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第十六話 ざまぁ実況回:王太子、嘘が全部“印”に出ます
翌日、王宮内の大会議場は、異様な熱気に包まれていた。 レオンハルト王太子とヴァルガス公爵による『緊急告発会見』。 国中の貴族、有力者、そして新聞記者たちが詰めかけ、固唾を飲んで壇上を見つめている。
壇上には、悲劇の主人公を演じるレオンハルト殿下と、それを支えるように立つ重鎮ヴァルガス公爵の姿があった。
「……国民の皆よ。私は、長きにわたり闇の中にいた」
殿下が沈痛な面持ちで語り始める。 その声は震え、目には涙が浮かんでいる。演技力だけは一級品だ。
「私の婚約破棄、そしてミレイユへの求婚……それらはすべて、私の本心ではなかった! 私はリディア・エルヴァインによる『黒魔術』で心を操られ、正常な判断力を奪われていたのだ!」
会場がどよめく。 「やはり黒魔術か」「リディア嬢ならやりかねない」といった無責任な囁きが広がる。 ヴァルガス公爵が、重々しく頷きながらマイクを握った。
「おいたわしや、殿下。……我が調査機関の分析により、殿下の脳内から『思考誘導魔法』の痕跡が検出されました。これは、エルヴァイン家に伝わる禁忌の術式と酷似しております」
嘘だ。 全部、真っ赤な嘘だ。 彼らは自分たちが行った人体実験(洗脳)の痕跡を逆手に取り、被害者である私を加害者に仕立て上げているのだ。
「私は今、ようやく呪縛から解き放たれた! だが、リディアへの恐怖は消えない。彼女はこの国を乗っ取るつもりだ!」
殿下の叫びに、会場の空気が「リディア排斥」へと傾きかけた、その時。
「……三流の茶番だな」
氷の礫(つぶて)のような声が、会場の熱気を一瞬で凍らせた。
重厚な扉が開き、私とアシュ様が並んで現れた。 アシュ様は私の腰に手を回し、まるでダンスパートナーをエスコートするように、優雅に、そして傲慢に歩みを進める。
「ア、アシュ宰相! それにリディア!」
殿下が驚愕に目を見開く。
「よくもぬけぬけと! 衛兵、この魔女を捕らえろ!」
「動くな」
アシュ様の一喝で、動きかけた衛兵たちが石像のように硬直した。 物理的に凍らせたわけではない。圧倒的な「格」の違いによる威圧だ。
「我々は逃げも隠れもしない。……ただ、この愉快な演劇(コメディ)に、少しばかりの『実況解説』を加えに来ただけだ」
アシュ様はニヤリと笑い、私を壇上のすぐ下まで導いた。
「レオンハルト殿下。貴殿は先ほど、『リディアに操られていた』と言ったな?」
「そ、そうだ! 事実だ!」
「ほう。では、『公的拒絶誓約』の印を見せてもらおうか」
アシュ様が指を鳴らすと、殿下の首元に、赤黒い紋様が浮かび上がった。 あの日、「君を愛することはない」と宣言した際に刻まれた呪縛の証だ。
「この印は、貴殿の言葉と心の矛盾を感知する機能を持つ。……さて、皆の者、よく見ておけ。嘘つきが言葉を発する時、印がどう反応するかを」
アシュ様は片眼鏡(モノクル)を装着し、まるで珍しい実験動物を観察するように殿下を見上げた。
「質問する。殿下、貴殿は本当にリディアを恐れているのか? 彼女への愛など、微塵もないと言い切れるか?」
「と、当然だ! 私はあんな女、顔を見るのも嫌だ!」
殿下が叫んだ瞬間だった。
ジュッ!
生肉が焼けるような音がして、殿下の首元の印が激しく明滅した。
「ぐあああっ!」
殿下が喉を押さえてうずくまる。 会場から悲鳴が上がる。
「解説しよう」
アシュ様は淡々と、しかし会場の隅々まで聞こえる声で告げた。
「今、印が『虚偽反応(エラー)』を示した。つまり、殿下の言葉は嘘だ。本心ではリディアを恐れてなどいない。むしろ、彼女への未練や執着が強すぎて、拒絶の言葉を吐くたびに心が引き裂かれている状態だ」
「ち、違う! これは呪いの痛みだ! リディアが今、私を攻撃しているんだ!」
殿下が脂汗を流しながら反論する。 また、ジュウウッ!と音がして、今度は黒い煙が上がり始めた。
「おやおや。嘘を重ねれば重ねるほど、印の反動(バックラッシュ)は強くなる。……このままでは喉が焼き切れるぞ?」
私は扇子を開き、憐れみの視線を送った。
「殿下、もうおやめになっては? あなたのそのお姿、見苦しいを通り越して、滑稽ですわ」
「黙れ! 私は……私はミレイユを愛している! リディアなど愛していない!」
バチバチバチッ! 殿下の全身から火花が散った。 彼は白目をむきかけて、演台にしがみつく。
「実況再開。……今の発言により、殿下の精神的負荷は限界値を超えたようだ。『ミレイユへの愛』も嘘、『リディアへの無関心』も嘘。……救いようがないな」
アシュ様は冷徹に切り捨てた。 会場の空気は完全に変わっていた。 誰もが気づき始めたのだ。 目の前で苦しんでいる王太子は、黒魔術の被害者などではなく、自分のついた嘘と誓約に自滅しているだけの道化だと。
「ヴァ、ヴァルガス公爵! 何とかしろ!」
殿下が助けを求めるように叫ぶ。 しかし、隣に立っていたはずの公爵は、いつの間にか数歩距離を取っていた。 その顔からは、好々爺の笑みは消え、冷たい計算の色が浮かんでいる。
「……おやおや、殿下。これほど錯乱されているとは。やはり魔術の影響が深刻なようですな」
公爵は静かに言った。 トカゲの尻尾切りだ。 彼は殿下を見捨てるつもりだ。
「待て」
アシュ様が公爵を指差した。
「逃げるにはまだ早いぞ、ヴァルガス公爵。殿下の嘘(エラー)の原因を作ったのは、貴殿だ」
「……何のことですかな? 私はただ、殿下をお支えしているだけで」
「しらばっくれるな。貴殿が殿下に施した『洗脳魔法』の証拠は挙がっている」
アシュ様は懐に手を入れた。 いよいよだ。 あの『黒い手帳』――公爵の悪事を記した決定的な証拠を突きつける時が来た。
「ここにある手帳を見れば、貴殿が何月何日にどのような術式を使い、殿下の感情を操作したか、すべて明らかになる」
アシュ様が懐から革表紙の手帳を取り出し、高々と掲げようとした。
その時だった。
ヒュッ!
風を切る音がして、アシュ様の手から手帳が弾き飛ばされた。 何者かが投げたナイフか、あるいは風魔法か。 手帳は宙を舞い――。
「いただきだ!」
天井の梁から飛び降りてきた影が、空中で手帳を奪い取った。 黒い装束に身を包んだ、小柄な人物。 その動きは人間離れしていた。
「なっ……!?」
さすがのアシュ様も意表を突かれたようだ。 影はそのまま着地することなく、壁を蹴って高い窓へと飛び移った。
「アシュ様! あれは!」
私は叫んだ。 影の人物が、一瞬だけこちらを振り返る。 覆面の下から覗く目は、爬虫類のように細く、金色に光っていた。
「……『誓約院(せいやくいん)』の暗部か!」
アシュ様が舌打ちをする。 誓約院。 国の契約魔法を管理する中立機関のはずだが、まさか公爵と繋がっていたのか。あるいは、独自の目的で動いているのか。
「証拠はいただいたぜ、宰相の旦那! 返してほしけりゃ『契約市』まで来な!」
影の男は嘲笑うような声を残し、窓を破って外へと消えていった。
パリン! ガラスの砕ける音が、静まり返った会場に響き渡る。
「……逃がしたか」
アシュ様が悔しげに拳を握りしめる。 決定的な瞬間だった。 あと一歩で、この茶番劇に終止符を打てたのに。
壇上のヴァルガス公爵が、ニヤリと笑ったのが見えた。 彼は状況を即座に利用した。
「見ましたかな、皆さん! 宰相は証拠があると言いながら、何も出せなかった! あれはハッタリだったのです!」
公爵の声が響く。
「あるいは、彼ら自身が証拠を隠滅するために、あのような芝居を打ったのかもしれませんぞ! リディアこそが真の黒幕であると!」
会場がざわめく。 アシュ様の実況で傾きかけた流れが、証拠の喪失によってまた混沌の中へと引き戻されてしまった。
「……くそっ。想定外の介入者(イレギュラー)だ」
アシュ様が低く唸る。 私は彼の手を握った。冷たい。 彼は自分を責めている。完璧主義者の彼にとって、このミスは許しがたいものだろう。
「アシュ様、顔を上げてください」
私は強く言った。
「まだ負けたわけではありません。手帳が盗まれたなら、取り返せばいいだけです。……場所は『契約市』と言っていましたわ」
「……ああ。契約市か。無法者とペテン師の巣窟だ」
アシュ様はすぐに冷静さを取り戻し、私の腰を抱き寄せた。 その腕に力がこもる。
「行くぞ、リディア。これ以上ここにいても、時間の無駄だ」
私たちは背を向けた。 背後で殿下が「勝った! 私の勝ちだ!」と叫んでいる声が聞こえたが、その声は以前よりも弱々しく、そしてどこか虚しく響いていた。
馬車に戻ると、アシュ様は深くシートに沈み込んだ。
「……すまない、リディア。私の失態だ」
「いいえ。敵が予想以上に根深かっただけですわ」
私は彼の隣に座り、その手を両手で包み込んだ。
「それに、面白くなってきましたわよ。誓約院まで出てくるなんて、この事件、国中の膿(うみ)が全部詰まっているみたいですもの」
「……君は強いな」
アシュ様がふっと笑った。
「ああ、そうだ。次は『契約市』だ。……あそこは私の管轄外の法が適用される特殊地域だ。通常の捜査権限は通用しない」
「あら。ということは?」
「暴力と交渉、そして『賭け』ですべてが決まる街だ」
アシュ様の瞳に、危険な光が宿った。
「私の妻が『交渉の天才』でよかったよ。……頼りにしているぞ、リディア」
「お任せください、旦那様。悪党相手の交渉なら、私の専売特許です!」
私たちは見つめ合い、不敵に笑った。 証拠は盗まれた。 でも、私たちの闘志は消えていない。 舞台は王都から、混沌の街『契約市』へ。 泥棒猫から手帳を取り返し、今度こそ完全に息の根を止めてやる。
壇上には、悲劇の主人公を演じるレオンハルト殿下と、それを支えるように立つ重鎮ヴァルガス公爵の姿があった。
「……国民の皆よ。私は、長きにわたり闇の中にいた」
殿下が沈痛な面持ちで語り始める。 その声は震え、目には涙が浮かんでいる。演技力だけは一級品だ。
「私の婚約破棄、そしてミレイユへの求婚……それらはすべて、私の本心ではなかった! 私はリディア・エルヴァインによる『黒魔術』で心を操られ、正常な判断力を奪われていたのだ!」
会場がどよめく。 「やはり黒魔術か」「リディア嬢ならやりかねない」といった無責任な囁きが広がる。 ヴァルガス公爵が、重々しく頷きながらマイクを握った。
「おいたわしや、殿下。……我が調査機関の分析により、殿下の脳内から『思考誘導魔法』の痕跡が検出されました。これは、エルヴァイン家に伝わる禁忌の術式と酷似しております」
嘘だ。 全部、真っ赤な嘘だ。 彼らは自分たちが行った人体実験(洗脳)の痕跡を逆手に取り、被害者である私を加害者に仕立て上げているのだ。
「私は今、ようやく呪縛から解き放たれた! だが、リディアへの恐怖は消えない。彼女はこの国を乗っ取るつもりだ!」
殿下の叫びに、会場の空気が「リディア排斥」へと傾きかけた、その時。
「……三流の茶番だな」
氷の礫(つぶて)のような声が、会場の熱気を一瞬で凍らせた。
重厚な扉が開き、私とアシュ様が並んで現れた。 アシュ様は私の腰に手を回し、まるでダンスパートナーをエスコートするように、優雅に、そして傲慢に歩みを進める。
「ア、アシュ宰相! それにリディア!」
殿下が驚愕に目を見開く。
「よくもぬけぬけと! 衛兵、この魔女を捕らえろ!」
「動くな」
アシュ様の一喝で、動きかけた衛兵たちが石像のように硬直した。 物理的に凍らせたわけではない。圧倒的な「格」の違いによる威圧だ。
「我々は逃げも隠れもしない。……ただ、この愉快な演劇(コメディ)に、少しばかりの『実況解説』を加えに来ただけだ」
アシュ様はニヤリと笑い、私を壇上のすぐ下まで導いた。
「レオンハルト殿下。貴殿は先ほど、『リディアに操られていた』と言ったな?」
「そ、そうだ! 事実だ!」
「ほう。では、『公的拒絶誓約』の印を見せてもらおうか」
アシュ様が指を鳴らすと、殿下の首元に、赤黒い紋様が浮かび上がった。 あの日、「君を愛することはない」と宣言した際に刻まれた呪縛の証だ。
「この印は、貴殿の言葉と心の矛盾を感知する機能を持つ。……さて、皆の者、よく見ておけ。嘘つきが言葉を発する時、印がどう反応するかを」
アシュ様は片眼鏡(モノクル)を装着し、まるで珍しい実験動物を観察するように殿下を見上げた。
「質問する。殿下、貴殿は本当にリディアを恐れているのか? 彼女への愛など、微塵もないと言い切れるか?」
「と、当然だ! 私はあんな女、顔を見るのも嫌だ!」
殿下が叫んだ瞬間だった。
ジュッ!
生肉が焼けるような音がして、殿下の首元の印が激しく明滅した。
「ぐあああっ!」
殿下が喉を押さえてうずくまる。 会場から悲鳴が上がる。
「解説しよう」
アシュ様は淡々と、しかし会場の隅々まで聞こえる声で告げた。
「今、印が『虚偽反応(エラー)』を示した。つまり、殿下の言葉は嘘だ。本心ではリディアを恐れてなどいない。むしろ、彼女への未練や執着が強すぎて、拒絶の言葉を吐くたびに心が引き裂かれている状態だ」
「ち、違う! これは呪いの痛みだ! リディアが今、私を攻撃しているんだ!」
殿下が脂汗を流しながら反論する。 また、ジュウウッ!と音がして、今度は黒い煙が上がり始めた。
「おやおや。嘘を重ねれば重ねるほど、印の反動(バックラッシュ)は強くなる。……このままでは喉が焼き切れるぞ?」
私は扇子を開き、憐れみの視線を送った。
「殿下、もうおやめになっては? あなたのそのお姿、見苦しいを通り越して、滑稽ですわ」
「黙れ! 私は……私はミレイユを愛している! リディアなど愛していない!」
バチバチバチッ! 殿下の全身から火花が散った。 彼は白目をむきかけて、演台にしがみつく。
「実況再開。……今の発言により、殿下の精神的負荷は限界値を超えたようだ。『ミレイユへの愛』も嘘、『リディアへの無関心』も嘘。……救いようがないな」
アシュ様は冷徹に切り捨てた。 会場の空気は完全に変わっていた。 誰もが気づき始めたのだ。 目の前で苦しんでいる王太子は、黒魔術の被害者などではなく、自分のついた嘘と誓約に自滅しているだけの道化だと。
「ヴァ、ヴァルガス公爵! 何とかしろ!」
殿下が助けを求めるように叫ぶ。 しかし、隣に立っていたはずの公爵は、いつの間にか数歩距離を取っていた。 その顔からは、好々爺の笑みは消え、冷たい計算の色が浮かんでいる。
「……おやおや、殿下。これほど錯乱されているとは。やはり魔術の影響が深刻なようですな」
公爵は静かに言った。 トカゲの尻尾切りだ。 彼は殿下を見捨てるつもりだ。
「待て」
アシュ様が公爵を指差した。
「逃げるにはまだ早いぞ、ヴァルガス公爵。殿下の嘘(エラー)の原因を作ったのは、貴殿だ」
「……何のことですかな? 私はただ、殿下をお支えしているだけで」
「しらばっくれるな。貴殿が殿下に施した『洗脳魔法』の証拠は挙がっている」
アシュ様は懐に手を入れた。 いよいよだ。 あの『黒い手帳』――公爵の悪事を記した決定的な証拠を突きつける時が来た。
「ここにある手帳を見れば、貴殿が何月何日にどのような術式を使い、殿下の感情を操作したか、すべて明らかになる」
アシュ様が懐から革表紙の手帳を取り出し、高々と掲げようとした。
その時だった。
ヒュッ!
風を切る音がして、アシュ様の手から手帳が弾き飛ばされた。 何者かが投げたナイフか、あるいは風魔法か。 手帳は宙を舞い――。
「いただきだ!」
天井の梁から飛び降りてきた影が、空中で手帳を奪い取った。 黒い装束に身を包んだ、小柄な人物。 その動きは人間離れしていた。
「なっ……!?」
さすがのアシュ様も意表を突かれたようだ。 影はそのまま着地することなく、壁を蹴って高い窓へと飛び移った。
「アシュ様! あれは!」
私は叫んだ。 影の人物が、一瞬だけこちらを振り返る。 覆面の下から覗く目は、爬虫類のように細く、金色に光っていた。
「……『誓約院(せいやくいん)』の暗部か!」
アシュ様が舌打ちをする。 誓約院。 国の契約魔法を管理する中立機関のはずだが、まさか公爵と繋がっていたのか。あるいは、独自の目的で動いているのか。
「証拠はいただいたぜ、宰相の旦那! 返してほしけりゃ『契約市』まで来な!」
影の男は嘲笑うような声を残し、窓を破って外へと消えていった。
パリン! ガラスの砕ける音が、静まり返った会場に響き渡る。
「……逃がしたか」
アシュ様が悔しげに拳を握りしめる。 決定的な瞬間だった。 あと一歩で、この茶番劇に終止符を打てたのに。
壇上のヴァルガス公爵が、ニヤリと笑ったのが見えた。 彼は状況を即座に利用した。
「見ましたかな、皆さん! 宰相は証拠があると言いながら、何も出せなかった! あれはハッタリだったのです!」
公爵の声が響く。
「あるいは、彼ら自身が証拠を隠滅するために、あのような芝居を打ったのかもしれませんぞ! リディアこそが真の黒幕であると!」
会場がざわめく。 アシュ様の実況で傾きかけた流れが、証拠の喪失によってまた混沌の中へと引き戻されてしまった。
「……くそっ。想定外の介入者(イレギュラー)だ」
アシュ様が低く唸る。 私は彼の手を握った。冷たい。 彼は自分を責めている。完璧主義者の彼にとって、このミスは許しがたいものだろう。
「アシュ様、顔を上げてください」
私は強く言った。
「まだ負けたわけではありません。手帳が盗まれたなら、取り返せばいいだけです。……場所は『契約市』と言っていましたわ」
「……ああ。契約市か。無法者とペテン師の巣窟だ」
アシュ様はすぐに冷静さを取り戻し、私の腰を抱き寄せた。 その腕に力がこもる。
「行くぞ、リディア。これ以上ここにいても、時間の無駄だ」
私たちは背を向けた。 背後で殿下が「勝った! 私の勝ちだ!」と叫んでいる声が聞こえたが、その声は以前よりも弱々しく、そしてどこか虚しく響いていた。
馬車に戻ると、アシュ様は深くシートに沈み込んだ。
「……すまない、リディア。私の失態だ」
「いいえ。敵が予想以上に根深かっただけですわ」
私は彼の隣に座り、その手を両手で包み込んだ。
「それに、面白くなってきましたわよ。誓約院まで出てくるなんて、この事件、国中の膿(うみ)が全部詰まっているみたいですもの」
「……君は強いな」
アシュ様がふっと笑った。
「ああ、そうだ。次は『契約市』だ。……あそこは私の管轄外の法が適用される特殊地域だ。通常の捜査権限は通用しない」
「あら。ということは?」
「暴力と交渉、そして『賭け』ですべてが決まる街だ」
アシュ様の瞳に、危険な光が宿った。
「私の妻が『交渉の天才』でよかったよ。……頼りにしているぞ、リディア」
「お任せください、旦那様。悪党相手の交渉なら、私の専売特許です!」
私たちは見つめ合い、不敵に笑った。 証拠は盗まれた。 でも、私たちの闘志は消えていない。 舞台は王都から、混沌の街『契約市』へ。 泥棒猫から手帳を取り返し、今度こそ完全に息の根を止めてやる。
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