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2章
10 黒い獣 ②
しおりを挟むスーリアはゆっくりと近づき、黒ヒョウの前で膝を突く。
その銀色の瞳に吸い寄せられるように手を伸ばし、指先でそっと頭に触れた。
一瞬ぴくりと震えた黒ヒョウだったが、スーリアが優しく頭を撫でると気持ちよさそうに目を閉じる。
「か……かわいいわ」
大きな猫とでも思えば恐怖心は薄らぐ。それどころか、スーリアの手のひらに顔をすり寄せてくるその姿は、むしろただの猫にしか見えない。
「随分人に慣れているようだけど、もしかして誰かが飼っているのかしら?」
そういえばこの王城で庭師として働き始めた頃、第二王子が特殊な獣を飼っていることを説明された覚えがある。
その頃は働けるようになった嬉しさから、興味のない話は聞き流していた。そのためあまりよく覚えていないのだが、確か騎士団の訓練所の方で大型の獣を飼育していると聞いたような――
「もしかして、この黒ヒョウが第二王子殿下の……?」
ぽつりと呟いた言葉に、黒ヒョウがびくりとその黒い体を大きく揺らした。
「あなたが第二王子殿下が飼われているこなの?」
その質問に、黒ヒョウは視線を彷徨わせた後、わずかに首を上下に動かした。
このしぐさは肯定だろうか。なんだか言葉が通じているようで、少しだけ嬉しくなった。
「脱走したのかしら……それともお散歩中? どちらにしろこんな所にいたら、皆びっくりしてしまうわ」
騎士団本部まで行って知らせるべきだろうか。
しかし、スーリアが離れている間にどこかに逃げてしまったら意味がない。
一緒に連れて行くのが一番だろうが、言うことを聞いてくれるか分からない。獰猛な見た目に似合わず人懐っこい性格をしているようなので、意外となんとかなるかもしれないが。
そう考えて、立ち上がる。
「あなたのご主人様のところに行こうと思うのだけれど、ついてきてくれる?」
言葉を理解したのかは分からないが、黒ヒョウは体を起こすと、スーリアの後を追うように歩き出した。
植木の間を抜け、庭園の開けた場所に出る。
騎士団の訓練所はどこから行くのが近かったかと、王城内の構図を思い浮かべていると、こちらに向かって駆けてくる人物が目に入った。
「アル!」
金髪を頭の後ろでひとつに結った黒い隊服を着たその人は、慌てた表情でスーリアの後ろにいる黒ヒョウのもとまでやってくる。隊服の色からして、彼は近衛騎士だろう。
「アル?」
疑問を口にしたスーリアの言葉を、その金髪の騎士は聞いていたようで、姿勢を正して言った。
「あぁ、失礼しました。自分は近衛騎士団所属のクアイズ・フォーラスと言います。先ほどアルの鳴き声を聞いた者がいたようで急いできたのですが、まさかあなたと一緒にいたとは」
「アルっていうのは、この黒ヒョウの名前ですか?」
「ええ」
「ってことは、やっぱりこのこが第二王子殿下が飼われている大型の獣?」
「……そうです。諸事情で今日は外に出していたのですが――」
フォーラスと名乗った騎士は黒ヒョウに視線を向けて、何故か言葉を濁した。
黒ヒョウも何故かじっと騎士を見ている。
二人の間に何とも言えない微妙な空気が流れた。
訪れた沈黙に耐え切れなくなったスーリアは、空気を裂くように言葉を口にする。
「あの、ちょうど騎士団のもとに連れて行こうと思っていたので、あとはお願いしても?」
「あ……はい。こちらで引き受けます」
これでやっと昼食をとれると踵を返そうとした時、再び声がかかる。
「そういえば、今日は髪を下ろされているんですね」
「え?」
「あぁ、失礼。いつもは髪をまとめていらしたので、珍しいなと」
確かに今日の髪型はいつもと違うが、何故そのことをこの騎士が知っているのだろうか。
胡乱な視線を向けると、彼はばつの悪い表情をして理由を話す。
「えーと……女性の庭師の方は珍しいので、噂になっていて……」
それは初めて聞いたが、確かに女性の庭師はここ何年もいなかったようなので、その珍しさから噂になっていてもおかしくはない。中にはスーリアが伯爵令嬢だと知っている者がいるかもしれないので、そのせいで顔が知れてしまうのは本意ではないのだが。
「そうだったんですね。今日は髪紐を忘れてしまって、鬱陶しくて困っているんです」
「それなら、これを」
そういってクアイズは自分の髪を結っている髪紐をほどき、スーリアに手渡してきた。
「えっ!? いや、悪いです!」
「自分は控えがあるので、良かったら使ってください」
そういって彼が強引に髪紐を渡した瞬間、側にいた黒ヒョウが大きな声で鳴いた。
地に響くような低い声で唸り声をあげている。
その様子を見て、スーリアは驚くのと同時に、全身が恐怖に震えるのを感じた。
先ほどまでの人懐っこい雰囲気は完全に消え、今は獰猛な獣の本性があらわになっている。
「ア、アル……」
クアイズが額に汗を滲ませて、横目でスーリアを見てくる。
視線の先を追った黒ヒョウが、恐怖に竦むスーリアの姿を銀色の瞳に映した。
その途端、糸が切れたように黒ヒョウは大人しくなる。銀色の瞳を見開いて、そのまま駆けだした。
「アル! ああすみません! 自分は行きますので」
何がなんだか分からないうちに、騎士と一頭は庭園の奥へと消えていった。
あとに残されたスーリアは、呆然と手の中に残る髪紐を見つめていた。
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