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3章

21 記憶の中の黒

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 夜会から一夜明け、スーリアは今日も変わらず、庭師として王城の庭園に出向いていた。
 しかし、その出で立ちはいつもと少しだけ違う。
 スカーフを三角形に折り畳み、目の下から口にかけてを覆うように顔に巻きつけている。
 通常は埃などを吸い込まないようにするためのものだが、今は単純に顔を隠すために使用していた。

「なんでそんなもん付けてんだ?」
「日焼け対策よ」
「へえ……」

 ジャックの疑問にさらりと嘘をついて、受け流す。

 昨夜の夜会で、スーリアは大多数の人に第二王子の婚約者であると認知されてしまった。
 この庭園で働く庭師と、バース伯爵家の令嬢が同一人物であることはまだ知られていない。だが、スーリアの顔を知っている者がいてもおかしくはないので、念のため変装ともいえない対策をすることにしたのだ。

 今は初夏ともいえる季節なので、日焼け対策というのもあながち嘘ではなかったりする。

 仕事に来たはいいものの、全く身に入らなかった。
 何をやるにも、昨夜のことが頭をよぎって集中できない。
 ついついぼーっとして、溜め息をつくの繰り返しだ。

「どうした? 悩みごとか?」

 そんな様子のスーリアを心配したのか、ジャックが再度声をかけてくる。
 考えても考えても答えは出ないので、せっかくだからとジャックに尋ねてみることにした。

「ねぇ、ジャック。もし、どうやってもつり合わない人を好きになってしまったら、あなただったら、どうする?」
「それを俺に聞くのか……」
「え?」
「いや、そうだな……俺だったら、遠くから見守ってる、かな」
「見守る……」

 それをスーリアに置き換えるとしたら、ロイアルドとの婚約は破談にして、恋心は隠すことになる。
 この仕事を続けるのであれば、その選択肢を選ぶしかない。

「スーリア、おまえ好きなやつがいるのか?」
「え!?」

 突然の質問に盛大に動揺してしまう。
 思わず頭に浮かんだ人の顔に、頬が熱を持つのを感じた。
 スカーフで顔を隠していたおかげで、ジャックにはばれていないようだが。

「えっと……あ! そろそろ休憩にいってくるわね!」

 強引に話を切り上げて、荷物を片手に走り出す。
 ジャックがなにか言いたそうに口を開きかけたが、気づかないふりをした。


 慌てて走ってきたせいで、ついいつもの木陰にやってきてしまう。
 引き返そうか迷ったが、父にも彼と話し合えと言われているし、ここで待っているのもいいかもしれない。
 正直顔は合わせづらいが、このまま何もしないわけにもいかなかった。
 彼が来てくれるとも限らないのだが。

 お弁当を広げ、ぼんやりと口に運んでいく。
 一人になると、どうしても彼のことを考えてしまう。

「やっぱり……来ないわよね」

 きっと彼も会いづらいのだろう。
 気づくとお弁当箱は空になっていた。

 一人での昼食を終え、仕事に戻るかと立ち上がりかけた時、遠くの方から音が聞こえてきた。
 がさがさと植木の枝葉をこする音が、だんだんと近づいてくる。

 この音は、まさか――

 思わず身を固くして、音のする方に視線をやった。
 一番近くの葉が揺れた瞬間、目を見張る。

「……アル!?」

 そこに、黒いヒョウがいた。
 驚くスーリアと同じように、銀色の瞳を大きく見開いてスーリアを見ている。

 そういえば、前回もアルと出会ったのはこの場所だった。
 まさか、ここはこの黒ヒョウの散歩コースなんだろうか。だがロイアルドとの逢瀬をしている時は、出会ったことがない。
 アルは第二王子の飼っている黒ヒョウらしいし、ロイアルドが気を利かせていたのかもしれないが。

「ごめんなさい、邪魔しちゃったかしら」

 散歩を妨害してしまったかと謝ってみると、スーリアを見て固まっていた黒ヒョウはぶんぶんと首を横に振る。
 返事が返ってきたことに驚いていると、黒ヒョウはゆっくりと近づきスーリアの隣に座りこんだ。

 前回出会ったときの最後は獰猛な獣の姿を見せていたが、今は穏やかな表情をしている。

 改めて見ると本当に大きい。
 二人で並んで座ると、視線の高さがスーリアの方が低いくらいだ。
 しかし不思議と恐怖感はなく、大きい黒い猫だと思えばかわいくも見えてくる。

「黒猫……」

 ぽつりと呟くと、アルが首を傾げながらスーリアを見た。

「そう言えば、昔この庭園に黒猫がいたのよね」

 薄れかけていた記憶を思い起こす。
 幼いころ王城で働く父にくっついて、よくこの庭園に遊びに来ていた。
 広い庭は恰好の遊び場所で、やんちゃなスーリアは一時期毎日のように庭園で遊んでいたのだ。

 そんな時に出会ったのが、一匹の黒い猫だった。
 樹に登ったはいいものの降りられなくなったのか、一人で震えていた。
 当時木登りが得意だったスーリアは、その黒猫を助けてやったのだ。

 それから何度かその黒猫に出会ったが、毎回樹に登ってはスーリアが助けるの繰り返しだった。

「懐かしいわ……あのこ、自分で降りられるようになったのかしら」

 しばらく庭園に通っていたスーリアだが、家の事情で来られなくなってからは、あの黒猫と出会うこともなかった。
 今思い出すと、随分と大きい猫だった気がする。
 幼いころの記憶はとても曖昧で、ぼんやりとしか覚えていないが。

 あれからもう15年近く経っている。
 猫の寿命を考えると、もうこの世にはいないかもしれない。

「確かあのこが登っていたのは、この樹だったわよね」

 頭上に木陰を作る、大きな樹を振り向く。
 あの頃は、この樹もまだだいぶ低かった。今では登ろうとしても無理だろう。

 思い出した記憶を懐かしんでいると、視界の端で黒ヒョウがゆらりと動いた。
 散歩を再開するのかと視線を向けた瞬間、目の前が黒に染まる。
 上半身に強い衝撃を受け、そのまま仰向けで芝生の上に倒れ込んだ。

 突然のことに悲鳴さえ上げれず空を見上げるも、視界に映るのは一面の黒と、銀色に光る二つの瞳だけだった。

「あ……アル?」

 目の前にある黒ヒョウの顔に、少しずつ状況が理解できていく。
 どうやらアルに押し倒されたらしい。
 先ほどまで大人しかったのに、急にどうしたのか。
 
 ――まさか、このまま襲われる?

 不安に駆られたスーリアを見下ろして、黒ヒョウが口を開けた。
 隙間から鋭く光る牙が見え、噛みつかれると思いぎゅっと目を閉じる。

 次に襲った感触に、身体を震わせた。

「ひゃっ……」

 痛みを覚悟していたスーリアにやってきたのは、生温かい舌の感触だった。
 恐る恐る目を開けると、アルが顔を舐めている。

 額、頬、口元ときて、次に首筋を舐め始めた。
 なんだかちょっと、甘噛みされたような気もする。

「ひぅっ……ア、アル! くすぐったいわ……!」

 変な声が出そうになり、黒ヒョウに抗議する。
 アルは舐めるのをやめ、今度は顔をすり寄せてきた。

 頬に感じる毛の感触の温かさに、目を細める。
 先ほどまでの恐怖は、とっくにどこかへ消えてしまった。
 頭を撫でてやると、嬉しそうにしてさらにスーリアにすり寄る。

「あら?」

 獣のにおいに混じって、ふわりと感じた香りに首を傾げた。

 この匂いは、確かロイアルドが使っていた香水の――

 彼の香りがアルに移ったのだろうか。
 そうとしか考えられないが、これほどはっきりと分かるほど匂いが残っているという事は、直前までロイアルドといたのかもしれない。

「ロイ……」

 無意識に呟いた名前に、何故か黒ヒョウが反応した。びくりと身体を震わせて、スーリアの顔を覗き込む。

 しばらくそのままの状態が続き、急に黒ヒョウがスーリアの上から飛びのいた。
 どうしたのかと体を起こすと、小さく震えるアルの姿が目に入る。

「アル? どうし――」

 手を伸ばしたスーリアを振り払い、アルは勢いよく植木の間を駆けていった。
 黒ヒョウが消えた方を見ながら茫然と呟く。

「お散歩の時間、終わりだったのかしら」

 一人で散歩して一人で帰っていくとは賢い黒ヒョウだな、なんて頭の片隅で思った。

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