12 / 31
第二章 決行
3
しおりを挟む
剛袁は玄晶の船室の扉を軽く叩いた。
「はい」
「剛袁です。入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
玄晶がにこやかに扉を開く。
「来るだろうと、思っていたよ」
剛袁はわずかに眉根を寄せて、足を踏み入れた。室内は寝台と小さな丸い卓のみの、簡素なものだった。卓の上には、酒壺と杯がふたつ置かれている。
「どうぞ、座って」
促されるまま、剛袁は寝台に腰かけた。玄晶は杯に酒を注ぎ、片方を剛袁に差し出す。
「聞きたいことは、烏有について? それとも、国造りの話かな」
「どちらも聞ければありがたいのですが。……まずは、貴方が何者なのかを、教えていただきたいですね」
油断ならぬ目で玄晶を威嚇しながら、剛袁は杯を受け取った。玄晶は軽く肩をすくめて、剛袁の隣に座る。
「食事の席で、説明をしたと思うけれど」
「烏有の所属していた楽団と親しい、岐の官僚の息子。それだけでは納得できかねます」
「どういうところが?」
剛袁は体を玄晶に向けて、座りなおした。剛袁と玄晶の背丈はそう変わりないが、身幅が圧倒的に違っている。細身というほどではないが、すらりとした容姿の玄晶は、堂々とした体躯の剛袁と並ぶと小さく見えた。
「官僚といっても、文官と武官がありますし、位によっては中枢での発言力がまるで違う。烏有の物言いには、府となる許可を必ず得られるという感じがありました。しかし、それほどの力ある方が、たかが楽士のためだけに、息子を送るとは思えません。在り得ないんですよ」
ウソや誤魔化しは通じないと、剛袁は全身で示した。威圧的な圧迫を発する剛袁に、玄晶はあくまでも柔和な態度で接する。
「君は、豪族の家に勤めていたと聞いたけれど、役人を目指していたのかな」
「ええ」
「そうか。君のほかに、そういう知識のある人物は、仲間内にどれほどいるのか、教えてくれ」
「俺だけです。あとは工夫や道具師、猟師や農夫。それと酒場で男の相手をする、陰酌女ですよ。どれも文字が読めず、知識がなかったばかりに、裕福な商売人や豪族、官僚なんかにいいようにされて、言いがかりの罪で牢に入れられた者たちです」
剛袁の目に敵意が宿る。玄晶は軽く、幾度も縦に首を動かした。
「それで君は役人になり、豪族や官僚に意見のできる立場となって、すこしでも民の暮らしをよくしようと考えていたのだな。ところが、そんな君の勤勉な姿と男らしくたくましい姿に、豪族の娘は恋わずらいを得てしまった」
「俺のことは、どうでもいいんです。貴方がどういう方なのかを、お教え願いたい」
「そう答えを急ぐものではないよ。役人になろうと考えているのなら、こんなふうに、もどかしい時間も手玉に取れるくらいの、ゆったりとした心地を持つべきだ。でなければ老獪な、憎むべき相手に軽くいなされて終わってしまう」
グッと息を飲んだ剛袁が、それをごまかそうと杯に唇を当てた。
「まっすぐな心根を持つというのは、すばらしいことだ。だがな、それを押し隠して立ち回らなければ、強引にへし折られてしまうよ。君のように、後ろ盾を持たないまま、役人になろうとする者はとくに、な」
「どういうことですか」
「そのまんま。言葉のとおりだよ、剛袁。もし君が、うまく立ちまわれる気質を持っていたのなら、君の雇い主は罪ではなく、後見人という立場を、肩にかぶせてくれたろうね」
剛袁の目が静かに見開かれる。玄晶はそれを見ながら、酒を飲んだ。
「そういうことだ。役人になられてはやっかいだと、君の雇い主は考えた。だから娘の恋心を利用して、君を追いやったんだよ」
剛袁は奥歯を噛みしめ、両手で杯を強く握った。指が白くなるほど力を込めて、理不尽な仕打ちにくやしさを滲ませる剛袁の杯に、玄晶は杯を重ねる。
「君はもっと、ずるがしこくならなくてはな。不正を働け、という意味ではないよ。不正や悪事は、きっと君には向いていないだろうからな。ただ、そういうものと柔軟に折り合いをつけて、大切なものを守れる強さを持つべきだ。今でも役人になりたいと、考えているのならな」
「役人になる道があると、言っているように聞こえますが」
「そう言っているのだよ、剛袁。君が役人になる道はある。君の実直さが災いして、自ら閉じてしまった夢への道を、烏有が開こうとしている」
「烏有が?」
「そう。まだ、わからないのか」
たのしげな玄晶の瞳に、剛袁の困惑顔が映る。玄晶はクスクスと息を漏らして、立ち上がった。
「君には、今後のためにも私や烏有の過去と現在を、伝えておいたほうがよさそうだな。もうすこし、ふたりで飲んでいてもいいのだが、君はきっとイライラしてしまうだろう。私に付き合えるくらいの、気持ちの余裕ができたころに、誘わせてもらうよ」
玄晶が杯を空にし、扉へ向かう。
「飲み干して、ついておいで。烏有のところへ行くよ。……君の元気な弟と、子どもみたいな頭目は、どこにいるのだったかな。見つからないようにしなければね」
剛袁はあわてて酒をあおり、立ち上がった。
「船の上は珍しいからと、ふたりは甲板にいるはずです。そこで眠るとも言っていましたから」
「そうか。それなら、会わずに済むな。おいで、剛袁」
手のひらを差し出され、剛袁は戸惑う。興味深げに見てくる玄晶から目を逸らし、剛袁は立ち上がった。残念そうに、玄晶が差し出した手をおろす。
「烏有はきっと、私が連れてきた工夫たちと話をしているはずだよ」
「どうして」
「とにもかくにも、船着場がなければならないと、地図を見て判断をしたからな。私たちが食事を楽しんでいる間に、工夫に川原の地形の調査を行わせておいたと教えたら、目を輝かせていた。いまごろ、どのあたりにどの規模のものを造るのか、話し合っているのではないかな」
大部屋へ向かう玄晶の半歩後を、剛袁は歩いた。
「どうして、そこまで烏有に肩入れをするんですか」
「罪滅ぼしのような、自己満足……かな」
「罪滅ぼし?」
「5年も消息のわからなかった烏有が、便りを送ってくれただけでなく、頼ってくれた。それだけで、できうる限りのことをしようと、考えて当然だとは思わないか? 袁燕が突然、どこかへ旅に出てしまい、5年ぶりに便りをよこしてきたと想像をしてみてごらん。私の気持ちが、すこしはわかるのではないかな」
剛袁は足元に目を落とし、しばらくして玄晶の後ろ姿に視線を当てた。
「烏有は貴方にとって、血を分けた兄弟のように、大切な相手なのですね」
玄晶が、いたずらっぽい笑みを浮かべて振り返る。
「血の繋がり、というものを大切にするのはいいことだが、豪族や官僚などには、その認識が当てはまらないと覚えておくといい。跡目のイスは、ひとつしかないからな。それはそれは、醜い争いが繰り広げられるぞ」
剛袁は口を硬く結び、縦にも横にも首を振らなかった。それを興味深そうに横目で見つつ、玄晶は大部屋の扉を叩く。
「失礼しても、かまわないかな」
応じる声があり、扉を開ければ、ひと目で熟練工とわかる威厳と風格を備えた男と烏有が、地図を前に額を突き合わせていた。
「烏有、大切な話がある。ここからなら、烏有の部屋がどこよりも近い。剛袁と邪魔をさせてもらいたいから、招いてくれ」
烏有はいぶかしげに、玄晶と剛袁を見比べた。
「工夫は、明日も早くから調査をすることになっているからな。そろそろ休んでもらわなくては」
有無を言わさぬ声音に、烏有はうなずいた。
「詳しいことは、もっと調べなきゃ、はっきりとは言えませんから」
工夫がとりなすような言葉をかける。
「わかりました。それでは明日、また話し合いをするとしましょう」
工夫と就寝の挨拶を交わした烏有は、玄晶と剛袁の横をすりぬけるように大部屋を出て、自分にあてがわれた船室へ向かった。
無言のまま扉を開けて、ふたりを通す。廊下を見回してから扉を閉めた烏有は、強い目で玄晶を見た。
「蕪雑と袁燕を除いておこなう大切な話というのは、僕の素性に関することだね」
玄晶から剛袁に視線を移動させながら、烏有は問うた。
「ほかに何があるというのかな、鶴楽」
寝台に腰を下ろした玄晶に、烏有はぎょっとする。
「玄晶!」
「かまわないではないか。これから、剛袁にはすべてを聞いてもらうのだからな。君の本来の名前を呼んでも、差し支えはないだろう」
「本来の名前とは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。烏有というのは鶴楽が旅に出た後に、自分でつけた呼び名だ。白い鳥である鶴から、漆黒の鳥、烏の名に変えるとは、よほど過去を捨てたかったのだろうな」
玄晶の瞳に悲哀が浮かぶ。烏有は拳を握り、顔をそらした。剛袁は烏有を見下ろし、一言一句、たしかめるように問いを発する。
「名前を偽って旅をしていたのなら、身分もそうなのではないですか。烏有、いえ……、鶴楽。貴方はいったい、何者なんです」
「剛袁には、話をしておいたほうがいい。今後のためにもな」
「どういう意味ですか。僕の過去なんて、関係ないはずですよ」
「おおありだよ、鶴楽。国を興すのだろう? そうなれば、諸府との連絡役や、調停役が必要となる。村のうちはなんとかなるだろうが、それが大きくなってきたときに、府として認められるための治世を、いったいどうするつもりでいるんだ。彼等に身分を偽ったまま、鶴楽ひとりでそれを担うつもりだというのなら、ずいぶんな驕りだよ。私もできうるかぎりの手伝いをする気でいるが、ふたりでは心もとない。もうひとりぐらい、当初から計画にたずさわっている、信頼のできる人物が必要だとは思わないか」
「それは……」
「思うだろう」
玄晶の言葉を受けて、烏有は剛袁の目を射抜くように見た。剛袁もおなじ強さで見返す。
「すべてを打ち明けて、心底から信用してもらったほうが、いろいろとやりやすいのではないかな」
玄晶の後押しに、烏有は口を開いた。憂鬱そうな声がすべり出る。
「僕の両親は、官僚をしていたんだ。文官だよ。申皇の治める世の理や歴史、異教の国について調べ、治世の役にたてるために働いていた。玄晶の両親と僕の両親は同僚であり、従兄弟でもある」
「楽士というのは、ウソだったんですね」
烏有は首肯した。
「旅に出てからはそうだったのだから、まるっきりウソというのでもないさ。そうだろう、鶴楽」
「楽士として岐の官僚に知り合いを持っている、と言ったことはウソだからね。ウソつきと呼ばれても、反論はしないよ」
「その部分は、すべての話を聞き終えても納得ができなかった場合に、改めて非難させていただきます」
硬い表情の烏有と剛袁に、玄晶は手を差し伸べた。
「そんなに怖い顔をしていないで、もうすこし気をゆるめてはどうかな。酒でも用意させようか」
「すぐに終わるから、その必要はないよ」
「根掘り葉掘り聞きたいわけでは、ありませんから。おおまかな筋だけ、お聞かせ願えればけっこうですので。詳しく知りたい場合は、日を改めます」
ふたりの物言いに、玄晶は呆れた息を漏らしつつ、続きをどうぞと手のひらで示した。
「異教の国について記されたものに、民のための国というものがあったんだ。僕の両親はそれを尊いと言い、この世をそのようにしなければと考えていた。民が生産をしてくれなければ、豪族も官僚も、皇族でさえも、生活ができないのだからと。――僕も、この玄晶も、その考えに触れて育ったんだよ。僕の両親は、玄晶の講師でもあったからね」
「それが、今回の興国の思想の発端、というわけですね」
「ああ。……僕はいつか、玄晶とともに立派な官僚となり、そういう府の運営を目指そうと考えていた。けれど――っ」
烏有の瞳に痛みが走る。剛袁がいぶかるよりも早く、烏有は顔を伏せた。立ち上がった玄晶が、烏有を守るように腕に包む。
「鶴楽の両親は、とある府の視察中に、命を落としてしまったのだよ。そこの豪族は欲深くてね、民を相当に苦しめていたらしい。民の声を聞くといって出かけ、暴動に巻き込まれた」
烏有が全身を硬くする。ちいさく震える烏有に、剛袁は哀切を浮かべた。
「暴動にかこつけた暗殺というウワサが立ってね。異教の考えに共感をしている不届き者は、忠殺をすべきだという声があったと、葬儀の席で耳にしてしまったのだ。両親の死が納得できない鶴楽は、悲しみを乗り越えるために、その言葉から恨みを生み出し、心の杖にしてしまった」
烏有はもう語れないだろうと判断し、玄晶が代わりに蕪雑に伝える。
「そのとき私は、打ちひしがれ、恨みに捉われる鶴楽をながめることしかできなかった。私の両親は、そっとしておくほかはないと、無力感にとらわれていた私に言った。そんな日々がしばらく続いた、ある朝のことだ。鶴楽は理想に近い府がどこかにあるはずだと、書き置きを残して姿を消してしまった。それが、5年前。鶴楽が12歳だったときの話
だよ」
玄晶が口をつぐむと、沈黙がしんしんと空間に降り注いだ。それは犯してはならないもののように、部屋を満たした。誰もが身じろぎすらもせず、息をひそめて自らの心の内と向き合った。
「蕪雑なら」
ぽつりと、烏有が口を開いた。
「蕪雑なら、実現できると思えたんだ」
その声は、沈黙の合間を縫うように、しずしずと流れた。
「自然と人々の中心になり、慕われている蕪雑なら、民のための国を造れると」
烏有の声は玄晶の胸に沁みこんで、剛袁に信頼の情を湧かせた。
「鶴楽」
玄晶が体中で包むように、烏有を抱きしめる。剛袁は「よくわかりました」とつぶやき、部屋から出ていった。
烏有は食いしばる歯の隙間からうめきを漏らし、玄晶の腕にすがって静かに頬を濡らしていた。
「はい」
「剛袁です。入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
玄晶がにこやかに扉を開く。
「来るだろうと、思っていたよ」
剛袁はわずかに眉根を寄せて、足を踏み入れた。室内は寝台と小さな丸い卓のみの、簡素なものだった。卓の上には、酒壺と杯がふたつ置かれている。
「どうぞ、座って」
促されるまま、剛袁は寝台に腰かけた。玄晶は杯に酒を注ぎ、片方を剛袁に差し出す。
「聞きたいことは、烏有について? それとも、国造りの話かな」
「どちらも聞ければありがたいのですが。……まずは、貴方が何者なのかを、教えていただきたいですね」
油断ならぬ目で玄晶を威嚇しながら、剛袁は杯を受け取った。玄晶は軽く肩をすくめて、剛袁の隣に座る。
「食事の席で、説明をしたと思うけれど」
「烏有の所属していた楽団と親しい、岐の官僚の息子。それだけでは納得できかねます」
「どういうところが?」
剛袁は体を玄晶に向けて、座りなおした。剛袁と玄晶の背丈はそう変わりないが、身幅が圧倒的に違っている。細身というほどではないが、すらりとした容姿の玄晶は、堂々とした体躯の剛袁と並ぶと小さく見えた。
「官僚といっても、文官と武官がありますし、位によっては中枢での発言力がまるで違う。烏有の物言いには、府となる許可を必ず得られるという感じがありました。しかし、それほどの力ある方が、たかが楽士のためだけに、息子を送るとは思えません。在り得ないんですよ」
ウソや誤魔化しは通じないと、剛袁は全身で示した。威圧的な圧迫を発する剛袁に、玄晶はあくまでも柔和な態度で接する。
「君は、豪族の家に勤めていたと聞いたけれど、役人を目指していたのかな」
「ええ」
「そうか。君のほかに、そういう知識のある人物は、仲間内にどれほどいるのか、教えてくれ」
「俺だけです。あとは工夫や道具師、猟師や農夫。それと酒場で男の相手をする、陰酌女ですよ。どれも文字が読めず、知識がなかったばかりに、裕福な商売人や豪族、官僚なんかにいいようにされて、言いがかりの罪で牢に入れられた者たちです」
剛袁の目に敵意が宿る。玄晶は軽く、幾度も縦に首を動かした。
「それで君は役人になり、豪族や官僚に意見のできる立場となって、すこしでも民の暮らしをよくしようと考えていたのだな。ところが、そんな君の勤勉な姿と男らしくたくましい姿に、豪族の娘は恋わずらいを得てしまった」
「俺のことは、どうでもいいんです。貴方がどういう方なのかを、お教え願いたい」
「そう答えを急ぐものではないよ。役人になろうと考えているのなら、こんなふうに、もどかしい時間も手玉に取れるくらいの、ゆったりとした心地を持つべきだ。でなければ老獪な、憎むべき相手に軽くいなされて終わってしまう」
グッと息を飲んだ剛袁が、それをごまかそうと杯に唇を当てた。
「まっすぐな心根を持つというのは、すばらしいことだ。だがな、それを押し隠して立ち回らなければ、強引にへし折られてしまうよ。君のように、後ろ盾を持たないまま、役人になろうとする者はとくに、な」
「どういうことですか」
「そのまんま。言葉のとおりだよ、剛袁。もし君が、うまく立ちまわれる気質を持っていたのなら、君の雇い主は罪ではなく、後見人という立場を、肩にかぶせてくれたろうね」
剛袁の目が静かに見開かれる。玄晶はそれを見ながら、酒を飲んだ。
「そういうことだ。役人になられてはやっかいだと、君の雇い主は考えた。だから娘の恋心を利用して、君を追いやったんだよ」
剛袁は奥歯を噛みしめ、両手で杯を強く握った。指が白くなるほど力を込めて、理不尽な仕打ちにくやしさを滲ませる剛袁の杯に、玄晶は杯を重ねる。
「君はもっと、ずるがしこくならなくてはな。不正を働け、という意味ではないよ。不正や悪事は、きっと君には向いていないだろうからな。ただ、そういうものと柔軟に折り合いをつけて、大切なものを守れる強さを持つべきだ。今でも役人になりたいと、考えているのならな」
「役人になる道があると、言っているように聞こえますが」
「そう言っているのだよ、剛袁。君が役人になる道はある。君の実直さが災いして、自ら閉じてしまった夢への道を、烏有が開こうとしている」
「烏有が?」
「そう。まだ、わからないのか」
たのしげな玄晶の瞳に、剛袁の困惑顔が映る。玄晶はクスクスと息を漏らして、立ち上がった。
「君には、今後のためにも私や烏有の過去と現在を、伝えておいたほうがよさそうだな。もうすこし、ふたりで飲んでいてもいいのだが、君はきっとイライラしてしまうだろう。私に付き合えるくらいの、気持ちの余裕ができたころに、誘わせてもらうよ」
玄晶が杯を空にし、扉へ向かう。
「飲み干して、ついておいで。烏有のところへ行くよ。……君の元気な弟と、子どもみたいな頭目は、どこにいるのだったかな。見つからないようにしなければね」
剛袁はあわてて酒をあおり、立ち上がった。
「船の上は珍しいからと、ふたりは甲板にいるはずです。そこで眠るとも言っていましたから」
「そうか。それなら、会わずに済むな。おいで、剛袁」
手のひらを差し出され、剛袁は戸惑う。興味深げに見てくる玄晶から目を逸らし、剛袁は立ち上がった。残念そうに、玄晶が差し出した手をおろす。
「烏有はきっと、私が連れてきた工夫たちと話をしているはずだよ」
「どうして」
「とにもかくにも、船着場がなければならないと、地図を見て判断をしたからな。私たちが食事を楽しんでいる間に、工夫に川原の地形の調査を行わせておいたと教えたら、目を輝かせていた。いまごろ、どのあたりにどの規模のものを造るのか、話し合っているのではないかな」
大部屋へ向かう玄晶の半歩後を、剛袁は歩いた。
「どうして、そこまで烏有に肩入れをするんですか」
「罪滅ぼしのような、自己満足……かな」
「罪滅ぼし?」
「5年も消息のわからなかった烏有が、便りを送ってくれただけでなく、頼ってくれた。それだけで、できうる限りのことをしようと、考えて当然だとは思わないか? 袁燕が突然、どこかへ旅に出てしまい、5年ぶりに便りをよこしてきたと想像をしてみてごらん。私の気持ちが、すこしはわかるのではないかな」
剛袁は足元に目を落とし、しばらくして玄晶の後ろ姿に視線を当てた。
「烏有は貴方にとって、血を分けた兄弟のように、大切な相手なのですね」
玄晶が、いたずらっぽい笑みを浮かべて振り返る。
「血の繋がり、というものを大切にするのはいいことだが、豪族や官僚などには、その認識が当てはまらないと覚えておくといい。跡目のイスは、ひとつしかないからな。それはそれは、醜い争いが繰り広げられるぞ」
剛袁は口を硬く結び、縦にも横にも首を振らなかった。それを興味深そうに横目で見つつ、玄晶は大部屋の扉を叩く。
「失礼しても、かまわないかな」
応じる声があり、扉を開ければ、ひと目で熟練工とわかる威厳と風格を備えた男と烏有が、地図を前に額を突き合わせていた。
「烏有、大切な話がある。ここからなら、烏有の部屋がどこよりも近い。剛袁と邪魔をさせてもらいたいから、招いてくれ」
烏有はいぶかしげに、玄晶と剛袁を見比べた。
「工夫は、明日も早くから調査をすることになっているからな。そろそろ休んでもらわなくては」
有無を言わさぬ声音に、烏有はうなずいた。
「詳しいことは、もっと調べなきゃ、はっきりとは言えませんから」
工夫がとりなすような言葉をかける。
「わかりました。それでは明日、また話し合いをするとしましょう」
工夫と就寝の挨拶を交わした烏有は、玄晶と剛袁の横をすりぬけるように大部屋を出て、自分にあてがわれた船室へ向かった。
無言のまま扉を開けて、ふたりを通す。廊下を見回してから扉を閉めた烏有は、強い目で玄晶を見た。
「蕪雑と袁燕を除いておこなう大切な話というのは、僕の素性に関することだね」
玄晶から剛袁に視線を移動させながら、烏有は問うた。
「ほかに何があるというのかな、鶴楽」
寝台に腰を下ろした玄晶に、烏有はぎょっとする。
「玄晶!」
「かまわないではないか。これから、剛袁にはすべてを聞いてもらうのだからな。君の本来の名前を呼んでも、差し支えはないだろう」
「本来の名前とは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。烏有というのは鶴楽が旅に出た後に、自分でつけた呼び名だ。白い鳥である鶴から、漆黒の鳥、烏の名に変えるとは、よほど過去を捨てたかったのだろうな」
玄晶の瞳に悲哀が浮かぶ。烏有は拳を握り、顔をそらした。剛袁は烏有を見下ろし、一言一句、たしかめるように問いを発する。
「名前を偽って旅をしていたのなら、身分もそうなのではないですか。烏有、いえ……、鶴楽。貴方はいったい、何者なんです」
「剛袁には、話をしておいたほうがいい。今後のためにもな」
「どういう意味ですか。僕の過去なんて、関係ないはずですよ」
「おおありだよ、鶴楽。国を興すのだろう? そうなれば、諸府との連絡役や、調停役が必要となる。村のうちはなんとかなるだろうが、それが大きくなってきたときに、府として認められるための治世を、いったいどうするつもりでいるんだ。彼等に身分を偽ったまま、鶴楽ひとりでそれを担うつもりだというのなら、ずいぶんな驕りだよ。私もできうるかぎりの手伝いをする気でいるが、ふたりでは心もとない。もうひとりぐらい、当初から計画にたずさわっている、信頼のできる人物が必要だとは思わないか」
「それは……」
「思うだろう」
玄晶の言葉を受けて、烏有は剛袁の目を射抜くように見た。剛袁もおなじ強さで見返す。
「すべてを打ち明けて、心底から信用してもらったほうが、いろいろとやりやすいのではないかな」
玄晶の後押しに、烏有は口を開いた。憂鬱そうな声がすべり出る。
「僕の両親は、官僚をしていたんだ。文官だよ。申皇の治める世の理や歴史、異教の国について調べ、治世の役にたてるために働いていた。玄晶の両親と僕の両親は同僚であり、従兄弟でもある」
「楽士というのは、ウソだったんですね」
烏有は首肯した。
「旅に出てからはそうだったのだから、まるっきりウソというのでもないさ。そうだろう、鶴楽」
「楽士として岐の官僚に知り合いを持っている、と言ったことはウソだからね。ウソつきと呼ばれても、反論はしないよ」
「その部分は、すべての話を聞き終えても納得ができなかった場合に、改めて非難させていただきます」
硬い表情の烏有と剛袁に、玄晶は手を差し伸べた。
「そんなに怖い顔をしていないで、もうすこし気をゆるめてはどうかな。酒でも用意させようか」
「すぐに終わるから、その必要はないよ」
「根掘り葉掘り聞きたいわけでは、ありませんから。おおまかな筋だけ、お聞かせ願えればけっこうですので。詳しく知りたい場合は、日を改めます」
ふたりの物言いに、玄晶は呆れた息を漏らしつつ、続きをどうぞと手のひらで示した。
「異教の国について記されたものに、民のための国というものがあったんだ。僕の両親はそれを尊いと言い、この世をそのようにしなければと考えていた。民が生産をしてくれなければ、豪族も官僚も、皇族でさえも、生活ができないのだからと。――僕も、この玄晶も、その考えに触れて育ったんだよ。僕の両親は、玄晶の講師でもあったからね」
「それが、今回の興国の思想の発端、というわけですね」
「ああ。……僕はいつか、玄晶とともに立派な官僚となり、そういう府の運営を目指そうと考えていた。けれど――っ」
烏有の瞳に痛みが走る。剛袁がいぶかるよりも早く、烏有は顔を伏せた。立ち上がった玄晶が、烏有を守るように腕に包む。
「鶴楽の両親は、とある府の視察中に、命を落としてしまったのだよ。そこの豪族は欲深くてね、民を相当に苦しめていたらしい。民の声を聞くといって出かけ、暴動に巻き込まれた」
烏有が全身を硬くする。ちいさく震える烏有に、剛袁は哀切を浮かべた。
「暴動にかこつけた暗殺というウワサが立ってね。異教の考えに共感をしている不届き者は、忠殺をすべきだという声があったと、葬儀の席で耳にしてしまったのだ。両親の死が納得できない鶴楽は、悲しみを乗り越えるために、その言葉から恨みを生み出し、心の杖にしてしまった」
烏有はもう語れないだろうと判断し、玄晶が代わりに蕪雑に伝える。
「そのとき私は、打ちひしがれ、恨みに捉われる鶴楽をながめることしかできなかった。私の両親は、そっとしておくほかはないと、無力感にとらわれていた私に言った。そんな日々がしばらく続いた、ある朝のことだ。鶴楽は理想に近い府がどこかにあるはずだと、書き置きを残して姿を消してしまった。それが、5年前。鶴楽が12歳だったときの話
だよ」
玄晶が口をつぐむと、沈黙がしんしんと空間に降り注いだ。それは犯してはならないもののように、部屋を満たした。誰もが身じろぎすらもせず、息をひそめて自らの心の内と向き合った。
「蕪雑なら」
ぽつりと、烏有が口を開いた。
「蕪雑なら、実現できると思えたんだ」
その声は、沈黙の合間を縫うように、しずしずと流れた。
「自然と人々の中心になり、慕われている蕪雑なら、民のための国を造れると」
烏有の声は玄晶の胸に沁みこんで、剛袁に信頼の情を湧かせた。
「鶴楽」
玄晶が体中で包むように、烏有を抱きしめる。剛袁は「よくわかりました」とつぶやき、部屋から出ていった。
烏有は食いしばる歯の隙間からうめきを漏らし、玄晶の腕にすがって静かに頬を濡らしていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
異世界ママ、今日も元気に無双中!
チャチャ
ファンタジー
> 地球で5人の子どもを育てていた明るく元気な主婦・春子。
ある日、建設現場の事故で命を落としたと思ったら――なんと剣と魔法の異世界に転生!?
目が覚めたら村の片隅、魔法も戦闘知識もゼロ……でも家事スキルは超一流!
「洗濯魔法? お掃除召喚? いえいえ、ただの生活の知恵です!」
おせっかい上等! お節介で世界を変える異世界ママ、今日も笑顔で大奮闘!
魔法も剣もぶっ飛ばせ♪ ほんわかテンポの“無双系ほんわかファンタジー”開幕!
ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!
クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。
ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。
しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。
ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。
そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。
国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。
樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
拾われ子のスイ
蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】
記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。
幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。
老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。
――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。
スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。
出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。
清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。
これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。
※週2回(木・日)更新。
※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。
※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載)
※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる