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第十七話「当主教育と、母の許可」
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サロンの空気は、張り詰めた弓弦のように緊張していた。 ヴィルヘルミナ夫人が杖をひと突きするたびに、目に見えない重圧が波紋のように広がり、アルフォンス様の小さな体に襲いかかる。
これは、物理的な暴力ではない。 高位貴族だけが使える、魔力を乗せた「威圧」による精神的な試練だ。 呼吸が苦しくなるほどのプレッシャー。 大人でも立っているのがやっとの空間で、十歳のアルフォンス様は必死に膝を震わせながらも、一歩も引かずに立っていた。
「……ほう。まだ持ちこたえるかい」
夫人が冷ややかに目を細める。 彼女の背後には、氷の女帝と呼ばれるにふさわしい、冷たく鋭い魔力のオーラが揺らめいている。
「だが、いつまで続くかな? お前のその細い足で、公爵家という重荷を支えきれると本気で思っているのかい?」
「……支えます……!」
アルフォンス様が声を絞り出す。 額からは脂汗が流れ落ち、顔色は蒼白だ。それでも、その瞳だけは燃えるように熱く、夫人を見据えている。
「情けを捨てなさい、アルフォンス。家族ごっこになど興じているから、弱くなる。私についてくれば、もっと楽に強くなれる。……誰も守らなくていい。ただ、敵を切り捨てる氷になればいいのだから」
夫人の言葉は、甘美な誘惑のようにアルフォンス様の心を揺さぶる。 かつて彼が目指そうとし、そして挫折した「氷の公爵」への道。 感情を殺し、ただ機能として生きる道。
けれど、アルフォンス様は首を横に振った。
「……嫌です」
「なんだと?」
「僕は……氷にはなりません。父上も、本当は氷なんかじゃない。……クラリス様が教えてくれました。温かさを知っているからこそ、守るために強くなれるのだと!」
アルフォンス様が叫ぶと同時に、彼の中から未熟ながらも純粋な魔力が溢れ出した。 それは冷たい氷の魔力ではなく、どこか温かみを帯びた、透明な光。
「僕は、この家が好きです。ミレイユやノア、そしてクラリス様がいる、この温かい場所を守りたいんです! そのためなら……僕はどんな重圧にも耐えてみせます!」
ドンッ! 彼が床を踏みしめると、夫人の威圧がわずかに押し返された。 ヴィルヘルミナ夫人の目が、驚きに大きく見開かれる。
「……っ」
しかし、その直後。 無理な魔力放出の反動か、アルフォンス様の体がぐらりと傾いた。 鼻からツーっと赤いものが流れる。 限界だ。 気力だけで立っているが、十歳の肉体は悲鳴を上げている。
「アルフォンス様!」
私は叫び、飛び出した。 夫人の杖が再び振り上げられる――その前に。
パシッ。
私はアルフォンス様の前に滑り込み、夫人の杖を、あの黒革の手袋をした左手で掴み止めた。
「……そこまでになさってください、お義母様」
私は低い声で告げた。 手袋越しに、夫人の魔力がビリビリと伝わってくる。 並の令嬢なら気絶しているかもしれない。 でも、私にはレオンハルト様の守りと、何より「母」としての意地がある。
「どきなさい、クラリス。これは当主教育だよ。あの子が限界を超えるまでやらねば意味がない」
「意味などありません! これは教育ではなく、ただの虐めです!」
私は杖を強く握り返し、夫人を睨みつけた。
「限界を超えてどうするのです? またあの子を壊すつもりですか? 強さとは、心身をすり減らして得るものではありません。……もう十分です。あの子は、あなたの威圧に屈しなかった。それで証明されたはずです!」
私の剣幕に、夫人は一瞬言葉を詰まらせた。 そして、私の後ろで荒い息をついているアルフォンス様へと視線を移した。 彼は、私が守っているにもかかわらず、まだ私の背中から顔を出し、夫人を睨んでいる。 守られるだけの存在ではない。共に戦おうとしている。
「……ふん」
夫人は唐突に力を抜いた。 杖から放たれていた圧力が霧散する。
「……生意気な親子だこと」
彼女は杖を引き、呆れたように、しかし口元には微かな笑みを浮かべて言った。
「合格とは言わないよ。まだ青臭い理想論だ。……だが、不合格でもない」
夫人は懐からハンカチを取り出し、ポイとアルフォンス様に投げ渡した。
「鼻血を拭きなさい。見苦しい」
「……は、はい」
アルフォンス様が慌ててハンカチを受け取る。
「教育係の話は、保留にしておくわ。……レオンハルトが戻るまで、その『温かい強さ』とやらで、どこまでやれるか見せてもらうとしましょう」
夫人はくるりと背を向けた。 そして、去り際に私の方をちらりと振り返り、小声で囁いた。
「……なかなか、いい『盾』を持っているじゃないか、あの子は」
それは、私に対する最大の賛辞だった。 夫人はコツコツと杖の音を響かせ、風のように去っていった。 嵐のような試練が、終わった。
「……はぁっ、はぁっ……」
緊張の糸が切れた瞬間、アルフォンス様が膝から崩れ落ちそうになった。
「アルフォンス様!」
私は彼を抱き止めた。 汗でびっしょりと濡れたシャツ。 体は小刻みに震えている。 相当な無理をしていたのだ。
「ぼ、僕は……守れましたか……? 追い返せましたか……?」
うわ言のように繰り返す彼を、私は強く抱きしめた。
「ええ、ええ! 立派でした。あなたは最高の当主代行です。……よく、頑張りましたね」
「……よかった……」
アルフォンス様は、私の腕の中で安堵の息を吐き、そのままぐったりと力を抜いた。 ミレイユ様とノア様も駆け寄ってきて、兄の無事を確かめるようにしがみついた。
◇
その日の夜。 アルフォンス様は、大事をとって早めにベッドに入っていた。 私も心配で、彼の部屋の椅子に座り、読み聞かせをしていた。 ……といっても、読むのは絵本ではなく、彼が好きな冒険小説だ。
「……それで、勇者は言ったの。『仲間がいれば、どんな魔王も怖くない』と」
私が本を閉じると、ベッドの中からアルフォンス様がじっと私を見つめていた。 熱は下がったようだが、その瞳はどこか潤んでいて、幼い。 昼間の、ヴィルヘルミナ夫人に啖呵を切った時の凛々しい姿とは別人のようだ。
「……クラリス様」
「はい?」
「……怖かったです」
ぽつりと、本音が漏れた。
「伯母上の目は……本当に、僕を見透かしているようで。足がすくんで、逃げ出したくて……」
彼は布団の端をぎゅっと握りしめた。
「僕は、口では偉そうなことを言ったけれど……本当は、ただ震えていただけなんです。父上のように強くなんてない……」
弱音。 今まで、決して誰にも見せなかった、彼の心の柔らかい部分。 「長男だから」「しっかりしなきゃ」という鎧の下に隠していた、十歳の男の子の素顔。
私は本をサイドテーブルに置き、ベッドに近づいた。 そして、彼の頭を優しく撫でた。
「逃げ出したかったのに、逃げなかった。それが本当の勇気ですよ」
「……でも、クラリス様が止めてくれなかったら、僕は倒れていました」
「いいえ。倒れる前に私が止めることは、最初から決まっていましたから」
私は屈み込み、彼の額に自分のおでこをコツンと合わせた。 驚いたように、アルフォンス様が目を丸くする。
「アルフォンス様。あなたは立派な次期公爵です。それは今日、証明されました。……でもね」
私は優しく囁いた。
「私の前では、ただの子供でいていいんです。泣いてもいいし、怖いと言ってもいい。無理をして大人ぶる必要なんて、一つもありません」
「……子供で、いい……?」
「ええ。甘えるのも、子供の大切な仕事ですよ」
私の言葉に、アルフォンス様の瞳が揺れた。 ずっと張り詰めていた何かが、音を立てて崩れていく。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の服の袖を掴んだ。 そして、迷子のような、心細そうな顔で言った。
「……今日は、このまま……そばにいてくれますか?」
「もちろん。あなたが眠るまで、ずっとここにいますよ」
「……手を、握っていても?」
「ええ」
私が手を差し出すと、彼は両手で私の手を包み込むように握りしめた。 そして、それを自分の頬に押し当てた。 レオンハルト様の手袋の感触と、私の体温。
「……あったかい」
アルフォンス様は、目を閉じて、ほうっと息を吐いた。 その表情は、昼間の戦士の顔ではなく、母親の温もりを求めて安心しきった、年相応の少年のものだった。
「……おやすみなさい、アルフォンス様」
「……おやすみなさい……母上」
え? 今、確かに。
私は耳を疑ったけれど、彼はもう夢の中へと落ちていた。 寝言だったのかもしれない。 それとも、無意識の呼びかけだったのか。
どちらにせよ、私の胸は温かい喜びで満たされていた。 あの頑なだった小さな当主様が、こんなにも無防備な顔を見せてくれるようになった。 ヴィルヘルミナ夫人との対決は恐ろしかったけれど、そのおかげで私たちは、また一つ本当の親子に近づけたのかもしれない。
私は、彼の手を握ったまま、窓の外の月を見上げた。 王都の夜は明るい。 けれど、この部屋の中にある温もりは、どんな照明よりも輝いて見えた。
これで、長男は大丈夫。 あとは――まだ少し素直になりきれない長女と、この王都で渦巻く陰謀の決着をつけるだけだ。
翌日。 そんな私の決意を試すかのように、新たな事件が起きた。 今度は、屋敷の中ではなく、外の世界で。 ミレイユ様とノア様を連れて、気晴らしに街へ買い物に出かけた時のことだ。
「わあ、すごい人!」
王都の大通りは、祭りの準備で賑わっていた。 ミレイユ様はショーウィンドウに飾られたドレスや宝石に目を輝かせ、ノア様は屋台から漂う甘い匂いに鼻をひくつかせている。
護衛の騎士たちに守られながら、私たちは久しぶりの「家族のお出かけ」を楽しんでいた。 はずだった。
「……あれ? ノア?」
ミレイユ様の声に、私が振り返った時。 ついさっきまで私の左手を握っていたはずのノア様の姿が、雑踏の中に消えていた。
「ノア様!?」
一瞬の隙。 人混みに紛れてはぐれたのか? いいえ、違う。私は確かに手を握っていた。 誰かが、意図的に引き剥がしたのだ。
血の気が引く音が聞こえた。 王都の喧騒が、遠のいていく。
「……探して! すぐに!」
私の悲鳴のような指示に、護衛たちが散らばる。 平和な休日は終わりを告げ、再び悪意の影が忍び寄っていた。
これは、物理的な暴力ではない。 高位貴族だけが使える、魔力を乗せた「威圧」による精神的な試練だ。 呼吸が苦しくなるほどのプレッシャー。 大人でも立っているのがやっとの空間で、十歳のアルフォンス様は必死に膝を震わせながらも、一歩も引かずに立っていた。
「……ほう。まだ持ちこたえるかい」
夫人が冷ややかに目を細める。 彼女の背後には、氷の女帝と呼ばれるにふさわしい、冷たく鋭い魔力のオーラが揺らめいている。
「だが、いつまで続くかな? お前のその細い足で、公爵家という重荷を支えきれると本気で思っているのかい?」
「……支えます……!」
アルフォンス様が声を絞り出す。 額からは脂汗が流れ落ち、顔色は蒼白だ。それでも、その瞳だけは燃えるように熱く、夫人を見据えている。
「情けを捨てなさい、アルフォンス。家族ごっこになど興じているから、弱くなる。私についてくれば、もっと楽に強くなれる。……誰も守らなくていい。ただ、敵を切り捨てる氷になればいいのだから」
夫人の言葉は、甘美な誘惑のようにアルフォンス様の心を揺さぶる。 かつて彼が目指そうとし、そして挫折した「氷の公爵」への道。 感情を殺し、ただ機能として生きる道。
けれど、アルフォンス様は首を横に振った。
「……嫌です」
「なんだと?」
「僕は……氷にはなりません。父上も、本当は氷なんかじゃない。……クラリス様が教えてくれました。温かさを知っているからこそ、守るために強くなれるのだと!」
アルフォンス様が叫ぶと同時に、彼の中から未熟ながらも純粋な魔力が溢れ出した。 それは冷たい氷の魔力ではなく、どこか温かみを帯びた、透明な光。
「僕は、この家が好きです。ミレイユやノア、そしてクラリス様がいる、この温かい場所を守りたいんです! そのためなら……僕はどんな重圧にも耐えてみせます!」
ドンッ! 彼が床を踏みしめると、夫人の威圧がわずかに押し返された。 ヴィルヘルミナ夫人の目が、驚きに大きく見開かれる。
「……っ」
しかし、その直後。 無理な魔力放出の反動か、アルフォンス様の体がぐらりと傾いた。 鼻からツーっと赤いものが流れる。 限界だ。 気力だけで立っているが、十歳の肉体は悲鳴を上げている。
「アルフォンス様!」
私は叫び、飛び出した。 夫人の杖が再び振り上げられる――その前に。
パシッ。
私はアルフォンス様の前に滑り込み、夫人の杖を、あの黒革の手袋をした左手で掴み止めた。
「……そこまでになさってください、お義母様」
私は低い声で告げた。 手袋越しに、夫人の魔力がビリビリと伝わってくる。 並の令嬢なら気絶しているかもしれない。 でも、私にはレオンハルト様の守りと、何より「母」としての意地がある。
「どきなさい、クラリス。これは当主教育だよ。あの子が限界を超えるまでやらねば意味がない」
「意味などありません! これは教育ではなく、ただの虐めです!」
私は杖を強く握り返し、夫人を睨みつけた。
「限界を超えてどうするのです? またあの子を壊すつもりですか? 強さとは、心身をすり減らして得るものではありません。……もう十分です。あの子は、あなたの威圧に屈しなかった。それで証明されたはずです!」
私の剣幕に、夫人は一瞬言葉を詰まらせた。 そして、私の後ろで荒い息をついているアルフォンス様へと視線を移した。 彼は、私が守っているにもかかわらず、まだ私の背中から顔を出し、夫人を睨んでいる。 守られるだけの存在ではない。共に戦おうとしている。
「……ふん」
夫人は唐突に力を抜いた。 杖から放たれていた圧力が霧散する。
「……生意気な親子だこと」
彼女は杖を引き、呆れたように、しかし口元には微かな笑みを浮かべて言った。
「合格とは言わないよ。まだ青臭い理想論だ。……だが、不合格でもない」
夫人は懐からハンカチを取り出し、ポイとアルフォンス様に投げ渡した。
「鼻血を拭きなさい。見苦しい」
「……は、はい」
アルフォンス様が慌ててハンカチを受け取る。
「教育係の話は、保留にしておくわ。……レオンハルトが戻るまで、その『温かい強さ』とやらで、どこまでやれるか見せてもらうとしましょう」
夫人はくるりと背を向けた。 そして、去り際に私の方をちらりと振り返り、小声で囁いた。
「……なかなか、いい『盾』を持っているじゃないか、あの子は」
それは、私に対する最大の賛辞だった。 夫人はコツコツと杖の音を響かせ、風のように去っていった。 嵐のような試練が、終わった。
「……はぁっ、はぁっ……」
緊張の糸が切れた瞬間、アルフォンス様が膝から崩れ落ちそうになった。
「アルフォンス様!」
私は彼を抱き止めた。 汗でびっしょりと濡れたシャツ。 体は小刻みに震えている。 相当な無理をしていたのだ。
「ぼ、僕は……守れましたか……? 追い返せましたか……?」
うわ言のように繰り返す彼を、私は強く抱きしめた。
「ええ、ええ! 立派でした。あなたは最高の当主代行です。……よく、頑張りましたね」
「……よかった……」
アルフォンス様は、私の腕の中で安堵の息を吐き、そのままぐったりと力を抜いた。 ミレイユ様とノア様も駆け寄ってきて、兄の無事を確かめるようにしがみついた。
◇
その日の夜。 アルフォンス様は、大事をとって早めにベッドに入っていた。 私も心配で、彼の部屋の椅子に座り、読み聞かせをしていた。 ……といっても、読むのは絵本ではなく、彼が好きな冒険小説だ。
「……それで、勇者は言ったの。『仲間がいれば、どんな魔王も怖くない』と」
私が本を閉じると、ベッドの中からアルフォンス様がじっと私を見つめていた。 熱は下がったようだが、その瞳はどこか潤んでいて、幼い。 昼間の、ヴィルヘルミナ夫人に啖呵を切った時の凛々しい姿とは別人のようだ。
「……クラリス様」
「はい?」
「……怖かったです」
ぽつりと、本音が漏れた。
「伯母上の目は……本当に、僕を見透かしているようで。足がすくんで、逃げ出したくて……」
彼は布団の端をぎゅっと握りしめた。
「僕は、口では偉そうなことを言ったけれど……本当は、ただ震えていただけなんです。父上のように強くなんてない……」
弱音。 今まで、決して誰にも見せなかった、彼の心の柔らかい部分。 「長男だから」「しっかりしなきゃ」という鎧の下に隠していた、十歳の男の子の素顔。
私は本をサイドテーブルに置き、ベッドに近づいた。 そして、彼の頭を優しく撫でた。
「逃げ出したかったのに、逃げなかった。それが本当の勇気ですよ」
「……でも、クラリス様が止めてくれなかったら、僕は倒れていました」
「いいえ。倒れる前に私が止めることは、最初から決まっていましたから」
私は屈み込み、彼の額に自分のおでこをコツンと合わせた。 驚いたように、アルフォンス様が目を丸くする。
「アルフォンス様。あなたは立派な次期公爵です。それは今日、証明されました。……でもね」
私は優しく囁いた。
「私の前では、ただの子供でいていいんです。泣いてもいいし、怖いと言ってもいい。無理をして大人ぶる必要なんて、一つもありません」
「……子供で、いい……?」
「ええ。甘えるのも、子供の大切な仕事ですよ」
私の言葉に、アルフォンス様の瞳が揺れた。 ずっと張り詰めていた何かが、音を立てて崩れていく。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の服の袖を掴んだ。 そして、迷子のような、心細そうな顔で言った。
「……今日は、このまま……そばにいてくれますか?」
「もちろん。あなたが眠るまで、ずっとここにいますよ」
「……手を、握っていても?」
「ええ」
私が手を差し出すと、彼は両手で私の手を包み込むように握りしめた。 そして、それを自分の頬に押し当てた。 レオンハルト様の手袋の感触と、私の体温。
「……あったかい」
アルフォンス様は、目を閉じて、ほうっと息を吐いた。 その表情は、昼間の戦士の顔ではなく、母親の温もりを求めて安心しきった、年相応の少年のものだった。
「……おやすみなさい、アルフォンス様」
「……おやすみなさい……母上」
え? 今、確かに。
私は耳を疑ったけれど、彼はもう夢の中へと落ちていた。 寝言だったのかもしれない。 それとも、無意識の呼びかけだったのか。
どちらにせよ、私の胸は温かい喜びで満たされていた。 あの頑なだった小さな当主様が、こんなにも無防備な顔を見せてくれるようになった。 ヴィルヘルミナ夫人との対決は恐ろしかったけれど、そのおかげで私たちは、また一つ本当の親子に近づけたのかもしれない。
私は、彼の手を握ったまま、窓の外の月を見上げた。 王都の夜は明るい。 けれど、この部屋の中にある温もりは、どんな照明よりも輝いて見えた。
これで、長男は大丈夫。 あとは――まだ少し素直になりきれない長女と、この王都で渦巻く陰謀の決着をつけるだけだ。
翌日。 そんな私の決意を試すかのように、新たな事件が起きた。 今度は、屋敷の中ではなく、外の世界で。 ミレイユ様とノア様を連れて、気晴らしに街へ買い物に出かけた時のことだ。
「わあ、すごい人!」
王都の大通りは、祭りの準備で賑わっていた。 ミレイユ様はショーウィンドウに飾られたドレスや宝石に目を輝かせ、ノア様は屋台から漂う甘い匂いに鼻をひくつかせている。
護衛の騎士たちに守られながら、私たちは久しぶりの「家族のお出かけ」を楽しんでいた。 はずだった。
「……あれ? ノア?」
ミレイユ様の声に、私が振り返った時。 ついさっきまで私の左手を握っていたはずのノア様の姿が、雑踏の中に消えていた。
「ノア様!?」
一瞬の隙。 人混みに紛れてはぐれたのか? いいえ、違う。私は確かに手を握っていた。 誰かが、意図的に引き剥がしたのだ。
血の気が引く音が聞こえた。 王都の喧騒が、遠のいていく。
「……探して! すぐに!」
私の悲鳴のような指示に、護衛たちが散らばる。 平和な休日は終わりを告げ、再び悪意の影が忍び寄っていた。
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