『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人

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第二十五話「裂け目の夜:怖い音の正体」

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「――消え失せろ、亡者」

レオンハルト様が氷の剣を振り抜くと、夜の闇を切り裂くような銀閃が走った。

ズバァァァァァッ!!

腐竜の巨体が、袈裟懸けに両断される。 腐肉と骨がまき散らされ、断末魔の悲鳴すら上げられずに、怪物は地面へと崩れ落ちた。 その衝撃で大地が揺れ、屋敷の窓枠に残っていたガラス片がパラパラと落ちる。

「……すご……」

アルフォンス様が、呆然と呟いた。 私たちを絶望の淵に追いやった伝説級の魔獣を、たった一撃で。 これが、「氷の公爵」の真の力。

レオンハルト様は剣を振るい、刀身に付着した穢れを払うと、ゆっくりとこちらへ振り返った。 その表情は、鬼神のような殺気を残しつつも、私たちを見た瞬間に人間味のある安堵へと変わった。

「……遅くなった」

「いいえ。……最高のタイミングでしたわ」

私がへたり込みそうになるのを堪えて答えると、彼はすぐに駆け寄り、私と子供たちをまとめて抱きしめた。 冷え切った鎧の感触。 けれど、そこから伝わる体温は、火傷しそうなほど熱かった。

「怖かったろう。……よく耐えた」

「パパ……!」

子供たちがしがみつく。 レオンハルト様は一人一人の頭を撫で、無事を確かめるように強く抱き返した。

これで終わった。 誰もがそう思い、安堵の息を漏らした、その時だった。

キィィィィィィィン……

耳鳴りのような、高周波の音が響き始めた。 最初は小さく、次第に頭蓋骨を直接削るような不快な音へと変わっていく。

「……なんだ、この音は?」

レオンハルト様が眉を顰め、周囲を警戒する。 倒したはずの腐竜の死体が、ドス黒い霧となって蒸発し始めていた。 いや、蒸発ではない。 霧は空へと立ち昇り、北の空にある巨大な「裂け目」へと吸い込まれていく。

そして、その裂け目から、あの音が響いてくるのだ。

「……う、あ……!」

私の腕の中で、ノア様が異変を訴えた。 顔面は蒼白で、両手で耳を塞ぎ、ガタガタと激しく震えている。 その震え方は、寒さや恐怖によるものとは明らかに違っていた。

「ノア様? どうしました!?」

「……いたい……こわい……おとが、くる……!」

ノア様は錯乱したように叫んだ。 その瞳孔は開ききり、何か見えない恐怖に怯えている。

「音? この耳鳴りのことか?」

アルフォンス様も不快そうに耳を押さえているが、ノア様の反応は異常だ。 まるで、もっと強烈な、私たちには聞こえない何かを聞いているかのような。

その時、ハッと気づいた。 この音。 この不快な振動。 ……どこかで聞いたことがある。

毎晩、ノア様が夜泣きをしていた時の部屋の空気。 そして、先日、サロンで団欒していた時に鳴り響いた、あの不協和音のような警報。 あれと同じ波長だ。

「……まさか」

私はノア様を抱きしめたまま、北の空を見上げた。 紫色の渦を巻く「裂け目」。 そこから放たれる魔力の波動が、音となって響いている。

「レオンハルト様! ノア様の夜泣きの原因は、これです!」

「なに?」

「この子は、魔力に対して人一倍敏感なのです! 私たちが気づかないレベルの『裂け目』の軋みを、ずっと聞いていたのです!」

そうか。だから毎晩、あんなに怯えていたのだ。 ただの夢ではなかった。 彼は、世界の壁が壊れそうになる悲鳴を、その小さな体で受信し続けていたのだ。 それが、今、最大音量となって彼を襲っている。

「……あぁぁぁぁっ! やだ、やだぁっ!」

ノア様が絶叫する。 その声に呼応するかのように、裂け目の活動が活発化した。

ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!

大地が波打つ。 裂け目から、新たな影が無数に飛び出してきた。 ガーゴイル、ワイバーン、そして異形の魔獣たち。 腐竜一体だけではなかったのだ。

「……チッ、まだ来るか!」

レオンハルト様が再び剣を構える。 しかし、その表情には焦りが滲んでいた。 数が多すぎる。 それに、この不協和音が響く中では、集中力が削がれる。

「……う、うぅ……!」

ノア様の魔力が暴走し始めた。 恐怖がトリガーとなり、周囲の空気が凍りついていく。 これでは、レオンハルト様も思うように動けない。

「ノア、落ち着け! パパがいる!」

レオンハルト様が呼びかけるが、パニック状態のノア様には届かない。 このままでは、屋敷ごと凍りつくか、魔獣に押し潰されるか。

どうすればいい? この音を消すには? 裂け目を塞ぐには?

私は必死に思考を巡らせた。 私の得意な魔法は生活魔法。 『灯』、『綴』、そして『鎮』。

『鎮(しずめ)』。 精神を安定させ、場を浄化する魔法。 そして、私が毎晩、ノア様を寝かしつける時に歌っていた、あの子守歌。

(……もしかして)

私の実家、ローゼンフェルト家は、代々「鎮めの巫女」の血を引く家系だと言われていた。 ただのおとぎ話だと思っていたけれど、あの子守歌には、魔力の波長を整える効果があるとしたら? 不協和音を、調律することができるとしたら?

「……レオンハルト様、私に時間をください」

私は決意を込めて言った。

「私が、この音を鎮めます」

「鎮める? どうやって?」

「歌です。……ノア様を安心させ、そしてあの裂け目の暴走を抑える歌を歌います」

戦場で子守歌など、狂気の沙汰かもしれない。 でも、これしかない。 ノア様の心が壊れる前に。

「……分かった。君を信じる」

レオンハルト様は頷いた。 そして、迫りくる魔獣の群れに向かって一歩踏み出した。

「一匹たりとも、ここには通さん! ……歌え、クラリス!」

私は深呼吸をした。 耳をつんざく不協和音。 迫る死の気配。 震えるノア様の体温。

私はノア様の耳元に口を寄せ、いつものように背中をトントンと叩き始めた。 そして、静かに、しかし朗々と歌い始めた。

「――眠れ、眠れ、森の奥。  星の雫が、降る夜に」

私の歌声に、魔力を乗せる。 『鎮』の魔力を、声という振動に乗せて、空間全体に広げていく。

不思議なことが起きた。 私の声が波紋のように広がると、空から降ってくる不快な音が、少しずつ和らいでいったのだ。 まるで、濁った水に清流が注ぎ込まれるように。

「……痛いものも、怖いものも、  朝の光が、溶かしてく――」

歌うたびに、手袋の魔石が淡く光る。 その光は、屋敷を包む「聖域」と共鳴し、空へと立ち昇っていく。

「……あ……」

ノア様の震えが止まった。 耳を塞いでいた手が、ゆっくりと離れる。 彼の瞳から、狂気の色が消え、いつもの澄んだ瞳に戻っていく。

「……ママの、うた……」

彼は私を見上げ、安心したように息を吐いた。 それだけではない。 空を飛ぶ魔獣たちの動きが、明らかに鈍ったのだ。 不協和音によって狂暴化していた彼らが、私の歌声によって戦意を削がれている。

「今だ!!」

レオンハルト様がその隙を見逃すはずがない。 彼は氷の剣を巨大化させ、一気呵成に攻め立てた。

「凍てつけ、氷狼牙(ひょうろうが)!!」

ドガガガガガッ!!

無数の氷の礫が、ショットガンのように魔獣たちを撃ち落とす。 アルフォンス様も、手近なクロスボウを手に取り、援護射撃を開始した。 ミレイユ様は、私の足元で「頑張れ、頑張れ!」と祈るように叫んでいる。

私の歌は、戦場における指揮者のタクトとなった。 音を制する者が、場を制する。 裂け目の軋み音と、私の鎮めの歌。 二つの音がせめぎ合う中、私たちは必死に「夜明け」を手繰り寄せようとしていた。

けれど。 裂け目の奥底に潜む「何か」は、まだ諦めていなかった。 歌声が届くほどに、裂け目はより大きく口を開き、最後の抵抗を試みようとしていた。

「……うぅ……っ」

ノア様が、再び私の服を強く握りしめた。 彼の視線は、私ではなく、裂け目の中心――漆黒の闇一点に注がれていた。

「……くる……」

「え?」

「パパ、だめ……! そっちにいっちゃだめ……!」

ノア様が叫んだ瞬間。 裂け目から、黒い触手のようなエネルギーの奔流が、レオンハルト様めがけて一直線に放たれた。

「レオンハルト様!!」

歌が途切れる。 私の悲鳴が、轟音にかき消された。
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