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第二十一話
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夜の十時を回ったころだろうか――桐村の自宅から、引き戸を開け閉めする音がした。
何かあったのだろうか――どうやら緊急の用事であるようで、相当慌てているらしいことは、修平にも分かった。
普段の桐村に似合わない様子に、漠然とした不安を覚えた。 気になって、眠るどころではなかった。いつになるかは不明だが、こうなったら桐村が戻るのを待って事情を訊くまでは、とても熟睡はできない。
部屋の窓に近づき、桐村の自宅がある方角に何となく目を向ける。
微かに、家の中から灯りが漏れていた。
雨戸の閉まっていない、家の奥まった部屋だ――電気を消し忘れたのかと思い、観察していると、ほんの一瞬だけ灯りが遮られた。
誰かが部屋を移動している、確かな証拠だった。
家主が不在の屋内に、いったい誰がいるというのか――。
修平ははっとなり、上着を引っかけて部屋を後にした。暗い屋外に出て、桐村の自宅を目指す。
桐村が真紀を匿っている可能性――そのことに、修平は思い至った。彼女の親戚ならありえないことではない。町民の異様さや利樹の失踪、妊婦の殺人など色々なことがあったせいで混乱するあまり、鈴沢家に次いでもっとも注意してしかるべき存在を、うっかり思考の外に追いやってしまっていた。
自分はもともと、何をしにこの町に来たというのか――完全に修平の失態だった。
桐村家の玄関前に着き、インターフォンを鳴らした――何となく予想していた通り、表に顔を出す者はいない。桐村が不在のときは、いつも居留守を使っているに違いない。試しに引き戸に手をかけてみたが、やはり鍵がかけられていた。
玄関から外壁沿いに歩き、家の裏に回る――そこに、勝手口らしきドアを見つけた。脇にはポリバケツが置かれてある。
修平は顔を顰めた―やけに血腥い匂いが鼻をつく。匂いの元はポリバケツの中からだった。何を捨ててあるのかは分からないが、ろくでもないものであるのは確かだろう。
ポリバケツを無視して、勝手口のドアノブを回す――すんなりとドアが開く。どうやら桐村は、ここの鍵はかけ忘れていたらしい。
もし鍵がかかっていれば、引き返すことも考えられた。だがドアが開いた以上、中を確かめずにはいられない。桐村が外出している、今がチャンスだった。
勝手口を入ってすぐ左手が台所になっていた。食後間もないらしく、洗ったばかりの食器が、流し台の脇の食器カゴに入れたままになっている。火の消えたコンロの上には、残り物が入っているらしい鍋も置かれている。
抜き足差し足で、修平は台所を横切る。空き巣に入っているような気分だった。ここにいない桐村に、心中で密かに謝罪する。
台所を出て、廊下を進む――。
ごとっ、と明らかに誰かが動く音がした。
間違いない。この家には桐村の他にもう一人いる。
いつ桐村が帰ってくるかも知れない焦燥感を覚えつつ、息を殺して音の聞こえた奥の部屋へと向かう。
もうすぐ部屋の前に辿り着く。逸る気持ちを抑えつつ、確実に修平は歩を進め――。
――すぐ背後に、人の気配がした。
振り向いた直後、右のこめかみに衝撃が走った。視界が明滅し、平衡感覚が失われ、修平はその場に倒れた。
廊下の上に、点々と赤い雫が滴る。こめかみを抑えた手を見ると、血でべっとりで濡れている。
「――人の家に、勝手に上り込むなんて……」
声が聞こえ、修平は顔をあげた。
そこには桐村が、血が付いた金槌を握って立っていた。今までの愛想の良さはすっかり鳴りを潜め、狂気すら感じさせる血走った目で修平を見下ろしている。
いったい、いつの間に帰宅していたのだろう。
「もしかして、見たんですか……お客さん?」
「な、何を……?」
少しでも桐村から離れようと後退りながら、修平は問い返す。
「冷蔵庫の中ですよ……見たんですか、見てないんですか?」
「な、何のことだか、意味が……」
「いいから、質問に答えてください」
苛立った桐村が、金槌で壁を叩いた。穴が空き、破片がぼろぼろと零れ落ちる。
「み、見てない……まだ、何も見てなんかいない」
「――そうですか」
だらん、と両手を下げた態勢のまま、桐村は一歩、修平に近づく。
「まあ……そう答えると思いましたよ」
言って、ふふっ――と笑い声を漏らした。その異常な様子に、修平はぞっとした。
「まさか本当のことを喋るなんて、わたしだって思いませんよ? こんな状況ですからね?」
「…………」
「でも、見ていないのは事実かも知れません。それは可能性の問題です。どちらにしろ事ここに及んでは、お客さんを殺す以外にありませんしね」
金槌が振られ、修平は身を引いて何とか躱した。だが体がいうことをきかず、すぐにバランスを崩してしまう。
桐村の金槌が振りあげられる――負傷している修平には、とても避けきれない。
あの凶器がまた頭に直撃すれば、今度こそ自分は死ぬ――。
「――――っ?」
ぴたっ――と、桐村の動きが唐突に止まった。彼の視線は修平を通り越して、廊下の奥に向けられている。
桐村の視線を追って、修平は背後を見やる。
そして、修平は絶句した。
奥の部屋の前に、一人の女がいた。妊娠中なのか腹部が膨らんでいる。
「…………真紀?」
ようやく、それだけを呟いた。夢でも何でもなく修平の目には、そこに立っているのは彼が捜していた鈴沢真紀にしか見えなかった。
女は両手でドライバーを握り――その尖った先端を自分の腹部に当てていた。
「……この子が、欲しいの?」
能面のような表情で、女は口を開いた。その目はまっすぐ桐村を見ている。
「何を……してるの?」
問いかける桐村の声は震えている。
「馬鹿なことはやめなさい……真紀ちゃん」
「伯母さんは、ここにいる……わたしの子が欲しいだけよね?」
「おば、さん?」
女の言葉の意味を理解しかね、修平は誰にともなく疑問符を投げかけた――だがそれに答える声はない。
そして女はドライバーを振り上げ――自分の膨らんだ腹部に、躊躇することなく突き刺した。
桐村の絶叫が響いた。金槌を投げ捨て、膝をついてうずくまった女へと駆け寄る。
「真紀ちゃんっ――どうして!? 真紀ちゃんっ――」
修平はその隙に、壁を支えにしながら、何とか立ち上がった。まだ視界がぐらついている。
落ちている金槌を拾い上げ、ゆっくりと桐村の背後に歩み寄る。
桐村は激しく気が動転しているため、修平にはまるで気が付かない。
修平は全身を使って、桐村の後頭部を金槌で殴りつけた――鈍い音がして、桐村は声もなくうつ伏せに崩れ落ちた。
立っているのが辛くなり、修平は腰を下ろした。そして女の方に顔を向ける。
――と、女は何事もなかったように立ち上がった。その腹部にはドライバーが刺さったままだ。
愕然とした修平の前で、女は自分の腹部からドライバーを引き抜いた。一滴の血も流れていない。
「……わたしは、真紀じゃないわ」
女は無造作にブラウスを捲りあげる――その下から現れたのは、大きな水色のゴムボールだった。
「わたしの名前は、早紀よ」
そうして女は――鈴沢早紀は、修平に向かって笑いかけた。
何かあったのだろうか――どうやら緊急の用事であるようで、相当慌てているらしいことは、修平にも分かった。
普段の桐村に似合わない様子に、漠然とした不安を覚えた。 気になって、眠るどころではなかった。いつになるかは不明だが、こうなったら桐村が戻るのを待って事情を訊くまでは、とても熟睡はできない。
部屋の窓に近づき、桐村の自宅がある方角に何となく目を向ける。
微かに、家の中から灯りが漏れていた。
雨戸の閉まっていない、家の奥まった部屋だ――電気を消し忘れたのかと思い、観察していると、ほんの一瞬だけ灯りが遮られた。
誰かが部屋を移動している、確かな証拠だった。
家主が不在の屋内に、いったい誰がいるというのか――。
修平ははっとなり、上着を引っかけて部屋を後にした。暗い屋外に出て、桐村の自宅を目指す。
桐村が真紀を匿っている可能性――そのことに、修平は思い至った。彼女の親戚ならありえないことではない。町民の異様さや利樹の失踪、妊婦の殺人など色々なことがあったせいで混乱するあまり、鈴沢家に次いでもっとも注意してしかるべき存在を、うっかり思考の外に追いやってしまっていた。
自分はもともと、何をしにこの町に来たというのか――完全に修平の失態だった。
桐村家の玄関前に着き、インターフォンを鳴らした――何となく予想していた通り、表に顔を出す者はいない。桐村が不在のときは、いつも居留守を使っているに違いない。試しに引き戸に手をかけてみたが、やはり鍵がかけられていた。
玄関から外壁沿いに歩き、家の裏に回る――そこに、勝手口らしきドアを見つけた。脇にはポリバケツが置かれてある。
修平は顔を顰めた―やけに血腥い匂いが鼻をつく。匂いの元はポリバケツの中からだった。何を捨ててあるのかは分からないが、ろくでもないものであるのは確かだろう。
ポリバケツを無視して、勝手口のドアノブを回す――すんなりとドアが開く。どうやら桐村は、ここの鍵はかけ忘れていたらしい。
もし鍵がかかっていれば、引き返すことも考えられた。だがドアが開いた以上、中を確かめずにはいられない。桐村が外出している、今がチャンスだった。
勝手口を入ってすぐ左手が台所になっていた。食後間もないらしく、洗ったばかりの食器が、流し台の脇の食器カゴに入れたままになっている。火の消えたコンロの上には、残り物が入っているらしい鍋も置かれている。
抜き足差し足で、修平は台所を横切る。空き巣に入っているような気分だった。ここにいない桐村に、心中で密かに謝罪する。
台所を出て、廊下を進む――。
ごとっ、と明らかに誰かが動く音がした。
間違いない。この家には桐村の他にもう一人いる。
いつ桐村が帰ってくるかも知れない焦燥感を覚えつつ、息を殺して音の聞こえた奥の部屋へと向かう。
もうすぐ部屋の前に辿り着く。逸る気持ちを抑えつつ、確実に修平は歩を進め――。
――すぐ背後に、人の気配がした。
振り向いた直後、右のこめかみに衝撃が走った。視界が明滅し、平衡感覚が失われ、修平はその場に倒れた。
廊下の上に、点々と赤い雫が滴る。こめかみを抑えた手を見ると、血でべっとりで濡れている。
「――人の家に、勝手に上り込むなんて……」
声が聞こえ、修平は顔をあげた。
そこには桐村が、血が付いた金槌を握って立っていた。今までの愛想の良さはすっかり鳴りを潜め、狂気すら感じさせる血走った目で修平を見下ろしている。
いったい、いつの間に帰宅していたのだろう。
「もしかして、見たんですか……お客さん?」
「な、何を……?」
少しでも桐村から離れようと後退りながら、修平は問い返す。
「冷蔵庫の中ですよ……見たんですか、見てないんですか?」
「な、何のことだか、意味が……」
「いいから、質問に答えてください」
苛立った桐村が、金槌で壁を叩いた。穴が空き、破片がぼろぼろと零れ落ちる。
「み、見てない……まだ、何も見てなんかいない」
「――そうですか」
だらん、と両手を下げた態勢のまま、桐村は一歩、修平に近づく。
「まあ……そう答えると思いましたよ」
言って、ふふっ――と笑い声を漏らした。その異常な様子に、修平はぞっとした。
「まさか本当のことを喋るなんて、わたしだって思いませんよ? こんな状況ですからね?」
「…………」
「でも、見ていないのは事実かも知れません。それは可能性の問題です。どちらにしろ事ここに及んでは、お客さんを殺す以外にありませんしね」
金槌が振られ、修平は身を引いて何とか躱した。だが体がいうことをきかず、すぐにバランスを崩してしまう。
桐村の金槌が振りあげられる――負傷している修平には、とても避けきれない。
あの凶器がまた頭に直撃すれば、今度こそ自分は死ぬ――。
「――――っ?」
ぴたっ――と、桐村の動きが唐突に止まった。彼の視線は修平を通り越して、廊下の奥に向けられている。
桐村の視線を追って、修平は背後を見やる。
そして、修平は絶句した。
奥の部屋の前に、一人の女がいた。妊娠中なのか腹部が膨らんでいる。
「…………真紀?」
ようやく、それだけを呟いた。夢でも何でもなく修平の目には、そこに立っているのは彼が捜していた鈴沢真紀にしか見えなかった。
女は両手でドライバーを握り――その尖った先端を自分の腹部に当てていた。
「……この子が、欲しいの?」
能面のような表情で、女は口を開いた。その目はまっすぐ桐村を見ている。
「何を……してるの?」
問いかける桐村の声は震えている。
「馬鹿なことはやめなさい……真紀ちゃん」
「伯母さんは、ここにいる……わたしの子が欲しいだけよね?」
「おば、さん?」
女の言葉の意味を理解しかね、修平は誰にともなく疑問符を投げかけた――だがそれに答える声はない。
そして女はドライバーを振り上げ――自分の膨らんだ腹部に、躊躇することなく突き刺した。
桐村の絶叫が響いた。金槌を投げ捨て、膝をついてうずくまった女へと駆け寄る。
「真紀ちゃんっ――どうして!? 真紀ちゃんっ――」
修平はその隙に、壁を支えにしながら、何とか立ち上がった。まだ視界がぐらついている。
落ちている金槌を拾い上げ、ゆっくりと桐村の背後に歩み寄る。
桐村は激しく気が動転しているため、修平にはまるで気が付かない。
修平は全身を使って、桐村の後頭部を金槌で殴りつけた――鈍い音がして、桐村は声もなくうつ伏せに崩れ落ちた。
立っているのが辛くなり、修平は腰を下ろした。そして女の方に顔を向ける。
――と、女は何事もなかったように立ち上がった。その腹部にはドライバーが刺さったままだ。
愕然とした修平の前で、女は自分の腹部からドライバーを引き抜いた。一滴の血も流れていない。
「……わたしは、真紀じゃないわ」
女は無造作にブラウスを捲りあげる――その下から現れたのは、大きな水色のゴムボールだった。
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