平行線

ライ子

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第二章

返事

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正月が明け、少し落ち着いた頃、吉行は、麗と一緒に、マスターの店を訪れた。その日は定休日で、店には、マスター以外、誰もいなかった。
「悪かったな。わざわざ。何か飲むか?」
「いいえ。大丈夫です。」
吉行と麗は、カウンターに座った。
「麗ちゃん、いつも吉行こいつのこと、助けてくれて、ありがとな。」
「いいえ。私は何も…。」
「いや。麗ちゃんと一緒にいるようになってから、変わったな…。」
マスターは、吉行と麗を見て、嬉しそうに笑った。
「マスター。この前の話の返事なんですけど…。」
「おう。いい返事か?」
「はい。僕でよければ、この店を継がせてください。」
吉行は、マスターの目を真っ直ぐに見つめた。
「頼むな。」
マスターは、ほっとした表情で、吉行の隣の席に座った。
「吉行に、全部引き継いだら、のんびり旅にでも、出ようかな。」

それからしばらくの間、マスターは、吉行が店を継ぐのにあたり、付き合いのある業者や、バーの経営者仲間へ挨拶に、吉行と一緒に回ったり、店で細かい引継ぎ作業をしていた。もちろん、いつも通りカウンターにも立った。
「吉行くん、こっちの店に戻って来たの?」
古い常連客から、そう言われると、マスターが、
「俺が引退するから、吉行こいつに店を継いでもらいました。今後ともよろしくお願いします。」
と、挨拶していた。
吉行が、1号店での仕事に慣れて来た頃、マスターがちょっといいか?と、更衣室で、帰り支度をしている吉行に声をかけた。
「お疲れ様です。」
「あぁ。お疲れ。」
「どうしました?」
「俺は、明日から来ないからな。」
「明日から…ですか?」
「店のことは、全部教えたし、付き合いのあるところには、挨拶もした。俺の仕事は終わったから、後は好きにしろ。」
吉行は、突然のことで、一瞬言葉に詰まってしまった。
「いや…でも、マスター…。」
「大丈夫だ。吉行なら、俺なんかよりいい店に出来る。」
マスターは、吉行の肩をポンと叩くと、更衣室から出て行ってしまった。いつかは、マスターが店からいなくなると、覚悟していたつもりだったが、いざその時を迎えるとなると、かなり不安だった。
吉行は、急いで戸締りをして、マスターを追いかけた。
「マスター‼︎」
「どうした?」
「途中まで一緒に帰りましょう。」
「おう。」
マスターの自宅は、店から近かった。
「送別会、しましょうよ。」
「俺は、そういうのはいいよ。」
「じゃあ、時々、飲みに来てくださいね。」
「そうだな。まぁ、しばらくは、いろんな所へ旅行するつもりだからな…帰ったら、土産持って店に顔出すよ。」
「はい。待ってます。」
もうすぐ、マスターの自宅だ。
「マスター。今までありがとうございました。お疲れ様でした。」
吉行は、深々と頭を下げた。
「よく、頑張ったな。」
マスターは、吉行の頭を優しく撫でた。
「ん?吉行?どうした?」
なかなか頭を上げない吉行を、マスターがのぞきこむ。
「すみません…。いろいろ、思い出して…。」
吉行は、頭を下げたまま、涙を流していた。自分に自信がなかった吉行を、男として扱ってくれて、バーテンダーとして、生活ができるように育ててくれた、父親のようなマスター。二度と会えなくなるわけてはないが、なぜか、マスターが、すごく遠くに行ってしまう気がしてならなかった。
「大丈夫だ。お前は、俺が見込んだ通りの男だ。2号店の方も、好きにしていいから、思った通りにやってみろ。」
「はい。」
「困ったら、相談には乗ってやる。」
「はい。」
「分かったら、早く帰れよ。麗ちゃんが心配するだろ?」
「はい。マスター…旅行、気をつけて行って来てください。」
「ありがとな。じゃあ、お疲れ。」
マスターは、自宅の方へ歩いて行った。吉行は、その背中を見送った。

家に帰ると、麗がリビングのソファーで、ぼんやりしていた。元気がなかった。
「ただいま。起きてたの?」
「うん。目が覚めちゃって…。」
「体調悪い?」
「ううん。」
「大丈夫?」
麗は、お腹に手を置いて、静かに話し出した。
「生理…来ちゃった。」
今回も妊娠にはいたらなかったのだ。吉行は、麗の隣に座った。
「まだ、2回しか人工授精してないけど、生理が来ると、ショックね…。」
「もし、しんどいなら、ちょっと休んでもいいよ。」
吉行は、麗の体調を思って言ったのだが、
「続けるわよ。若くないんだから、時間が限られてる。」
と、麗は焦りとも苛立ちとも感じ取れる口調で言った。
「次の排卵日も、お義兄さん、都合つくって言ってたし。」
「ごめん…。俺、何もできなくて…。」
「ごめん。違うの…。そうじゃなくて…。自分でも、嫌なのよ。イライラして…焦って、友達の妊娠を心から祝ってあげられない。」
麗は、両手で顔を覆って俯いてしまった。
「私、すごく嫌な人…。」
吉行は、辛そうな麗に、何もしてあげられない無力な自分が情けなかった。こんな時、どうしたらいいのだろう。
「吉行…。私のこと…嫌いにならないで…。」
吉行は、震える声で訴える麗を抱きしめた。
「嫌いになるわけないよ。俺は、麗が好きなんだ。ずっと一緒にいたい。でも、どうしたらいいのか、本当に分からない。」
もし、麗が自分以外の人と結婚していたら、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。そんなことを考えても仕方がないのに、吉行も苦しかった。
「麗が辛い時に、どうしたらいいか分からないなんて、情けないよ。」
麗は、今まできっと、辛かったのに、吉行に負担をかけまいと、気を張っていたのかもしれない。それに気づけなかった吉行は、さらに自分が情けなくなった。
「ごめん。疲れてるわよね。お風呂入ってゆっくり休んで。私ももう少し寝るわ。」
麗は、寝室へ戻って行った。

この後2回の人工授精をしたが、麗は妊娠しなかった。最初は、元気に振る舞っていた麗だったが、だんだんそれにも疲れてきていた。夫婦の会話は少なくなり、家の中の空気が常に重かった。吉行は、常にラストまで店に残るようになり、朝、仕事に行く麗と、入れ違うようにして家に帰った。こんな状態ではダメだと思いながらも、何もかもが壊れてしまうような気がして、何もできなかった。新婚旅行の時から禁煙していたが、つい、仕事の休憩時間に1本だけ…と、タバコをまた吸い始めてしまった。
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