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第九章 1
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幸いアストリットの受けた傷は肩の切傷と打ち身だったが、それでも失血と身体中に受けた強い殴打が原因で発熱し、数日間は帝国騎士軍医療棟のベッドで養生を強いられることになった。
結局、捕らえられた賊たちは王子誘拐、傷害の罪でそれ相応の処分を受けるだろうと、二日後の夕方、目を覚ましたアストリットの枕元でフリーダは短く語った。
彼らの首が落とされるのは確実だろう。賊にはおつりが来るほどの処罰となったわけだが、殿下を誘拐し、怪我をさせたのは紛れも無い犯罪なのだ。自ず、ヨシュアの企んだ偽《いつわり》の声明文を用いた脅迫罪も彼らが被ることになり、秘密は永遠に洩れることは無い。ある意味それで全てが丸く納まるはずだ。頭の片隅でそんなことを思い、安堵したアストリットは再び眠りに引き込まれた。
その二日後に、フリーダの手厚い看病のおかげで体の痛みも熱も引き、医療棟から自室のベッドに戻されたアストリットは、読んでいた本からふと目を上げると外を眺めた。
昼下がりの黄色い光が中庭に降り注いでいる。騎士たちの姿が無いのは、昼食どきだからだ。庭を囲む、ほとんど裸になった木々に、姿をさらされた鳥の巣の丸い固まりがいくつも引っかかっていた。
――殿下の怪我は深かったのだろうか。食事はきちんととれているのだろうか。
第一王子重体の事実は国外に洩れることを恐れて秘密厳守であったため、あの事件以来ミカの容態、ミカ直接の手紙はおろか使者を通しての伝言もアストリットの元には全く届かなかった。
そうでなくても、ミカとの関係はあの日、地下室で断たれたのだ。
自分は王子の求婚を退けた。お互いの気持を確かめ合った直後、納得のいく理由も無しに永遠《とわ》の愛の誓いを拒絶されれば、王子に、いや、男にとってこれ以上の屈辱はないだろう。自分は恋人の顔に泥を塗り、自尊心を引き裂いたのだ。
『おまえはやはり私を許していないのだな』
そう言って自分を見下ろしたミカの眼差しは氷のように凍てついていた。しかし、それ以外にどんな道があっただろう。自分がのうのうと王妃の座に着いた後《のち》、どこからか自分の卑しい素性が露顕するとも限らない。そうなれば一番迷惑を被るのは愛するミカその人だ。そして、ガレスやフリーダにも隠匿の罪が被せられてしまうかもしれない。
「これでよかったのだ……」
一人呟けば、膝に伏せていた本に涙の雫がぽたりと落ちた。
もともとが身分違い、叶わぬ恋なのだ、と自分に言い聞かせても『愛している』とミカの声が耳に、また温かな掌の愛撫の感触が肌に蘇れば、涙は止まることを知らず流れ続けた。
侍女の運んだ鶏肉と豆のスープとパンの夕餉を済ませ、ワインを飲んでるアストリットの部屋のドアがノックされた。応えると、入って来たのは白シャツと緑のズボンという私服姿のレヴァンだった。
「調子はどうだ」
彼は大きな体を屈めて、アストリットのベッドから食器の乗った盆を取り上げ、入り口近くの飾り棚の上に置いた。
「ありがとう。もうほとんど良くなった。明後日、医者の許可が下りれば起きられるだろう。今回はおまえに命を救われたな」
ベッドの脇に椅子を持って来て座ったレヴァンからは、訓練後にひと風呂浴びたのか石けんの香りがした。
「もう少し遅かったらどうなっていたかと思うと、今でも身体に震えが走る。あの夜、騎士団詰所に『お城の御者が道に倒れている』と駆けつけた者がいてな。『馬車が森に入って行った』とも。その知らせが無ければ……」
「その者に私からも礼を言わねばな」
「それが、騒ぎに紛れて消えてしまったのだ……騎士の話だと、外套も頭からすっぽり被っていて、年寄りのようだったが、今思うとあんな夜更けにじいさん一人がどうして街をうろついていたのかそれも不思議だと……」
レヴァンが腕を組んで背もたれに寄りかかると、椅子はぎしっと悲鳴を上げた。彼は慌てて前屈みになり、アストリットに顔を近づけた。
「おまえに話しておきたいことがある」
「なんだ、改まって。好きな娘でも出来たか」
同僚のあまりにも真剣な様子に胸騒ぎを覚え、アストリットはわざと茶化した。しかしレヴァンは軽く頭を振っただけで、低い声で言葉を継いだ。
「殿下があの廃屋から運ばれ、馬車に乗った時。様子を見に行ったおれに『すまない』と。おまえにも『すまない、許してくれ』と……涙を流された。あの、ミカ様が、だ」
「そうか……」
込み上げる想いが瞳から溢れ出さないよう、アストリットは強く瞼を閉じた。でも、何もかも終わってしまったのだ。
「おまえたちは、愛し合っているのだろう?」
はっと息を呑んだ同僚の顔がみるみる赤く染まる。
「どうして、それを……」
「おれは長年、おまえに命を預けてきた同僚だぞ。見くびるな。安心しろ、おれ以外誰も気づいてない」
それを聞いたアストリットの身体から緊張が抜けて行くのが手に取るようにわかった。――やはり、そうだったのか。
十中八九、間違いは無いと思っていたが、こうも顕著だとさすがの剛勇レヴァンの心も折れた。彼は動揺を努めて隠すように二つ目の告白を始めた。
「アストリット、おれは兄を助けて家業を継ぐ。ダフナート家が不渡りを出したらしい。随分手を広げていたようだが、外交取引に信用が無くなればこの貿易業はお終いだ。我がアーシャ家は常に二番手だったが、これからさらに忙しくなりそうだ。おれは兄とともに家を盛り上げていくことに決めた」
二度目の不意打ちに、思わずアストリットはレヴァンの胸に掴み掛からん勢いで身を乗り出した。
「そんな! どうして……。おまえは国に忠義を誓ったではないか。国王の……リューベンスブルグのために剣を振るうことを誰よりも誇りにしていたのに……。おまえが抜けたら隊はどうなる! いや、おまえ自身の気持はどうなのだ。本当にそれでいいのか!?」
「おれの気持ちは……」
――おれの気持ちは、これからも誰にも知られることはないだろう。
「考えて、自分で決めたことだ。おれは日々、自分が出来ることを精一杯やってきた。だから何も悔いは無い。隊もおれとおまえが育てた自慢の連中だ。だが優秀な上司がいると逆に育たないのも事実だ。おれが抜けて、また新しい風が入るだろう。おまえは奴らの三年後の成長が楽しみだと思えばいいじゃないか」
アストリットは手を伸ばし、綺麗な歯並びを見せて笑うレヴァンの脚の上に置かれた無骨な手を取った。温かく、大きな掌はいつも迷う自分の背中を押し、こうしていつも自分の不安を払拭して来た。それなのに――。
「もう……、おまえとは会えないのか?」
アストリットに眉尻を下げた顔で覗き込まれると、騎士団を去るという決心さえも揺らいでしまいそうなほどに、レヴァンの胸は乱れた。彼は同僚の手を解くと、頭をわしわしと勢い良く掻き回した。
「バカだな。おまえがおれに会いたいと思えばいつでも会える。な、アストリット。幸せになれ。おまえはおれの分まで幸せになれ。おまえが誰かを愛したならば、その男をとことん信じろ」
「なんだ急に。幸せだなんて」
困惑しながらはにかむアストリットの頬を一瞬撫でた手が、離れる。
――殿下は決しておまえを諦めない。おれが殿下なら、絶対におまえを諦めない。だが、おれは殿下ではなかった……。
「アストリット、一つ頼んでいいか」
「なんだ?」
「おまえの、いつも身に着けていたものが欲しいんだ」
レヴァンは手をうなじに回しながら、やや歯切れ悪く言った。
「別に構わないが……。どうした? いつでも会えると言ったのはおまえなのに。その今生の別れのような頼みは……」
「い、いや。航海のお守りになりそうだからな。おまえの闘志に嵐や海賊の方が逃げ出して行くだろう」
「大袈裟だな……。なら、これを……」
アストリットは左の中指から騎士団の指輪を外した。騎士団なら誰でも持っている印章にもなるそれは銀で、大尉のそれは金だ。リューベンスブルグの獅子紋章を挟んで両脇にAとR、彼女の頭文字が文様のように彫られている。
「ありがとう。大切にするよ」
手の上に載せられた、ランプの火に鈍く光る指輪をしばし見ていた彼は、それを握ると立ち上がった。
「おれはいつでもおまえの身方だ。それを忘れるな、アストリット」
「私も、おまえの……」
それをレヴァンは手で制したあと、達者で、と二人の声が重なる。広い背中が閉まるドアの影に消えた。
こうして自分の前からまた一人、大切な人が消えて行く。
運命とはどうしてこんなにも非情なのか。
左肩の動きにまだ不満はあったものの、ベッドから出ても良いと医師から許可を得た日の午後、アストリットは父ガレスに呼び出された。
執務室の、二人を隔てる堅硬な机は凱旋門というにはあまりにも冷たい艶を放っていた。
その向こうに座る父の顔を一目見て、アストリットは全てを悟った。ガレスも彼女の胸内を読んだかのようにひとつ頷くと、重々しく口を開いた。
「先ほど、城から使者が来た。ここに記されているアストリット・ローゼナウ大佐への処分だが……」
机上に広げていた通知の角を持ち上げた。
「帝国騎士軍大尉としての任務放棄により国外追放――期間は三年」
アストリットは息を詰めた。
「専属護衛のおまえが付いていながら殿下が怪我をされた。この処分は軽いくらいだ」
「はい……」
力なく項垂れた彼女の耳に、ガレスの長い溜め息が聞こえた。
「しかし、おまえの働きはこの私が承知している。いかに命をかけて殿下をお護りしたのか。帰って来い。アストリット。おまえは私の娘だ。三年後に必ず帰ってくると約束してくれ」
ガレスの温かな声音に彼女は顔を上げた。――”私の娘”。その響きに胸が熱くなる。
「ありがとうございます。父上。しかし約束は出来かねます。私は殿下のお命を危険に晒した……。父上が今おっしゃった通り国王の騎士として主を守れなかったのです。騎士の恥、許されざる大罪です。総指揮長ならこれがどういう意味かお分かりのはず。父上には長い間大変お世話になりました。その恩情は決して忘れません……私は今夜にもリューベンスブルグを発ちます。姉上に私からの祝福をお伝えください」
苦痛を堪えるかのように眉を寄せたガレスが、自分に伸ばした手をしっかり握り、アストリットは深々と一礼すると、来たときと変わらない足取りで出て行った。
部屋へ戻り簡単に部屋を片付けると、ベッドの上の畳んだ軍服と、その隣に置いた剣をじっと見下ろした。制服を脱いだ彼女は木綿のシャツの上に厚手の瑠璃色の上着、焦げ茶のズボンにブーツ姿という軽装だった。首には自分の両親を唯一知っている首飾りをかけた。
『すまない、許してくれ』
レヴァンの、ミカの言付けが耳に残っている。
しかし、王子は私を国外へ追放したのだ。処分の内容が王子の耳に届いていないわけは無い。もし、まだ私に少しでも慈悲の心があれば、それを取り下げて下さったはずではないか? しかし、そうではなかった。――殿下は私を許してはくれない。
剣を取り、柄に刻まれたリューベンスブルグの獅子を指先でそっと撫でた。そして迷いを断ち切るように素早くそれを肩から掛けると紫紺のマントを羽織り、フードを目深に被る。ぐるりと部屋を見渡し、机上のランプを持つと静かに部屋を後にした。
結局、捕らえられた賊たちは王子誘拐、傷害の罪でそれ相応の処分を受けるだろうと、二日後の夕方、目を覚ましたアストリットの枕元でフリーダは短く語った。
彼らの首が落とされるのは確実だろう。賊にはおつりが来るほどの処罰となったわけだが、殿下を誘拐し、怪我をさせたのは紛れも無い犯罪なのだ。自ず、ヨシュアの企んだ偽《いつわり》の声明文を用いた脅迫罪も彼らが被ることになり、秘密は永遠に洩れることは無い。ある意味それで全てが丸く納まるはずだ。頭の片隅でそんなことを思い、安堵したアストリットは再び眠りに引き込まれた。
その二日後に、フリーダの手厚い看病のおかげで体の痛みも熱も引き、医療棟から自室のベッドに戻されたアストリットは、読んでいた本からふと目を上げると外を眺めた。
昼下がりの黄色い光が中庭に降り注いでいる。騎士たちの姿が無いのは、昼食どきだからだ。庭を囲む、ほとんど裸になった木々に、姿をさらされた鳥の巣の丸い固まりがいくつも引っかかっていた。
――殿下の怪我は深かったのだろうか。食事はきちんととれているのだろうか。
第一王子重体の事実は国外に洩れることを恐れて秘密厳守であったため、あの事件以来ミカの容態、ミカ直接の手紙はおろか使者を通しての伝言もアストリットの元には全く届かなかった。
そうでなくても、ミカとの関係はあの日、地下室で断たれたのだ。
自分は王子の求婚を退けた。お互いの気持を確かめ合った直後、納得のいく理由も無しに永遠《とわ》の愛の誓いを拒絶されれば、王子に、いや、男にとってこれ以上の屈辱はないだろう。自分は恋人の顔に泥を塗り、自尊心を引き裂いたのだ。
『おまえはやはり私を許していないのだな』
そう言って自分を見下ろしたミカの眼差しは氷のように凍てついていた。しかし、それ以外にどんな道があっただろう。自分がのうのうと王妃の座に着いた後《のち》、どこからか自分の卑しい素性が露顕するとも限らない。そうなれば一番迷惑を被るのは愛するミカその人だ。そして、ガレスやフリーダにも隠匿の罪が被せられてしまうかもしれない。
「これでよかったのだ……」
一人呟けば、膝に伏せていた本に涙の雫がぽたりと落ちた。
もともとが身分違い、叶わぬ恋なのだ、と自分に言い聞かせても『愛している』とミカの声が耳に、また温かな掌の愛撫の感触が肌に蘇れば、涙は止まることを知らず流れ続けた。
侍女の運んだ鶏肉と豆のスープとパンの夕餉を済ませ、ワインを飲んでるアストリットの部屋のドアがノックされた。応えると、入って来たのは白シャツと緑のズボンという私服姿のレヴァンだった。
「調子はどうだ」
彼は大きな体を屈めて、アストリットのベッドから食器の乗った盆を取り上げ、入り口近くの飾り棚の上に置いた。
「ありがとう。もうほとんど良くなった。明後日、医者の許可が下りれば起きられるだろう。今回はおまえに命を救われたな」
ベッドの脇に椅子を持って来て座ったレヴァンからは、訓練後にひと風呂浴びたのか石けんの香りがした。
「もう少し遅かったらどうなっていたかと思うと、今でも身体に震えが走る。あの夜、騎士団詰所に『お城の御者が道に倒れている』と駆けつけた者がいてな。『馬車が森に入って行った』とも。その知らせが無ければ……」
「その者に私からも礼を言わねばな」
「それが、騒ぎに紛れて消えてしまったのだ……騎士の話だと、外套も頭からすっぽり被っていて、年寄りのようだったが、今思うとあんな夜更けにじいさん一人がどうして街をうろついていたのかそれも不思議だと……」
レヴァンが腕を組んで背もたれに寄りかかると、椅子はぎしっと悲鳴を上げた。彼は慌てて前屈みになり、アストリットに顔を近づけた。
「おまえに話しておきたいことがある」
「なんだ、改まって。好きな娘でも出来たか」
同僚のあまりにも真剣な様子に胸騒ぎを覚え、アストリットはわざと茶化した。しかしレヴァンは軽く頭を振っただけで、低い声で言葉を継いだ。
「殿下があの廃屋から運ばれ、馬車に乗った時。様子を見に行ったおれに『すまない』と。おまえにも『すまない、許してくれ』と……涙を流された。あの、ミカ様が、だ」
「そうか……」
込み上げる想いが瞳から溢れ出さないよう、アストリットは強く瞼を閉じた。でも、何もかも終わってしまったのだ。
「おまえたちは、愛し合っているのだろう?」
はっと息を呑んだ同僚の顔がみるみる赤く染まる。
「どうして、それを……」
「おれは長年、おまえに命を預けてきた同僚だぞ。見くびるな。安心しろ、おれ以外誰も気づいてない」
それを聞いたアストリットの身体から緊張が抜けて行くのが手に取るようにわかった。――やはり、そうだったのか。
十中八九、間違いは無いと思っていたが、こうも顕著だとさすがの剛勇レヴァンの心も折れた。彼は動揺を努めて隠すように二つ目の告白を始めた。
「アストリット、おれは兄を助けて家業を継ぐ。ダフナート家が不渡りを出したらしい。随分手を広げていたようだが、外交取引に信用が無くなればこの貿易業はお終いだ。我がアーシャ家は常に二番手だったが、これからさらに忙しくなりそうだ。おれは兄とともに家を盛り上げていくことに決めた」
二度目の不意打ちに、思わずアストリットはレヴァンの胸に掴み掛からん勢いで身を乗り出した。
「そんな! どうして……。おまえは国に忠義を誓ったではないか。国王の……リューベンスブルグのために剣を振るうことを誰よりも誇りにしていたのに……。おまえが抜けたら隊はどうなる! いや、おまえ自身の気持はどうなのだ。本当にそれでいいのか!?」
「おれの気持ちは……」
――おれの気持ちは、これからも誰にも知られることはないだろう。
「考えて、自分で決めたことだ。おれは日々、自分が出来ることを精一杯やってきた。だから何も悔いは無い。隊もおれとおまえが育てた自慢の連中だ。だが優秀な上司がいると逆に育たないのも事実だ。おれが抜けて、また新しい風が入るだろう。おまえは奴らの三年後の成長が楽しみだと思えばいいじゃないか」
アストリットは手を伸ばし、綺麗な歯並びを見せて笑うレヴァンの脚の上に置かれた無骨な手を取った。温かく、大きな掌はいつも迷う自分の背中を押し、こうしていつも自分の不安を払拭して来た。それなのに――。
「もう……、おまえとは会えないのか?」
アストリットに眉尻を下げた顔で覗き込まれると、騎士団を去るという決心さえも揺らいでしまいそうなほどに、レヴァンの胸は乱れた。彼は同僚の手を解くと、頭をわしわしと勢い良く掻き回した。
「バカだな。おまえがおれに会いたいと思えばいつでも会える。な、アストリット。幸せになれ。おまえはおれの分まで幸せになれ。おまえが誰かを愛したならば、その男をとことん信じろ」
「なんだ急に。幸せだなんて」
困惑しながらはにかむアストリットの頬を一瞬撫でた手が、離れる。
――殿下は決しておまえを諦めない。おれが殿下なら、絶対におまえを諦めない。だが、おれは殿下ではなかった……。
「アストリット、一つ頼んでいいか」
「なんだ?」
「おまえの、いつも身に着けていたものが欲しいんだ」
レヴァンは手をうなじに回しながら、やや歯切れ悪く言った。
「別に構わないが……。どうした? いつでも会えると言ったのはおまえなのに。その今生の別れのような頼みは……」
「い、いや。航海のお守りになりそうだからな。おまえの闘志に嵐や海賊の方が逃げ出して行くだろう」
「大袈裟だな……。なら、これを……」
アストリットは左の中指から騎士団の指輪を外した。騎士団なら誰でも持っている印章にもなるそれは銀で、大尉のそれは金だ。リューベンスブルグの獅子紋章を挟んで両脇にAとR、彼女の頭文字が文様のように彫られている。
「ありがとう。大切にするよ」
手の上に載せられた、ランプの火に鈍く光る指輪をしばし見ていた彼は、それを握ると立ち上がった。
「おれはいつでもおまえの身方だ。それを忘れるな、アストリット」
「私も、おまえの……」
それをレヴァンは手で制したあと、達者で、と二人の声が重なる。広い背中が閉まるドアの影に消えた。
こうして自分の前からまた一人、大切な人が消えて行く。
運命とはどうしてこんなにも非情なのか。
左肩の動きにまだ不満はあったものの、ベッドから出ても良いと医師から許可を得た日の午後、アストリットは父ガレスに呼び出された。
執務室の、二人を隔てる堅硬な机は凱旋門というにはあまりにも冷たい艶を放っていた。
その向こうに座る父の顔を一目見て、アストリットは全てを悟った。ガレスも彼女の胸内を読んだかのようにひとつ頷くと、重々しく口を開いた。
「先ほど、城から使者が来た。ここに記されているアストリット・ローゼナウ大佐への処分だが……」
机上に広げていた通知の角を持ち上げた。
「帝国騎士軍大尉としての任務放棄により国外追放――期間は三年」
アストリットは息を詰めた。
「専属護衛のおまえが付いていながら殿下が怪我をされた。この処分は軽いくらいだ」
「はい……」
力なく項垂れた彼女の耳に、ガレスの長い溜め息が聞こえた。
「しかし、おまえの働きはこの私が承知している。いかに命をかけて殿下をお護りしたのか。帰って来い。アストリット。おまえは私の娘だ。三年後に必ず帰ってくると約束してくれ」
ガレスの温かな声音に彼女は顔を上げた。――”私の娘”。その響きに胸が熱くなる。
「ありがとうございます。父上。しかし約束は出来かねます。私は殿下のお命を危険に晒した……。父上が今おっしゃった通り国王の騎士として主を守れなかったのです。騎士の恥、許されざる大罪です。総指揮長ならこれがどういう意味かお分かりのはず。父上には長い間大変お世話になりました。その恩情は決して忘れません……私は今夜にもリューベンスブルグを発ちます。姉上に私からの祝福をお伝えください」
苦痛を堪えるかのように眉を寄せたガレスが、自分に伸ばした手をしっかり握り、アストリットは深々と一礼すると、来たときと変わらない足取りで出て行った。
部屋へ戻り簡単に部屋を片付けると、ベッドの上の畳んだ軍服と、その隣に置いた剣をじっと見下ろした。制服を脱いだ彼女は木綿のシャツの上に厚手の瑠璃色の上着、焦げ茶のズボンにブーツ姿という軽装だった。首には自分の両親を唯一知っている首飾りをかけた。
『すまない、許してくれ』
レヴァンの、ミカの言付けが耳に残っている。
しかし、王子は私を国外へ追放したのだ。処分の内容が王子の耳に届いていないわけは無い。もし、まだ私に少しでも慈悲の心があれば、それを取り下げて下さったはずではないか? しかし、そうではなかった。――殿下は私を許してはくれない。
剣を取り、柄に刻まれたリューベンスブルグの獅子を指先でそっと撫でた。そして迷いを断ち切るように素早くそれを肩から掛けると紫紺のマントを羽織り、フードを目深に被る。ぐるりと部屋を見渡し、机上のランプを持つと静かに部屋を後にした。
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