『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人

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第十八話「誘拐未遂:狙われる末っ子」

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「ノア様! ノア様!」

私の叫び声は、王都の賑やかな雑踏にかき消された。 色とりどりの屋台、笑い合う人々、客引きの声。 平和な休日の光景が、一瞬にして悪意に満ちた迷宮へと変わる。 私の左手には、つい数秒前まで握っていたはずの小さな温もりが、今はもうない。

「クラリス様、あっちを見たけどいなかった!」 「僕の方もです! どこにも……っ」

ミレイユ様とアルフォンス様が、蒼白な顔で戻ってきた。 護衛の騎士たちも必死の形相で人混みを分けているが、三歳児の小さな背丈は、大人の腰ほどの高さしかない。一度視界から消えれば、見つけ出すのは至難の業だ。

「……落ち着いて。深呼吸をするのよ」

私は震える指先を固く握りしめ、自分自身に言い聞かせるように言った。 パニックになってはいけない。 焦燥は目を曇らせ、判断を狂わせる。 私は「悪役令嬢」。どんな窮地でも、冷徹なまでに状況を俯瞰してきた女だ。

(考えなさい、クラリス。ただの迷子? いいえ、違う)

私は先ほどまでノア様が立っていた場所を凝視した。 彼は私の手を離したのではない。 私が「離された」と感じるような、不自然な力の働きがあった。 そして、この人混み。 まるで私たちを分断するかのように、意図的に人の流れが作られていたとしたら?

「……セレス」

私は影のように付き従う侍女長を呼んだ。

「はい、奥様」

「この雑踏、不自然よ。誰かが意図的に混乱を作っている。……魔力の痕跡は?」

セレスは眼鏡の位置を直し、周囲の空気を探るように鼻をひくつかせた。 彼女は情報収集のプロだが、魔力の感知にも長けている。

「……微弱ですが、幻惑系の術式を感じます。あちらの路地裏の方角へ」

彼女が指差したのは、大通りの華やかさとは無縁の、薄暗い路地への入り口だった。 あそこは貧民街へと続く道。 貴族の子供が自ら入っていくような場所ではない。

「誘拐ね」

確信した瞬間、私の内側で何かが冷たく燃え上がった。 恐怖ではない。 私の大事な家族に手を出した愚か者への、底冷えするような怒りだ。

「アルフォンス様、ミレイユ様。あなたは騎士たちとここで待っていなさい」

「嫌だ! 僕も行く!」 「私も! ノアを見つけるんでしょ!?」

二人が私のドレスを掴む。 その必死な瞳を見て、私は一瞬迷い、そして頷いた。

「……いいでしょう。ただし、私の背中から離れないこと。絶対に」

私たちは人混みを抜け、路地裏へと足を踏み入れた。 表通りの喧騒が嘘のように遠ざかり、腐った水と埃の匂いが鼻をつく。 薄汚れた石畳には、泥にまみれた小さな靴跡が、点々と残っていた。

「……これ、ノアの靴だ」

アルフォンス様が地面を指差す。 その先には、誰かに抱きかかえられたのか、足跡が途切れている場所があった。

「急ぎましょう」

私はドレスの裾をまくり上げ、早足で進んだ。 路地は複雑に入り組んでいるが、セレスの魔力探知と私の勘が、正解のルートを導き出す。 悪役令嬢時代、裏社会の情報屋と取引するために通った路地裏の知識が、こんなところで役に立つとは。

やがて、行き止まりの広場に出た。 崩れかけた廃屋の陰に、数人の男たちがたむろしている。 その中心に――猿ぐつわをされ、縛られて転がされている小さな姿があった。

「ノア!」

ミレイユ様が叫ぶ。 男たちがギョッとして振り返った。 薄汚れた服を着た、柄の悪そうな男たち。 しかし、その目つきはただのチンピラではない。訓練された刺客のそれだ。

「チッ、もう嗅ぎつけやがったか。貴族の奥様にしちゃあ、鼻が利くじゃねえか」

リーダー格の男が、ナイフを弄びながらニヤリと笑った。

「返していただきましょうか。私の息子を」

私は扇子を構え、一歩前に出た。 声は冷静だが、体中の血液が沸騰しそうだ。 あんな小さな子を、冷たい石畳の上に転がして。 怯えて涙を流しているノア様の姿が、私の理性を削り取っていく。

「返す? はっ、冗談じゃねえ。このガキは『依頼主』への極上の土産なんだよ。こいつを人質にすれば、グレイフ公爵家も言いなりだってな」

「依頼主……?」

「おっと、そこまでだ。……おい、やっちまえ!」

男の合図で、三人の男が襲いかかってきた。 手にはナイフと棍棒。 手加減する気はないようだ。

「アルフォンス様、ミレイユ様、目を閉じていて!」

私は叫ぶと同時に、左手の黒革手袋を天にかざした。

「――『灯(ともしび)』よ、閃光となりて視界を奪え!」

カッ!! 手袋の魔石が増幅した光魔法が、路地裏で爆発したように輝いた。 目くらましの閃光(フラッシュ)。 暗がりに慣れていた男たちの目が、一瞬にして焼かれる。

「ぐあぁっ! 目が!」 「な、なんだこの光は!」

男たちが悲鳴を上げてよろめく。 私はその隙を見逃さず、さらに魔法を紡いだ。

「――『鎮(しずめ)』よ、彼らの意識を深き眠りへと誘え!」

本来は安眠のための魔法だが、出力を最大にすれば、強制的な睡眠導入剤となる。 強烈な眠気の波動が男たちを包み込む。 膝から崩れ落ちる者、壁にもたれてずるずると座り込む者。

「くそっ……なんだ、この女……魔法使いか……!?」

リーダー格の男だけが、ナイフで自分の腕を傷つけて眠気に耐えている。 さすがに手練れだ。 彼はよろめきながらも、ノア様の方へと手を伸ばした。

「させない!」

私が動くより早く、小さな影が飛び出した。 アルフォンス様だ。 彼は路地に落ちていた木の棒を拾い上げ、恐れることなく男の前に立ちはだかった。

「弟に、触るな!」

「邪魔だガキ!」

男がナイフを振り下ろす。 危ない! 私が魔力を放とうとしたその時、アルフォンス様は身を低くして一撃を躱し、男の足元へ棒を叩き込んだ。 見事な体捌き。 レオンハルト様の剣術の稽古を見ていた成果か。

「ぐっ!?」

体勢を崩した男の顔面に、今度はミレイユ様が投げつけた石礫がヒットした。

「ノアをいじめるなー!」

「ぐあっ!」

男が仰け反る。 その一瞬の隙に、私は男の懐に飛び込んだ。 扇子を閉じ、硬い柄の部分で男の鳩尾(みぞおち)を正確に突く。

「……が、はっ……」

男は白目を剥き、どうと倒れた。

静寂が戻る。 肩で息をするアルフォンス様。 涙目で石を握りしめているミレイユ様。 そして、私の足元に転がる男たち。

「……終わった、の?」

ミレイユ様が震える声で聞く。 私はすぐにノア様の元へ駆け寄り、拘束を解いた。

「ノア様! 大丈夫ですか!?」

猿ぐつわを外すと、ノア様は堰を切ったように泣き出した。

「うわぁぁぁぁん! ままぁ! こわかったぁぁぁ!」

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

私はノア様を抱きしめ、何度も頭を撫でた。 温かい。生きている。怪我もない。 安堵で、私の目からも涙がこぼれ落ちた。

「……よく、無事で」

アルフォンス様とミレイユ様も駆け寄り、私たちを囲むようにして抱き合った。 四人で一つになって、震えを分け合う。

「僕……怖かったけど、足が動いた」

アルフォンス様が自分の手を見つめて呟く。

「お兄様、かっこよかったよ」

ミレイユ様が涙を拭いながら言う。 子供たちが、自分たちの力で弟を守ったのだ。

やがて、遅れて到着した騎士たちが男たちを拘束した。 セレスが、気絶したリーダー格の男の懐を探る。

「奥様。……これを」

差し出されたのは、一枚の指令書と、小さな革袋だった。 指令書には、子供の誘拐手順と、引き渡し場所が記されている。 そして革袋の中には、報酬と思われる金貨が入っていたが、その袋の留め具に刻印されていた紋章を見て、私は息を呑んだ。

「……これは」

王家の紋章ではない。 しかし、見覚えがある。 薔薇に蛇が絡みつく意匠。 これは、リディア様の実家――男爵家が懇意にしている、裏社会の組織のシンボルだ。 かつて、私が王太子妃候補だった頃、調査資料の中で見たことがある。

「やはり、あの方たちの差し金ですか」

私は怒りを通り越し、冷ややかな感情に支配された。 自分たちの面目を保つために、幼い子供を誘拐し、人質にしようとしたのか。 そこまで腐っていたとは。

「……この証拠は、私が預かります」

私は証拠品を懐にしまった。 これは、ただの誘拐未遂事件ではない。 グレイフ公爵家に対する、明白な攻撃だ。 ならば、こちらも相応の報いを受けてもらわなければならない。

「帰りましょう。お屋敷へ」

私はノア様を抱き上げ、アルフォンス様とミレイユ様の手を引いた。 路地裏を出ると、夕焼けが空を赤く染めていた。 その赤は、これからの激化する戦いを予感させるような、不吉で、それでいて美しい色だった。

          ◇

屋敷に戻り、子供たちをお風呂に入れ、温かい食事をとらせた後。 ノア様は私のベッドで眠ることを望み、アルフォンス様とミレイユ様も「今日は一緒に寝たい」と言って、私の寝室に集まった。 大きなベッドに四人で川の字になって寝る。 レオンハルト様がいたら、きっと狭いと文句を言いながらも、一番端っこで幸せそうな顔をするだろう。

「……ねえ、クラリス様」

闇の中で、ミレイユ様が囁いた。

「ん?」

「私、強くなりたい。お兄様みたいに、いざという時に動けるように」

「私もです。……もっと力が欲しい」

アルフォンス様も続く。

「あなたたちは十分強いですよ。今日、証明したではありませんか」

私は二人の手を布団の上から握った。

「でも、子供が強くなりすぎる必要はありません。守るのは、大人の役目ですから」

「……でも、パパがいない時は?」

「その時は、私が守ります。そして、いつかパパが帰ってきたら、みんなでパパを守ってあげましょう」

「うん。……パパ、早く帰ってこないかな」

ノア様の寝息が聞こえる。 子供たちは、父の不在を不安に思いながらも、今日という日を乗り越えて、少しだけ大人になった気がした。

だが、私は知っていた。 この事件は、まだ終わっていない。 犯人の背後にいた者たちが、失敗を知ればどう動くか。 そして、北の空には依然として不気味な赤光が瞬いている。

「……レオンハルト様」

私は心の中で夫の名を呼んだ。 どうか、急いで。 私ひとりでは、この子たちの手を握り続けるので精一杯です。 あなたの剣が、あなたの氷のような冷静さが、今こそ必要なのです。

その願いに応えるかのように。 翌日の昼下がり、屋敷の門を叩く音が響いた。

「開門! グレイフ公爵閣下の御帰還だ!」

その声を聞いた瞬間、私は手元のティーカップを取り落としそうになった。 帰ってきた。 予定よりもずっと早く。 おそらく、無理をして馬を飛ばしてきたのだろう。

玄関ホールへ駆けつけると、そこには泥と煤にまみれ、疲労困憊の体で立つレオンハルト様の姿があった。 しかし、その瞳だけは、ギラギラと鋭く光っていた。

「……クラリス。子供たちは」

第一声がそれだった。 私は駆け寄り、彼の胸に飛び込みたい衝動を抑えて答えた。

「無事です。全員、怪我一つありません」

「そうか……」

レオンハルト様は、深く息を吐き、膝から崩れ落ちそうになった。 私は慌てて彼を支えた。 重い。鎧の重さと、彼が背負ってきた責任の重さ。

「よく守ってくれた。……ありがとう」

耳元で囁かれた声は、震えていた。 氷の公爵が、初めて見せた弱さと、安堵。 その温もりに触れて、私はようやく、張り詰めていた糸を切ることができた。

「……お帰りなさいませ、あなた」

涙声で告げると、彼は泥だらけの手で、私の頬を優しく撫でた。 その手は手袋越しではなく、直接肌に触れていたけれど、どんな宝石よりも温かく感じられた。
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