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第九章 2
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なるべく早く国を出よう。まず、馬を手配しなくては。
宿屋に足を向け、急ぐアストリットの背後をずっと付けて来る気配に気づいたのは、ランプに照らされた目的の看板がもうすぐそこに見えている辺りだった。彼女は歩みを止めると剣の柄に手を掛けながら振り向いた。
「何用か」
「アストリット・ローゼナウ様とお見受けしましたが」
数歩離れたところから小柄な男が自分と同じように深くかぶったフードの下から尋ねた。マントで身体をすっかり覆った姿は宵闇を彷徨う亡霊のようだ。
「いかにも」
「お話したいことがあります。ご同伴いただきたい」
アストリットは訝しげにじっと男を見据えた。掠れ気味の声音から、熟年の男性らしいと踏んだ。
顔を隠してるのに相手はどうして自分がアストリット・ローゼナウだと知ったのか。男に好奇心を抱いたのはそれだけではなかった。ただ立っているだけの男には全く隙がないばかりか、何かただならぬものが漂っていた。黙っていた男が短く言った。
「ご自身の素性にご興味はありませんか」
この一言にアストリットは愕然としつつ、柄から手を放すと「そこの宿へ」と促した。
宿屋の食堂の一番奥の席に向かい合って座る。給仕女に頼んだワインとチーズが来ると、相手は少しフードを上げた。逞しい顎の目立つ厳しい顔には薄く皺が刻まれ、全てを見透かすような茶色の眼が強く光を放っていた。
「ジョセ・フェルナン・ザイデルと申します」
その名前を聞いたアストリットの、杯を上げた手が止まった。その名は幼い頃から何度かガレスの口から聞いている。
――バルバスの伝説の剣士、白鷹――ザイデル
彼の操る刃は、音も無く狙った獲物の上に舞い降り、確実に命を刈り取ってしまう。戦場でも決闘でもザイデルと剣を打ち合わせ、彼の剣を折ったものはまだ誰もいないという。父も一度バルバスにて剣を交え、指南の光栄を授かったと語っていた。名を聞けば彼の役職も思い出された。バルバス国、アレクサンドリア女王陛下の腹心の一人だ。
「禿鷹、とおっしゃっていませんでしたか」
アストリットが外での非礼に続けて父の言葉を述べると、ジョセは口元を綻ばせて酒を一口飲んだ。
「ご無事で良かった。あなた様と第一王子が攫われた夜、私は馬をすぐに用意出来ず、また多勢に無勢。あなた方を盾に五人一塊になって襲われれば、この老いぼれなど一太刀で切り捨てられていたでしょう」
「まさか……ご謙遜を。しかし偶然にもあなたが詰所へ駆け込んでくださったのですね。ありがとうございました」
「あなた様をお守りするのはこのザイデルの役目。当然のことで、偶然ではありません。私はあなた様がバルバスからローゼナウ家へ連れて来られた時から、ずっとお側で見守っておりました」
――私が、バルバスから……ローゼナウ家へ?
「それはどういう……」
驚きと混乱に唇は戦慄いた。答えを探るように、フードの影で洞《うろ》になった相手の目を覗き込む。
「特別な首飾りをお持ちだと思いますが。拝借してもよろしいでしょうか」
差し出された掌は、長年剣を握って皮の厚くなった騎士特有のそれだった。アストリットは戸惑いながらも、外した首飾りを渡す。彼はテーブルの燭台の横にそれを置き、腰の辺りからおもむろに短剣を抜くと、アストリットが止める間もなく、その柄を握った拳を首飾りの石の上へ勢い良く叩き付けた。柄頭があっけなく石を砕く。
「なっ……」
目を瞠ったアストリットは喉を詰まらせた。
「ご覧下さい」
短剣を傍らに置いたジョセは、砕けた破片の中から丸い小さな石を取り出して埃を払うと、それをロウソクの炎にかざした。森の木々の緑を吸い込んだ朝露のような透明度の高い宝石は、光に濡れたように輝いていた。
「バルバス王室の者だけに贈られる宝石です。石の中に星が煌めいているのが見えますか。側《がわ》は、小麦粉と塩を練ったもので、その上から着色し、所有者が成人するとこれを砕くのがバルバス王家の慣習です。知らぬ者が見れば、ただの子供騙しのおもちゃだと思っても不思議はありません。アストリット様、これはまぎれも無くあなた様のものです。あなた様がお生まれになったとき、今は亡きバルバス国王その手から贈られたのです」
アストリットの瞳がさらに見開いた。
「そ、それは……つまり、」
ジョセはテーブルの上のアストリットの手を開いて、首飾りを持ち主に返した。
「あなた様はバルバス国の姫、アストリット・ユリア・バルバセロ様なのです」
完全に言葉を失ったアストリットの方にやや乗り出すようにして、さらに低い声でジョセは続けた。
「しかし、残念ながらあなた様の父上はバルバス国王その人ではありません。――アストリット様が生を与えられる前のこと。若きガレス・ローゼナウは招かれたリューベンスブルグ国王の護衛として二週間ほどバルバスに滞在されました。当時まだ齢十六のアレクサンドリア様が、倍近くの年上の国王よりも、異国の、若く麗しい騎士《ナイト》に惹かれるのは当然のこと。森で催された音楽会を襲った賊どもに、果敢に立ち向かったローゼナウに心をすっかり奪われてしまったアレクサンドリア様は恋の病から寝込んでしまいました。それを何度か見舞ったローゼナウもアレクサンドリア様の気持にお気づきになり、心を通わせたお二方は、結ばれぬ運命の恋人を憐れんだ神がほんの少し目をつぶっている間に、一度だけ過ちを犯してしまいました」
「ま、まさか……それでは、私の母は……父は……」
大きな瞳を揺らすアストリットを見据え、ジョセは頷いた。
「母上はアレクサンドリア様、父上はガレス・ローゼナウです」
アストリットは震える手でなんとか杯を取り、中身を一気に飲み干した。からからに乾いていた口が潤い、やっと一言溢れ出る。
「そうか、私の父上は……父上だったのか……しかし、どうしてザイデル殿がそれを……」
「当時、アレクサンドリア様の側近衛士ザイデルにも魔が差したのでしょうな。アレクサンドリア様の言うままに、数時間だけその任務を放棄しましたから。その背徳感からでしょうか。すぐに女王陛下は私に全てを打ち明けました。秘密を知っているのは私と、侍女のリンゼイだけです。アストリット様のお誕生には誰も疑いを持ちませんでしたが、その罪の呵責に日々アレクサンドリア様は苛まれました。成長して、万が一国王が感づいてしまったら。自分はどんな処分を受けてもいい、でも真実の愛を持って生まれた子供に手を下されたら。そして、とうとうあなた様をローゼナウの手に委ねることをご決断されたのです」
ひゅっと、アストリットの喉が小さく鳴った。
「女王陛下とリンゼイ、私は一計を企てました。森を散歩中に赤子が狼の群れに襲われたことにしたのです。私が獣に攫われたアストリット様を探して森に入ったことにし、幼い姫様を抱いてリューベンスブルグまで馬を走らせました。ローゼナウは本部駐在で留守でした。彼の若妻、ペトラ様は突然玄関先に現れた異国の男に怯える様子も見せず――精一杯気丈に振る舞っておいででした――子供を受け取ると、金貨の袋も受け取らず、何も尋ねずに『この子をよくご無事に連れて来てくださいました。感謝致します』と静かに頭を下げられました。それが私がペトラ様のお姿を見た最初で最後でございます」
「母上……」
熱に浮かされたように彼女は喘いだ。
「お戻りになってくださいますね」
素性の秘密が暴かれ、その数奇な物語に感情をかき乱されていたアストリットはジョセの有無を言わさぬ声に我に返った。
――戻る
その言葉に違和感を覚えた。
自分が生まれたのは父の、ペトラの、フリーダのいた家だと思っていた。隣にはカールソン家があり、その兄弟と朝から晩まで泥だらけになって遊んだものだった……。
――バルバスに、戻る……。どうせ、この国にはいられない。もう、殿下の側にいられないのだ。
アストリットはテーブル上の手から顔を上げた。
「連れて行ってくださいますか」
ジョセはほっと息をついた。
「旅の準備はよろしいですかな」
「もともと何も持たずに生まれたのです。持って行く物などありません。ただ……」
彼女はマントの下の剣の柄を握った。これは、リューベンスブルグの騎士である証。国王への忠義。国王の……それは身体も魂もミカ第一王子の所有を意味する。この剣だけが私と殿下をつないだと言う証……。たとえもう二度とお目にかかることはないとしても。
少し開いたマントからその剣を認めると、ジョセは目を細めた。
「人はたとえ何かを所有しても、それを死後の世界にまで持って行くことは出来ません。しかし、積み重ねた思いは魂に刻まれ、未来永劫生き続けることでしょう……行きましょう。アストリット様。馬は用意してあります」
宿屋に足を向け、急ぐアストリットの背後をずっと付けて来る気配に気づいたのは、ランプに照らされた目的の看板がもうすぐそこに見えている辺りだった。彼女は歩みを止めると剣の柄に手を掛けながら振り向いた。
「何用か」
「アストリット・ローゼナウ様とお見受けしましたが」
数歩離れたところから小柄な男が自分と同じように深くかぶったフードの下から尋ねた。マントで身体をすっかり覆った姿は宵闇を彷徨う亡霊のようだ。
「いかにも」
「お話したいことがあります。ご同伴いただきたい」
アストリットは訝しげにじっと男を見据えた。掠れ気味の声音から、熟年の男性らしいと踏んだ。
顔を隠してるのに相手はどうして自分がアストリット・ローゼナウだと知ったのか。男に好奇心を抱いたのはそれだけではなかった。ただ立っているだけの男には全く隙がないばかりか、何かただならぬものが漂っていた。黙っていた男が短く言った。
「ご自身の素性にご興味はありませんか」
この一言にアストリットは愕然としつつ、柄から手を放すと「そこの宿へ」と促した。
宿屋の食堂の一番奥の席に向かい合って座る。給仕女に頼んだワインとチーズが来ると、相手は少しフードを上げた。逞しい顎の目立つ厳しい顔には薄く皺が刻まれ、全てを見透かすような茶色の眼が強く光を放っていた。
「ジョセ・フェルナン・ザイデルと申します」
その名前を聞いたアストリットの、杯を上げた手が止まった。その名は幼い頃から何度かガレスの口から聞いている。
――バルバスの伝説の剣士、白鷹――ザイデル
彼の操る刃は、音も無く狙った獲物の上に舞い降り、確実に命を刈り取ってしまう。戦場でも決闘でもザイデルと剣を打ち合わせ、彼の剣を折ったものはまだ誰もいないという。父も一度バルバスにて剣を交え、指南の光栄を授かったと語っていた。名を聞けば彼の役職も思い出された。バルバス国、アレクサンドリア女王陛下の腹心の一人だ。
「禿鷹、とおっしゃっていませんでしたか」
アストリットが外での非礼に続けて父の言葉を述べると、ジョセは口元を綻ばせて酒を一口飲んだ。
「ご無事で良かった。あなた様と第一王子が攫われた夜、私は馬をすぐに用意出来ず、また多勢に無勢。あなた方を盾に五人一塊になって襲われれば、この老いぼれなど一太刀で切り捨てられていたでしょう」
「まさか……ご謙遜を。しかし偶然にもあなたが詰所へ駆け込んでくださったのですね。ありがとうございました」
「あなた様をお守りするのはこのザイデルの役目。当然のことで、偶然ではありません。私はあなた様がバルバスからローゼナウ家へ連れて来られた時から、ずっとお側で見守っておりました」
――私が、バルバスから……ローゼナウ家へ?
「それはどういう……」
驚きと混乱に唇は戦慄いた。答えを探るように、フードの影で洞《うろ》になった相手の目を覗き込む。
「特別な首飾りをお持ちだと思いますが。拝借してもよろしいでしょうか」
差し出された掌は、長年剣を握って皮の厚くなった騎士特有のそれだった。アストリットは戸惑いながらも、外した首飾りを渡す。彼はテーブルの燭台の横にそれを置き、腰の辺りからおもむろに短剣を抜くと、アストリットが止める間もなく、その柄を握った拳を首飾りの石の上へ勢い良く叩き付けた。柄頭があっけなく石を砕く。
「なっ……」
目を瞠ったアストリットは喉を詰まらせた。
「ご覧下さい」
短剣を傍らに置いたジョセは、砕けた破片の中から丸い小さな石を取り出して埃を払うと、それをロウソクの炎にかざした。森の木々の緑を吸い込んだ朝露のような透明度の高い宝石は、光に濡れたように輝いていた。
「バルバス王室の者だけに贈られる宝石です。石の中に星が煌めいているのが見えますか。側《がわ》は、小麦粉と塩を練ったもので、その上から着色し、所有者が成人するとこれを砕くのがバルバス王家の慣習です。知らぬ者が見れば、ただの子供騙しのおもちゃだと思っても不思議はありません。アストリット様、これはまぎれも無くあなた様のものです。あなた様がお生まれになったとき、今は亡きバルバス国王その手から贈られたのです」
アストリットの瞳がさらに見開いた。
「そ、それは……つまり、」
ジョセはテーブルの上のアストリットの手を開いて、首飾りを持ち主に返した。
「あなた様はバルバス国の姫、アストリット・ユリア・バルバセロ様なのです」
完全に言葉を失ったアストリットの方にやや乗り出すようにして、さらに低い声でジョセは続けた。
「しかし、残念ながらあなた様の父上はバルバス国王その人ではありません。――アストリット様が生を与えられる前のこと。若きガレス・ローゼナウは招かれたリューベンスブルグ国王の護衛として二週間ほどバルバスに滞在されました。当時まだ齢十六のアレクサンドリア様が、倍近くの年上の国王よりも、異国の、若く麗しい騎士《ナイト》に惹かれるのは当然のこと。森で催された音楽会を襲った賊どもに、果敢に立ち向かったローゼナウに心をすっかり奪われてしまったアレクサンドリア様は恋の病から寝込んでしまいました。それを何度か見舞ったローゼナウもアレクサンドリア様の気持にお気づきになり、心を通わせたお二方は、結ばれぬ運命の恋人を憐れんだ神がほんの少し目をつぶっている間に、一度だけ過ちを犯してしまいました」
「ま、まさか……それでは、私の母は……父は……」
大きな瞳を揺らすアストリットを見据え、ジョセは頷いた。
「母上はアレクサンドリア様、父上はガレス・ローゼナウです」
アストリットは震える手でなんとか杯を取り、中身を一気に飲み干した。からからに乾いていた口が潤い、やっと一言溢れ出る。
「そうか、私の父上は……父上だったのか……しかし、どうしてザイデル殿がそれを……」
「当時、アレクサンドリア様の側近衛士ザイデルにも魔が差したのでしょうな。アレクサンドリア様の言うままに、数時間だけその任務を放棄しましたから。その背徳感からでしょうか。すぐに女王陛下は私に全てを打ち明けました。秘密を知っているのは私と、侍女のリンゼイだけです。アストリット様のお誕生には誰も疑いを持ちませんでしたが、その罪の呵責に日々アレクサンドリア様は苛まれました。成長して、万が一国王が感づいてしまったら。自分はどんな処分を受けてもいい、でも真実の愛を持って生まれた子供に手を下されたら。そして、とうとうあなた様をローゼナウの手に委ねることをご決断されたのです」
ひゅっと、アストリットの喉が小さく鳴った。
「女王陛下とリンゼイ、私は一計を企てました。森を散歩中に赤子が狼の群れに襲われたことにしたのです。私が獣に攫われたアストリット様を探して森に入ったことにし、幼い姫様を抱いてリューベンスブルグまで馬を走らせました。ローゼナウは本部駐在で留守でした。彼の若妻、ペトラ様は突然玄関先に現れた異国の男に怯える様子も見せず――精一杯気丈に振る舞っておいででした――子供を受け取ると、金貨の袋も受け取らず、何も尋ねずに『この子をよくご無事に連れて来てくださいました。感謝致します』と静かに頭を下げられました。それが私がペトラ様のお姿を見た最初で最後でございます」
「母上……」
熱に浮かされたように彼女は喘いだ。
「お戻りになってくださいますね」
素性の秘密が暴かれ、その数奇な物語に感情をかき乱されていたアストリットはジョセの有無を言わさぬ声に我に返った。
――戻る
その言葉に違和感を覚えた。
自分が生まれたのは父の、ペトラの、フリーダのいた家だと思っていた。隣にはカールソン家があり、その兄弟と朝から晩まで泥だらけになって遊んだものだった……。
――バルバスに、戻る……。どうせ、この国にはいられない。もう、殿下の側にいられないのだ。
アストリットはテーブル上の手から顔を上げた。
「連れて行ってくださいますか」
ジョセはほっと息をついた。
「旅の準備はよろしいですかな」
「もともと何も持たずに生まれたのです。持って行く物などありません。ただ……」
彼女はマントの下の剣の柄を握った。これは、リューベンスブルグの騎士である証。国王への忠義。国王の……それは身体も魂もミカ第一王子の所有を意味する。この剣だけが私と殿下をつないだと言う証……。たとえもう二度とお目にかかることはないとしても。
少し開いたマントからその剣を認めると、ジョセは目を細めた。
「人はたとえ何かを所有しても、それを死後の世界にまで持って行くことは出来ません。しかし、積み重ねた思いは魂に刻まれ、未来永劫生き続けることでしょう……行きましょう。アストリット様。馬は用意してあります」
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