私が背中をさすろうか? ドアを開けてもいいか?」

「ダメです!! 絶対に入ってこないでください!!」

 私は叫んだ。
 聖域崩壊の危機だ。
 私は観念してトイレを出た。そこには、今にもドアを破壊して突入しようとしていた王太子の姿があった。

「リュシア!」
 彼は私を見るなり、抱きしめた。
「無事でよかった……。トイレという密室は、暗殺者にとって絶好の狩場だ。君の姿が見えない数十秒が、私には永遠の拷問のように感じられた」

 大袈裟すぎる。
 しかし、彼の手は小刻みに震えていた。
 あの夜、私がエルダの瀕死の姿を見てキレたように、彼もまた、私が傷つくことを極度に恐れている。トラウマになっているのだ。

(……このままじゃ、お互いにダメになるわ)

 私は決意した。
 この異常な同棲生活を終わらせなければ。
 そのためには、「私がいると殿下にとってマイナスになる」と思わせるしかない。

          ◇

 午後のティータイム。
 私はレオンハルトに向き合い(もちろん膝の上だが)、真剣な眼差しで切り出した。

「殿下。真面目なお話があります」

「なんだい? 結婚式の日取りの前倒しかい?」

「違います。……私たちのこの状況についてです」

 私は周囲の侍女や護衛たちをチラリと見た。彼らは皆、壁のシミになる訓練を受けているかのように無表情だ。

「公務中に婚約者を膝に乗せる王太子。……これは、対外的に見ていかがなものでしょうか。他国の使節や、貴族たちの間で悪評が立っています。『王太子は公私混同している』『リュシア嬢は色香で国を傾ける傾国の悪女だ』と」

 これは事実だ。実際に陰口を叩かれている。
 私はあえて自分を卑下し、彼に「評判」を気にさせようとした。

「私のせいで、殿下の名誉が傷つくのは耐えられません。ですから、せめて執務中は別の机で……」

「誰だ」

 レオンハルトの声が、氷点下まで下がった。

「え?」

「そんな戯言を抜かしている愚か者は、どこのどいつだ? リストを作れ。全員、国家反逆罪で処断する」

 ヒィッ。
 思考が過激派すぎる。

「で、でも、火のない所に煙は……」

「リュシア、よく聞け」
 彼は私の顎をクイッと持ち上げ、アイスブルーの瞳で射抜いた。

「私が君を膝に乗せているのは、公私混同ではない。『最高レベルの危機管理』だ。君という国の至宝を、私の腕の中で物理的に保護する。これ以上の安全策があるか?」

「い、いや、それはそうかもしれませんけど……」

「それに、君が近くにいることで、私の精神は安定し、業務効率は飛躍的に向上している。事実、ここ数日の決裁処理数は過去最高だ。君は『傾国の悪女』どころか、『救国の女神』だ」

 ダメだ。論理が通じない。
 「効率が上がってる」と言われたら、元社畜としては反論できない。

 その時だった。
 執務室のドアがノックされ、給仕がワゴンを押して入ってきた。
 アフタヌーンティーのセットだ。

「失礼いたします。料理長特製のフルーツタルトでございます」

 給仕の男は、恭しくタルトを切り分け、私たちの前のテーブルに置いた。
 甘い香りが漂う。
 私は少しホッとした。甘いものでも食べて、この息苦しさを紛らわせたい。

「……美味しそう」
 私がフォークを伸ばそうとした瞬間。

 バシッ!!

 レオンハルトの手が伸び、私の手首を掴んだ。
 そして、もう一方の手で、給仕の男の首元にナイフ(ケーキ用)を突きつけた。

「……殿下?」

「動くな」
 レオンハルトの声には、殺気が満ちていた。

「貴様、誰だ? いつもの給仕担当のマルコはどうした?」

「え、あ、あいつは今日、腹痛で休みで……代わりに来たんです……」
 男が震えながら答える。

「ほう。代わりにしては、随分と身のこなしが軽いな。それに……」
 レオンハルトはタルト皿を顎でしゃくった。

「このタルトから、微かに『アネモネ毒』の臭いがする。無臭のはずだが、私の鼻は誤魔化せんぞ」

 毒!?
 私はタルトを凝視した。見た目には全くわからない。

「ちっ……!」
 給仕の男の表情が一変した。
 怯えた顔から、獰猛な暗殺者の顔へ。
 彼は隠し持っていた短剣を抜き、私めがけて飛びかかってきた。

「死ねぇッ! 魔女の娘!」

「きゃあっ!?」

 しかし、刃が私に届くことはなかった。
 レオンハルトが座ったまま私を抱き寄せ、同時にテーブルを蹴り上げたのだ。
 ワゴンが宙を舞い、暗殺者に激突する。

 ガシャーン!!

 ティーセットが砕け散る中、レオンハルトは流れるような動作で立ち上がり、よろめく暗殺者の鳩尾に強烈な蹴りを叩き込んだ。

「がはっ……!」

 暗殺者は壁まで吹き飛び、泡を吹いて気絶した。
 瞬殺である。

「……連れて行け。背後関係を吐かせるまで眠らせるな」
 レオンハルトが冷たく命じると、どこからともなく現れた影(本物の護衛)たちが、暗殺者を引きずっていった。

 静寂が戻る。
 私はレオンハルトの胸の中で、震えていた。
 本当に、命を狙われているんだ。
 トイレに行くのも命がけと言っていたのは、冗談じゃなかったんだ。

「……すまない、リュシア」
 レオンハルトが私を抱きしめる力が強くなる。

「また、怖い思いをさせた。……やはり、私の目が届く範囲にいても、危険は潜んでいる」

「殿下……」

 私は彼を見上げた。
 彼の顔色は青ざめていた。
 私を守れた安堵よりも、守りきれないかもしれないという恐怖が勝っているようだった。

「……離れましょう」
 私は思わず口走っていた。

「え?」

「私がいるから、殿下まで危険に晒されるんです。暗殺者は私を狙っている。なら、私が王宮から離れれば、殿下は安全です」

 これは本心だった。
 私のせいで彼が毒を盛られたり、刃を向けられたりするのは見たくない。
 婚約破棄したいとは言ったが、彼に死んでほしいわけではないのだ。

「私をどこか遠くの修道院へ……あるいは、実家の地下牢でも構いません。隔離してください。そうすれば、殿下の御身は……」

「バカなことを言うな!」

 レオンハルトが叫んだ。
 彼は私の肩を掴み、泣きそうな顔で怒鳴った。

「君がいない安全など、私には地獄と同じだ! 君を守るために私が傷つくなら本望だ! だが、君が一人で危険な場所に追いやられることだけは……絶対に耐えられない!」

 ドクン。
 
 【星冠値:95 → 97】

 97。
 胸元の光が、もはや直視できないほど眩しい。
 王宮のステンドグラスが共鳴し、部屋全体が幻想的な光に包まれる。

「君は……どこまで自己犠牲的なんだ」
 レオンハルトは涙を流しながら、私の頬を撫でた。

「自分の命が狙われているというのに、私の安全を第一に考えて、自ら離れようとするなんて……。そんな君を、どうして手放せようか」

 ああ……。
 まただ。
 「離れたい」という願いが、「愛ゆえの別離」に変換されて、より強固な鎖となって私を縛り付ける。

「誓うよ、リュシア。この命に代えても、君を守り抜く。……だから、もう二度と『離れる』なんて言わないでくれ」

 彼の懇願するような瞳を見て、私は言葉を失った。
 これほどまでに愛され、必要とされている。
 その事実に、私の心の奥底にあった「頑なな拒絶」が、少しだけ溶けていくのを感じた。

(……ズルいよ、殿下)

 私は諦めたように、彼の胸に顔を埋めた。
 膝の上から降りるのは、当分無理そうだ。

 その夜。
 広いベッドの中で、レオンハルトは私の手を握りながら、ぽつりと漏らした。

「……本当は、怖いんだ」

「え?」

「君の家が『魔女の血筋』だとしても、君が『権能』を使ったとしても、それはいい。だが……君がその力で、私の手の届かない場所へ行ってしまうのではないか。それが、たまらなく怖い」

 最強の王太子が見せた、初めての弱音。
 彼は子供のように、私の指に縋り付いていた。

「私を置いていかないでくれ、リュシア。……君なしの世界では、私は王になんてなれない」

 私は彼の手を握り返した。
 何も言えなかった。
 ただ、この「同居生活」が、単なる監視ではなく、彼の切実なSOSなのだと知ってしまった以上、無下に振り払うことはできなかった。

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