かの騎士、王子殿下専属につき

久保 ちはろ

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第十章 2

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 美しく盛りつけられた皿が次々と運ばれても、アストリットの胸は塞ぎ、食が進まずに一口食べては皿を下げさせた。そんなアストリットに、ヨシュアは案ずるように声を掛けた。
「お加減でも悪いのですか。少し甘いものはいかがでしょうか。実は、リューベンスブルグ一の料理人を連れて来ております。彼の作るデザートは姫には懐かしく、女王陛下には珍しいものと請け合います」
「あら……それは楽しみですわ」
 伺うように顔を覗き込んだ女王陛下に、アストリットは困ったように微笑んだ。
「いえ、私はもうとても……」
「そうおっしゃらずに」と、ヨシュアはすでに従僕に合図していた。間も無く、給仕が次々に入ってくる。 そして自分の前に置かれた皿から釣り鐘型の覆いが外されると、アストリットは目を見張った。
「あら、これは初めてですわ……。とてもよい香りがしますね。早速いただきましょう」
 女王はフォークとナイフで小さく切って口に運んだ。アストリットも慌ててそれに倣う。こんがりと絶妙の色が着いたパンの縁。卵とミルクの柔らかな甘さとバニラの香りがふわりと口に広がる。
「美味しいわ!」
 ナディーンが無邪気な声を上げる。
「ほんとうに。優しい味ですね。これは、なんというデザートですか」
 アレクサンドリアは興味に瞳を輝かせてヨシュアに尋ねた。
「『哀れな騎士』です、女王陛下」
 答えたのはアストリットだった。彼女は一口だけ口を付けた『哀れな騎士』に落していた視線を上げてまっすぐに実母を見据えると、続けた。
「この家庭料理は私が大好きで、私の母が……育ての母がよく作ってくれたのです。とくにこのバニラの香り付けは母だけの秘密のレシピで……」
 ヨシュアはその名前の由来も短く語った。
「そうですか。とても優しい味。アストリットを育ててくださったペトラ・ローゼナウもこのような優しい女性だったに違いありませんね。それに、材料は単純なのにこんなに美味しく食べるレシピを考えだしてしまうとは……。リューベンスブルグの民の豊かな知恵、また食べ物を粗末にしない堅実の精神が伺えます。これが親しまれている一般家庭のデザートなのですね……」
 再び皿の上に視線を落としたアストリットの隣で、アレクサンドリアとヨシュアがこっそりと目配せする。
 確かにリューベンスブルグのほとんどの女たちは『哀れな騎士』のレシピを知っているだろう。でも、このバニラの香り付けを知っているのは……。
 アストリットははっとヨシュアに顔を向けた。彼の口元には薄く笑みが浮かんでいたが、その目は笑っていなかった。彼は小さく顎を引いた。アストリットの胸がまさかという疑念と、もしやという希望で膨れ上がった。確かめに。――今すぐ確かめに行かなければ。
「申し訳ございません、わたくし……わたくし……女王陛下、オールソン国王陛下、退席する無礼をお許しください!」
 勢いよく椅子から立ち上がると、アストリットは駆け出した。厨房へ急ぐ彼女の心臓は早鐘を打ち、今にも口から飛び出しそうだ。
 厨房に飛び込んだアストリットを、バニラとバターの香ばしい香りが迎えた。釜戸に幾つか掛けられた鍋からは湯気が立ち上っている。アストリットの目は、すぐに中央の調理台のところで数人の料理人に囲まれている長身の広い背中を捕らえた。
 見間違うはずは無い。忘れるわけは無い。彼が、ゆっくりとこちらに身体を向ける。紫紺の正装の上下に、腰には白い前掛け、片手にフォークを持ったその人こそ、ミカ本人だった。
「殿下!!」
 薄青の瞳に吸い込まれるように、両手を広げたミカの胸にアストリットは飛び込んだ。ミカの首に腕を絡めると、骨が軋むほど強く抱きしめられる。胸が一杯で言葉が出ない。それはミカも同じなのだろう。ただ、お互いの高鳴る鼓動だけが重なる。
 どのくらいそうしていたのか。我に返れば、見て見ぬ振りをする料理人たちの視線が痛い。アストリットはまっ赤になった顔を伏せながら、ミカの手を引いてそこを出ると、足早に一番近くの部屋に入った。どちらからともなく再び抱き合い、もつれるように二人は長椅子に倒れ込んだ。
「一体、厨房で何をされているのです!?」
 アストリットは自分に覆い被さっている恋人を見上げた。
「申し訳ありません、私は行方不明になった専属の騎士を探しに来ただけなのです。噂ではこの城に紛れ込んでいると」
「どうしてその騎士をお探しなのですか? ああ、何かとんでもない失態をしでかしたのでしょう? ミカ様は、その哀れな騎士を捕まえて、お説教されるおつもり?」
「その騎士は我が国の剣を盗んでいましてね。それを取り返さねばなりません。それからもう一つ盗んだものがある……」
「あら、なんでしょう……」
 アストリットは確かに持ち出した剣には覚えがあったが、それ以外に盗んだものなど思い当たらず、眉をひそめた。
「私の心です。かの騎士は私の心を盗んだまま逃げている。それも、ずっと長いこと。私は彼女を捕らえたら、もう二度と、死ぬまで離さないつもりです」
「それでも……、その騎士に心当たりはありませんわ」
「そうですか。それは残念です。それではまだ空きであろう姫の隣の”婿の椅子”に図々しく居座り、彼女が現れるのを待ってみようと思うのですが……」
「まあ、私を利用されるのね」
「利用なんて。いつか私があなたに恋するやもしれません。すでに私は、かの騎士を忘れかけている」
 そう言うと、二人は堪えていた笑いをとうとう噴き出した。しばらくくすくすと忍び笑いが重なる。
「殿下、私にそんな言葉遣いはやめてください」
「アスティこそ、どこの姫かと」
「”哀れな騎士”を、覚えていてくださったのですね」
 ミカは苦しげに目を細める。そして愛おしげにアストリットの柔らかな巻毛を一房指で弄んだ。
「忘れるはずが無い。バルバス国から招待状が来た時に”哀れな騎士”が私を救ってくれると思った。それから毎朝厨房に立ったのだぞ。ヨシュアもマーリングも、バニラの匂いを嗅ぐのもいやになっただろう」
「簡易な家庭料理にそんなに練習を重ねたのですか?」
「女王陛下のお気に召さねば、婿に認めてもらえまい? おまえを手に入れる一歩手前で追い返されては堪らんからな。まあ、花婿が料理が出来て損はあるまい」
 その言葉に思わずアストリットは噴き出した。
「大変よいお味でした」
「介があったな。実を言うと味見をしていないのだが……」
 そう言うとミカは時間をかけて恋人の甘い唇を味わう。
「私が他の方に攫われる不安はお持ちではなかったのですか……」
 ミカの髪を指で梳き、彼女は熱っぽく彼を見上げた。
「もちろん、それを考えない日は無かった。あの最後の夜のことがなければ、私はすぐにおまえのもとに駆けつけていただろう。あの処分は私が怪我が原因で高熱を出し、ほとんど意識が無かった時に下されたものだった。ベッドを出られるようになると即、馬車を騎士団に走らせた。だが、おまえはすでに姿を消した後だった。私はおまえの父と姉に会い、出生にまつわる全てを聞いた。それで私はおまえを捜すのを止めた。無駄だとわかったからだ。きっとバルバスの間諜がおまえをずっと見張っていたはずだ。おまえが国から追放されたことを知り、すぐにバルバスに連れ戻す。そしておまえはしかるべき椅子に座る。私にそれを止める術はない。おまえを無理やり連れ戻した所で、今度は私が人さらいの罪人としてバルバス国に裁かれる。だから私はおまえを信じて、あの時の、おまえが私を愛していると言う言葉を信じて今日まで耐えて来たのだ。ヨシュアが成人し、私がおまえとの結婚を理由に国王を説得し、継承権を放棄した後に彼が王位を継承するまで。アリアス父子の王族に対するつまらん狡計の数々もほとんどが手中に収めたしな。でも……我慢も限界だ」
「私もです……ミカ様が……欲しい。今すぐに」
「それでは、私を婿に迎え入れてくれるのか?」
「ほかに誰がおりましょう」
「浮気はしなかったか? この可愛い唇に、秘密の膨らみに触れたものは?」
「まさか……! ミ、ミカ様こそ……その……他の貴婦人と……」
「それは、嫉妬か?」
 アストリットは顔をまっ赤にし、目を伏せた。ミカの胸に置かれた手は無意識に上着をぎゅっと掴んだ。
 彼はその手をそっと包み、顔を上げたアストリットに情熱の篭ったキスをした。
「私はこう見えても一途なのだ。最初から、おまえに馬から引きずり下ろされたときからおまえしか見ていない。何度も言わせるな。……恥ずかしいではないか。さあ、アスティ……そろそろおまえを味わわせてくれ」
「もう少し殿下の前掛け姿を見ていたかったのですが……とてもよくお似合いですよ」
 アストリットは、口元を綻ばせている恋人の腰に手を回し、結びを解いた。
「この悪趣味なドレスも脱いでしまわねばな。おまえの制服姿が一番……そそる」 
 白い首筋に舌を満遍なく這わせ、急いた手つきでドレスの背中のボタンを外しながら、アストリットの香りを深々と胸に吸い込む。
「たっぷりと可愛がって差し上げよう……覚悟はいいかな? 私の勇敢な姫君」
 その言葉ににっこりとミカを見上げたアストリットは、恋人に自らキスをした。
 
 *

 街を一望出来るバルコニーに、アレクサンドリア、ナディーンと並んだヨシュアは、入場を許された民たちが城の庭を埋め尽くす様子を満足げに見下ろしていた。城壁の向こうも庭から溢れた人々がひしめいている。歓喜と羨望の歓声を乗せた風がヨシュアの髪をそよがす。ヨシュアが片手を上げると、歓声はひときわ高くなった。そんなヨシュアの後ろから、ダウソンがひっそりと耳打ちした。
「ヨシュア様、ミカ様とアストリット様は一体どこにおられるのでしょう」
 ヨシュアは綻ばせていた口元をきゅっと結んで、白けた視線を老執事に向けた。
「ダウソン? それは真面目に聞いているのか? そうだとしたら無粋なやつだな、おまえは。一体何年ミカに勤めているのだ。筆頭執事の肩書きはハッタリか? それとも猫被っているのか?」
「いや、めっそうもございません……。しかしまさか、まさか……まさか、公務の最中に……このような大事な時に……」
「そのまさかだ。大事な一秒一秒を、やっと手に入れた恋人と楽しんでいるのだろう。」
 う、と喉の奥で老執事は唸り、一歩退いた自分の定位置に戻るとハンカチで広い額の汗を押さえた。ふとその手を止めると、青いマントの、ミカよりもまだずっと華奢な背中を見た。再び新国王に近づき、耳打ちをする。
「ヨシュア様……もしや、始めから……」
「みなまで言うな、下世話だぞ、ダウソン。よいではないか。皆が幸せになったのだから。これでリューベンスブルグもバルバスも無敵だ。血を流さずして国を得る――私がおまえたちに永遠の安泰を約束するぞ」
 ヨシュアはダウソンに見せた穏やかな笑みをそのまま隣のナディーンに向けた。そして、彼の視線に気がつき目元を染めた彼女の薄い掌を取ると、絹の手袋の上へ口付けた。
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