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「ごめんなさい、呼び出したりして」
「気にしなくていいよ。奈緒ちゃんに会えるならいつだって駆けつけるよ」
あたしは苦笑いした。
ファミレスで向かいの席に座っているタヌキおじさんの笑顔を見ると、やんわりと罪悪感が湧いてくるが、これは必要なことだからと自分に言い聞かせる。
でもタヌキおじさんとはあたしが中学生の頃からの付き合いだし、どうしても情というものがあるよね。
「それで、話ってなんだい?」
「好きな人ができたの」
「それはおめでとう!ついに奈緒ちゃんも女の子になったんだねえ」
タヌキおじさんの顔は、あたしが初めて補助輪なしの自転車に乗れた時のパパみたいな表情をしていた。
まさか喜んでもらえるとは思わなかったから意外な反応に戸惑った。
子どもの成長を見守る親の心境なのかな?
「奈緒ちゃんが大人になったようで嬉しいなあ」
タヌキおじさんは見た目相応ののほほんとした様子でコーラを飲んだ。
「ありがとう。それでね、あたし、もうこの活動を辞めるの。だからおじさんとはもう会えない」
霜田から止められたわけではないけど、霜田と真剣に付き合いたいから、援助交際は一切やめることにした。
霜田のことを考えながら他の人に抱かれるなんて相手にも失礼だし、何よりあたし自身がそんなこと許せなかった。
「え?そんな、困るよ。長年連れ添ってきたじゃないか。その好きな人と付き合いながら会うってこともできるだろう?」
タヌキおじさんはさっきまでの態度とは裏腹に動揺を見せた。
そしてあたしを説得した。
縋りつく様子ではなく、あくまで物分かりの悪い子どもを諭すような口ぶりだった。
「あたしはそんなに器用じゃない」
「やってみないとわからないじゃないか。とりあえず続けてみようよ」
あたしは無言で首を振った。
「どうしても駄目なのか?」
「お願い。分かって」
「……分かったよ」
「今までありがとう」
「奈緒ちゃん、幸せになってね」
あたしはそう言って今までのお礼として小箱に入ったお菓子を渡した。
タヌキおじさんの好きなチョコレート。
タヌキおじさんは甘党で、よくお菓子を分けてくれたし、ホテルに行く前にこのファミレスでパフェを食べたりもした。
長い付き合いだったから少し寂しさはあるけど、これがお互いのためだから後悔は一切なかった。
あたしは関係を続けていた穂高以外のおじさん達一人ひとりを説得して別れた。
ごねる人も中にはいたけど、結局身体の関係だけだったためか、案外すんなり別れることができた。
話が拗れるよりはずっといいけど、虚しさがなかったといえば嘘になる。
でもいいんだ。
これからは霜田だけを大切にする。
霜田以外の男性から愛されたいとは微塵も思わない。
霜田と一緒に新しい人生を歩むんだ。
でも、あたしはすぐに転んでしまった。
あたしのだらしなさが招いた結果だけどね。
適当に靴紐を結ぶから、それを踏んで転んで痛い思いをする。
自業自得だ。
でも、霜田があたしの手を引いて立ち上がらせてくれた。
今のあたしがあるのは霜田がいたからだ。
これから書くのはそんな話。
学校帰りにお気に入りの喫茶店で、霜田と二人でココアを飲みながら本を読んでいた時の事だった。
霜田が本を読む姿を向かいの席から眺める。
あたしは本を開いているけど、ほとんど読まずに霜田を見ていた。
時々言葉を交わすが、沈黙でも不思議と居心地がよかった。
霜田の言う通り、付き合う前と後で具体的に何か変わった事があるわけじゃないけれど、気持ちが通じ合っているというだけであたしの心は満たされていた。
霜田のいない世界なんて考えられない。
神様、あたしから霜田だけは奪わないでください。
霜田の伏し目がちな表情が綺麗で、こっそり携帯のカメラ機能で写真を撮った。
カシャっという歯切れのいい音がなり、霜田が気づいてこちらを見た。
「ちょ、なに急に!?」
「激写しちゃったー」
「盗撮禁止!」
誰かに自慢したくなるような、やわらかい表情をした霜田の顔を、あたしはニヤニヤしながら眺めた。
でも、誰にも見せない。
霜田のこんな表情を見られるのはあたしの特権なんだ。
霜田は膨れて顔を隠すように本に目を戻した。
ココアを半分ほど飲んだところで、あたしはひどい吐き気に襲われた。
「ごめん、ちょっと」と言って慌ててトイレに駆け込み、胃の中の物を吐き出した。
飲んだココアが胃酸と唾液と混ざってドロドロと口から出てきた。
カカオの粉っぽさが口の中に残り気持ち悪い。
洗面台で口をすすいでトイレを後にした。
風邪かな? それとも胃腸炎?
今まで体調を崩すことなんてなかったのに。
呑気にそんな事を考えていたが、ふと一つの考えに行き着いた。
そういえば、今月生理が来ていない。
血の気が引いた。
あたしは下腹のあたりを撫でた。
いや、まさかね。
できたわけないよ。
考えすぎ。
そう言い聞かせて霜田の元へ戻った。
「諏訪部、顔色悪いよ。どうしたの?」
霜田は心配そうな顔をしていた。
霜田の洞察力が優れているのかあたしの顔がよっぽど酷いのか、たぶんその両方だろう。
あたしは首を振った。
「なんでもないよ。昨日食べ過ぎて胃もたれしたのかも」
嘘だ。
実は昨日の夜は食欲がなくてあまり食べていない。
悪阻かもしれないなんて、霜田に言えるわけがない。
きっと気のせいだ。
不安に思うと逆に身体に良くないような気がするし、できるだけ考えないようにした。
しかし考えないようにすればするほどその考えに行き着いてしまうのが人間というもので、喫茶店にいる間、妊娠への不安は徐々に積もっていった。
ずっと不安を断ち切れず、霜田と別れたあと、ドラッグストアに駆け込んで妊娠検査薬を購入した。
トイレで説明書を読み、試してみる。
そして検査薬に記された一本の線。
新しい生命の印がはっきりと見てとれた。
本当に? 何かの間違いじゃない?
検査薬なんて百パーセントじゃないって言うし、間違いかもしれない。
その考えにみっともなく縋り付きたかった。
とりあえず、病院に行こう。
保護者同伴じゃなくても大丈夫か?
パパにはまだ伝えたくないし……。
翌日、パパには体調が悪いから学校を休むと言ってこっそり産婦人科に行った。
大きなお腹を撫でている幸せそうな女性達をよそ目に、あたしはずっと俯いていた。
診察の順番が来て、検査をしてもらった。
内診台と呼ばれるマッサージチェアみたいな椅子に座らせられると、椅子が自動で動き、仰向けで股を開かされる体制になった。
腰から下はカーテンで遮られているため自分からは見えないが、変な器具を身体に入れられる感じは恐怖だった。
硬く冷たい無機質な感触があたしの不安を掻き立てた。
「ご懐妊ですね」
内診が終わり、女性の優しそうなお医者様はゆっくりと言った。
間違いじゃなかったらしい。
子どもができていた。
あたしの身体には新たな生命が形作られていた。
「産むにしろ堕胎するにしろ、未成年の場合は保護者の同意が必要になるので、次回は保護者の方と一緒にいらしてください」
あたしの複雑な表情を見て、お医者様は望まぬ妊娠だと察したようで、言い聞かせるように言った。
どうしよう。
誰の子かわからないや。
避妊はしてもらっていたんだけど、避妊具に穴でも空いていたのかな。
確実に言えることは一つ、霜田の子供ではないということ。
堕ろすにしろ産むにしろ、霜田との関係には終止符を打たなければならないだろう。
霜田がこんなあたしを受け入れてくれるはずがない。
あーあ、せっかく両思いになったのに、霜田と別れなくてはならないのか。
そんなのいやだ。
せっかく心の底から愛せる人と会えたのに。
霜田に嫌われるなんて、そんな現実、絶対に受け止められない。
身体も心も粉々に砕けてしまいそうだ。
霜田に言い出せないままズルズルと一週間が経った。
何事もないように接したが、霜田はあたしの調子の悪さを見抜いて、声をかけてくれたり食欲がなくても食べられそうなゼリーや固形バランス食品をくれた。
このまま放置しても霜田にも悪いし、子どもは育っていく。
ついに霜田に話す決心をした。
しかしタイミングが悪いことに、こういう時に限って穂高から呼び出しがかかってしまった。
話をしたいと言われて、渋々承諾した。
せっかく決意を固めたのに水をさされた気分だ。
待ち合わせ場所の喫茶店は初めて行く場所だった。
店内に入ったら、穂高はもう席に座っていて、自分とあたしの分の紅茶をすでに注文していた。
紅茶はすでに冷めているようだった。
「奈緒、遅い」
「ごめんなさい。準備があって」
こちらの都合を考えずに急に呼び出しておいてその言い草はないだろうと心の中で毒づく。
まあ実際に会いたくなさすぎて歩く速度が普段の半分になっていたから責められて当然と言えば当然なのだが。
「まあいいさ。ここの店は紅茶が美味しいんだよ。ほら、注文しておいたから奈緒も飲んでみなよ」
既にテーブルに置いてあった紅茶を勧められた。
紅茶のぬるい香りも今は悪阻を悪化させる毒物の様に感じた。
「いや、あたしは別のにする」
卓上のメニューを眺めた。
たしかに紅茶の種類が豊富で、この喫茶店が紅茶に力を入れていることがわかった。
「リンゴジュースかな」
「せっかく注文したのにもったいないだろう?」
「この紅茶の代金はちゃんと払うから」
お腹の子のためにも、カフェインが入っているものは避けたい。
穂高は執拗に紅茶を勧めてきたけど、あたしは断って店員さんにジュースを頼んだ。
穂高は不機嫌そうな顔をした。
どうしよう、穂高に別れを告げる心の準備はまだできていない。
ほかのおじさん達には伝えられたけど、穂高とは絶対に揉めると思っていたから、どうしても遠ざかってしまっていた。
ただ逃げていただけなのだが。
「奈緒、そろそろ新学期には慣れた?」
「まあね」
「勉強は?」
「特に変わらないよ。予習して授業受けての繰り返し」
穂高は取り留めのない話を続けた。
いつもだったらそんなに話なんてしないのに、いつもより饒舌になっていて違和感があった。
わざわざ「話がある」と呼び出して話すことにしては内容が無さすぎる。
リンゴジュースを飲む度に紅茶も飲むよう進められたけど、あたしは断り続けた。
断る度に穂高は苛ついていたような気がする。
「穂高、呼び出された立場で言うのもなんだけど、大事な話があるの」
一瞬、あたしを見る穂高の目が力強くなったような気がした。
恐怖による幻覚のようなものだと思うけど、やっぱり少し雰囲気が変わったように思える。
「もう関係を終わらせてほしい」
あたしは別れを切り出した。
いつかは話さなければならない事だし、今日を逃したらまたダラダラと関係を続けることになるだろう。
そんなことはごめんだ。
ただ、妊娠の話はしなかった。
霜田と付き合い始めた事も伝えなかった。
敢えてする必要もないだろうし、ただでさえ別れ話というデリケートな話だから、情報を不必要に盛って穂高を刺激したら大変だ。
「どうして?」
穂高は冷静を装いつつも威圧感を感じさせる口調で言った。
「もう、援助交際は一切止めることにしたから」
深く突っ込まれたらどうやって答えようか。
本当の事を話して逆上されたら大変だしな。
しかし穂高の返事は呆気なかった。
「ふーん、分かった」
穂高は素気なく言った。
こちらが拍子抜けしてしまうくらい反応が薄かった。
「じゃあ、あたし、帰るね。今までありがとう」
「うん。あ、飲み物代はいいよ。奢るから」
「そうはいかないよ。勝手にリンゴジュース頼んじゃったし」
あたしは紅茶とリンゴジュースの代金より少し多めのお金をテーブルに置いた。
店を出ると、あまりにも呆気なさ過ぎて驚いてしまった。
もっと揉めると思っていたのに。
あれほどあたしに執着しているように見えて、実際は全然していなかったのか。
まあ、あたしとしては好都合だけど。
なんであんなに穂高と別れる事を怯えていたんだろう。
穂高を恐れて、つらい目に遭わされても我慢して、離れるという手段を選べなかった。
それが、こんなにすっぱりと離れられるなんて、ずっと我慢してきたのがバカみたい。
翌日、もう一つの問題に向き合った。
放課後に霜田を喫茶店に誘った。
穂高と会った時とは別の意味で気が重かった。
妊娠のことを告げて、霜田から嫌われるのが怖かった。
朝からその事で頭がいっぱいで、学校で何があったかなんて一切覚えていない。
「諏訪部はミルクティー?」
あたし達は席についてメニューを開いた。
「今日は、グリーンスムージーにする」
「ずいぶん健康的だね。最近調子悪いから健康に気を遣ってるの?」
「今日は気分的にね」
水とおしぼりを持って来てくれた店員さんに注文をして、あたし達は一息ついた。
「諏訪部、何かあったの?元気ないよ」
霜田は神妙な面持ちで尋ねてきた。
「大事な話があるの」
「何?」
霜田はただならぬ雰囲気を察したのか顔を強張らせた。
あたしの目を真っ直ぐに見つめる。
心配そうな視線にあたしの胸が痛んだ。
心臓が破裂しそうなくらい速く鳴っていた。
変に力が入って声が上ずりそうになる。
あたしは目を逸らした。
霜田の顔を見る事ができない。
店員が持って来てくれた水を一口飲んで、意を決して霜田に伝えた。
「霜田、ごめん。あたし、妊娠してた」
霜田は一言も発せずにいた。
冷や水を浴びせられ、そのまま凍りついたような表情だった。
「もうあたしたち、終わりだね。短かったけど、楽しかったよ。こんな自分勝手なあたしと仲良くしてくれてありがとう。霜田はもうあたしのことなんて嫌いだよね。軽蔑したよね」
打ち明けた途端に堰を切ったように言葉が次々と口から出た。
あたしの震える肩を霜田は宥めるように抑えた。
タイミング悪くドリンクを持って来てくれた店員さんはどうしていいのか分からずそのまま立ち去ろうかと右往左往していた。
霜田は店員さんに気づいてドリンクを受け取った。
「まず飲み物飲んで落ち着きなよ」
震える手でグラスを受け取りストローに口をつけた。
粘度の高いグリーンスムージーは吸うのに力が必要でなかなか口に入らなかった。
口に入っても味なんて分からず、ドロリとした食感だけが広がった。
「お腹の子のお父さんは誰なの?」
霜田は子どもに尋ねるように聞いた。
あたしは怖くて霜田の顔が見られなかった。
怒っているのか悲しんでいるのかも分からない。
叱られるのが怖い子どものように怯えていた。
「分からない。心当たりが多すぎて」
「諏訪部のお父さんには伝えたの?」
「まだ」
「どうするか決めたの?産むのか堕胎するのか」
「迷ってる」
「お金の問題?」
霜田は二択の質問を続けてくれた。
おかげであたしは少しずつ頭の中が整理されていった。
バラバラのジグソーパズルのピースの山を、一つずつ並べていってくれているようだった。
「いや、実はお金については不安はないの。今まで援交してきた分のお金、全部貯金してたから。あたしが一人で子どもを育てていく自信がないだけ」
ここ数日間、お腹の子について考えていた。
血のつながった父親が誰か分からないとはいえ、この子はあたしの子どもであることには間違いない。
あたしの元に来てくれた命、守りたいと思う反面、自分なんかに母親が務まるのか全く自信がない。
あたしのママの記憶は小さな頃のほんのわずかなものだけで、母親が何をするのかということが分からないのに、一人で子どもを育てることなんてできるのだろうか?
こんな生半可な気持ちだったら、産まないほうがいいんだろうな。
でも、この子に会いたい。
どんな顔をしているのか、どんな声で泣くのか、この先どんな人生を歩むのか、この目で見たい。
この子と会わないまま別れるという未来を受け入れられない自分もいた。
自分勝手だと思われるかもしれないけど、あたしはそう感じていた。
「産みたい?」
少しの沈黙の後、あたしはゆっくり頷いた。
霜田は鼻から息を吐いて、微笑んだ。
「だったら、産みなよ」
霜田の一言であたしの中で張り詰めていた何かがピンと音を立てて切れ、心と身体が緩んだ。
悩みの中で一人溺れていたこの現状から霜田が引っ張り上げてくれたようだった。
きっとあたしはその言葉を待っていたんだと思う。
自分の中では決まっていた。
霜田に背中を押してもらうのを待っていたんだ。
そして期待通り、霜田はあたしの背中を押してくれた。
「お母さんが、人を殺すことは良くないことだって言ってたし。生まれていないとはいえ、堕胎はお母さんの教えに背くことになる」
あ、お母さんね。
ここでも行動原理はお母さんなんだな、と拍子抜けした。
霜田は本当にブレないな。
それでも霜田の言葉は嬉しかった。
「諏訪部なら大丈夫」
「でもあたし、お母さんが何をするのか全然分からないんだよ?」
「諏訪部がお母さんにして欲しかったことをすればいいじゃん」
「でも、子どもに恨まれないかな?なんで産んだのかって」
「そう言われたら、家族で解決していけばいいんだよ。諏訪部一人が抱えることじゃない」
霜田の声は優しかった。たぶん今まで聞いた中で一番穏やかな声だったと思う。
「ありがとう。なんか決心ついたよ」
あたしはふう、と心を落ち着かせるように息を漏らした。
霜田に嫌われなかった安心感と、その霜田と別れなければならないという絶望でせめぎ合っていた。
「あーあ、霜田と別れたくなーい。こんな良い男いないよ!次の彼女とは幸せになってね!」
あたしは溢れる涙が溢れないように上を向いて言った。
できる限り強がってみたけれど、我慢しきれずに涙が一滴零れてしまった。
「はあ?別れる?何を一人で突っ走ってるの?」
あたしは霜田の言っている意味がわからず、霜田の顔をまじまじと見た。
顔を下げた反動でさらに涙がこぼれたけど、そんなことは気にならないくらいあたしは驚いていた。
「別れるって誰が言ったの?」
霜田が呆れた顔でこちらを見る。
だって、と言ったきり言葉を紡げないでいると、霜田があたしの顔を自分のハンカチで拭いてくれた。
「あのねえ、僕が、一緒に育てる気もないのに産みなよなんて無責任なこと言うと思う?」
霜田がハンカチであたしの目元を拭う。
ハンカチにマスカラが付いてしまい、申し訳なくなる。
「一緒に育てよう。せっかく授かった命なんだから」
「でも、霜田の子じゃないんだよ?」
「子どもだって、たとえ血が繋がってなくても、お父さんがいた方が嬉しいでしょ?お母さんが大事な僕でさえ、お父さんもいてよかったって思うし」
「本当に別れなくていいの?」
「うん」
霜田は椅子にもたれて外の景色を眺めた。
「まあ、学校辞めて働かないといけないな」
それは駄目だと言わんばかりにあたしは強く首を振った。
あたしのせいでせっかくの高校生活を、霜田の人生を台無しにしたくなかった。
「霜田は学校、卒業してよ。当面の生活費はなんとかなるから」
「そんなに貯金あるの?」
「うん、ほとんど使わずに貯めてたから」
霜田は驚いたような呆れたような微妙な表情をした。
「じゃあ、お言葉に甘えて高校だけは卒業させてもらうよ」
ほっとしたせいか喉の渇きが気になった。
一度水で喉を潤してからグリーンスムージーを飲んだ。
冷たくて控えめな甘さが口に広がった。
こんな味してたんだ。
「ねえ。ところでさっきの言葉、プロポーズだと捉えていいの?」
「プロポーズ!?」
「だって、一緒に育てていこうってことは、結婚ってことでしょ?」
霜田は照れくさそうに頬をかいた。
「……うん」
二人で顔を真っ赤にしながら笑い合った。
まだ春なのに汗をかくほど体温が上昇していた。
それ以上に気持ちは昂っていた。
今までの生活はおしまい。
これからは、霜田とお腹の子とこれまでの分まで幸せに生きていくんだ。
そう思っていた。
「気にしなくていいよ。奈緒ちゃんに会えるならいつだって駆けつけるよ」
あたしは苦笑いした。
ファミレスで向かいの席に座っているタヌキおじさんの笑顔を見ると、やんわりと罪悪感が湧いてくるが、これは必要なことだからと自分に言い聞かせる。
でもタヌキおじさんとはあたしが中学生の頃からの付き合いだし、どうしても情というものがあるよね。
「それで、話ってなんだい?」
「好きな人ができたの」
「それはおめでとう!ついに奈緒ちゃんも女の子になったんだねえ」
タヌキおじさんの顔は、あたしが初めて補助輪なしの自転車に乗れた時のパパみたいな表情をしていた。
まさか喜んでもらえるとは思わなかったから意外な反応に戸惑った。
子どもの成長を見守る親の心境なのかな?
「奈緒ちゃんが大人になったようで嬉しいなあ」
タヌキおじさんは見た目相応ののほほんとした様子でコーラを飲んだ。
「ありがとう。それでね、あたし、もうこの活動を辞めるの。だからおじさんとはもう会えない」
霜田から止められたわけではないけど、霜田と真剣に付き合いたいから、援助交際は一切やめることにした。
霜田のことを考えながら他の人に抱かれるなんて相手にも失礼だし、何よりあたし自身がそんなこと許せなかった。
「え?そんな、困るよ。長年連れ添ってきたじゃないか。その好きな人と付き合いながら会うってこともできるだろう?」
タヌキおじさんはさっきまでの態度とは裏腹に動揺を見せた。
そしてあたしを説得した。
縋りつく様子ではなく、あくまで物分かりの悪い子どもを諭すような口ぶりだった。
「あたしはそんなに器用じゃない」
「やってみないとわからないじゃないか。とりあえず続けてみようよ」
あたしは無言で首を振った。
「どうしても駄目なのか?」
「お願い。分かって」
「……分かったよ」
「今までありがとう」
「奈緒ちゃん、幸せになってね」
あたしはそう言って今までのお礼として小箱に入ったお菓子を渡した。
タヌキおじさんの好きなチョコレート。
タヌキおじさんは甘党で、よくお菓子を分けてくれたし、ホテルに行く前にこのファミレスでパフェを食べたりもした。
長い付き合いだったから少し寂しさはあるけど、これがお互いのためだから後悔は一切なかった。
あたしは関係を続けていた穂高以外のおじさん達一人ひとりを説得して別れた。
ごねる人も中にはいたけど、結局身体の関係だけだったためか、案外すんなり別れることができた。
話が拗れるよりはずっといいけど、虚しさがなかったといえば嘘になる。
でもいいんだ。
これからは霜田だけを大切にする。
霜田以外の男性から愛されたいとは微塵も思わない。
霜田と一緒に新しい人生を歩むんだ。
でも、あたしはすぐに転んでしまった。
あたしのだらしなさが招いた結果だけどね。
適当に靴紐を結ぶから、それを踏んで転んで痛い思いをする。
自業自得だ。
でも、霜田があたしの手を引いて立ち上がらせてくれた。
今のあたしがあるのは霜田がいたからだ。
これから書くのはそんな話。
学校帰りにお気に入りの喫茶店で、霜田と二人でココアを飲みながら本を読んでいた時の事だった。
霜田が本を読む姿を向かいの席から眺める。
あたしは本を開いているけど、ほとんど読まずに霜田を見ていた。
時々言葉を交わすが、沈黙でも不思議と居心地がよかった。
霜田の言う通り、付き合う前と後で具体的に何か変わった事があるわけじゃないけれど、気持ちが通じ合っているというだけであたしの心は満たされていた。
霜田のいない世界なんて考えられない。
神様、あたしから霜田だけは奪わないでください。
霜田の伏し目がちな表情が綺麗で、こっそり携帯のカメラ機能で写真を撮った。
カシャっという歯切れのいい音がなり、霜田が気づいてこちらを見た。
「ちょ、なに急に!?」
「激写しちゃったー」
「盗撮禁止!」
誰かに自慢したくなるような、やわらかい表情をした霜田の顔を、あたしはニヤニヤしながら眺めた。
でも、誰にも見せない。
霜田のこんな表情を見られるのはあたしの特権なんだ。
霜田は膨れて顔を隠すように本に目を戻した。
ココアを半分ほど飲んだところで、あたしはひどい吐き気に襲われた。
「ごめん、ちょっと」と言って慌ててトイレに駆け込み、胃の中の物を吐き出した。
飲んだココアが胃酸と唾液と混ざってドロドロと口から出てきた。
カカオの粉っぽさが口の中に残り気持ち悪い。
洗面台で口をすすいでトイレを後にした。
風邪かな? それとも胃腸炎?
今まで体調を崩すことなんてなかったのに。
呑気にそんな事を考えていたが、ふと一つの考えに行き着いた。
そういえば、今月生理が来ていない。
血の気が引いた。
あたしは下腹のあたりを撫でた。
いや、まさかね。
できたわけないよ。
考えすぎ。
そう言い聞かせて霜田の元へ戻った。
「諏訪部、顔色悪いよ。どうしたの?」
霜田は心配そうな顔をしていた。
霜田の洞察力が優れているのかあたしの顔がよっぽど酷いのか、たぶんその両方だろう。
あたしは首を振った。
「なんでもないよ。昨日食べ過ぎて胃もたれしたのかも」
嘘だ。
実は昨日の夜は食欲がなくてあまり食べていない。
悪阻かもしれないなんて、霜田に言えるわけがない。
きっと気のせいだ。
不安に思うと逆に身体に良くないような気がするし、できるだけ考えないようにした。
しかし考えないようにすればするほどその考えに行き着いてしまうのが人間というもので、喫茶店にいる間、妊娠への不安は徐々に積もっていった。
ずっと不安を断ち切れず、霜田と別れたあと、ドラッグストアに駆け込んで妊娠検査薬を購入した。
トイレで説明書を読み、試してみる。
そして検査薬に記された一本の線。
新しい生命の印がはっきりと見てとれた。
本当に? 何かの間違いじゃない?
検査薬なんて百パーセントじゃないって言うし、間違いかもしれない。
その考えにみっともなく縋り付きたかった。
とりあえず、病院に行こう。
保護者同伴じゃなくても大丈夫か?
パパにはまだ伝えたくないし……。
翌日、パパには体調が悪いから学校を休むと言ってこっそり産婦人科に行った。
大きなお腹を撫でている幸せそうな女性達をよそ目に、あたしはずっと俯いていた。
診察の順番が来て、検査をしてもらった。
内診台と呼ばれるマッサージチェアみたいな椅子に座らせられると、椅子が自動で動き、仰向けで股を開かされる体制になった。
腰から下はカーテンで遮られているため自分からは見えないが、変な器具を身体に入れられる感じは恐怖だった。
硬く冷たい無機質な感触があたしの不安を掻き立てた。
「ご懐妊ですね」
内診が終わり、女性の優しそうなお医者様はゆっくりと言った。
間違いじゃなかったらしい。
子どもができていた。
あたしの身体には新たな生命が形作られていた。
「産むにしろ堕胎するにしろ、未成年の場合は保護者の同意が必要になるので、次回は保護者の方と一緒にいらしてください」
あたしの複雑な表情を見て、お医者様は望まぬ妊娠だと察したようで、言い聞かせるように言った。
どうしよう。
誰の子かわからないや。
避妊はしてもらっていたんだけど、避妊具に穴でも空いていたのかな。
確実に言えることは一つ、霜田の子供ではないということ。
堕ろすにしろ産むにしろ、霜田との関係には終止符を打たなければならないだろう。
霜田がこんなあたしを受け入れてくれるはずがない。
あーあ、せっかく両思いになったのに、霜田と別れなくてはならないのか。
そんなのいやだ。
せっかく心の底から愛せる人と会えたのに。
霜田に嫌われるなんて、そんな現実、絶対に受け止められない。
身体も心も粉々に砕けてしまいそうだ。
霜田に言い出せないままズルズルと一週間が経った。
何事もないように接したが、霜田はあたしの調子の悪さを見抜いて、声をかけてくれたり食欲がなくても食べられそうなゼリーや固形バランス食品をくれた。
このまま放置しても霜田にも悪いし、子どもは育っていく。
ついに霜田に話す決心をした。
しかしタイミングが悪いことに、こういう時に限って穂高から呼び出しがかかってしまった。
話をしたいと言われて、渋々承諾した。
せっかく決意を固めたのに水をさされた気分だ。
待ち合わせ場所の喫茶店は初めて行く場所だった。
店内に入ったら、穂高はもう席に座っていて、自分とあたしの分の紅茶をすでに注文していた。
紅茶はすでに冷めているようだった。
「奈緒、遅い」
「ごめんなさい。準備があって」
こちらの都合を考えずに急に呼び出しておいてその言い草はないだろうと心の中で毒づく。
まあ実際に会いたくなさすぎて歩く速度が普段の半分になっていたから責められて当然と言えば当然なのだが。
「まあいいさ。ここの店は紅茶が美味しいんだよ。ほら、注文しておいたから奈緒も飲んでみなよ」
既にテーブルに置いてあった紅茶を勧められた。
紅茶のぬるい香りも今は悪阻を悪化させる毒物の様に感じた。
「いや、あたしは別のにする」
卓上のメニューを眺めた。
たしかに紅茶の種類が豊富で、この喫茶店が紅茶に力を入れていることがわかった。
「リンゴジュースかな」
「せっかく注文したのにもったいないだろう?」
「この紅茶の代金はちゃんと払うから」
お腹の子のためにも、カフェインが入っているものは避けたい。
穂高は執拗に紅茶を勧めてきたけど、あたしは断って店員さんにジュースを頼んだ。
穂高は不機嫌そうな顔をした。
どうしよう、穂高に別れを告げる心の準備はまだできていない。
ほかのおじさん達には伝えられたけど、穂高とは絶対に揉めると思っていたから、どうしても遠ざかってしまっていた。
ただ逃げていただけなのだが。
「奈緒、そろそろ新学期には慣れた?」
「まあね」
「勉強は?」
「特に変わらないよ。予習して授業受けての繰り返し」
穂高は取り留めのない話を続けた。
いつもだったらそんなに話なんてしないのに、いつもより饒舌になっていて違和感があった。
わざわざ「話がある」と呼び出して話すことにしては内容が無さすぎる。
リンゴジュースを飲む度に紅茶も飲むよう進められたけど、あたしは断り続けた。
断る度に穂高は苛ついていたような気がする。
「穂高、呼び出された立場で言うのもなんだけど、大事な話があるの」
一瞬、あたしを見る穂高の目が力強くなったような気がした。
恐怖による幻覚のようなものだと思うけど、やっぱり少し雰囲気が変わったように思える。
「もう関係を終わらせてほしい」
あたしは別れを切り出した。
いつかは話さなければならない事だし、今日を逃したらまたダラダラと関係を続けることになるだろう。
そんなことはごめんだ。
ただ、妊娠の話はしなかった。
霜田と付き合い始めた事も伝えなかった。
敢えてする必要もないだろうし、ただでさえ別れ話というデリケートな話だから、情報を不必要に盛って穂高を刺激したら大変だ。
「どうして?」
穂高は冷静を装いつつも威圧感を感じさせる口調で言った。
「もう、援助交際は一切止めることにしたから」
深く突っ込まれたらどうやって答えようか。
本当の事を話して逆上されたら大変だしな。
しかし穂高の返事は呆気なかった。
「ふーん、分かった」
穂高は素気なく言った。
こちらが拍子抜けしてしまうくらい反応が薄かった。
「じゃあ、あたし、帰るね。今までありがとう」
「うん。あ、飲み物代はいいよ。奢るから」
「そうはいかないよ。勝手にリンゴジュース頼んじゃったし」
あたしは紅茶とリンゴジュースの代金より少し多めのお金をテーブルに置いた。
店を出ると、あまりにも呆気なさ過ぎて驚いてしまった。
もっと揉めると思っていたのに。
あれほどあたしに執着しているように見えて、実際は全然していなかったのか。
まあ、あたしとしては好都合だけど。
なんであんなに穂高と別れる事を怯えていたんだろう。
穂高を恐れて、つらい目に遭わされても我慢して、離れるという手段を選べなかった。
それが、こんなにすっぱりと離れられるなんて、ずっと我慢してきたのがバカみたい。
翌日、もう一つの問題に向き合った。
放課後に霜田を喫茶店に誘った。
穂高と会った時とは別の意味で気が重かった。
妊娠のことを告げて、霜田から嫌われるのが怖かった。
朝からその事で頭がいっぱいで、学校で何があったかなんて一切覚えていない。
「諏訪部はミルクティー?」
あたし達は席についてメニューを開いた。
「今日は、グリーンスムージーにする」
「ずいぶん健康的だね。最近調子悪いから健康に気を遣ってるの?」
「今日は気分的にね」
水とおしぼりを持って来てくれた店員さんに注文をして、あたし達は一息ついた。
「諏訪部、何かあったの?元気ないよ」
霜田は神妙な面持ちで尋ねてきた。
「大事な話があるの」
「何?」
霜田はただならぬ雰囲気を察したのか顔を強張らせた。
あたしの目を真っ直ぐに見つめる。
心配そうな視線にあたしの胸が痛んだ。
心臓が破裂しそうなくらい速く鳴っていた。
変に力が入って声が上ずりそうになる。
あたしは目を逸らした。
霜田の顔を見る事ができない。
店員が持って来てくれた水を一口飲んで、意を決して霜田に伝えた。
「霜田、ごめん。あたし、妊娠してた」
霜田は一言も発せずにいた。
冷や水を浴びせられ、そのまま凍りついたような表情だった。
「もうあたしたち、終わりだね。短かったけど、楽しかったよ。こんな自分勝手なあたしと仲良くしてくれてありがとう。霜田はもうあたしのことなんて嫌いだよね。軽蔑したよね」
打ち明けた途端に堰を切ったように言葉が次々と口から出た。
あたしの震える肩を霜田は宥めるように抑えた。
タイミング悪くドリンクを持って来てくれた店員さんはどうしていいのか分からずそのまま立ち去ろうかと右往左往していた。
霜田は店員さんに気づいてドリンクを受け取った。
「まず飲み物飲んで落ち着きなよ」
震える手でグラスを受け取りストローに口をつけた。
粘度の高いグリーンスムージーは吸うのに力が必要でなかなか口に入らなかった。
口に入っても味なんて分からず、ドロリとした食感だけが広がった。
「お腹の子のお父さんは誰なの?」
霜田は子どもに尋ねるように聞いた。
あたしは怖くて霜田の顔が見られなかった。
怒っているのか悲しんでいるのかも分からない。
叱られるのが怖い子どものように怯えていた。
「分からない。心当たりが多すぎて」
「諏訪部のお父さんには伝えたの?」
「まだ」
「どうするか決めたの?産むのか堕胎するのか」
「迷ってる」
「お金の問題?」
霜田は二択の質問を続けてくれた。
おかげであたしは少しずつ頭の中が整理されていった。
バラバラのジグソーパズルのピースの山を、一つずつ並べていってくれているようだった。
「いや、実はお金については不安はないの。今まで援交してきた分のお金、全部貯金してたから。あたしが一人で子どもを育てていく自信がないだけ」
ここ数日間、お腹の子について考えていた。
血のつながった父親が誰か分からないとはいえ、この子はあたしの子どもであることには間違いない。
あたしの元に来てくれた命、守りたいと思う反面、自分なんかに母親が務まるのか全く自信がない。
あたしのママの記憶は小さな頃のほんのわずかなものだけで、母親が何をするのかということが分からないのに、一人で子どもを育てることなんてできるのだろうか?
こんな生半可な気持ちだったら、産まないほうがいいんだろうな。
でも、この子に会いたい。
どんな顔をしているのか、どんな声で泣くのか、この先どんな人生を歩むのか、この目で見たい。
この子と会わないまま別れるという未来を受け入れられない自分もいた。
自分勝手だと思われるかもしれないけど、あたしはそう感じていた。
「産みたい?」
少しの沈黙の後、あたしはゆっくり頷いた。
霜田は鼻から息を吐いて、微笑んだ。
「だったら、産みなよ」
霜田の一言であたしの中で張り詰めていた何かがピンと音を立てて切れ、心と身体が緩んだ。
悩みの中で一人溺れていたこの現状から霜田が引っ張り上げてくれたようだった。
きっとあたしはその言葉を待っていたんだと思う。
自分の中では決まっていた。
霜田に背中を押してもらうのを待っていたんだ。
そして期待通り、霜田はあたしの背中を押してくれた。
「お母さんが、人を殺すことは良くないことだって言ってたし。生まれていないとはいえ、堕胎はお母さんの教えに背くことになる」
あ、お母さんね。
ここでも行動原理はお母さんなんだな、と拍子抜けした。
霜田は本当にブレないな。
それでも霜田の言葉は嬉しかった。
「諏訪部なら大丈夫」
「でもあたし、お母さんが何をするのか全然分からないんだよ?」
「諏訪部がお母さんにして欲しかったことをすればいいじゃん」
「でも、子どもに恨まれないかな?なんで産んだのかって」
「そう言われたら、家族で解決していけばいいんだよ。諏訪部一人が抱えることじゃない」
霜田の声は優しかった。たぶん今まで聞いた中で一番穏やかな声だったと思う。
「ありがとう。なんか決心ついたよ」
あたしはふう、と心を落ち着かせるように息を漏らした。
霜田に嫌われなかった安心感と、その霜田と別れなければならないという絶望でせめぎ合っていた。
「あーあ、霜田と別れたくなーい。こんな良い男いないよ!次の彼女とは幸せになってね!」
あたしは溢れる涙が溢れないように上を向いて言った。
できる限り強がってみたけれど、我慢しきれずに涙が一滴零れてしまった。
「はあ?別れる?何を一人で突っ走ってるの?」
あたしは霜田の言っている意味がわからず、霜田の顔をまじまじと見た。
顔を下げた反動でさらに涙がこぼれたけど、そんなことは気にならないくらいあたしは驚いていた。
「別れるって誰が言ったの?」
霜田が呆れた顔でこちらを見る。
だって、と言ったきり言葉を紡げないでいると、霜田があたしの顔を自分のハンカチで拭いてくれた。
「あのねえ、僕が、一緒に育てる気もないのに産みなよなんて無責任なこと言うと思う?」
霜田がハンカチであたしの目元を拭う。
ハンカチにマスカラが付いてしまい、申し訳なくなる。
「一緒に育てよう。せっかく授かった命なんだから」
「でも、霜田の子じゃないんだよ?」
「子どもだって、たとえ血が繋がってなくても、お父さんがいた方が嬉しいでしょ?お母さんが大事な僕でさえ、お父さんもいてよかったって思うし」
「本当に別れなくていいの?」
「うん」
霜田は椅子にもたれて外の景色を眺めた。
「まあ、学校辞めて働かないといけないな」
それは駄目だと言わんばかりにあたしは強く首を振った。
あたしのせいでせっかくの高校生活を、霜田の人生を台無しにしたくなかった。
「霜田は学校、卒業してよ。当面の生活費はなんとかなるから」
「そんなに貯金あるの?」
「うん、ほとんど使わずに貯めてたから」
霜田は驚いたような呆れたような微妙な表情をした。
「じゃあ、お言葉に甘えて高校だけは卒業させてもらうよ」
ほっとしたせいか喉の渇きが気になった。
一度水で喉を潤してからグリーンスムージーを飲んだ。
冷たくて控えめな甘さが口に広がった。
こんな味してたんだ。
「ねえ。ところでさっきの言葉、プロポーズだと捉えていいの?」
「プロポーズ!?」
「だって、一緒に育てていこうってことは、結婚ってことでしょ?」
霜田は照れくさそうに頬をかいた。
「……うん」
二人で顔を真っ赤にしながら笑い合った。
まだ春なのに汗をかくほど体温が上昇していた。
それ以上に気持ちは昂っていた。
今までの生活はおしまい。
これからは、霜田とお腹の子とこれまでの分まで幸せに生きていくんだ。
そう思っていた。
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