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第三話
しおりを挟む「……」
「…」
「………えーと、ここは、アルちゃんのご自宅ですか?」
「…」
アルちゃんはゆっくりソファの対面に腰掛けるとため息をついて目頭を揉んだ。目頭を揉んでいても絵になる男だ。
「ここは事務所で、上のフロアが自宅だ」
「事務所…」
中央にドーンと置かれたソファとローテーブル。四方の壁はずらりと本棚が並び部屋を圧迫していた。部屋の入り口近くには小さなキッチンが設けられているが、確かにこの空間で生活するにはしつらえが窮屈だろう。吉野は百合が消えていったドアを見つめる。
「隣の部屋はデスクとクローゼットがある」
「なるほど」
ティーカップの中身はほうじ茶だった。西洋の食器でほうじ茶を飲むとは、なかなか洒落たセンスだ。そういえば、この男はどう見ても日本人ではないのにネイティブのような日本語を話す。吉野がコソコソと上目遣いで観察していると、アルちゃんは唇の端を上げて「日本語が上手いのは、日本に十八年いるからだ。他にも聞きたいことがあるか?」と言った。考えが顔に出ていたか?吉野は黙ってお茶を飲んだ。
アルちゃんは寡黙な男だった。百合が席を外して十五分近く経とうとしている。会話はあれっきり打ち止めになってしまって、目の前でスマホをいじるのも気が引けるし、吉野は「本見ていいですか」と断りを入れると本棚の物色に取り掛かった。背中に視線を感じるが、振り向けばアルちゃんは反対側を向いたままだ。イケメンは背中にも目があるのかもしれない。吉野も背中に気合を入れる。
本棚には古今東西様々な本が背の高さ順に並べられていた。最新のビジネス本から見るからにアンティークな洋書までジャンルも幅広い。
「ホームズが好きか?」
「ウワッ!」
「やめておいた方がいいぞ」
「っ、な……なにが、?」
頭上から聞こえてきた声に吉野は飛び上がった。アルちゃんが音もなくソファを立ち上がって、真後ろまでやって来ていた。その時吉野が手に取って眺めていたのは年代物のシャーロック・ホームズ全集、昭和初期の翻訳本の、オリジナルである。アルちゃんは吉野の肩を通り越す形で、本棚の一番上の段から一冊の本を抜き出した。一連の動作の合間に、黒いタートルネックの編み目からふわりと上品な香りが漂った。
『変わる勧誘の手口、若者と宗教』
「……えーと、この本が何か?」
「毎年冬になると一年生を名著の研究会に勧誘する集団が現れる。南門を出てすぐの◯◯会館の会議室に誘われただろう」
「な、なぜそれをご存知で」
「読んで勉強するといい。ホームズも貸してやる」
ホームズ全集の上にそのお堅そうな本が重ねられる。ずっしりした重みに吉野がよろける。アルちゃんは「いかにも人が良さそうな新入生に声をかける」と続ける。
その通り、吉野は数日前に大学の南門を出たあたりで知らない上級生に声をかけられた。剥き出しで持っていたルブランのハードカバーを指して「もしかして本が好き?」と言うもんだから、嬉しくなって話が弾んだ。最後にアルちゃんの言葉そっくりそのまま「来週◯◯会館の会議室でお茶会やるから、君みたいな子に来て欲しい」と誘われた。
「人が良さそうな?」
「誘えばノコノコやって来るだろうと」
「…そりゃ誘われたら、」
「それは有名な新興宗教の勧誘だ。椅子に座ったら最後、連絡先と実家の住所を教えるまでビルを出られない」
吉野はあんぐり口を開けた。
アルちゃんは忠告して満足したのか、ペタペタとソファに戻っていく。ずいぶん真っ白な靴下と思ったら素足ではないか。人種の特徴なのか、つま先に至るまで血管が浮き出るほど青白い。
「それから」
再び吉野に背を向けて座ったアルちゃんがついでのように加える。
「百合もやめておけ。お前には無理だ」
ヒッ。
今度は喉から悲鳴が出た。
「ちょっとちょっとちょっと待って、なんでそれを」
「悩みとやらはそれか?学生らしくて宜しい」
「ウッ、悩んでないし!いや、悩んでるっていうか、悩んでるっていうのは百合の勘違いで!」
「三段目の右から四番目に恋で身を滅ぼす男の心理をまとめた本がある。良ければそれも持っていけ」
「読まないし!」
そこで隣の部屋のドアが開いた。疲れた顔をした百合が盛り上がるリビングの様子を見て「ま、仲良くなったのね」と嬉しそうに跳ねる。
「仲良くなってないし!」
「まあまあそう言わず。身体冷えちゃったな。アルちゃん新しいお茶飲んでいい?」
百合が勝手にキッチンに向かうと、アルちゃんは無言でそれを追いかけた。
ひとり本棚に残された吉野は二冊の本を手に途方に暮れる。
ちょっと待ってよ。アルちゃんって、一体何者なの!
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