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1.出会い
16.ありがとう
しおりを挟む「まったく、昨日の今日で刃傷沙汰とは、血気盛んな坊やだ」
「……俺が望んだ訳じゃない」
愉快そうに笑う老医師――ファロに、ノルはうんざりしながら答えた。本心だった。いつだって、厄介事は向こうの方からやってくる。奇しくも昨日老医師に言われたことが的中し、苦虫を噛みつぶしたような心地でノルは口を開いた。
「それで、どうなんだ?」
「赤毛のかわいこちゃんなら問題ないよ。これからちょいと腫れるかもしれないがね……『雌』にしては随分と頑丈だ。興味深いね」
「……」
通常、猫獣人の雌は雄に比べて体が弱い。リィファのように栄養を摂っていても肉が付かず、少しでも体を酷使しようものなら発熱など、すぐに体調を崩してしまう者がほとんどだ。しかし、そんな常識とは裏腹に、エットはとても頑丈なようだった。確かに、持ち上げたときも骨格や肉付きはしっかりしていたことを思い出す。てっきり、スラムと比較して良い環境にいたからだとばかり思っていたが、どうやら本人自身の素質もあったらしい。
「まあ、しばらくは安静にするんだね」
そう言ってファロはその場を後にした。ファロが出て行った部屋からは恐る恐るといったようにエットが顔を出した。その左頬にはくたびれた大判のガーゼが貼られている。しばらくは食事をするのも一苦労だろう。
「……歯は、」
「え?」
ぼそりとノルが問うが、エットはその意図が察せられなかったらしい。緑色の瞳を見開くと、数度瞬いた。
「歯は。折れていないか」
「うん、平気」
「見せろ」
ノルの言葉に従い、エットは、あう、と大口を開いて見せた。白い歯が綺麗に生えそろっており、がたついている様子もない。ファロの言葉通り、馬鹿みたいに頑丈だというのは本当のようだった。
「分かった、もういい」
「ん」
口を閉じたエットは、何か言いたげに口をもごもごとさせていたが、何かを言うよりもノルの行動の方が早かった。
ぴしゃり、と乾いた音を立てて、ノルの左手のひらがエットの右頬を打った。
「っ……!」
周囲の娼婦たちが息を呑んだ気配がしたが、ノルは気にしなかった。代わりにエットの緑色の瞳をじっと見つめた。エットは最初は何が起きたか分からなかったようだが、みるみるうちに耳と尾が萎びていく。
「ちょ、ちょっとあんた……⁉」
怯えたように固唾を呑んで行く末を見つめていた娼婦たちの中で唯一、ノルを咎めるような声を上げたのは、リィファだった。
「……何だ」
「『何だ』じゃないよ! なんだっていきなりぶったりするんだよ⁉」
「……こいつが自分と同じ『雌』だからという理由で心配しているのなら無用な心配だ」
「そうじゃなくて! 仮にもあんた、こいつに助けられたんだろ⁉ それを――」
「関係無い」
ぴしゃりとリィファの訴えを退けるノルはにべもない。その様子に、流石のリィファもたじろいだ。元々鋭い目つきをしていたが、今のノルは普段見ないほどに厳しい表情をしていた。
「俺はこいつに『女たちを守れ』と言った。ここで雇われている以上、それが俺たちの『仕事』だからだ。なのにこいつはその『仕事』を放り出した。制裁は必要だ」
「けどっ……!」
「ここで俺と同じ仕事をする以上、俺の判断に従って貰う。異論は認めない……それに、嫌ならお前たちが世話をしてやればいい。俺は――どちらでも構わない」
「ちょっと、あんた……!」
「いいんだ」
無情とも言えるノルの態度に気色ばんだリィファを止めたのは、凛とした声だった――エットだ。
「ノルの言うとおりだ……もし他に仲間が居て二階に上がられてたら、リィファやシャーリィたちに危険が及んでいた。ノルが怒るのも無理はない」
「……」
ノルにとって、エットの言葉は少し意外だった。てっきり「もう嫌だ」と娼婦たちに泣きつくかと思っていたからだ。しかしその考えに反し、エットはリィファとシャーリィ、それからシャーリィの傍で震えている見習いの少女へ深々と頭を下げた。
「俺が勝手に動いたせいで危険に晒して、すみませんでした」
「い、いいよ……大体、あたしが頼んだことだし。あたしたちには危険なんてこれっぽっちもなかったし……なあ?」
「うん。私とこの子の傍には、リィファが居てくれたから……」
改まったエットの態度に、柄にもなくたじろいだのはリィファだった。シャーリィも気にした様子はなく、見習いの少女もこくこくと頷き、必死に肯定の意を示していた。
「……誰にも怪我がなく、分かったならそれでいい」
「うん……ありがとう、ノル」
「礼を言われるようなことはなにもしていない」
またも、エットが口にしたのは意外な言葉だった。しかし、張り詰めていた空気が僅かに緩んだのをリィファは見逃さず、ここぞとばかりに畳みかける。
「よっし、じゃあこれで解決だな! ローシャの姐さんには上手く言っとくからさ。今日は仕事は終いにしたら? センセイもその顔じゃあ、今は良くてもそのうち喋るのもしんどくなるだろうし」
「リィファったら……そんなこと言って、文字の授業に飽きたんでしょう? でも、私も賛成だわ。二人とも、今日は休んだ方がいいと思う」
まだ散らかったままの一階をそのままにしておくことは気が引けたが、それ以上に今、この場にいても出来ることがないことはノルにも分かっていた。手負いのノルとエットでは、手伝いどころか邪魔になるのが関の山だろう。
「……分かった」
ほう、とため息を吐いて、ノルは一階を汚したことを改めて従業員へ詫び、『カンタレラ』を後にした。店の外では相変わらず雨が降っている。ムルクホルムでは珍しいことではない。冷たい雨は、殺しで昂ぶった気を鎮めるのにはちょうどよかった。きっと、エットの腫れ始めた頬にもよく利くことだろう。互いに無言のままねぐらへ帰り、エットが寝床に腰を下ろそうとしたときだ。
「おい」
「?」
「まさか、そのまま寝る気じゃないだろうな」
「え? うん……」
当たり前のように眠ろうとしていたエットに、そういえばこいつは『箱入り』だったと思い出す。ノルは、ねぐらの中――キッチンとも呼べない水場までエットを連れていくと、比較的綺麗な布を水で冷やし左頬へ当ててやった。
「どうせ腫れるだろうが、何もしないよりはマシだ。しばらくそうやって冷やしてろ……水は好きに使って構わない」
「うん……なあ、ノル、」
「……なんだ」
ノルが寄越した氷嚢とも呼べない水布巾を頬に当てながら、エットは静かな眼差しでノルを見つめていた。
「――ありがとう」
「……さっきも言ったが、礼をされるようなことは何もしていない」
「ううん。さっきは俺にムルクホルムでの生き方を教えてくれて、今はこうやって怪我を気遣ってくれた……やっぱり、ノルは優しい」
「優しい人間は、怪我人をひっぱたくような真似はしない」
「それだって、左側を叩かなかった」
「……左利きなだけだ」
「手当してくれた」
「痛みで呻かれるのが面倒だからだ」
「それでも、だ。俺も、ノルの役に立ちたい。何かできること、ないか?」
先ほどから食い下がってくるエットに辟易しながら、ノルは枕元から一冊の本を放った。
「ノル?」
「文字。教えてくれるんだろう? 腫れて口が利けなくなる前に教えてくれ」
「……っ、うん!」
受け取った本を大事そうに抱きかかえると、エットは満面の笑みで答えた。ノル、エット、と二人の名の元となった文字を上機嫌で読み上げながら頁をめくるエットに、不思議とうんざりはしなかった。
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