かこちゃんの話

けろけろ

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帰投

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 幸介にとって、人生の救いは厳兄ちゃんがいたことだった。
厳兄ちゃんが小学生たちの遊びの輪に現れなくなり、僕の小学時代が終わっても、幸介の視界の端に厳兄ちゃんはいて、いつでも少し高い所に腰を掛けていた。
それはある意味道標でもあった。
 厳兄ちゃんのいない所には行ってはいけない。
その視線の届くところでだけ、僕らは自由で崇高で、正しかった。
あの砂漠に入るまでは。
 馬鹿みたいに単純な事だった。
厳兄ちゃんに憧れていた。物ごころつく頃には。
 なのにどうして、こんな所を歩いていたのか。
引き返すべきなのだ。
 これは家族の話ではない。僕というどうぶつの生存の問題なのだ。死か生か。全生命に問われる深遠かつ親しい問題。
 ここは、病院。厳兄ちゃんの入院している。
713号室には厳兄ちゃんが待っている。僕は厳兄ちゃんへの憧れを追わなくてはいけない。
 生存の問題として。
 裸足で歩く二人の足音が、ひたひたと涼しく響く。三つのいのちだけしかない骨の城に。一階から二階へ。そして、三階へ、四階へと上る途中で足音が冷たく変わった。何か、軟体を踏んでるようなペトペトした音に。景色も変わっていく、紛れのないここは厳兄ちゃんが入院している病院だ。
 景色の重ね合わせとでも言おうか。三人は骨の城にいて、同時に病院にもいる。
「見えてる?この景色が」幸介は骨の城の壁の手前で蜃気楼のように揺れる病院の白い壁に手を伸ばして言う。
スピアが幸介を振り向き少し視線を落とし、また前へと向き直る。しばらく歩き、今度は振り返りフラワーチャイルズに視線を向ける。
フラワーチャイルズとスピアがまじまじと見つめ合っていた。
「君のゴールが近いのだろうか?」
視線を前へと向けてスピアが言う。その言葉が誰に向けられたのか分からず幸介から「え、何?」と言葉が漏れる。
「多分」フラワーチャイルズが言葉を引き取り喋り始める。「私たちが別の旅へ入ろうとしてるのでしょうね」
幸介は突風のように理解した。引き千切られるような痛みとともに。
「そうか、二人はまた別の旅路につくのか」
突き入れた指の間を砂のように細かに分解し、また集約し揺らめく景色を作る不思議な壁を見つめて幸介は言う。
朦朧としているのに、途方もなく辛かった。寂しかった。
 「僕は幸せだった……」
感謝の言葉のつもりでそう呟く。
二人にとってもそれは同じであるということが、幸介には自分のこころに感じるように伝わってきた。
だから、三人はもう言葉を使わなかった。
 果てのないような悲しさと寂しさ、幸せと歓びの三人はまるで一つの果実のようだった。
 「713」二人には見えない表示のある部屋の前に三人はいる。
恐らく二人には扉のない部屋があるだけだろう。しかも空っぽの。
幸介の前にはぼやけた扉があった。
「さよなら、行ってきます」
幸介が手を伸ばし力を加えると引き戸は開いた。途端、スピアとフラワーチャイルズが担架を傾け、幸介は部屋の中に落ちた。
 部屋は真っ暗で幸介は宙空をどこまでも落ちていくかに思った。
しかし、そうではない。蒼醒めたここは海。
遠くに光る星が、自分が高速で落ちているのを知らせたが、星は後から後から幸介追いかけて楽器のような音を鳴らす。
 (ここは海……)
幸介は泳ごうとする。しかし上手くいかない。
落ちていく、落ちていく。
追いかけてくる星が幾つか幸介の前へ現れた。先導しているのか、こちらに視線やエールを送っているのか。
(海?これが海?)
微かに青いただの穴にしか見えない。水などない。乾いた穴だ。
手を伸ばしても掴めるものはない。風だけが皮膚をなぞって過ぎていく。尾鰭も左右に振られるが、ただそれだけだった。
 感じられる浮遊感の限界が迫り、意識が遠のく。もはや落ちていることすら怪しく感じ、必死に掴まるものを探し手を振り回す。
そして、偶然に手の平が近くを飛んでいた星を掴んだ。その瞬間に隣を懐かしい時が駆けていくのが見えた。厳兄ちゃんとの馬鹿兄貴たちとの本当の日々。
 思い出したのではない、今まさに隣でその日々が足早に流れていく。
砂漠に草花が芽吹くように、枯れた大地が蘇るように、身体がこころが、芽吹き蘇っていく。
涙が、乾いた涙腺を潤し、それでも止まらず溢れていく。
海。
大きな水しぶきをあげて。幸介は飛び込む。
海。
長い長い星の尾を伸ばして、落ちるように飛ぶ。
鋭角に曲がり、ギザギザを描く。
そうだ、水なんて必要ないのだ。必要なのは恐れず飛び込んで、ガシガシと方向を変えていくこと。
 もっと速く、もっと速く。煩わしいもの全て払え!
とうに音速は超えていた。ぼやけた幸介の身体は、縁に光を纏い、鏡で仕切ったような多段の層を作っていた。尾鰭は虹色に霞んで消えていた。その周りを幸介を追う星たちがもはや一本の光の線になって伸びる。
 やがて、そこは宇宙になった。
見慣れている筈はないが、懐かしい星が近づく。青い愛といのちの星。
人魚は長い光の尾で地に影を落とす。
四秒で地球を一周した。
ネオンサインのように、白いオーロラのように、それは昼の空にも、夜空にも見ることができた。
 それと共に人々は笑い声を聴いたのだった。耳の裡で鳴るような、こころが笑っているような声を。
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