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第十章 1

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 馬で四日かけ、アストリットとジョセがバルバス城へ帰城すると、彼女は実の母――アレクサンドリア女王――から熱い抱擁と歓迎を受けた。
 アストリットが案じていた、バルバス国の第一王女であるかどうかの審議は、大臣たちによって二日間の協議が行われただけだった。
 当時アストリットの出産に立ち会った医師による、出生証明書に記された数々の女児の体の特徴――背中の痣――が何よりの決定的な証拠であったし、森で狼にさらわれたときの唯一の目撃者であった侍女も、はっきりと、まるで昨日の出来事であったかのように、当時の状況を再度証言した。そして、アストリットの持参していたペンダントはまぎれも無く国王から娘へと贈られていたことを、年かさの大臣たちは朧《おぼろ》げながらも記憶していたし、何よりもアストリットの毅然とした物腰と麗しさが王族に相応しいことは胸中で誰もが納得していた。
――アストリット・ユリア・バルバセロ。
 バルバセロ――は、”バルバス国の”という意味だと教えられれば、すんなりと受け入れられたが、実母から授かった名前『ユリア』には、同時に授けられた身分同様、慣れるまで時間を要しそうだった。
 半年経ち、今年もフィングスローズが庭に咲き乱れる季節が巡って来た。
 今では公務も、執事と息の合った連係で滞り無く処理する日々だ。リューベンスブルグよりも南に位置するバルバスの穏やかな気候にも、新しい味覚にも言葉の調にも慣れて来た。今では剣の代わりに宝石飾りの付いた鵞ペンを持つ時間のほうが長い。
――もしかしたら、長い夢を見ていたのかもしれない。
 ミカと初めて対面し、翻弄されて愛の言葉を交わした時間はずっと昔のことのようで、あまりにも儚い思い出だった。
 自分はずっとバルバスの城にいて、この庭で午後の柔らかな日差しにうたた寝をしていたようにも思えた。
「お姉様、この水色と桃色のリボン、どちらが私に似合いますか」
 薔薇のアーチを通って、輝く金色の髪を風に遊ばせた少女が姿を現した。手には二色の絹のリボンを持った彼女は、アストリットの隣に座った。
 四つ違いの妹、ナディーンは水仙のように可憐でいつも甘い匂いを漂わせている。アレクサンドリアに初めて引き合わされたときからアストリットに懐き、公務以外の時間のほとんどを、彼女は姉と一緒に過ごしていた。
 アストリットはバルバスの歴史書を傍らに置き、妹の手から水色のリボンを取ると柔らかな髪を編み始めた。
「リューベンスブルグはどうでした? 新国王にきちんとご挨拶できましたか?」
 リューベンスブルグ新国王拝謁のため、訪城していたアレクサンドリアとナディーンが帰って来たのは昨日の夕方だった。
 アストリットがバルバス国の姫となった今では、リューベンスブルグ国が彼女に下した処分は関係ないようでも、その微妙な立場を配慮して、アレクサンドリアはナディーンだけを伴って行ったのだ。帰城後、疲れてすぐに寝室に入ってしまったナディーンから話をきけずに、彼女は今まで落ち着かない時間を過ごしていた。
――それにしても、どうして成人されたばかりのヨシュア様が国王の座に就くことになったのだろう。ミカ様はどんな理由があってご辞退されたのだろう。国王もそれを受け入れるほどの理由とはなんだったのだろう。
 それは先月、ヨシュアの戴冠式の知らせを聞いてから繰り返された疑問だった。しかし、他国の王室の内情に通じ、アストリットにはっきりと答えられるものは誰もいなかった。
「ヨシュア様は微笑みを絶やさず、穏やかな方でした……」
 ほんのりと頬を染めるナディーンを見て、彼女は「おや」と思う。覗き込むと、潤んだ瞳を隠すように瞼を伏せ、妹は言葉を継いだ。
「優しい言葉をかけてくださって……でも、ミカ様は……」
 愛しい人の名を聞き、アストリットの心が乱れる。先を促すように彼女の手の上に自分のを重ねた。
「練習通り、きちんとご挨拶したのに、怖い目で私をちらっと見ただけでした。本当に怖かったわ、お姉様。身体中の血が凍ってしまうかと。だって、ミカ様は背もとてもお高いし、ヨシュア様と違ってがっしりしてらっしゃるし……綺麗なお顔なのに、始終あのようにしかつめらしい様子をしては勿体ないですわ」
 唇を小さく尖らせながら自分に訴える姿がさえずる小鳥のようだ。そんなナディーンを見ながら、妹の形容するミカの様子――ずっと知りたかった――が容易く目に浮かぶと思わずアストリットの口元が綻んだ。指の背で妹の柔らかな頬を撫でる。
「それはきっと……お腹がすいてらっしゃったのよ」
 その言葉にナディーンは目を丸くする。
「そうかしら? 王子様なのにちょっとの間くらい我慢出来ないのかしら?」
「だって……それはあなたも同じじゃない? ナディーン。あなたもお腹がすいたらすぐにイライラするし……そうやって爪を噛むでしょう?」
 彼女は、はっと自分の口元の手を見つめ、それから頬を染めた。
「わ、私はお腹が減っていてもイライラなんてしてないわ……! お姉様は意地悪ね」
 そのとき丁度、お茶の時間だと侍女が知らせに来ると、ナディーンは姉の手を取り、勢い良く立ち上がった。
 そんな会話を交わした数日後、アストリットは王妃の部屋に呼ばれていた。スカートを広げて一礼したあと、王妃が示した隣の椅子に腰掛ける。
「アストリット、二週間後にリューベンスブルグの新国王を招いておもてなしをしようと思っています。あなたはまだ拝謁も済ましていません。それはあなたの今の地位と、両国の関係を考えても大変な無礼なのですよ」
 アストリットは顔を俯かせた。手に、絹の手袋に包まれたアレクサンドリアの温かい手が重なる。
「リューベンスブルグで大変な思いをしたのはわかっているつもりです。しかし、今あなたは一切の過去を捨ててバルバスの姫として生まれ変わらねばなりません。いえ、あなたはもともとバルバス国の姫。その名誉を蔑《ないがし》ろにすることは許されません」
「あの……女王陛下。招待されるのは新国王だけですか? それとも……」
 アストリットは言い淀んだが、アレクサンドリアはその先を読んだ。
「もちろん、新国王及び第一王子殿下も招待するつもりです」
 その言葉が本当になったのはそれから十日後だった。
 風に乗って微かなラッパの音がバルバス城の城門を通り抜けて来た。その知らせを侍女のエレーナから聞いたアストリットは、屋上へ続く階段を駆け上った。彼女が北の側塔から身を乗り出すようにして眼下を望むと、緩やかな丘を降りる新国王の豪華絢爛な隊列が見えた。
 人々の、盛んな拍手と歓声のアーチを延々とくぐり抜けて城に入った一行は、さらに中庭を三つ抜けて正面玄関の石階段へ到着した。
 アストリットは屋上から応接室の続きの控えの間に駆け込むと、エレーナに髪やドレスを直されている間に息を整えたが、一度昂った鼓動は鎮まるばかりかどんどん高鳴るばかりだ。
 応接の間の中央に並べられた椅子に、アレクサンドリアを挟んで二人の姫が座り、三人に向かい合うようにヨシュアが。彼の耳たぶに触れるほど高い襟の上着には、二列の金ボタンの上を黄金のサッシュが左肩から斜めに走っている。純白の、軍服仕様の礼服で背筋を伸ばして座るヨシュアからはたった半年間の間に少年の面影は消え、精悍な顔には国王としての貫禄が備わっていた。そしてその隣――ミカの席――は空だった。
「本日はお招きありがとうございます」
 先に新国王が切り出し、それから君主同士が交わす型通りの挨拶はアストリットの耳には入らず、ただ彼女は呆然と空席を見つめていた。その視線に気づき、ヨシュアは困ったように眉尻を下げる。
「兄は私に王位を押し付けて、遊び回っていますよ。今回は体調がすぐれず残念ながら辞退させていただきましたが。まさか、”あの”アストリット様が王女になられて同席されるなど、夢にも思わなかったに違いありません。ええ、お名前が少し変わっていましたからね。そうでなければ自分の一等お気に入りの専属騎士に一目会うため、必ずこの場にいたはずです」
 ヨシュア始め、母や妹、それぞれに従う者たちの視線が自分に集まっているのに気がつき、アストリットは慌てて瞼を伏せた。
「いえ、私の顔など見たくもないに違いありません。私のせいで、殿下のお命が危ぶまれたのですから……」
 すっかり沈んでしまった姫を気遣うように、アレクサンドリアは、アストリットが第一王妃として初めて立ち会ったバルバス国親衛隊受勲式の話を始めた。ヨシュアもすぐに女王陛下へ顔を向け、耳を傾ける素振りを見せたが、彼は脳裏にここまでの長い道のりを蘇らせていた。
 あの馬車馬のような精力を持つ血気盛んな兄に国を任せておけば、国同士の諍いは耐えないだろう。アストリットのようなぱっと人の目を引く派手な美人はぼくの好みではなが、その兄を骨抜きにしてしまうほどの女は彼女をおいて他に無い。何しろ、リューベンスベルクの鍛え上げられた騎士様なのだから。これで一生兄の昼夜問わず専属騎士となり、兄も本望だろう。
 何となく、兄の様子がおかしいと話を聞いたのが始まりだった。年頃の男に女の影や浮いた話の一つも無いとなると、弟でも兄が男色かと興味を持つのは方向としては正しい。いや、まさか幼少からの恋煩いとは存外だったが。
 それから、彼が騎士団に送っている間諜を買収し、ミカに知られると都合の悪い情報は口止めし、調べさせるうちにぼんやりとアストリットの出生の秘密がわかってきた。隣人のカールソン家にも話を聞きに行かせれば、ペトラ・ローゼナウが次女を妊娠した事実は無かった。
 それから兄に恋の助言すると見せかけ、自前の脚本通りに演じさせてみたが、これほどうまくいくとは思わなかった。あの誘拐劇が無くてもアストリットをバルバスへ追い払う筋書きも幾つか用意してあったのだが。
 もはやアリアス父子の前で猫かぶる必要も無いわけだし、国に帰ったら奴らをどう嵌めよう。兄が奴らの悪事を暴くいくつか罠を仕掛けたようだが、それも大したものではないだろう。さあ、どうしてくれよう。これで当分の間は兄がいなくても退屈はしない……。
「……親衛隊勲章授与式にて、姫が副隊長を負かしてしまったのは前代未聞のこと。それはもう、国民は驚くやら喜ぶやら。でも、それで姫はすっかり彼らの心をとらえてしまったのです」
 アレクサンドリアの声に我に返ったヨシュアは、今まで上の空だったにも関わらず、取り繕う慌てぶりも無く、大きく頷いた。 
「つまり、御国の民に我がリューベンスブルグ帝国騎士軍の実力が知れたわけですね」
「それでも、アストリットはまだ親衛隊長と剣を交わえておりません。彼女が副隊長を指名したわけは、さすがの姫も我が国の兵士たちを監督する長に恐れを抱いたからだと思いますわ」
「いえ、そこが姫君の賢いところです。姫は隊長に”勝ってしまう”ことを恐れて、わざと副隊長を指名したのです。もし、彼女が……、いえ、きっと姫君は隊長を負かしてしまったことでしょう。その暁には、その哀れな男を長にした親衛隊はすべて解散されなくてはいけません。そのような事態の混乱を避けての指名だったのです。そうですよね?」
 図星に、驚きで声を失ったアストリットは、自分ににっこり微笑みかけるヨシュアにただ頭を縦に振るだけだった。
「まあ、新国王はなんという自信家なんでしょう。わたくし、今までこんなに厚顔な殿方にお目にかかったことはありませんわ。それとも一国の主はこうでなくては務まらないのかしら」
 まだ人生に経験の浅いナディーンが悪びれもなく率直に意見する。その口調は呆れているようでも、相手を挑発しようとする愛嬌も含まれていた。彼女は自分とさほど歳の変わらない国王に興味津々なのだ。
 そんな次女にやんわりと咎めの言葉をかけるとアレクサンドリアは、女王の笑みでヨシュアに向き直った。
「それではリューベンスブルグから人質でもいただかないことには、獅子の髭が震えるたびにこの国の民は構えなくてはいけませんね」
「女王陛下のお口から人質などと不穏な言葉が出て来るとは思いもよりませんでした。しかし、よほどの愚か者でもない限り、何の得も無しに進んで人質になろうという者は我が国にはいないと思います」
 アレクサンドリアの微笑みが広がった。ヨシュアもそれに応えるように目を細めたが、アストリットにはヨシュアのその完璧な笑みには何かが含まれているように感じた。
「それはどうでしょうか。さあ、そろそろ菫の間へ。食事の支度が整ったようです。バルバスの料理が国王陛下のお口に合えばよろしいのですけど」
 椅子から立ち上がった女王陛下の前に進み出たヨシュアは、彼女の前に腕を差し出す。その腕に手をかけた女王陛下をドアの方へ引導するヨシュアと、壁際に立つジョセの視線が一瞬だが交じった。ヨシュアがまるで旧知の友に会ったような笑みを浮かべると、相手は小さく頭を垂れた。
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