私をモナコに連れてって

しまおか

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第四章~明日香

父母への報告

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「うん。十月異動らしいから、今年の暦からだと九月二十九日の金曜日までは今の部署で仕事して、土日で引っ越しを済ませたら十月二日の月曜日から新しい部署に出社、というのが通常のパターンだと思う。後任への引き継ぎとか向こうの前任者との引き継ぎによっては、多少前後するとは思うけど」
「異動先はまだどこになるかは決まっていないのだろ」
「そう。普通なら今の時期に異動があるって教えられること自体が異例だからね。本当なら九月の第一週辺りの週末に発表があるから、その時までは異動場所も判らないし。今年だと第一週の金曜日が一日だから、発表は次の週の八日かもしれない」
「それまでどこに行くのかは教えてもらえないのか」
「通常はね。でも今回は私が異動先で働けるかどうかを人事に確認してもらっているから、もう少し早めに把握できるかもしれないけど、いつになるかははっきりしない」
「異動先でも働くつもりなのか」
 父の口調が少し厳しくなった。おそらくその点が気になっているのかもしれない。
「剛さんが異動の話をされて私のことを聞かれたから、選択肢を増やすために働くことができるかどうかも調べて欲しいと言ってくれただけ。働くかどうかはまだ決めてない。まず働ける環境かどうかも判らないし」
「じゃあ、異動先の環境がどうか分かってから決めるのか」
「そういうこと」
「そうか。ところで異動の話は剛君から聞いたんだな。明日香は直接上司から言われてないのか」
「そう。言われてない。支店長は剛の口から伝えるように言ったみたいだけど」
「それはおかしくないか。異動するのは確かに剛君だろうが、彼が動くということは、それに付随する形だとしても、お前も今の部署から異動しなければならなくなる。その事についてどうするかという話は、直接本人に尋ねるのが筋だろ」
 その点は明日香も同感だった。だから月曜日に出社したら、まず課長にどうなっているのかを問い正すつもりだ。今回の事で怒っていることを言い、支店長にも伝わるようにしようと決めていた。そこに父も同じ感想を言っていたと添えれば、少しは相手も恐縮するだろう。
 あまり使いたくない手ではあるが、ここで早乙女グループが会社にとって大きな顧客であることを利用しない手は無い。それに剛はおそらく次の異動も損害課だろうし、営業では無いだろうから契約が落ちる、落ちないなどということには直接関係しないと思われる。
 しかも彼の異動によって早乙女グループの契約が激減し、会社の営業成績が落ちてもそれは名古屋支店の話で、彼の異動先にまで影響することは無いはずだ。得意先だからと大きな顔をする気はないが、今回の扱いは余りにも気遣いが無さ過ぎた。父が同じ意見を持っていたことは明日香にとっても好都合だ。
 剛には言ったが、この機会を利用してあの気にくわない支店長にガツンと一発反撃するためにも、早乙女の契約を引き上げるいいタイミングだと思っている。今所属している二課長の矢口はいい人だから恨みは無いが、早乙女グループの契約を扱っている課ではないため、直接的な影響を受けることはない。
 被害を受ける今の企業営業課の課長は、明日香が配属されていた時とは変わっていて、よく知らない人だ。気を使う必要もない。それに明日香はどちらにしても、名古屋から離れる身である。だから今後の事も考えて、父の意見に乗っかった。
「そうなのよ。私も無関係じゃないから、剛さんと一緒に支店長室に呼んで話をするのが筋だと思う。彼の話だと、家に帰ったら伝えておいて、って感じだって言うからどんな扱いよって昨日も怒っていたの。うちの課長はどこまで聞いているか知らないけど、月曜日には確認しようと思っている」
「そうした方が良い。それに明日香がいるからと会社の契約をいくつか移したが、最初はペコペコ頭を下げていたくせに、支店長があの北川とかいう奴になってからは、碌に挨拶も来なくなった。その下の課長もそうだ。あいつらはどうも気に食わん。それにあの支店長は、栄の街でもよく判らん怪しげな店に出入りしているとも聞いているし、他の取引先からも碌な噂しか耳に入ってこない。今回の明日香の件だってそうだ。相手の答え方によっては引き上げることも考えないと」
 栄の街とは、名古屋でも錦など有名な飲み屋街があるところだ。父を含め、名古屋の財界人達はそこの高級なクラブや老舗の料亭などで集まって食べたり飲んだり遊んだりすることが多い。そういう中で仕事の話もする、いわゆる大人の社交場がある街だ。
 その為同じ財界の人達がどこそこで飲んでいるという情報は、お互いの耳に入るらしい。そこから支店長達の動向を聞いたのだろう。確かに栄は普通のサラリーマンが飲む店も多数あり、怪しげな店も集まっている場所ではあった。
「いいわよ。どうせ私達は名古屋からいなくなるから。剛さんは元々営業じゃないし、私もあの会社で働くと決まった訳じゃないから」
 話している内に、だんだんと腹が立ってきた。今年で入社八年目になるが、父の反対を押し切り入社してはみたものの、それほど今の会社に愛着を持っている訳ではない。嫌いと言うほどでもないが、特に好きだというほどでもなかった。
 今まで比較的良い上司と同僚に恵まれてきたとは思うが、中には明らかにおかしな人だと思われる社員に遭遇した経験も何度かある。明日香の家が裕福だからと近づいてくる男性総合職や、妬む女性事務員達も少なからずいた。
 早慶出身者が全国の総合職の半数を占め、女性も含めて高学歴な社員の多い会社だが、偏差値と人間性とは決して比例しないことは、社会人になって痛感したことの一つだ。
 今の支店長である北川のように、表面上は女性職員に対して優しい顔をするが、時にはセクハラまがいの発言をしたかと思えば、男性職員に対してはやたら厳しく、パワハラだろと言いたくなるような行動を取る人もいる。
 剛は今の支店長と物損課兼損害課全体の課長である尾上には、あまり評価されていないとも聞く。上司だからと言って大人しく話を聞くタイプでは無い彼の存在が邪魔だと思っているらしいので、今回の異動を目論んだのではないかと明日香は疑っていた。
「やっぱり異動先で働くのは辞めようかな。何か面倒くさそうだし。これを機に九月末で退社する方がすっきりするかも」
 思わずぼそっと口にしたが、父がその言葉に飛び付いた。
「そうしろ。別にお前が働かなくても、剛君の稼ぎで十分やっていけるじゃないか。それに知らない土地で共働きしながら二人で家事をするのは大変だろ。忙しくなると一緒に過ごす時間も少なくなる。新しい赴任地で落ち着くまでは、ゆっくりしたらどうだ。知っている人がいなくて家にいるのがつまらないと感じれば、興味が持てる地域活動に参加することだっていいと思うぞ。それに子供が生まれた時の事も考えないと」
 途中までは納得しながら聞いていたが、最後の一言で父の本音が判った。結局働くのを辞めさせて子作りに専念して欲しい、ということが言いたかったのだ。
 思わず明日香の正面に座り静かにしていた母をちらりと見た。母は一瞬顔をしかめ、父を軽く睨んだ。父の考えを知っていた母は、そのような話を直接しないよう、事前に釘を指していたようだ。
 仕事を辞めるという意見には同意しているが、おそらく母は早く子供を、というプレッシャーはかけたくなかったのだろう。昨晩遅く報告をした後にもこの手の話が出て、父の頭を冷静にさせようと今日の朝まで骨を折っていたのかもしれない。
 というのも母自身が早乙女家に嫁いだ頃、舅や姑だけでなく親戚一同から早く後継ぎを産めという露骨な圧力を受け、精神的にも相当参ったという経験があるからだ。
 幸い早くに妊娠して一人目で男の子を産んだため良かったものの、あの時期はとても辛かったと、明日香が大人になってからこっそりと教えてくれた。
 そんな想いを娘にはさせたくないという母の気持ちを、父はさらりと最後の一言でぶち壊したのだ。そこで明日香は言い放った。
「孫も跡取りもお兄さんの所にいるから、私のところは別にいいんじゃない。うちはどうしても子供が欲しいとは思っていないし、できたらできたで、できなかったらそれでも良いという考えだから」
 この話は剛の口からも結婚する前に会う機会を設ける度、父には告げてもらっている。二人が共有している価値観を確認していた中で、明日香の両親には事前に話しておいた方が良い、と彼が言い出したからだ。
 特に止める理由も無かったので彼の言う通りにさせたのだが、その言葉を聞いた父は明らかに不機嫌な顔をしていた。だが空気を察した母がとっさにフォローをしてくれたため、その場では揉めずに済んだ。
 その他にも色々とあるが、父は剛との結婚を黙認したものの歓迎しなかった理由はそういった考え方の違いもあった。それはつまり明日香の考えとも異なることを意味している。 
 子供についての考え方をあらためて断言されたことで言葉を失った父は、横から母に睨まれていることにも気付き、そこで黙ってしまった。
「じゃあ、話はこれでいい? 転勤先が決まったらすぐに連絡はするし、夏季休暇でこの家に来る予定も変わらないから。また詳しい話はその時でもいいでしょ。じゃあね」
 明日香がソファから立ち上がったため、母も同時に席を離れた。そこで父が何も言わなかったのでもういいのだろうと判断し、バッグを持ってリビングを出る。その後を母が追ってきた。玄関先で靴を履いている間に、再び小声で話し掛けてきた。
「ごめんね。でも仕事は一旦お休みするのは良いことだと思うわ。引っ越しだとか新しい土地で色々慣れないこともあるだろうから、大変だと思うの。剛さんは慣れているだろうけど、あなたには初めてのことだし」
「そうね。今日話している内にだんだんそう思えてきた。実はあまりしっかりとは考えて無かったの。異動先が決まって向こうの職場で働けるかどうかが判った後でも、決めるのは遅くないと思っていたから。でも早めに決断した方が良いかもしれないね。帰って剛さんとも話してみる」
「そうね。二人でよく相談して決めたらいいわ。これからの生活に関係する事だから」
「判った。ありがとう。しばらくお父さんの機嫌が悪いかもしれないけど、ごめんね」
「いいの、いいの。いつものことだから。それに今日の話だって、お父さんも初めて聞いた訳じゃないし。あなた達の考え方を再確認しただけじゃない。でも夏に家へ来た時、剛さんが攻撃されるかもしれないから、今日の事は話しておきなさいよ」
「うん、そうする。でも彼ならお父さんから何を言われても答えることは同じだと思うし、動じないから大丈夫」
「そうね。剛さんなら安心できていいわ。あのお父さんに睨まれても堂々とできる人ってそうはいないから。お義父さんが亡くなって最近はお義母さんの言うことだって聞かないし、うちの会社の人はもちろん、お兄ちゃんだってあの人には反抗できないからね。あなた、いい人を選んだと思うわ」
 祖父の死後、父を叱る唯一の存在だった父方の祖母も八十を過ぎ、数年前から足を悪くして今は自宅介護が必要な状態だ。明日香も実家にいる時には世話をしたこともある。その為父に意見するほどの元気はもうない。
「ありがとう。じゃあ帰るね」
「気をつけてね。剛さんにもよろしく」
 母に見送られて家を出た。父はともかく母に彼のことを認められたことはとても嬉しい。やはり自分の判断に間違いは無かったと確信する。彼とはこれからも末長くずっと仲良くしていたい。だからこそ新婚旅行の件だけがすっきりしないことが悩ましかった。
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