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2章
9 黒い獣 ①
しおりを挟む「あーっ、もう限界!」
その日スーリアは、朝から花壇の手入れに追われていた。
夜中に降った大雨の影響で、散った花びらや泥跳ねの掃除に追われていたのだ。
空にはすでに太陽が輝いており、濡れた葉が陽の光を反射してキラキラと眩しい。
やるべきことは山積みなのだが、スーリアは全く仕事に身が入らなかった。
「おなかすいた……」
それと言うのも、こんな日に限って寝坊してしまい、朝食をとる時間がなかったせいで腹の虫がうるさいのだ。
なかなか起きてこないスーリアを心配して、屋敷のコックが弁当を用意してくれていたおかげで昼食は確保できているのだが、このままでは休憩時間までもたない。
「髪も鬱陶しいし、最悪の朝だわ……もういっそ切ってしまおうかしら」
髪をまとめる時間もなかったため、今日はそのまま背中に下ろしている。王城に到着してから結おうかと思っていたのだが、慌てていたせいで髪紐を忘れてしまった。
何か代用できるものはないかと探したのだが、園芸用の麻紐しかなく、さすがに親方に止められた。あまり破天荒なことをさせると、スーリアの父親に顔が立たないらしい。
しかし、このままでは作業の邪魔にしかならない。この際だから短くしてしまおうかと、一人呟いたところで声がかかる。
「おいおい、もったいないだろ。きれいに伸びてるんだから」
「今の私には邪魔なだけよ」
うっとおしげに髪をかき上げたスーリアを止めたのはジャックだ。彼は眉間にしわを寄せながら、スーリアのまっすぐに伸びたこげ茶色の髪を見ていた。
その瞳には何かに焦がれるような想いが見える。
「一応お嬢さまなんだから、少しは気を遣えよ」
「それを言ったらお弁当に青虫つっこむって言ったわよね? それとも毛虫の方がいいかしら?」
「わかったわかった、今のは無し」
このおてんばなお嬢さまなら本当にやり兼ねないと、ジャックは両手を振りながら慌てて言う。
そして、そのこげ茶色の毛先に絡まった花びらを、そっと指で掬うようにはらった。ジャックの指先が名残惜しそうに毛先を撫でて行ったが、スーリアがそれに気づくことはない。
「でも……きれいなのは本当だから、切るのはやめとけよ」
「……わかったわよ」
真剣なジャックの声に、スーリアは仕方なく頷く。彼の愁いを帯びた表情に、それ以上否定することは躊躇われた。
そこで微妙になった空気を、盛大な重低音が引き裂く。
それは、スーリアの腹の音だった。
「――ぷっ、お嬢さまの腹の音じゃねぇな」
「失礼ね! もう腹ぺこなのよ」
「だったらここは俺がやるから、少し早いけど休憩にいってきたらどうだ?」
「いいの? 助かるわ」
空腹が限界を迎えそうだったスーリアは、遠慮なくその提案にのっかることにした。
私物を抱えていつもの木陰へと向かう。
正午までまだ一時間以上あるため、今日もきっと一人の昼食になるだろう。
ここ一週間見かけていない人物を思い出す。
彼はしばらく来られないと言っていた。しばらくとはどれくらいなのか。無意識のうちに、彼がやってくるのを待ち望んでいた。
植木をかき分け進むと、目的の場所が見えてくる。
鳴りやまない腹の虫に片手で腹部を抑えた時、足裏にムニッとした感触が。
「――え?」
その時、獣の鳴き声のような低い音がその場に響いた。
「なにっ!?」
思わず一歩後ずさり、地面を見る。植木の陰から見慣れないものが飛び出ていた。
青々と茂る芝生の上にあったそれは、黒くて、長い――
「……しっぽ?」
恐る恐る植木の先を覗き込む。
そこにいた者と、思いっきり目が合った。
「………………」
「………………」
互いに見つめ合うこと数秒。
のどかにさえずる鳥の声が、妙に耳に響いた。
「――こ、コンニチハ?」
なぜか疑問形になる。
人間驚きすぎると逆に冷静になるというが、これはその典型だろうか。
いや、冷静じゃないからこそ、目の前にいる言葉の通じない相手に向かって、話しかけてしまったのだろう。
スーリアがいつも腰かけている木陰に、一頭の大きな獣がいた。
全身が艶のある天鵞絨のような黒い毛皮で覆われており、がっしりとした体格のわりに耳は小さく、太くて長い尻尾が見える。隆起した筋肉が、その造形の美しさを物語っていた。
その中でも特徴的なのが、黒の中に浮かぶ銀色の瞳だ。まるで銀河を閉じ込めたような煌めきを宿しており、スーリアはその瞳から目が離せなかった。
この生き物の名前には心当たりがあった。幼いころに動物図鑑で見た記憶がある。
ライオンでもトラでもなく……確か――
「――ヒョウ?」
全身が黒いから黒ヒョウか?
なぜ王城の庭園にこんな大型の肉食獣が?
疑問は尽きないが、そこまで考えてやっと身の危険を自覚した。下手に動いたら襲われかねない。
そう思い体を固くしたスーリアだったが、目の前の黒ヒョウは敵意はないとでも言うように、その場に静かに伏せた。
困ったような顔でスーリアを上目遣いで見てくるその表情が、なんだか少しかわいいと思ってしまった。
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