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しおりを挟むかくして猫の六課送りは止まった。
八瀬博士の研究室では様々な色の蓮が個々に収まったガラスケースの中で自転していたけど、翡翠色が現れたのは随分と久し振りの事らしく、小柄で華奢な博士ははらはらと涙を流して俺の肩を撫でてくださった。そして陳情書にも快くサインしてくださった。
「幸運を祈っとるで。この街も住み慣れると快適っちゃが」
「鍾馗先生や八瀬博士に出会えた事が既に幸運です」
偉い方の後押しと、俺と猫が生前取り組んだ学業、(歯科)医業、今際の際で積み上げたらしき徳、ボランティア参加実績等々。これらを数値化してカウントされた新たな『徳』、そして見込みではあるものの俺の身分の剥奪を対価として、猫はペットとして一丁目での生活を許された。
「裸一貫、一丁目から仕切り直しだが、きみなら数年後には三丁目の住民になっている」
「いいえ。彼が一丁目を出られないなら僕は二丁目にも三丁目にも移りません。ベルトコンベアに乗る事もありません」
「無垢のペットは自力で人型を保てない。口が利けない。時に辛い時もあるだろうが、今後はきみの徳が全てを左右する。出世すれば声を聞く事も可能になるよ」
前身は解りようがないものの、ペットと共生しているゾンビさん達にはたくさん出会った。イヌ、ネコをはじめカラスやフクロウにカエル……彼等は脈を持つ存在。憧れの存在。愛でるあまり、徳を積んで『パートナー』に迎える人もいると聞いた。
「満月と新月にはボーナスポイントが貰えると聞きました」
「三丁目に永住する者は時間だけは有り余っている。退屈なんだ。ロマンスにぐらい寛容でないとね」
「鍾馗先生は言葉のチョイスが時々古臭いですよね」
「それは仕方がない。僕はもう長い長い時間をここで過ごして来たからね」
鍾馗先生の長い時間。それはきっと無限とも永劫とも呼べるものなんだろう。
俺も─────同じように長い時間をここで渡ってゆく。猫と一緒に渡ってゆける。
それなら俺にとってここは、カメとして転生する下界よりも幸せな世界。
猫と一緒なら何処だって天国だ。
「ニャー………」
力無い鳴き声の、段ボール箱の中で震えるネコを鍾馗先生が届けてくれたのは、俺が新人研修を終え、マンションでの一人暮らしを始めて間もなくだった。どう言った訳だか雪が降っていた。
「百年ほど前から下界の真似事を取り入れるようになったんだよ」
「ロマンスを盛り上げる為に?」
「そう言う事だね」
先生は微笑んで俺の腕に段ボール箱を託し、右手を差し出した。でも俺の掌の口が歯を剥き出しにして威嚇したものだから、指先だけで握手を交わした。
「すみません。まだ上手くコントロール出来なくて」
「やっぱりあっという間に一つ出世したね。しかしこれは……前職が関係しているんだろうか。実に興味深い」
「今はただの事務員です」
「ふふ。百目鬼班長。健闘を祈るよ」
俺にとっては………地獄も捨てたもんじゃない。
でも胸が痛まない訳じゃない。俺と猫は運が良かっただけ。勿論それは、先生の言葉を借りるなら生前の行いが大きく関係しているそうだけど。利己的な欲で猫だけを救う行為は褒められたものじゃないと解っている。でも後悔は1ミリもない。
せめて。
六課の人々が下界での辛苦を忘れ、一日も早く業を解かせる事を祈ろう。
「また蓮の花が咲きそうだ」
「え」
「他者の為に祈る気持ちは尊い」
「先生は何でもお解りになるんですね」
「でも覚えておきたまえ。慈悲とは傲慢と背中合わせだ。一人が救え得るものには限りがある。多くを望めば新たな不幸を生む。それはきみが身を以て知っている事実だろう?」
俺は確かに見も知らない子どもの命を救ったかも知れない。でも猫を不幸にした。家族も友人も悲しませた。誰も彼も救う事なんて出来る訳がない。俺は神様でも仏様でもない。
「そう、ですよね……傲慢でした。ただの私欲に塗れた小鬼で御の字です」
「ふふ。きみのその素直な所が僕は大好きだよ」
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