「婚約破棄して下さい」と言い続けたら、王太子の好感度がカンストしました~悪役令嬢を引退したいのに~

放浪人

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第二十話「あなたの孤独を知ってしまった」

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 月明かりが差し込む寝室。
 キングサイズのベッドの上で、私は天井を見つめていた。
 隣には、私の手を握りしめたまま眠るレオンハルト殿下がいる。
 規則正しい寝息。けれど、その眉間には深い皺が刻まれたままだ。

『私を置いていかないでくれ』
『君なしの世界では、私は王になんてなれない』

 昨夜、彼がこぼした弱音が、耳の奥で反響している。
 完璧超人だと思っていた。
 ポジティブすぎて話が通じない、鉄壁の王子様だと思っていた。
 けれど、その鎧の下にあったのは、怯える迷子の子供のような素顔だった。

「……ズルいですよ、殿下」

 私は、繋がれた手に少しだけ力を込めた。
 そんな顔を見せられたら、突き放せないじゃないですか。
 私は悪役令嬢として華麗に退場し、悠々自適な隠居生活を送るのが夢だった。
 でも、もし私が今いなくなったら、この人はどうなってしまうのだろう。
 壊れてしまうかもしれない。
 暴走して国を滅ぼすかもしれない。
 何より――二度と、あの屈託のない笑顔を見せてくれなくなるかもしれない。

(……情が移ってる。ダメね、私)

 私は小さく溜め息をつき、彼の熱い体温を感じながら、眠れない夜を過ごした。

          ◇

 翌日。
 私たちの「密着生活」は、相変わらず続いていた。
 ただし、空気が少し変わった。
 私が逃げようとする気配を消したからか、レオンハルト殿下の束縛も、以前のような「監視」というよりは、「甘え」に近いものになっていた。

「リュシア、この書類の数字が合わない気がするんだが」
「どれですか? ……ああ、これは前年度の繰越金が抜けていますね。修正しておきます」
「ありがとう。君がいると、霧が晴れたように視界がクリアになる」

 執務室の特注ソファ(二人掛け)で、肩を並べて仕事をする。
 膝の上ではないだけマシだが、距離はゼロだ。
 彼が時折、仕事の手を止めて私の髪を弄ったり、首筋に顔を埋めて深呼吸(「リュシア成分の補給」らしい)したりするのを、私は無言で受け入れていた。

「……ねえ、リュシア」

 午後のお茶の時間。
 レオンハルトが窓の外を見ながら、ぽつりと呟いた。

「私は昔から、人が怖かったんだ」

「殿下が、ですか?」

「ああ。王族として生まれ、周囲にいるのは仮面を被った大人たちばかり。誰もが私に跪くが、その目は私の『地位』しか見ていない。……心から私を案じてくれる者など、一人もいないと思っていた」

 彼は自嘲気味に笑った。

「だから私は、完璧な王太子を演じた。誰にも隙を見せず、誰にも心を許さず。そうして孤独に耐えることが、王になるための代償だと信じていた」

 王冠の重み。
 それは、私の想像を絶するものなのだろう。
 前世で社畜として働いていた頃の孤独とは、また質の違う、冷たく乾いた孤独。

「でも、君は違った」

 レオンハルトが私に向き直る。
 アイスブルーの瞳が、静かな湖面のように私を映している。

「君は私に『婚約破棄してくれ』と言った。地位も、権力も、未来の王妃の座もいらないと。……私という人間に価値がないと言われたようで、最初はショックだったよ」

 ごめんなさい。あれは単に死にたくなかっただけなんです。

「だが、気づいたんだ。君は『王太子』という肩書きに媚びない、唯一の人間だと。君だけが、私に対等な言葉を投げかけ、私のために怒り、私のために策を巡らせてくれた」

 彼は私の頬に手を添えた。
 その指先は、とても優しかった。

「君のその『欲のなさ』が、私には何よりの救いだったんだ。……君となら、仮面を外して生きていける。そう思った」

 ……ああ。
 わかってしまった。
 彼の「ポジティブな勘違い」の根底にあったもの。
 それは、ただ愛されたい、ありのままの自分を受け入れてほしいという、切実な渇望だったのだ。
 私が逃げれば逃げるほど、彼は「この人なら裏切らない」と信じ込み、必死に追いかけてきた。
 私の拒絶こそが、彼にとっては「信頼の証」だったなんて、皮肉すぎる。

(……この人を置いて逃げるなんて、もう無理だわ)

 私は覚悟を決めた。
 婚約破棄は諦めよう。
 ここまで好感度を上げてしまった責任は取る。
 ただし、条件がある。
 彼が安心して王になれるよう、私がこの国の「害悪」をすべて掃除してからだ。カイル王子も、神殿の闇も、すべて片付けて、安全な玉座を用意してあげる。
 そうすれば、彼はもう孤独に怯えなくて済むはずだ。

「……殿下」

 私は彼の手を握り返し、まっすぐに彼を見つめた。

「私はどこへも行きません。殿下が立派な王になられるまで、私がそばで……その、背中をお守りします」

 これは、私なりの最大限の譲歩であり、ビジネスパートナーとしての契約更新のつもりだった。
 「愛しています」とは言えないけれど、「支えます」なら言える。
 事務的で、実務的な、私の精一杯の言葉。

 しかし。
 レオンハルトは目を見開き、そして――泣いた。
 音もなく、美しい涙が頬を伝う。

「……リュシア」

「え、あの、泣かないでください」

「『背中を守る』……。それは騎士の誓いであり、そして生涯を共にする伴侶の誓いだ」

 彼は震える声で言った。

「君は、愛の言葉を囁く代わりに、行動で示してくれる。甘い言葉で飾り立てるのではなく、泥にまみれて戦う覚悟で、私を支えると言ってくれた……!」

 いや、泥にはまみれたくないですけど。

「ありがとう。……私の孤独は、今、癒やされた」

 レオンハルトは私を抱きしめた。
 強く、でも壊れ物を扱うように繊細に。

 ドクン、ドクン。

 心臓の鼓動が重なり合う。
 そして、部屋中が白銀の光に包まれた。

 【星冠値:97 → 98】

 98。
 あと2。
 もはや数値はどうでもよかった。彼が救われたなら、それでいい。
 そう思っていた。

 ところが。
 レオンハルトは顔を上げると、憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔で宣言した。

「よし、決めたぞ」

「……何をです?」

「『白花の儀』だ。来月の予定だったが、明後日にしよう」

「はあああ!?」

 私は素っ頓狂な声を上げた。
 明後日!? 準備期間ゼロ!?

「鉄は熱いうちに打てと言うだろう。私たちの心がここまで通じ合った今こそ、星に誓いを立てる最高のタイミングだ」

「待ってください! 儀式の準備には時間がかかります! ドレスの手配、招待状の送付、神殿との調整……事務的に不可能です!」

 私の抗議に、レオンハルトはニカッと笑った。

「大丈夫だ。実は君との結婚式のために、三年前から準備を進めていた」

「早すぎませんか!?」

「ドレスは君のサイズに合わせて十着用意してある。招待状も『日付空欄』ですでに発送済みだ。神殿には私が直接ねじ込む」

 用意周到すぎる。この男、最初から逃がす気ゼロだったのか。

「明後日、私たちは国中の民の前で誓いを立てる。そして、正式に君は私の『妃』となる」

 レオンハルトの瞳に、迷いはなかった。
 それは希望に満ちた瞳だったが、私にとっては「年貢の納め時」を告げる死刑宣告にも等しかった。

「……わかりました。やりましょう」

 私は諦めの溜め息をついた。
 もういい。やるなら徹底的にやってやる。
 最高の式にして、カイル王子たちに見せつけてやろう。
 「私たちは盤石よ、手出し無用よ」と。

          ◇

 その日の深夜。
 王都の地下深く、複雑に入り組んだ地下水路の一角。
 そこに、カイル王子と、数名の黒いローブの男たちが集まっていた。
 さらに、その奥には――包帯で全身を巻かれ、車椅子に乗った女の姿があった。
 セレナだ。
 先日の暴走で魔力を使い果たし、廃人のようになっているが、その瞳だけは憎悪の炎でギラギラと燃えている。

「……聞いたかい、セレナ嬢」

 カイルが楽しげに言った。

「兄上たちは、明後日に『白花の儀』を行うそうだ。……焦っているねえ、兄上も。リュシア嬢を繋ぎ止めるのに必死だ」

「……殺す」
 セレナの唇から、掠れた声が漏れる。
「殺してやる……私の幸せを奪ったあの女を……私の王子様を……」

「そうだね。最高の舞台だ。国中の注目が集まる聖なる儀式……そこで彼らを地獄に落とせば、この国は終わる」

 カイルは、懐から小瓶を取り出した。
 前回セレナに渡したものとは違う。もっと濃く、もっとおぞましい、漆黒の液体が入っている。

「これは『竜の血』の贋作だ。これを飲めば、君は一時的に人の形を捨て、破壊の化身となれる」

「……」

「ただし、元には戻れない。……それでもやるかい?」

 セレナは迷わず小瓶を奪い取った。
 彼女にはもう、失うものなど何もないのだ。

「いい子だ」
 カイルは満足げに微笑み、ローブの男たちに指示を出した。

「手はず通りに。儀式の最中、王都の四方で暴動を起こせ。混乱に乗じて、王宮を制圧する」

 男たちが闇に消えていく。

「さあ、兄上。リュシア嬢。……君たちの愛が、どれほどの絶望に耐えられるか、試させてもらおうか」

 地下水路に、カイルの冷たい笑い声が響いた。
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