鳴響む

水戸けい

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 男と子どもは、手をつないだままのんびりと物見遊山に出かけるような足取りで、街道を進んでいた。女物の衣をかぶる男を不思議そうに子どもが見上げるが、男は前を見て進むばかりで、子どもの視線に応える様子を見せない。なので、子どもは無言でただ男の歩みに合わせて進み続けた。

 男が足を止めたのは、街道の脇に小川が見えた時だった。日はちょうど空の真ん中あたりに差して、昼時を示している。馬を連れて河原に下りれば、馬に水を飲むよう促して、かぶっていた着物を手ごろな石の上に置き、その上に子どもを抱き上げ座らせた。少し尻をもぞもぞとさせ、安定する場所を探った子どもが顔を上げれば、男が子どもの頭の上に手を乗せる。

「飯に、しようか」

 空腹と疲れを感じていた子どもは、花が咲くように顔を輝かせた。

「うん!」

 力強く頷き、わくわくとした気配を纏う子どもの頭を二度ほど撫でるように叩くと、男は馬の背に括り付けられている荷から竹筒と握り飯を取り出し、子どもの横に腰かけた。

「では、いただこう」

「いただきます」

 並んで両手を合わせ、握り飯に一礼をしてから食べ始める。

 小川のせせらぎに時折聞こえる鳥の声――ゆったりと青空を進む雲と、あるかなしかの風。

 そういうものに包まれて、二人は深く息を吸いこみ吐き出しながら、米の甘味がわかるまで握り飯を噛みしめ、水を飲み、食事を終えた。腹がくちくなり、うとうとと子どもがしはじめ、男は小さな笑みを口の端に浮かべて子どもを抱き上げる。片手で子どもを抱きかかえ、もう片手でかぶっていた着物を取って木陰に移り、着物を敷いて二人で横になった。

 半刻ほどの昼寝を終えて、すっきりと目覚めた二人は伸びをして、男は子どもに新しい名前を付けようと言った。子どもは、きょとんとして小首をかしげた。

「これから、領主の所へ行くだろう。上等の着物を着て、村の者たちに悪さをしないでくださいと言いに行くのに、兵太(へいた)という名では格好がつかない。別の名を、これからは使う事にしてくれ」

「でも、ぼくはなんて名乗ればいいのか、見当もつかないよ」

 不安げな目をした子ども――兵太に、大丈夫だと頷いて見せる。

「おれが、名を付けよう――そうだな…………」

 腕を組み、しばし考えてから男が手のひらをうちあわせた。

「汀(みぎわ)、というのはどうだ」

「みぎわ――?」

「どうだ、気に入ったか」

 ううん、と唇をとがらせて考えてから、子どもが言う。

「おんなの名みたいだ」

「そう言うな。これから、オマエは汀と名乗れ」

「アンタは、なんていう名前にするの?」

 汀となった兵太は、男の名を知らなかった。

「俺か? 俺は孝明(こうめい)だ」
「こうめい?」

「そうだ――孝明だ」

 こうめい、こうめい――と俯き口の中で数度繰り返した子どもが、わかったと顔を上げる。

「おれは、汀。アンタは、孝明」

「そうだ」

 よくできた、と言う代わりに子どもの頭を撫でる。くすぐったそうに肩をすくめた子どもは、跳ねるように立ち上がった。

「みっぎわ、みっぎわ~と、こうめ~い」

 でたらめな節をつけて歌いながら馬に近づき、手を伸ばして首を撫でながら馬の目を覗き込んだ汀が

「おれは、今から汀っていうんだぞ」

 わかったか、と馬に話しかければ、馬はブルルと鼻を鳴らした。満足そうに、よしと頷いた汀が着物をかぶった孝明を振り返る。

「孝明、馬はなんて名前にするんだ」

 ゆっくりと馬と子どもに近づいた孝明が、そうだなぁと馬の首に触れる。馬の首を軽く叩きながら考える孝明は、汀を見た。

「汀は、この馬が好きか」

「好きだ」

 間髪入れずに答えた汀に、そうかと深く頷いて孝明が胸を逸らす。

「では、馬の名前は焔(ほむら)だ」

「ほむら?」

「勇ましいだろう」

 歯をちらりと見せて孝明が笑えば、子どもは大きな声でうんと言いながら肩まで使って頷いた。

「ほむら~ほっむら~と~みっぎわ~」

 またも歌いだした子どもを抱きかかえ、焔と名付けた馬の背に乗せて手綱を掴み、歩き出す。ご機嫌な汀は焔の首にしがみつき、くすくすと鼻を鳴らした。焔もまんざらでもなさそうな顔で、孝明に手綱を引かれて進んでいる。そうして河原から街道に戻り進んでいると、突然脇の林から数人の男が躍り出てきた。

「この街道は、この猪之助様が管理をしている。通りたければ、通行料を置いていけ」

 湾曲した大ぶりの刀を抜いてすごむ男に、鼻を鳴らした焔の首に汀が怯えてしがみつく。孝明といえば、特に困った様子も見せず、のんびりとかぶっていた女物の着物を焔の腰に掛けた。それを、馬に括り付けられている荷物を取ろうとしていると見た男どもの一人が、にやにやと浮かべる下卑た笑みにふさわしい声を出した。

「そうだ――そうやっておとなしく、通行料を渡せばいいんだよ」

 けれど着物を掛けただけで荷には触れようともせず向き直った孝明に、男どもは疑念に目を眇(すが)めた。

「どうした。さっさと通行料を寄越しやがれ」

「どう見ても街道を管理しているようには見えない相手に、渡す通行料は持ち合わせてはいない」

「なんだと」

 色めき立つ男たちに、鞘に納めたままの長剣を掴んで突き付ける。優男としか見えない孝明の手に不釣り合いな重厚さを放つ長剣に、男たち――おそらくは山賊――は鼻で笑った。

「おいおい、兄さん……アンタのその細腕で、それを振り回しておれらを相手に立ちまわる気か?」

「やめとけやめとけ。綺麗な顔が、ぐっちゃぐちゃになるだけだぜぇ?」

 男たちの笑い声に、汀が怯えた顔を上げる。

「孝明」
 不安に声を震わせる汀に、いつもと変わらぬ笑みを浮かべた孝明が、大丈夫だと呟いた。

「すぐに、終わらせる」

 突き付けた長剣を下し、無造作に歩き出した孝明へ、男の一人が剣を振りかぶって迫った。

「うぅりゃあ!」

 ぶぅん、と音をさせて振り下ろされたそれを、すいっと人ごみで誰かをすり抜けるように躱(かわ)した孝明は、特に力を込めた様子もなく腕を持ち上げ男の腹を剣の鞘で撫でた。

「――おぅ?」

 撫でられた箇所に手を当てた男は、ぐるんと白目をむいて膝を着き、糸の切れた操り人形のように倒れ伏す。

「なっ、何をしがやった」

「見た通りの事を」

 両手で刀を構える男に、たらりたらりと覇気無く孝明が歩み寄る。倒れ伏した男と柔和に歩いてくる孝明との落差に、男たちは足元から恐怖にすくい上げられ、それから逃れるために雄たけびを上げて得物を振り上げ、一斉に躍りかかった。

「おぉおおおっ」

 その声に気圧されて、汀はビクンと身を震わせて、焔の首にしがみついた。

 ふうっと息を吐き出した孝明は、ゆらり、ゆらりと迫る男たちの横を通り過ぎざま、鞘を軽く彼らの体に当てていく。すれば男たちは支えを失った藁束のように、ころりと地面に横になった。うめき声すら上げず、一滴の血すら落ちてはいない。急に静かになったことで、そろりと目を開け顔を上げた汀は、倒れている男たちの姿に零れるほどに目を丸くした。そんな汀に、何事も無かったかのように微笑み長剣を腰に下げなおした孝明は、おとなしくしていた焔の首を撫でる。

「よしよし――動じずに控えているのは、偉いな」

 焔がブフンと得意げに鼻を鳴らす。はは、と軽い笑い声を上げて手綱を握り、進みだす孝明の後頭部を、未だ目を丸くしたままの汀は見つめ、ちらりと後方に遠ざかっていく男たちの姿を振り向き、また前を向いて首をかしげた。

 そうしてそのままポクポクと進み、街に出て宿を取り、古く狭いが手入れの行き届いた部屋に案内をされ、荷物を下して風呂にでよごれを落とそうかと孝明が提案する前に、汀はずっと抱えていた疑問を、口にした。

「孝明――」

「うん?」

 荷物をひとまとめにしていた孝明が、顔を上げて汀を見つめる。真剣で不安そうな顔に、そっと近づき目の高さを合わせた。

「どうした、汀」

「…………あの人たちは、死んだの?」

 誰の事かと、問うように孝明が首をかしげる。

「……昼間の」

「ああ」

 おずおずと言う汀に軽く頷き、死んではいないと告げた。

「気を、失っているだけだ。今頃は元気になっている」

 疑うように唇を尖らせた汀に、目の高さを合わせるために折っていた体を伸ばし、ぽんと軽く頭に手を乗せた。

「どういう理屈か、風呂で教えてやろう」

 頭に乗せた手を汀の背中にすべらせて、促すように押しながら部屋を出る。そのまままっすぐに風呂に向かえば、宿の女が背中を流しましょうかと声をかけてきた。それを断り、脱衣所で裸になって浴室に入る。ざばりと体に湯をかけ、軽く肌を手ぬぐいで擦る間にも汀は疑問を浮かべた視線を、ずっと孝明に投げかけ続けた。それに気づいていないはずはないのに、孝明は自分の体を拭い終えると湯をかぶり、汀に声をかけた。

「ちゃんと、耳の裏や指の間まで磨いたか」

「孝明こそ、磨いたのか」

「ああ、磨いた」

 ざばりと汀も湯をかぶり、体を流す。そうして共に湯船につかり、ふうと息を吐き出したところで、唐突に孝明が言った。

「人間には、水が流れている」

 きょとんとする汀の手を取り、手のひらに湯を掬わせた。

「人の体は、湯船のように水を湛えている。その水は、ぐるぐると体の中を巡っている。ちゃんとした順番を守って、ぐるぐるぐるぐる、回っている」

 ぱちゃん、と音をさせて掴んでいる汀の手で水面を叩いた。

「水、というよりも血――と言ったほうが、わかりやすいか」

「血……」

「そう、血だ。血が流れているのは、わかるな」

 こくん、と汀が頷いた。

「血は、いろいろなものを運んでいく。その流れが止まってしまえば、人は死ぬ。人だけじゃない。動物はすべて死ぬ。――植物も、血ではないが水を含んで茎や幹の中を流している。それが止まれば、枯れてしまう」

 汀が理解をしているかどうかを確認するように、孝明が言葉を切った。わかっているというように、汀が頷く。

「人の体には、血と同じように流れているものがある。それが、気脈というものだ。気合を発するとか、気合を入れるとか、聞いたことがあるだろう」

「重いものを持つ時に、うんしょってするやつだろう」

「そうだ――そういうときに、使う場所によって力がこもる場所が変わる。普段はそれは、血と同じようにぐるぐると体の中を流れているが、力を込める時には、そこに気がこもる。気脈は誰でも持っているが、力と同じで強さは人によって違う」

 わかるか、と目で問えば汀は懸命に自分の中で咀嚼して、口に出した。

「走る時には足に力が入って、重いものを持つ時には腕に力が入って、でもそれは、大人と子どもじゃあ全然強さが違うっていう、こと?」

 少しだけ語尾に不安を滲ませる汀に、そういうことだと孝明が目を細めた。

「その、力がこもる場所を少し変えたり、死なない程度に止めたりすれば、どうなるだろう」

 問いかけに、唇を尖らせ眉間にしわを寄せて考える汀を、楽しそうに孝明が眺めながら湯の心地よさに息を吐き出した。

「――力が、抜ける?」

 自信なさげな汀の答えに大きく頷き、孝明は説明を再開した。

「そうだな。力が抜けたり、気を失ったり――」

 気を失うという言葉に、汀が「あっ」と声を上げる。

「気の流れが無くなるから、気を失う!」

 良いことに気付いたと満面に悦びを示す汀に、その通りだと答えた。

「そういうことを、おれはしたんだ」

「そっか――でも、そんなことが、どうして出来るの? 大人は、みんな出来るものなの?」

「訓練次第でできるようになりもするが、人にはそれぞれ得意な事と苦手な事があるだろう。得意でなければ、昼間のようなことは出来ないな」

「孝明は、訓練をして得意だったから、出来るようになったんだな」

「そうだな――得意だったから、出来るようになった」

「ぼくも、出来るようになるかな」

 その言葉に、孝明は目を糸のように細めた。

「汀が、その資質を強く持っていると思ったから、おれは汀を連れて行きたいと言ったんだ」

 ぱぁ、と嬉しげに顔を輝かせたかと思うと、くすぐったそうに照れくさそうに肩をすくめた汀は、鼻の下まで湯の中に沈んだ。ぷくぷくと、彼の吐く息が泡となって浮かび上がる。

「訓練を、明日から少しずつ始めてみようか」

 顔の半分を湯に沈めたまま、汀は嬉しそうに肩をすくめた。


 翌朝、汀はヒョウタンを買い与えられた。その中に半分ほどの水が入っている。ちゃぷちゃぷと揺らしてみせた孝明は、この水の音に耳を傾け続けているようにと言った。

「ずっと耳を当てていればいいの?」

「いや――体を動かせば水も動くだろう。それを感じるように、ずっと意識をし続けていろという事だ」

 首をかしげながらもヒョウタンを受け取った汀は、それを首から下げて軽く叩いた。ちゃぷん、と水が動くのが伝わる。宿の者が焔を厩から連れてきて、孝明は礼を言って手綱を受けとり、その背に荷物と汀を乗せた。

「汀は、気の流れより水の流れを捉えるほうが、性に合うだろうからな」

 孝明のつぶやきに首をかしげながら、焔の背に揺られて動く水を感じるため、汀はヒョウタンを抱きしめる。ゆうらりゆらりと進む二人の上を、高く細い声で長い鳴き声を上げながら、大きな鳥が行き過ぎた。

 のんびりゆったりと街の中を進み、次の街に出るまえに必要なものを揃えようと商店の並ぶ通りを進めば、汀の意識がヒョウタンから店先に並ぶ品々へと移る。馬上できょろきょろと首を動かす汀に、声をかけた。

「歩いて、あちらこちらを覗いていくか」

「うん」

 わくわくとした気色で両手を伸ばしてくる汀を抱き止め、下す。降り立った汀は、さっそく手近な店先を覗き込み、目を輝かせた。

「こういうものは、初めてか」

「うん!」

 孝明の問いかけに、あちらこちらの店先を物珍しそうに見て回りながら、振り向きもせずに弾んだ声を上げる。孝明は、そんな汀に目をやわらかく細め、好きにあちらこちらへと行かせ、珍しがる姿を楽しんでいた。ところが、見たことも無い品々に目を輝かせ、あちらこちらへ飛び回る蝶のように、店々へ移動していく汀のうきうきとした気持ちを、一瞬で凍りつかせるような怒号が、ある店の奥から響いてきた。

「こんな品で、満足をされるわけがねぇだろうが!」

 びくっと身を竦めた汀が、軋む音がしそうなほどの動きでこわばった顔を上げ、店の奥に目を向ける。

「もっと繊細なものを用意しなきゃ、満足なんぞされるわけが無いだろうが!」

 再び怒声が響き、汀はさらに身を縮ませた。その肩に、安心をさせるように孝明が手を乗せて店の中を覗き込む。そこは、さまざまな細工物を扱う店であった。二人の様子に気づいた店番が、恐縮したような笑みを顔に貼り付けて、すみませんねぇと額に手を当て謝ってくる。

「何が、あったんだ?」

「いえね。領主様が、珍しかなものを大名様に献上したいっておっしゃっているってんで、てまえどもの主が良い細工物をお送りしようとしているんですが、なかなか納得するようなものが出来ず、苛立っているという次第で」

 心の底から弱っていることを表す店番に、そうかと言いながら汀の頭を撫でる。事情が分かった汀は、体の緊張を解く代わりに憐れみを浮かべた。

「怒られている人が、かわいそうだ。きっと、一所懸命がんばっているはずなのに」

「ありがとよ、坊ちゃん。けどな、職人はなまなかな事で満足をしちゃあ、いけねぇ職業だ。がんばりました、じゃ飯は食えないんだよ」

 店番が汀と目を合わせて目じりを和らげる。ふうん、とわかったようなわからないような声を出し、汀は店番に聞いた。

「せっかく作ったものは、どうなるの?」

「そりゃあ、ゴミになるか店に並ぶかのどっちかだ。主人が領主様への献上物にふさわしくないと言ったって、出来の悪いモンじゃねぇ。店頭に並んでいるものよりも、ずっと素晴らしいものだからな。ゴミにせずに、店に並べてくれりゃあ職人もまだ、救われるってぇモンだが…………」

 店番の職人をおもんぱかる声に、汀が孝明を見上げる。

「その品は、何を作っているんだ」

「へぇ……木彫りの根付に石をはめ込んだ、なかなかの一品なんですが」

 問われた店番は嬉しげに説明を始めるが、その顔はすぐに暗くしぼんでしまった。

「――前に作ったものは、竈の中に放り込まれてしまいましてね。いやはや、もったいない。買い手が付かなきゃ、職人は銭を受け取ることが出来ませんのでね。あれほどの見事な品を、火にくべてしまうなんて…………おっと、申し訳ない。内々の話をポロポロと――って、お客さん?」

 話を聞きながら、孝明は店番の横を通り過ぎて奥に顔を突っ込んだ。番頭がぎょっとするのも構わず、草履を脱いで勝手に店奥に上がりこむ。

「ちょ、ちょいとお客さん!」

 制止の声など聞こえぬ風に、すたすたと奥に進む孝明を、汀が慌てて追いかける。店番と番頭は顔を見合わせ迷ったが、他の客に声をかけられ追わなかった。

「取り込み中の所を、すまないな」

 品を届けに来た職人を叱りつけている店の主人は、突然の訪問者にぎょっとして口をつぐんだ。

「店表まで、怒鳴り声が聞こえたのでな。なんでも、良い品だが領主に出すには不足なのだとか――少し、見せてはもらえまいか」

 孝明が手を伸ばせば、店の主人は犬が噛みつく隙を狙うような顔をした。

「なんだ貴様は! 勝手に店に上がりこんで――」

「おれか? おれは、客だ」

 見せてみろ、と促すように出した手を上下させる孝明の頭の先からつま先までを確認した店の主人は、彼の身なりが悪く無いことに怒りを落ち着かせ、それでも不承不承(ふしょうぶしょう)と言った態で彼の手の上に根付を置いた。

「ほう――」

 それは、見事な竜の細工だった。うろこの一枚一枚が丁寧に彫られ、うねる体は躍動感に満ち、瞳は内側から琥珀がはめ込まれている。小さいながらも水晶を左手に掴まされた竜の姿は、見事の一言に尽きた。

「これが、献上品として納得できないという品か」

 横に来た汀が、孝明の腕を掴んで背伸びをし、根付を見ようとする。その手に根付を持たせてやれば、わぁ、と汀は感歎の声を上げて日の光にかざし、竜を眺めた。

「これ、おじさんが作ったの?」

 庭先に居る男に声を掛ければ、男は少々胸を張り、首を横に振った。

「これは、おじさんの親父が作ったもんだ。親父は足が悪いんで、おじさんが持ってきたんだよ」

「ふうん」

 話を聞きながら、くるりくるりと角度を変えて竜を眺める汀の様子に、孝明が言った。

「店主、これはどうするんだ」

「献上できないと思う品を、買い上げることはできませんのでね。――しかし、貴方様が欲しいと仰るのであれば、買い上げてお売りすることも可能ですが」

 ちらり、と主人が庭先の男を見る。庭先の男は店主を睨み付けながら、足元に唾を吐きかけた。そうして、嬉しそうに竜を眺める汀に目じりを下げて丸い声をかける。

「坊ちゃん。それが気に入ったのなら、持ってお行き。そんなに喜んでくれる人の手に在ったら、竜も喜ぶだろうさ」

「えっ――いいの?」

「もちろんだ」

 頷く庭先の男に、店主が忌々しそうに舌打ちをする。それを横目で見ながら、孝明は問うた。

「これほど見事な細工であるのに、不服という理由を教えてもらえるか」

 苦虫をかみつぶしたように、店主が言った。

「この職人の腕は、こんなもんじゃあ無いんだ。――領主様のことを毛嫌いしているんで、手抜きをしているんだろう」

「親父が、手抜きをするわけがねぇだろう! どんな相手に渡すモンだって、誠心誠意、心を込めて作るのが、職人ってぇモンだ」

 唾を飛ばす勢いで、男が店主にくってかかるが店主は鼻を鳴らしてあしらった。

「とにかく、最高の品を用意してもらわなけりゃあ、こっちだって困るんだ。次が最後だと思って、もう一度作り直して納品してもらうよ」

 ふん、と鼻を鳴らした店主は踵(きびす)を返して去ってしまった。残された孝明は、悔しげに拳を握り店主を見送る男に声をかけた。

「もしよければ、これを作った職人に合わせてくれないか。汀がとても気に入ったようで、礼が言いたい」

「いや、そんな――礼を言われるようなことは、しちゃいねぇです。それに、おれらの村は街はずれのそのまた先で、何も無い汚らしい場所なので、旦那さんと坊ちゃんみてぇな方を迎えるのも恥ずかしいボロ家ですから」

 その言葉に、孝明と汀は顔を見合わせ同じ笑みを浮かべた。

「気にすることないよ、おじさん。ぼくの家と、きっと同じようなものだろうし、孝明は荒寺でボサボサのボロボロの格好で、住んでいたんだから」

「へっ――? あっはっはっは。そうかいそうかい。優しいなぁ、坊ちゃんは」

 汀の言葉を慰めと取ったらしい男は大きな笑い声を上げ、そう言ってくれるのなら案内しようと承諾し、自分の名前は喜助だと名乗った。

「そうか――喜助。おれは、孝明(こうめい)と言う。こっちは、汀(みぎわ)だ」

 ぺこ、と頭を下げた汀に喜助が目を細め、裏口から入った喜助は店表に回り、表から入った孝明と汀は草履を取りにもどらなければならないので、店の入り口で待ち合わせることにした。孝明と汀が店表に戻ると、心配げな顔の番頭や店番に出迎えられた。それに、何事も無かったかのような顔で邪魔をしたなと孝明が告げ、じゃあねと手を振る汀の手に竜の根付があることに、番頭と店番はそれぞれの頭の中で事態の結論を導き出したらしい。

「ありがとうございました」

 丁寧に頭を下げられ見送られ、手綱を何処にもつなげていないのにおとなしく店の脇で待っていた焔の傍に寄った。

「いいものを、もらったぞ」

 両手で竜の根付を差し出す汀に、焔が鼻を近づける。ふんふんと鼻息荒く根付を確認する焔に、あげないからなと声を弾ませた汀に孝明が手を伸ばし、根付を取るとヒョウタンにしっかりと括り付けた。

「こうしていれば、落とさないだろう」

「うん」

「孝明様、汀様」

 喜助に声を掛けられ、様付で呼ばれたことに身を捩った汀が、呼び捨てでいいよと喜助に言う。孝明からもそうしてくれと言われ、遠慮がちな顔をしながら喜助は頷いた。

「お公家様は、おれらのような者と言葉を交わすことも嫌がるモンだと思っていましたが、そういう方ばっかりじゃ、ねぇんですね」

 焔(ほむら)の手綱を持とうとすることも断り、孝明が手綱を引き、その横を汀が歩き、焔の鼻先に喜助が立つという格好で、彼の村――彼の家を目指して歩きはじめる。

「おれも汀も、公家じゃない。汀(みぎわ)の言うように、おれは荒寺に住んでいたし、汀は百姓の子どもだ」

「うへぇ? とても、そうは見えねェですがね。いったいなんで、そんな暮らしを?」

「そうだ。どうして孝明は、あの荒寺に住んでいたんだ」

 二人からの質問に、困ったような顔で笑む孝明に汀が問いを重ねる。

「それに、どうして汚い格好をしていたんだ。きちんとすれば孝明はいくらでも嫁の貰い手があるんじゃないかって、かかさまが言っていたぞ」

 汀の様子に、喜助が不思議そうに孝明を見つめる。

「お二人は、ずっと一緒に居たわけでは無ぇんで?」

「おれの村の近くに孝明は住んでいたし、いっぱい遊んだことはあるけど、声を聞いたりしたのは昨日が初めてだ。――そうだ、孝明。どうして喋れるのに、ずっと黙ったままだったんだ」

 汀が更に、問いを重ねる。喜助の顔に好奇心が浮かび、さほど困ってもいない様子で困った顔をして見せた孝明が、やれやれと息を吐いた。

「それはまぁ、おいおい語るとしよう。今は、まだかまわないだろう」

「どうして、今じゃいけないんだ」

「どうしても、だ」

 じっと、歩きながら目を合わせあう二人を先導しながら、喜助が振り向き振り向きどのような流れになるのかと、見守る。少ししてから、汀がぷうっと息を吐き出した。

「仕方が無いな。人は、言えないこともあるもんだって、じじさまが言っていたしな」

 それは、汀がまだ兵太だったころに孝明のことを大人たちが噂する中で、彼の耳に入った言葉だった。汀が聞くことを断念したことに、喜助が少しの落胆を浮かべて先導に集中する。

「そうか。――意を汲んでくれて、感謝する」

 ぽん、と汀の頭に孝明の手が置かれ、汀は大人のような顔をして、いいってことよとヒョウタンを抱きかかえた。

 途中で休憩を入れながら、一刻と少々の時間をかけて山裾に広がる村に着いた。

「山で石を掘り出し、木を採って細工を作っております」

 村には、職人ばかりが住んでいるらしい。街道近くには細工師が、その奥には採掘師、そのまた奥には木こりが住んでいるのだと、喜助が説明をしてくれた。

「親父ぃ、帰ったぞ。――――なぁんも無ェ、汚いところですが、どうぞ」

 案内をされて入れば、土間の片隅によく乾燥された材木が置かれていた。明かり窓の傍で老人が机にうずくまるようにして、彫り物をしている。

「おう、親父。親父に、お客さんだ」

「――――」

 喜助が話しかけても、職人は何の反応も示さずに、作業に没頭している。頭を掻いた喜助が、半笑いで申し訳なさそうに頭を下げた。

「すんません。手がひと段落するまでは、飯も食わねぇんでさ」

 ほう、と感心したように孝明が眉を持ち上げ、汀が目を丸くしてヒョウタンを持ち上げ竜を見つめた。

「これも、出来るまで何も食べずに作ったの?」

「一つの作業が終わるまでは、という意味だ」

 汀には、これが様々な行程により作り上げられたものだという認識が、無いらしい。孝明の言葉に首をかしげる汀に、喜助が笑みかけた。

「どうやって、その竜が出来ていったのか順番を教えてやろうか」

「うん!」

 元気よく答えた汀が、孝明を見上げる。行っておいでという代わりに頷き返せば、汀は喜助の横に立った。

「まずは、家の横に干してある材木から、見せてやろう」

 二人が出ていくのを見送った孝明は、一心不乱に彫り物をする喜助の父親の横に座り、手元を見つめた。木を削る音が、小気味よく耳に届く。今は、荒く形を掘り出している所だった。材木には何の標も無く、職人は長年の経験と勘で手を動かしているらしかった。

 シャッ、シャ――と木を削る音だけが家の中に響き、外からは汀が何やらはしゃいでいる声が聞こえてきた。

「面白いか」

 ぽつ、と職人が手を止めず、目も上げずに口から音をこぼす。

「ええ、とても」

 孝明も、職人の手元から目を離さずに答えた。

「見事なものです」

「何が、見事なもんか」

 ごと、と荒く型だけを削られた木を机に転がし手を広げ、職人は忌々しそうに皺だらけの細い指を睨み付けた。血管が浮いた茶色い肌は、まさしく老人のそれであった。

「こんな、ロクに動かない指で出来るものなんざ、屑(くず)以下だ」

「ですが、汀は貴方が作った竜をとても気に入っています。おれも、あの竜には命があると感じた――優れた細工師は、技術だけじゃ無く命をも吹き込むものだと、思っていますよ」

 あくまでも丁寧に、やわらかく――へりくだるでもなく、媚びるでもなく、本心からだと告げるように、静かな声音で孝明が言うのに職人は鼻を鳴らした。

「そんなもの、出来て当然だ。――あの程度のもの、出来て当然だ。細工屋の店主は、あれを買い上げなかっただろう?」

 かぶりを振った職人は、深く大きな吐息を漏らし、腕を伸ばして背を反らした。伸びをしてから、ふうっと緊張をほぐすように息を吐き出し、先ほどまでの険しく厳しい顔が嘘であったかのように目じりをゆるめ、孝明に顔を向ける。

「せっかく訪ねてこられたんだ。急ぎの旅では無いのなら、ゆっくりとしていきなさればいい」

 声音までもが違って聞こえ、汀がいれば目玉をこぼしてしまいそうなほどに驚くだろうと、心中で面白がりつつ「それでは、お言葉に甘えます」と頭を下げた。

「孝明!」

 そこに、声を弾ませ汀が飛び込んでくる。大切そうに両手で何やらを包み、こぼれんばかりの笑みを湛えて胸を張り、良いものを貰ったぞと報告をしてきた。それに膝を浮かせた職人が、首を伸ばして汀に声をかける。

「良いものを、この年寄りにも見せてもらえるかな」

 自分の孫に声をかけるような様相に、汀もまるで彼が本当の祖父であるかのように親しげな顔を向けて、もったいをつけながら手を開いた。そこには、きらきらとした細石(さざれいし)が彼の手いっぱいに輝いていた。ほう、と職人は眉を持ち上げて感心した顔を作る。汀の手にあったものは、採掘の折に出る――あるいは、形を整えるために削り落とした後のものばかりで、職人にとっては捨てるものという認識しかないものであるのに。

「ほら、孝明」

 職人の様子に気を良くした汀は、孝明にも手の中の輝く屑石を見せてくる。それの上に手のひらをかざした孝明は、何かを確かめるように目を細め厳かな顔をして、しばらくそのまま言葉を発さずにいた。

「――あれ? なんか、温かくなった」

 汀が呟き、孝明は被せていた手で適当なものを一つつまみ、目の高さに持ち上げて頷く。

「本当に、良いものを貰ったな。失くさないように、そのヒョウタンの中に入れておこう」

 汀の首に下がっているヒョウタンを取り、孝明は丁寧に石を抓んではヒョウタンの口に入れていく。それは何かの儀式のようで、汀も、職人も、後から戻って来た喜助も、ヒョウタンの口に全ての石が消えてしまうまで無言で見つめ続けた。

「ほら、これでいい」

 しっかりとヒョウタンの口に栓をはめた孝明の声で、三人はぼうっとしていた意識を戻した。催眠にでもかかっていたような心地から覚めた職人は、ヒョウタンの竜に目を止め、手を伸ばした。

「これ、じじさまが作ったんだろう。すごく強そうで、目がきらきらしてて、すごいな」

 作った本人に対して、なぜか得意げな顔をして見せる汀に、職人が複雑な笑みを浮かべる。

「ぼうずは、これが気に入ったのか」

 力強く、汀が頷く。
「こんな立派なの、はじめてみた!」

「そうか、そうか――」

 竜の根付に触れていた手を汀の頭に乗せ、職人は何度も何度も頷く。その様子に、喜助が面白くなさそうに鼻を鳴らし、腕を組んだ。

「まったく――これを買い取らないで捨てようとするなんざ、信じられねぇぜ。こんなに見事な細工なのによォ」

 なぁ、と同意を求めるように汀に顔を向けた喜助の横っ面を、職人が思い切りたたいた。パァンと小気味よい乾いた音がして、汀は首を竦め喜助は目を見開く。

「何すん――」

 怒鳴りかけた喜助が、職人の顔を見て言葉を止めた。職人の顔は怒りと悔しさで真っ赤に染まり、それを鎮めようとしているのか、肩は荒く上下している。くるりと背を向けた職人は、どっかと腰を下ろして腕を組んだ。何者の言葉も受け付けぬと、その背中が語っている。自分の失言に気付いた喜助の肩を叩き、汀の頭に手を乗せて、孝明が顎で外へ行こうと二人を誘う。ちらりと職人の背中を見てから、孝明に促されるままに二人は表に出た。そのまま、ぶらぶらと村のはずれまで歩き、村の者のぶんを作るのがせいぜいといった程度の畑の脇に腰を下ろす。

「見苦しいところを見せちまって、すんません」

 苦しげな、悲しげな顔に唇だけを笑みに歪めて、喜助が頭を下げる。彼の頬は、見事に赤く染まっていた。

「痛い?」

 汀の声に、大丈夫だと答えた喜助は、首を振りながらため息をつく。

「年を取れば、指先の動きもおぼつかなくなる。――親父は、それに納得が出来ないんでさ」

 その言葉に、孝明は店の主人の言葉を思い出した。この職人の腕は、こんなもんじゃない――職人自身だけでなく、彼の指先が思うように動いていた頃の細工を見知っているらしい店の主人もまた、年老いて指先の動きの鈍った彼の仕事ぶりを納得できていないのだろう。

「それだけ真摯に、細工に向き合って来たということだろう」

 孝明の言葉を慰めととったらしい喜助は、幾度目かの「すんません」を繰り返した。

「その竜も、親父は納得していないんです。それを、おれが奪うようにして持って行った――結果は、ご覧になった通りです。親父が納得をしていないモンを、あの店主が受け取るはずがねぇとは、薄々感じていたんです。でも、もしかしたらと思って……」

 うなだれた喜助と竜を見比べて、汀は首をかしげる。ためつすがめつ竜をながめ、日の光に当ててはまた竜を回して丹念に細部まで眺めると、きりりと眉をそびやかして立ち上がった。

「汀」

 そのまま駆けだそうとする汀の腕を、やんわりとした声と強い力でつかんで、孝明が止める。

「爺様に何を言うつもりなのかは知らないが、その竜が立派だといくら言っても納得はしないだろう」

 むうっと頬を膨らませ腕を振りほどいた汀は

「うるさいっ」

 叫ぶなり、駆けだした。

「あっ――」

 喜助が腰を浮かしたが、ほうっておけと孝明が言う。情けない顔をして振り向いた喜助に、孝明がひとりごちた。

「かつてのことを忘れられぬのは、何ものであっても同じこと……か」

 それは、孝明自身に言うようでもあり、思い当たる彼の内側にある誰かを思い浮かべているようでもあった。


 駆けだした汀は、真っ直ぐに職人の家へ飛び込んだ。

「じじさまっ!」

 職人は、囲炉裏端で白湯を飲んでいた。勢いよく入ってきた汀が、もどかしそうに草履を脱ごうとし、急いでいるので旅草履の長い紐がうまくほどけず、意味を成さない唸り声とも叫び声ともつかないものを上げる傍に、職人が寄って手を貸し脱がしてやる。

「ほら、脱げたぞ」

「ありがとう――…………じじさま」

 きっちりと正座をした汀の真剣な顔に、職人も背を伸ばして体ごと真っ直ぐ汀に向いた。

「じじさまは、この竜がほこらしくないのか」

 ヒョウタンを両手で持ち上げて竜を見せる汀は、体中で怒っているのだと示していた。

「おれは、この竜をほこらしく思う!」

 きっぱりと言い切った汀に目を丸くして、すぐにシワの一部のように目を細めた職人は、心の底からにじみ出たものを、そのまま音にしたように「ありがとう」と言った。

「どうして、この竜が気にくわないんだ?」

 心配げな顔をして汀が職人を覗き込み、職人は小さく息を吐き出して、しみじみとつぶやいた。

「昔が、この身にこびりついて離れなくてなぁ……その頃と同じようにと思うてしまうのよ」

 床に目を落とした職人の言葉が理解できず、汀は首をかしげる。それに、乾いた優しい笑みを浮かべて、職人は情けなく眉を下げた。

「ぼうずは、これからいろいろな事が出来るようになっていくんだろうが――ワシはこれから、いろいろな事が出来ぬようになっていくのよ」

 この竜も、今の腕では精一杯の出来なんだが、納得が出来ないのは指が思うように動いていた頃が記憶に沁みこんでいるからだと、職人が呟く。

「あの頃は、この鱗ももっと細やかに作れたものだが…………今は、いかん。目の型もそうだ。もっと鋭く勇ましい角度で掘り込めたもんが、今はこんなに丸くなってしまった」

 細く細かく刃を入れ込むことが、老いた指先も目も許してくれなくなったのだと、職人は竜を撫でながら記憶の中の、かつての自分の作品たちを見つめた。

「情けないことだ――ほんとうに、情けないことだ」

 悲哀を湛えて竜を見つめる職人の様子に、泣き出しそうな顔をした汀は胸を大きく膨らませ、職人の膝を叩いた。

「っ! そんなこと、いうな」

 何度も手を振りあげては職人の膝を叩く汀の目には、みるみる涙が盛り上がっていく。それを呆然と目を瞬かせて見つめる職人を、汀は涙をこらえるために厳しくなった目で訴えた。

「この竜は、まるくて優しいから、いいんだ! 怖い顔じゃないから、いいんだ!」

 職人が、細かい鱗と鋭い目と言ったことを、汀はそうじゃないことがいいのだと訴える。

「この竜は、優しくてまるくて、それでも強そうだから、いいんだ!」

 叩く手を止めずに言う汀の目からは、盛り上がった涙がひとすじ、またひとすじと流れて落ちる。しゃくりあげながら職人の膝を叩き、おえつを漏らす汀はとうとう突っ伏して大声で泣き出し始めた。

「…………ぼうず」

 わんわんと泣き声を上げる汀の背に、みずみずしい命の塊のような彼の背に、しわだらけの枯れた手が乗せられる。さまざまなものを作り出してきた手が、これから何かを生み出すであろう背中を、ゆっくりとさすった。

「そうか……そうか、そうだな…………まるくて、優しいか――――そうか」

 汀の言葉は、職人の胸にある何かを打ち鳴らし、響かせたらしい。丸まった背中をさする職人の唇は、だんだんと若々しく勢いのある笑みにゆがみ始め、瞳は朝焼けの湖のように輝きだした。

「ありがとな」

 職人のつぶやきは小さく、汀の泣く声にあっけなくかき消されてしまったが、それはしっかりとした重みと形を持って、汀の裡(うち)に職人の手のひらを伝って届いた。

 ひとしきり泣き終えて落ち着いた汀を抱きしめた職人が、落ち着かせるように背を軽く叩く。憮然とした汀が身を捩り、そっと手を離した職人は竜の根付に触れ、愛おしそうに目を細めた。

「昔は昔――今は今……ゆく河の流れは絶えずして、人々の営みもまたしかり。とどまることを知らずに時は流れ、今を過去へと押し流し、未来を今へと変えていく」

 謳うように言いながら、孝明が喜助を背に連れて現れた。

「――職人。その手を、一度きりでいいのなら昔のように動かすことが出来るようにしよう。そうして、あの店の主人が望むようなものを作り上げてみるか」

「親父。孝明様は、法師様なんだそうだ。法力で、一度だけ昔のように指を動かせるように、してくださるんだと」

 朗報だといたわる声で告げてくる喜助に目を向け、孝明を見た職人は薄い笑みを浮かべてかぶりを振る。

「なんでだよ、親父――せっかく言ってくれてんだ。そうしてもらって、あの店主を納得させられる品を作ったらいいじゃねぇか! それをしたからって、別段どっかが悪くなるわけでもないらしいし、代金は竜の根付で先にもらっているからって、言ってくれてんだよ」

 喜助の言葉を聞き流し、職人はひたりと孝明を見つめる。職人の目は、濁りも焦りも憤りも浮かんではいず、冬空のように高く青く澄み渡っていた。

「得心するようなことが、ありましたか」

「おかげさまで」

 静かに語り合う二人の間で、わけのわからない顔をした喜助が職人と孝明の顔を交互に見る。

「喜助、そろそろ夕餉の支度をしろ。グズグズしてっから、いつまでも嫁が来てくれないんだろうが」

「なんだよ、親父――なんでせっかくの話を断るんだよ」

「一度きりだけ、良い品が作れてどうする。ワシは死ぬまで職人だ。死ぬまで、納得できるモンを作り続けなきゃならねェんだよ」

「でも――今は領主様に献上するモンを作らなきゃならねェんだろ! だから……」

 言いさした喜助の言葉を、孝明が手のひらで制する。にこりとして、言葉を飲み込んだ喜助に言った。

「迷惑でなければ、一泊させてもらえると助かるんだが」

 孝明の言葉に喜助が首を縦に振り、狭いところで良いのならと言うのに、雨風がしのげるだけでもありがたいと返しながら

「日が落ち切ってしまう前に、おれと汀、二人分の食材を求めに山に入って来よう」

 いくぞ、と汀に声を掛ければ、真っ赤な目をした汀が唇を尖らせたまま立ち上がり、草履を履いた。

 後に残された喜助に背を向け、職人は作業机の前に座る。掘りかけの木材を目の高さに持ち上げて、何かを確認するようにくるくると回し始める職人の様子に、喜助は柔らかくゆがめた唇から吐息を漏らし、竈に火をくべるべく干している薪を取りに出た。


 山から戻って来た孝明と汀の手には、鳥と山菜があった。それらを調理し夕餉を食べ終え、筵を敷いて雑魚寝をしている孝明の耳が、規則正しく繰り返される木を削る音を捉えた。

 そっと目を開けた孝明が、ろうそくの明かりで宵闇に浮かび上がる職人の背中を見つめる。ちらりと見える横顔には、職人の誇りと気負わない真摯なものが満ちていた。それに、ふわりと頬を緩めた孝明は、横に眠る汀の幼くふっくらとした頬に指を伸ばし、軽くつつく。音とも息ともつかないものを吐き出した汀に目を細め、奥に眠る喜助に視線を投げて、瞼を下す。

 薄く細く木を削る音を耳に心地よく受け止めながら、孝明は眠りの世界へと意識を進めた。


 晴れやかな顔をして――けれど寝不足で目の下を黒ずませた職人と喜助と共に朝食をとると、孝明は汀を連れてすぐさま出立をすると告げた。たっぷりと休んだ焔が、待ってましたとばかりに鼻を勢いよく鳴らす。その背に少ない荷物をくくりつけ、汀を乗せて手綱を握り、村の入り口まで見送りに来た職人と喜助に「世話になった」と声をかける。

「いや、何のおかまいも出来ませんで」

「一晩の宿代と、二度の食費が浮いた。その上に細工物まで貰ったのだから、十分すぎる」

 いつか機会があればまた、と言葉を交わして村を去る孝明と、振り向いて手を振る汀に見送りの二人が深く頭を下げる。しばらく歩き、彼らの姿が見えなくなってから、汀が不思議そうに孝明に声をかけた。

「孝明は、法師だったのか」

 昨夜の、喜助の言葉を覚えていたらしい。

「はは――まあ、法師のようでもあり、そうでもないようでもあり…………そうだな。道中では、法師ということにしておこうか」

「なんだ、それは」

 誤魔化されたとふくれる汀に同調するように、ブルンと焔が鼻息を吹き出した。

「それよりも、ヒョウタンの水の動きは十分に感じることが出来ているのか」

 ますます誤魔化されたと思った汀は、それでも問いにきちんと答える。

「ちゃぷちゃぷして、小さな石がざらざらしていることくらい、ちゃんとわかっている」

 憮然とした声に、そうかと返すと会話が途切れた。汀は、何か問いたいことが自分の中にあるのに、それを口に上せるための言葉が見つからず、ヒョウタンを抱え竜の根付を見つめながら、もやもやとつかみどころのない自分の中の疑念に意識を向けた。

 そんな彼の様子に気づき、何を問われるのかを察している孝明は、問いの答えをすでに胸の裡に用意している。しばらくして、言葉が見つかったらしい汀が口を開いた。

「じじさまは、この竜を納得できないと言っていた。昔のようには作れないと、言っていた。――昔みたいに作りたいって顔をしてた」

 考えながら、自分の裡にあるものと音にしたものとが同じものかを確認しながら、汀は疑念を声にする。

「でも、おれが竜をほこらしく思うって言ったら、じじさまは礼を言った」

 孝明は、何も答えない。けれど汀は、彼の耳が――意識が自分の言葉に向いていると確信していた。

「じじさまは、昔のように作りたいと言っていたのに、孝明が昔のように指が動くようにすると言ったのに、断った」

 自分の中の想いを見つけるために、疑念が浮かんだ経緯を確認するように、汀は言葉を紡いでいく。

「じじさまは、はじめは苦しそうだったのに、途中からうれしそうな顔になった」

 汀の言葉を聞いた職人は、憑き物が落ちたように険のある様子を一変させた。そうして、作業机に――掘りかけの細工に向き合った。

「どうして、じじさまは昔のように作りたいと言っていたのに、孝明がそうできると言ったのに、いらないと言ったんだ」

 その問いに、孝明は問いで返した。

「汀は、なんて言ったんだ」

「じじさまが、もっと鱗は細かくできる、目はもっと鋭くできるって言ったから、この竜はまるくて優しそうだからいいって、言った」

「そうか」

 汀の返答を受け止めた孝明が、全てを理解したというように短く言った。けれど汀の疑問はかけらも解決されておらず、答えが孝明の口から出てくるのを汀はしばらく待ってみた。

「孝明」

「ん?」

「どうしてだ」

 待っても答えが出てこないことに、重ねて汀が問うてみる。そうだなぁ、とつぶやいた孝明は空を見上げた。

「昔は出来なかったことが、今は出来るようになった。今は出来なくなったことが、昔は出来ていた、ということだ」

 孝明の答えに、汀は眉をしかめる。彼が何を言っているのかが、まったく理解できなかった。

「いずれ、わかるようになる。――忘れずに、憶えていればいい」

 難しい顔をしてしまった汀とは対照的に、明るい顔の孝明は自分の言葉を口の中で反芻した。――昔は出来なかったことが、今は出来るようになった。今は出来なくなったことが、昔は出来ていた。

「おれが、小さなころは稲刈りが出来なかったが、今は稲刈りができるようになった、ということか」

「そういうことだな」

「でも、小さなころに出来ていたことで、今は出来なくなったことは、無いぞ」

「ほんとうに、そうか?」

 にやりと問い返されれば、自信の無くなった汀は目線を落として鼻に皺を寄せる。そんな様子を楽しそうに見やりながら、孝明は語りかける目で焔を見、軽く焔の首を叩いて街道を急ぐでもなくのんびりと、進み続けた。
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