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第十五話「母の証明:子どもは嘘をつけない」
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「……公爵家の内輪揉めに、王家が介入する。いささか品位に欠けるのではありませんか」
その老婆の声は、決して大きくはなかった。 しかし、大広間の喧騒を一瞬にして鎮めるだけの、圧倒的な重みを持っていた。
ヴィルヘルミナ・フォン・グレイフ。 レオンハルト様の父方の伯母であり、先代公爵の姉。 王宮のご意見番として知られ、その厳格さと鋭い慧眼から「氷の女帝」と恐れられる人物だ。
彼女は杖をつきながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りでこちらへ歩み寄ってきた。 モーゼが海を割るように、貴族たちが慌てて道を開ける。
「ヴィ、ヴィルヘルミナ夫人……」
さしものルドルフ殿下も、この老婦人には一目置かざるを得ないらしい。 彼は一瞬だけ怯んだ表情を見せたが、すぐに味方を得たかのように表情を明るくした。
「おお、夫人! ちょうど良いところへ! 貴女もご存知でしょう、この女の悪行を! 貴女の可愛い甥っ子の留守に、子供たちを虐げ、あまつさえ王家の威光に魔法で逆らうなど……!」
殿下は私のことを指差し、唾を飛ばして訴えた。
「グレイフ家の名誉を守るためにも、この毒婦を排除せねばなりません! ご安心ください、子供たちは私が保護しますから」
殿下の言葉に、ヴィルヘルミナ夫人は無表情のまま、私と子供たちへ視線を向けた。 その瞳は、深海のように暗く、感情を読み取れない。 彼女は私の左手――レオンハルト様から贈られた黒革の手袋――を一瞥し、それから子供たちの顔を順に見つめた。
「……ふむ」
短く鼻を鳴らす。 そして、殿下に向き直り、冷ややかに告げた。
「殿下のおっしゃる通り、グレイフ家の名誉は守らねばなりません。ですが、一方的な断罪は我が家の流儀ではありませんわ」
「な、なんだと?」
「真実を確かめるのに、最も確実な証人がいるではありませんか」
夫人は杖の先で、私の背後を指した。 そこには、私のドレスを掴んで震えている、三人の子供たちがいる。
「子供は嘘をつきません。彼らの言葉こそが、何よりの証拠となりましょう」
夫人の提案に、会場がざわめいた。 リディア様が焦ったように声を上げる。
「夫、夫人! 無理ですわ! あの子たちは怯えているのです。この悪女に脅されて、本当のことなんて言えるはずが……」
「お黙りなさい」
夫人の鋭い一喝が、リディア様の言葉を封じた。
「私が聞くと言っているのです。外野の雑音は不要です」
夫人は私に近づき、至近距離で私を見上げた。 身長は私より低いはずなのに、見下ろされているような錯覚を覚えるほどの威圧感だ。
「クラリスとやら。……子供たちを前に出しなさい。それとも、やましいことがあるから出せないのかしら?」
試されている。 彼女は味方ではない。ただの公平な審判者だ。 もしここで私が躊躇えば、それは「やましい」と認めたことになる。
私は深呼吸をし、背中の子供たちを振り返った。
「アルフォンス様、ミレイユ様、ノア様」
私は膝をつき、彼らと目線を合わせた。
「大丈夫です。あなたたちの思うまま、本当のことを話しなさい。誰もあなたたちを傷つけさせません」
「……クラリス様」
アルフォンス様が不安げに私を見る。 私は彼の手をぎゅっと握り、そして背中をポンと押した。
「行きなさい。グレイフ家の子として、胸を張って」
私の言葉に、アルフォンス様は意を決したように頷いた。 そして、弟と妹の手を引き、ヴィルヘルミナ夫人の前へと進み出た。
会場中の視線が、三人の小さな体に注がれる。 そのプレッシャーは計り知れないはずだ。 けれど、彼らは逃げなかった。
「……アルフォンス・フォン・グレイフです」
長男のアルフォンス様が、震える声を必死に抑えて名乗った。 夫人は厳めしい顔で彼を見下ろす。
「アルフォンス。久しぶりだね。ずいぶんと……顔色が良くなったようだが?」
「は、はい。……以前は、食事も喉を通らず、眠れない日々が続いておりました」
「ほう? それはなぜ?」
「母上……亡き母上の影を追い、父上の期待に応えようと、一人で全てを背負い込んでいたからです」
アルフォンス様は、そこで一度言葉を切り、私の方を振り返った。 その瞳には、確かな信頼の光が宿っていた。
「ですが、クラリス様が来られてから、変わりました。彼女は僕に『子供でいていい』と教えてくれました。無理に食べなくてもいい、眠れないならそばにいると。……そして、父上との間を取り持ち、僕を孤独から救ってくれました」
彼は前を向き、はっきりと言い切った。
「彼女は、僕たちを虐げてなどいません。むしろ、僕たちの命と心を救ってくれた恩人です」
会場から、ほうっ、と感嘆のため息が漏れる。 十歳の少年の、あまりに理路整然とした、そして情熱的な弁明。 それは、どんな大人の嘘よりも胸を打つものだった。
「う、嘘よ!」
リディア様が悲鳴のように叫んだ。
「騙されないで! それは言わされているのよ! あんなにスラスラと……きっと、台本があるのよ!」
「台本などありません!」
次に声を上げたのは、ミレイユ様だった。 彼女はスカートの裾を握りしめ、リディア様を睨みつけた。
「お兄様は本当のことを言っただけよ! あなたたちこそ、何も知らないくせに勝手なことを言わないで!」
「な、生意気な……!」
「クラリス様はね、私の髪を梳かす時、絶対に痛くしないの! 私がスープをこぼしても、怒らないで『怪我はない?』って聞いてくれたの!」
ミレイユ様は自分の頭の青いリボンを指差した。
「このリボンも、クラリス様が選んでくれたの。私が『可愛い』って言ったら、嬉しそうに結んでくれたわ。……虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけないじゃない!」
彼女の言葉は、感情が溢れすぎて、少し支離滅裂だったかもしれない。 でも、だからこそ「本物」だった。 日々の生活の中で積み重ねられた、些細な、しかし決定的な愛情の記憶。
最後に、ノア様が動いた。 彼はトテトテとヴィルヘルミナ夫人の足元まで歩み寄ると、そのドレスの裾をくいっと引っ張った。
「……おばあさま」
「……なんだい、ノア」
夫人が少しだけ目元を緩める。
「クラリスさまは、こわくないよ」
ノア様は一生懸命に言葉を紡いだ。
「よる、こわいゆめ、みたとき……ずっと、トントンしてくれた。お歌、うたってくれた。……とっても、いいにおいがするの」
そして、彼は振り返り、私の元へ駆け戻ってくると、私の足にぎゅっと抱きついた。
「ぼく、クラリスさま、だいすき」
その行動が、すべての答えだった。 「洗脳」でも「脅迫」でもない。 幼子が本能で選び取った、安心できる場所。それが私の隣なのだ。
会場の空気が変わった。 嘲笑や好奇の目は消え、代わりに同情と、感動の色が広がっていく。 「あんなに懐いているじゃないか」「虐待なんて嘘だったのか」「王太子殿下は、なぜあんな嘘を?」
形勢逆転。 ルドルフ殿下の顔色が、青から赤へ、そして土気色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……! 子供たちよ、騙されるな! その女は演技をしているだけだ! お前たちの母親の座を奪った泥棒猫だぞ!」
殿下はなりふり構わず喚き散らした。 その醜態に、貴族たちが冷ややかな視線を向ける。
「……いい加減になさいませ」
ヴィルヘルミナ夫人が、氷のような声で告げた。 彼女は私の方へ歩み寄ると、私の前に立ち塞がり、殿下と対峙した。
「子供たちの言葉、そしてこの様子。これ以上の証拠が必要ですか? 殿下」
「ぐ、ぬ……しかし、リディアが睨まれたと……!」
「リディア嬢の被害妄想でしょう。あるいは、子供に恐怖心を抱かせるような何かを、彼女自身がしたのではないですか?」
「なっ……!?」
リディア様が絶句する。 夫人の指摘は図星だったのだろう。
「グレイフ公爵家は、北方の要。その当主の留守に、妻と子を辱め、あまつさえ罪人に仕立て上げようとするなど……王家の恥です」
夫人は杖を床に強く突き立てた。 ドンッ! という音が、判決の小槌のように響いた。
「これ以上、我が一族を愚弄するなら、私も黙ってはおりませんよ。……陛下にご報告申し上げてもよろしいのですか?」
陛下。すなわち国王陛下。 王太子といえど、絶対権力者である父王には頭が上がらない。 特に、理不尽な理由で有力貴族を敵に回したとなれば、廃嫡の可能性すら出てくる。
「……くっ……!」
殿下は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、私と子供たちを睨みつけた。
「……覚えていろ。このままでは済まさんぞ」
捨て台詞を吐き、殿下はマントを翻して会場を去っていった。 リディア様も、慌ててその後を追う。 「ま、待ってくださませ殿下! 私は悪くありませんわ!」
嵐が去った。 会場には、奇妙な静寂が残された。
私は大きく息を吐き、全身の力が抜けるのを感じた。 勝った。 子供たちが、守ってくれたのだ。
「……ふん」
ヴィルヘルミナ夫人が、私に向き直った。 その表情は相変わらず厳めしいが、瞳の奥の鋭さは少しだけ和らいでいるように見えた。
「見事だったわね。……子供たちにあそこまで言わせるとは」
「私は何もしておりません。あの子たちが、勇気を出してくれただけです」
私が子供たちの頭を撫でると、三人は照れくさそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「それにしても」
夫人はミレイユ様を見つめた。
「ミレイユ。お前、さっき……言いかけてやめなかったかい?」
「え?」
ミレイユ様がきょとんとする。
「『虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけない』と言ったあと。……何か、別の言葉を飲み込んだように見えたけれど」
さすがは「氷の女帝」。 子供の些細な言葉の綾も見逃さない。
ミレイユ様の顔が、みるみるうちに赤くなった。 彼女はモジモジと指を組み合わせ、チラリと私を見た。
「……う、うるさいわね! おばあさまには関係ないでしょ!」
「ほう? 関係ないとは聞き捨てならないね」
「い、いいから! あーもう、知らないっ!」
ミレイユ様は顔を真っ赤にして、私のスカートの後ろに隠れてしまった。 私はその様子を見て、思わずクスリと笑ってしまった。 彼女が何を言いかけたのか、私にはなんとなく分かったからだ。
『ママ』。 あるいは、『私のお母様』。 そう言いかけて、公衆の面前であることに気づき、そしてまだ素直になりきれない自分のプライドが邪魔をして、飲み込んだのだろう。
(……可愛いらしい未遂ね)
まだ言葉にはならなくても、その気持ちだけで十分だ。
「……まあ、いいでしょう」
ヴィルヘルミナ夫人は、それ以上追求しなかった。 彼女は私に近づき、小声で囁いた。
「勘違いしないでちょうだい。私はあなたのことを認めたわけではありませんよ」
「ええ、存じております」
「ですが……少なくとも、あの子たちにとって『害』ではないことは分かりました。しばらくは、様子を見てあげましょう」
それは、彼女なりの停戦協定であり、合格の印だった。 グレイフ家の重鎮である彼女が「様子を見る」と言った以上、他の貴族たちが表立って私を攻撃することはできなくなる。 最強の盾を手に入れたも同然だ。
「感謝いたします、お義母(おば)様」
私が深くカーテシーをすると、夫人は「ふん」と鼻を鳴らし、杖をついて去っていった。 その背中は、来た時よりも少しだけ温かく見えた。
音楽が再び流れ始める。 貴族たちが、今度は称賛と媚びを含んだ笑顔で近寄ってくる。 「素晴らしい家族愛ですわね」「誤解が解けて何よりです」 掌を返したような態度。 けれど、今の私にはそれすらも心地よいBGMにしか聞こえなかった。
私は三人の子供たちを抱き寄せた。
「ありがとう。……あなたたちは、私の自慢の子供たちです」
「……えへへ」 「……別に、普通のことしただけだし」 「ぼくも、じまん?」
「ええ、もちろん」
私たちは笑い合った。 王都の煌びやかなシャンデリアの下、私たちは本物の「家族」として輝いていた。
けれど。 この時の私はまだ知らなかった。 プライドをズタズタにされた王太子ルドルフが、このまま引き下がるような男ではないことを。 そして、彼が次に狙うのが、私ではなく、もっと別の――グレイフ家そのものを崩壊させるような「急所」であることを。
会場の隅で、一人の男が私たちをじっと見つめていた。 それは、先ほどヴィルヘルミナ夫人の後ろに控えていた従者の一人。 しかし、その目は不自然に虚ろで、口元には歪んだ笑みが張り付いていた。
その夜。 宿に戻ったミレイユ様が、着替えながらポツリと言った。
「……ねえ。さっき、言いかけたことなんだけど」
「はい?」
「……なんでもない。いつか、ちゃんと言うから。……待ってて」
彼女はそう言って、布団に潜り込んだ。 その耳は、やはり真っ赤だった。
私は心の中でガッツポーズをした。 あと一歩。 あと一歩で、彼女の心の扉は完全に開く。 その日が来るのを、私はいつまでだって待つ覚悟だ。
その老婆の声は、決して大きくはなかった。 しかし、大広間の喧騒を一瞬にして鎮めるだけの、圧倒的な重みを持っていた。
ヴィルヘルミナ・フォン・グレイフ。 レオンハルト様の父方の伯母であり、先代公爵の姉。 王宮のご意見番として知られ、その厳格さと鋭い慧眼から「氷の女帝」と恐れられる人物だ。
彼女は杖をつきながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りでこちらへ歩み寄ってきた。 モーゼが海を割るように、貴族たちが慌てて道を開ける。
「ヴィ、ヴィルヘルミナ夫人……」
さしものルドルフ殿下も、この老婦人には一目置かざるを得ないらしい。 彼は一瞬だけ怯んだ表情を見せたが、すぐに味方を得たかのように表情を明るくした。
「おお、夫人! ちょうど良いところへ! 貴女もご存知でしょう、この女の悪行を! 貴女の可愛い甥っ子の留守に、子供たちを虐げ、あまつさえ王家の威光に魔法で逆らうなど……!」
殿下は私のことを指差し、唾を飛ばして訴えた。
「グレイフ家の名誉を守るためにも、この毒婦を排除せねばなりません! ご安心ください、子供たちは私が保護しますから」
殿下の言葉に、ヴィルヘルミナ夫人は無表情のまま、私と子供たちへ視線を向けた。 その瞳は、深海のように暗く、感情を読み取れない。 彼女は私の左手――レオンハルト様から贈られた黒革の手袋――を一瞥し、それから子供たちの顔を順に見つめた。
「……ふむ」
短く鼻を鳴らす。 そして、殿下に向き直り、冷ややかに告げた。
「殿下のおっしゃる通り、グレイフ家の名誉は守らねばなりません。ですが、一方的な断罪は我が家の流儀ではありませんわ」
「な、なんだと?」
「真実を確かめるのに、最も確実な証人がいるではありませんか」
夫人は杖の先で、私の背後を指した。 そこには、私のドレスを掴んで震えている、三人の子供たちがいる。
「子供は嘘をつきません。彼らの言葉こそが、何よりの証拠となりましょう」
夫人の提案に、会場がざわめいた。 リディア様が焦ったように声を上げる。
「夫、夫人! 無理ですわ! あの子たちは怯えているのです。この悪女に脅されて、本当のことなんて言えるはずが……」
「お黙りなさい」
夫人の鋭い一喝が、リディア様の言葉を封じた。
「私が聞くと言っているのです。外野の雑音は不要です」
夫人は私に近づき、至近距離で私を見上げた。 身長は私より低いはずなのに、見下ろされているような錯覚を覚えるほどの威圧感だ。
「クラリスとやら。……子供たちを前に出しなさい。それとも、やましいことがあるから出せないのかしら?」
試されている。 彼女は味方ではない。ただの公平な審判者だ。 もしここで私が躊躇えば、それは「やましい」と認めたことになる。
私は深呼吸をし、背中の子供たちを振り返った。
「アルフォンス様、ミレイユ様、ノア様」
私は膝をつき、彼らと目線を合わせた。
「大丈夫です。あなたたちの思うまま、本当のことを話しなさい。誰もあなたたちを傷つけさせません」
「……クラリス様」
アルフォンス様が不安げに私を見る。 私は彼の手をぎゅっと握り、そして背中をポンと押した。
「行きなさい。グレイフ家の子として、胸を張って」
私の言葉に、アルフォンス様は意を決したように頷いた。 そして、弟と妹の手を引き、ヴィルヘルミナ夫人の前へと進み出た。
会場中の視線が、三人の小さな体に注がれる。 そのプレッシャーは計り知れないはずだ。 けれど、彼らは逃げなかった。
「……アルフォンス・フォン・グレイフです」
長男のアルフォンス様が、震える声を必死に抑えて名乗った。 夫人は厳めしい顔で彼を見下ろす。
「アルフォンス。久しぶりだね。ずいぶんと……顔色が良くなったようだが?」
「は、はい。……以前は、食事も喉を通らず、眠れない日々が続いておりました」
「ほう? それはなぜ?」
「母上……亡き母上の影を追い、父上の期待に応えようと、一人で全てを背負い込んでいたからです」
アルフォンス様は、そこで一度言葉を切り、私の方を振り返った。 その瞳には、確かな信頼の光が宿っていた。
「ですが、クラリス様が来られてから、変わりました。彼女は僕に『子供でいていい』と教えてくれました。無理に食べなくてもいい、眠れないならそばにいると。……そして、父上との間を取り持ち、僕を孤独から救ってくれました」
彼は前を向き、はっきりと言い切った。
「彼女は、僕たちを虐げてなどいません。むしろ、僕たちの命と心を救ってくれた恩人です」
会場から、ほうっ、と感嘆のため息が漏れる。 十歳の少年の、あまりに理路整然とした、そして情熱的な弁明。 それは、どんな大人の嘘よりも胸を打つものだった。
「う、嘘よ!」
リディア様が悲鳴のように叫んだ。
「騙されないで! それは言わされているのよ! あんなにスラスラと……きっと、台本があるのよ!」
「台本などありません!」
次に声を上げたのは、ミレイユ様だった。 彼女はスカートの裾を握りしめ、リディア様を睨みつけた。
「お兄様は本当のことを言っただけよ! あなたたちこそ、何も知らないくせに勝手なことを言わないで!」
「な、生意気な……!」
「クラリス様はね、私の髪を梳かす時、絶対に痛くしないの! 私がスープをこぼしても、怒らないで『怪我はない?』って聞いてくれたの!」
ミレイユ様は自分の頭の青いリボンを指差した。
「このリボンも、クラリス様が選んでくれたの。私が『可愛い』って言ったら、嬉しそうに結んでくれたわ。……虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけないじゃない!」
彼女の言葉は、感情が溢れすぎて、少し支離滅裂だったかもしれない。 でも、だからこそ「本物」だった。 日々の生活の中で積み重ねられた、些細な、しかし決定的な愛情の記憶。
最後に、ノア様が動いた。 彼はトテトテとヴィルヘルミナ夫人の足元まで歩み寄ると、そのドレスの裾をくいっと引っ張った。
「……おばあさま」
「……なんだい、ノア」
夫人が少しだけ目元を緩める。
「クラリスさまは、こわくないよ」
ノア様は一生懸命に言葉を紡いだ。
「よる、こわいゆめ、みたとき……ずっと、トントンしてくれた。お歌、うたってくれた。……とっても、いいにおいがするの」
そして、彼は振り返り、私の元へ駆け戻ってくると、私の足にぎゅっと抱きついた。
「ぼく、クラリスさま、だいすき」
その行動が、すべての答えだった。 「洗脳」でも「脅迫」でもない。 幼子が本能で選び取った、安心できる場所。それが私の隣なのだ。
会場の空気が変わった。 嘲笑や好奇の目は消え、代わりに同情と、感動の色が広がっていく。 「あんなに懐いているじゃないか」「虐待なんて嘘だったのか」「王太子殿下は、なぜあんな嘘を?」
形勢逆転。 ルドルフ殿下の顔色が、青から赤へ、そして土気色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……! 子供たちよ、騙されるな! その女は演技をしているだけだ! お前たちの母親の座を奪った泥棒猫だぞ!」
殿下はなりふり構わず喚き散らした。 その醜態に、貴族たちが冷ややかな視線を向ける。
「……いい加減になさいませ」
ヴィルヘルミナ夫人が、氷のような声で告げた。 彼女は私の方へ歩み寄ると、私の前に立ち塞がり、殿下と対峙した。
「子供たちの言葉、そしてこの様子。これ以上の証拠が必要ですか? 殿下」
「ぐ、ぬ……しかし、リディアが睨まれたと……!」
「リディア嬢の被害妄想でしょう。あるいは、子供に恐怖心を抱かせるような何かを、彼女自身がしたのではないですか?」
「なっ……!?」
リディア様が絶句する。 夫人の指摘は図星だったのだろう。
「グレイフ公爵家は、北方の要。その当主の留守に、妻と子を辱め、あまつさえ罪人に仕立て上げようとするなど……王家の恥です」
夫人は杖を床に強く突き立てた。 ドンッ! という音が、判決の小槌のように響いた。
「これ以上、我が一族を愚弄するなら、私も黙ってはおりませんよ。……陛下にご報告申し上げてもよろしいのですか?」
陛下。すなわち国王陛下。 王太子といえど、絶対権力者である父王には頭が上がらない。 特に、理不尽な理由で有力貴族を敵に回したとなれば、廃嫡の可能性すら出てくる。
「……くっ……!」
殿下は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、私と子供たちを睨みつけた。
「……覚えていろ。このままでは済まさんぞ」
捨て台詞を吐き、殿下はマントを翻して会場を去っていった。 リディア様も、慌ててその後を追う。 「ま、待ってくださませ殿下! 私は悪くありませんわ!」
嵐が去った。 会場には、奇妙な静寂が残された。
私は大きく息を吐き、全身の力が抜けるのを感じた。 勝った。 子供たちが、守ってくれたのだ。
「……ふん」
ヴィルヘルミナ夫人が、私に向き直った。 その表情は相変わらず厳めしいが、瞳の奥の鋭さは少しだけ和らいでいるように見えた。
「見事だったわね。……子供たちにあそこまで言わせるとは」
「私は何もしておりません。あの子たちが、勇気を出してくれただけです」
私が子供たちの頭を撫でると、三人は照れくさそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「それにしても」
夫人はミレイユ様を見つめた。
「ミレイユ。お前、さっき……言いかけてやめなかったかい?」
「え?」
ミレイユ様がきょとんとする。
「『虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけない』と言ったあと。……何か、別の言葉を飲み込んだように見えたけれど」
さすがは「氷の女帝」。 子供の些細な言葉の綾も見逃さない。
ミレイユ様の顔が、みるみるうちに赤くなった。 彼女はモジモジと指を組み合わせ、チラリと私を見た。
「……う、うるさいわね! おばあさまには関係ないでしょ!」
「ほう? 関係ないとは聞き捨てならないね」
「い、いいから! あーもう、知らないっ!」
ミレイユ様は顔を真っ赤にして、私のスカートの後ろに隠れてしまった。 私はその様子を見て、思わずクスリと笑ってしまった。 彼女が何を言いかけたのか、私にはなんとなく分かったからだ。
『ママ』。 あるいは、『私のお母様』。 そう言いかけて、公衆の面前であることに気づき、そしてまだ素直になりきれない自分のプライドが邪魔をして、飲み込んだのだろう。
(……可愛いらしい未遂ね)
まだ言葉にはならなくても、その気持ちだけで十分だ。
「……まあ、いいでしょう」
ヴィルヘルミナ夫人は、それ以上追求しなかった。 彼女は私に近づき、小声で囁いた。
「勘違いしないでちょうだい。私はあなたのことを認めたわけではありませんよ」
「ええ、存じております」
「ですが……少なくとも、あの子たちにとって『害』ではないことは分かりました。しばらくは、様子を見てあげましょう」
それは、彼女なりの停戦協定であり、合格の印だった。 グレイフ家の重鎮である彼女が「様子を見る」と言った以上、他の貴族たちが表立って私を攻撃することはできなくなる。 最強の盾を手に入れたも同然だ。
「感謝いたします、お義母(おば)様」
私が深くカーテシーをすると、夫人は「ふん」と鼻を鳴らし、杖をついて去っていった。 その背中は、来た時よりも少しだけ温かく見えた。
音楽が再び流れ始める。 貴族たちが、今度は称賛と媚びを含んだ笑顔で近寄ってくる。 「素晴らしい家族愛ですわね」「誤解が解けて何よりです」 掌を返したような態度。 けれど、今の私にはそれすらも心地よいBGMにしか聞こえなかった。
私は三人の子供たちを抱き寄せた。
「ありがとう。……あなたたちは、私の自慢の子供たちです」
「……えへへ」 「……別に、普通のことしただけだし」 「ぼくも、じまん?」
「ええ、もちろん」
私たちは笑い合った。 王都の煌びやかなシャンデリアの下、私たちは本物の「家族」として輝いていた。
けれど。 この時の私はまだ知らなかった。 プライドをズタズタにされた王太子ルドルフが、このまま引き下がるような男ではないことを。 そして、彼が次に狙うのが、私ではなく、もっと別の――グレイフ家そのものを崩壊させるような「急所」であることを。
会場の隅で、一人の男が私たちをじっと見つめていた。 それは、先ほどヴィルヘルミナ夫人の後ろに控えていた従者の一人。 しかし、その目は不自然に虚ろで、口元には歪んだ笑みが張り付いていた。
その夜。 宿に戻ったミレイユ様が、着替えながらポツリと言った。
「……ねえ。さっき、言いかけたことなんだけど」
「はい?」
「……なんでもない。いつか、ちゃんと言うから。……待ってて」
彼女はそう言って、布団に潜り込んだ。 その耳は、やはり真っ赤だった。
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