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第2話 天使みたいな子ども
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屋敷の中は、外の寒さをそのまま持ち込んだかのように冷え切っていた。
暖炉に火は入っているはずなのに、人の温もりがまったく感じられない。
長旅の疲れを癒す間もなく、私は公爵家の食堂へと案内された。
広いテーブルの端と端。
レオンハルトは一番上座に、私はその対角に。
そしてルカは、レオンハルトの隣にちょこんと座っていた。
「……」
カチャ……。
カチャ……。
聞こえるのは、銀のナイフとフォークが陶器の皿に当たる音だけ。
誰も口を開かない。
家族の食事というより、何かの儀式のような重苦しい沈黙が場を支配していた。
私はちらりとルカの様子を窺った。
小さな手で器用にナイフとフォークを使いこなし、こぼすことも、音を立てることもなく、静かに肉を口に運んでいる。
背筋は板を入れたように伸びており、視線は自分の皿から一切動かさない。
(本当に、七歳なの……?)
王都で見てきた同年代の子どもたちは、もっと騒がしかった。
好き嫌いを言って泣きわめいたり、テーブルの下で足をブラブラさせたりするものだ。
だがルカには、子ども特有の落ち着きのなさが一切ない。
その時だった。
カチャンッ!
静寂の食堂に、鋭い金属音が響いた。
ルカの手から銀のスプーンが滑り落ち、床に転がったのだ。
ほんのささいな失敗。
手が滑っただけのこと。
だが、次の瞬間、ルカの表情から一気に血の気が引くのを私は見た。
「っ……!」
ルカは弾かれたように椅子から立ち上がり、床に両膝をついた。
「も、申し訳ございません……っ! 私としたことが、粗相を……っ!」
震える手でスプーンを拾い上げ、肩をビクビクと震わせている。
その小さな胸が、過呼吸のように激しく上下していた。
「許して……お許しください、父上。次からは、絶対に落としませんから……っ!」
異常だった。
ただスプーンを落としただけだ。
それなのに、ルカの目はまるで死刑宣告を受けたかのように、絶望と恐怖で見開かれている。
薄青の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいたが、彼は必死にそれをこらえていた。
泣くことすら、許されていないかのように。
「……ルカ」
レオンハルトの低く冷たい声が響いた。
怒っているわけではない。ただ、感情の抜け落ちた平坦な声だった。
「拾ったのなら、席に戻りなさい。食事の途中で席を立つな」
「は、はい……っ! 申し訳ございません……っ」
ルカは這うようにして椅子に戻り、再び背筋を伸ばした。
しかし、その小さな手は細かく震えており、顔面は雪のように蒼白だった。
私は、持っていたナイフをそっとテーブルに置いた。
(この子は、「いい子」なんじゃないわ)
心臓の奥が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。
これは、礼儀正しいのではない。
賢いからおとなしいわけでもない。
彼は、怯えているのだ。
失敗すれば見捨てられる。
完璧でなければ、ここにいることを許されない。
そんな見えない恐怖に縛られ、必死に「いい子」の仮面を顔に縫い付けている。
「……旦那様」
私はたまらず口を開いた。
「子どもがスプーンを落としたくらいで、そこまで怯える必要がどこにありますの? 少し、厳しすぎやしませんか」
私がそう言うと、レオンハルトは冷ややかな氷青の瞳を私に向けた。
「ヴァレンティス公爵家の嫡男たる者、常に完璧でなければならない。些細なミスが、北方の命運を左右することもある。甘やかしは不要だ」
「それは戦場での話でしょう。ここは食卓ですわ」
「……口出し無用だ、ヴィオレッタ。君には関係のないことだ」
取り付く島もない。
ルカは私たちのやり取りを聞いて、さらに身を縮こまらせていた。
自分が原因で大人が言い争っている。それが彼にとって、何よりも耐えがたいことなのだろう。
(……関係ない、ですって?)
私はドレスの膝の上で、ギュッと拳を握りしめた。
王都で理不尽に虐げられてきた記憶が蘇る。
誰かの都合で、本当の自分を殺さなければならない苦しみ。
笑顔の裏で、心が血を流している痛みを、私は誰よりも知っている。
私は深く息を吸い込み、ルカに向けて、わざと明るい声を出した。
「ルカ。私のスプーンも、少し滑りやすいみたい。後で柄の違うものに替えてもらいましょうね」
ルカはハッとして私を見た。
その瞳の奥で、ほんの少しだけ、恐怖の波が引いていくのがわかった。
彼は小さく、本当に小さく、コクリと頷いた。
暖炉に火は入っているはずなのに、人の温もりがまったく感じられない。
長旅の疲れを癒す間もなく、私は公爵家の食堂へと案内された。
広いテーブルの端と端。
レオンハルトは一番上座に、私はその対角に。
そしてルカは、レオンハルトの隣にちょこんと座っていた。
「……」
カチャ……。
カチャ……。
聞こえるのは、銀のナイフとフォークが陶器の皿に当たる音だけ。
誰も口を開かない。
家族の食事というより、何かの儀式のような重苦しい沈黙が場を支配していた。
私はちらりとルカの様子を窺った。
小さな手で器用にナイフとフォークを使いこなし、こぼすことも、音を立てることもなく、静かに肉を口に運んでいる。
背筋は板を入れたように伸びており、視線は自分の皿から一切動かさない。
(本当に、七歳なの……?)
王都で見てきた同年代の子どもたちは、もっと騒がしかった。
好き嫌いを言って泣きわめいたり、テーブルの下で足をブラブラさせたりするものだ。
だがルカには、子ども特有の落ち着きのなさが一切ない。
その時だった。
カチャンッ!
静寂の食堂に、鋭い金属音が響いた。
ルカの手から銀のスプーンが滑り落ち、床に転がったのだ。
ほんのささいな失敗。
手が滑っただけのこと。
だが、次の瞬間、ルカの表情から一気に血の気が引くのを私は見た。
「っ……!」
ルカは弾かれたように椅子から立ち上がり、床に両膝をついた。
「も、申し訳ございません……っ! 私としたことが、粗相を……っ!」
震える手でスプーンを拾い上げ、肩をビクビクと震わせている。
その小さな胸が、過呼吸のように激しく上下していた。
「許して……お許しください、父上。次からは、絶対に落としませんから……っ!」
異常だった。
ただスプーンを落としただけだ。
それなのに、ルカの目はまるで死刑宣告を受けたかのように、絶望と恐怖で見開かれている。
薄青の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいたが、彼は必死にそれをこらえていた。
泣くことすら、許されていないかのように。
「……ルカ」
レオンハルトの低く冷たい声が響いた。
怒っているわけではない。ただ、感情の抜け落ちた平坦な声だった。
「拾ったのなら、席に戻りなさい。食事の途中で席を立つな」
「は、はい……っ! 申し訳ございません……っ」
ルカは這うようにして椅子に戻り、再び背筋を伸ばした。
しかし、その小さな手は細かく震えており、顔面は雪のように蒼白だった。
私は、持っていたナイフをそっとテーブルに置いた。
(この子は、「いい子」なんじゃないわ)
心臓の奥が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。
これは、礼儀正しいのではない。
賢いからおとなしいわけでもない。
彼は、怯えているのだ。
失敗すれば見捨てられる。
完璧でなければ、ここにいることを許されない。
そんな見えない恐怖に縛られ、必死に「いい子」の仮面を顔に縫い付けている。
「……旦那様」
私はたまらず口を開いた。
「子どもがスプーンを落としたくらいで、そこまで怯える必要がどこにありますの? 少し、厳しすぎやしませんか」
私がそう言うと、レオンハルトは冷ややかな氷青の瞳を私に向けた。
「ヴァレンティス公爵家の嫡男たる者、常に完璧でなければならない。些細なミスが、北方の命運を左右することもある。甘やかしは不要だ」
「それは戦場での話でしょう。ここは食卓ですわ」
「……口出し無用だ、ヴィオレッタ。君には関係のないことだ」
取り付く島もない。
ルカは私たちのやり取りを聞いて、さらに身を縮こまらせていた。
自分が原因で大人が言い争っている。それが彼にとって、何よりも耐えがたいことなのだろう。
(……関係ない、ですって?)
私はドレスの膝の上で、ギュッと拳を握りしめた。
王都で理不尽に虐げられてきた記憶が蘇る。
誰かの都合で、本当の自分を殺さなければならない苦しみ。
笑顔の裏で、心が血を流している痛みを、私は誰よりも知っている。
私は深く息を吸い込み、ルカに向けて、わざと明るい声を出した。
「ルカ。私のスプーンも、少し滑りやすいみたい。後で柄の違うものに替えてもらいましょうね」
ルカはハッとして私を見た。
その瞳の奥で、ほんの少しだけ、恐怖の波が引いていくのがわかった。
彼は小さく、本当に小さく、コクリと頷いた。
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